仄雪の下で





『他に好きな人が出来てしまいました
ごめんなさい
もう貴方とは付き合えません』

そのメールが俺の元に届いたのは、今からおよそ一年と一ヶ月前の、雪の気配などまるで無い十二月初めの夜の事だった。

†††††††††††

俺――哀川隆義(あいかわたかよし)には彼女がいる。
海部美紀(あまみき)。
少し背が低めで、体つきが華奢な、色の薄い彼女。やや病弱気味だが、思い遣り深く、優しい人だ。

付き合い始めて三年。その頃までには、俺達二人は色々な場所に行っていた。
春には花見に行った。酔っぱらいを避けての、小さな桜での花見だったけど、それで満足だった。
夏には海も。足が攣った俺を助けようとして、結局二人ともライフセーバーに助けられる填めになったりもした。
秋には紅葉狩りも。鹿に餌を与えに、京都の方までわざわざ行ってみたりもした。
冬にはスキー場にも。ボーゲンでしか滑れない彼女を、俺が下で待ってたりもした。
他にも、美術館でゲルニカに言いようのない衝撃を受けたり、遊園地でジェットコースターを楽しんだり、映画館で純愛ものを見て泣いたり、買い物でやたら派手なものを選んだり、兎に角、兎に角楽しい日々を過ごしていたんだ。
そして、俺は彼女に対して、何か特別な思いを抱いているとも感じるようになった。いつか伝えよう、いつか伝えようと思っていても、照れが入ったり、タイミングが掴めなかったりして、一度として口にすることは出来なかった。

ところが。
ここ最近、と言っても二ヶ月ほどだが、俺は一緒に出歩くことが少なくなった。電話をしても、美紀の予定が合わない事が多くなったのだ。
その時は、「また別の機会に」と言って電話を切ってきたのだが。

†††††††††††

『他に好きな人が出来てしまいました
ごめんなさい
もう貴方とは付き合えません』

簡素にまとめられたその文章を、自室の畳の上で寝転がりながら眺めていた俺は、ボンヤリとその字面を受け入れようとして―――違和感に気付いた。

いつもの彼女のメールなら、絵文字を、あるいは記号を――普通の人のそれより数は少ないとはいえ――使ってある。ところがこのメールにはそれがない。
まぁそれは内容が内容なので有る方が不自然だろうが、それだけではない。

『ねぇ、今日は楽しかったです♪
また、ジェットコースターに乗りに行きましょうね♪
では。

P.S.タカの帽子、預かりっぱなしですけどどうしましょう………。』

これは、いつぞやの遊園地の夜に送られてきたメールだ。

『まさか二人とも溺れることになるとは…………。
互いに、ドンマイ、ですね。
では。

P.S.水泳には自信あったのですが………。』

これは海に行った翌日に送られてきたものだ。
見比べるまでもない。
P.S.などはどうでもいい。では。も忘れることもあるだろう。

何故、メールに句点がない?

律儀な彼女だ。来るメール来るメール全て句読点はしっかりついている。むしろこういう告白――メールだが――の時には、そういう文体で丁寧に打つ筈だ。それが無いと言うことは………。

俺は立ち上がり、彼女の家に、随分前に一度行ったアパートに向かった。

†††††††††††

彼女のいたアパートは、駅からやや遠目の場所にある、二階建てのそれほど広くない、ある意味典型的なアパートだった。
どうしてその場所に住んでいるのかは、失礼だと思って聞いてないが、それにしても、彼女の体の弱さからしたら、明らかにミスマッチな気がするのだが………。

………………。

妙な胸騒ぎがする。
何だろう。
あって欲しくない期待通りの展開がこれから起こる気がする。
もはや、確信に近いレベルだ。

果たして予想通りになった。
彼女の部屋は、空き部屋になっていた。

時間を確認する。
もうすぐ日付を越える。
今大家に尋ねるのは失礼だろう。
仕方がなく、俺は煮えきらない思いを抱えながら、バイクに跨った。

†††††††††††

翌日。
朝八時ごろに大家に話を尋ねてみたところ、メールの来る数日前に、もう家を出払っていたらしい。しかし、どこへ行ったかは存じないようだ。
実家の住所を聞いたのだが、守秘義務があるらしく、話してはもらえなかった。嗚呼、悲しき治安悪化時代。
まぁ家をいつ頃出払ったか分かっただけでも収穫だ。俺は大家に丁寧にお礼を言い、夜間工事が始まって少し狭い道路を戻った。

†††††††††††

美紀の携帯のアドレスは夜のうちに変えられたらしく、送っても返ってくるのは英字だらけのメールだった。Tel番は変えられていないだろうと踏んで電話してみたが、

『――現在、電波の届かないところに――』

…………この携帯が世間を支配している時代に、どこに電波が届かない場所があるだろうか。地下か、病院か、山か、はたまた電波混在地帯か。ただ単純に電源を切っているだけかもしれないが。

さて。
場所を探さない事には連絡もとれそうにないだろう。美紀の行きそうな場所―――検討がつかない。そもそもこの狭いようで広い世界だ。無闇に行ったところでどうしようもあるまい。
となると―――。

彼女の出身校に電話して、忘れ物を届けたいが、彼女の住所が分からない、住んでいたアパートは引き払われていたと言う前半部が嘘八百の理由で、実家の住所を聞こうとした。

―――私達が届けますので、荷物を持って当学園にお越しください――

嗚呼、悲しき安全神話崩壊時代。
俺は、適当にお茶を濁しつつ電話を切った。

†††††††††††

この日から二週間ほど超短期集中型のバイトが続いたが、美紀の事がずっと頭から離れなかった。バイトの同僚からは「フラレたんだろ?また新しい奴探せよ」と肩を叩かれながら謎のTEL番を渡されたが、流石にそれにかける気にはなれないどころか、まだフラレていないとすら、俺は思っていた。
予定が合わなくなる前の最後のデートすら、気まずくなる時間が、全く無かったのだから。
それは、他の人からしたら主観としか思われないだろう――確信だ。

†††††††††††

「………で、俺のところに来たわけだ、と」
喫茶店の机越しに、何の感情も抱かない声が響いた。

俺の友人の一人に、探偵事務所に入っている人物がいる。
真栄田流駈(まえだるく)。
童顔なのだが、この世の一切の事象に関心を持たない、老成した雰囲気があるため、近寄り難いが話してみたい奴No.1だったらしい。
「………あぁ」
バイトで貯めた金の大半をはたいて、俺はこいつに頼み込んだ。
「………しっかしねぇ、お宅も熱いと言うか何と言うか……ストーカーか?」
俺の見せたメールと、俺の思いを聞いた流駈から、開口一番飛び出した台詞がこれだ。こんな奴だ。歯に着せる布など一枚も持っていないのだろう。
「普通だったら、相手がカミングアウトした時点で弁護士の方に行くんだがな。因りに依って居場所を探して下さい、か」
メールを変え変え目を通しながら、俺に言うような口調で独り言を言う流駈。嫌味にしか取れないが、仕事の愚痴でもあるのだろう。俺は黙って聞いていた。
やがて流駈は携帯を閉じると俺の手元に置き、
「おっけー。なるべく早めに伝えるけど、それでも下手したら二週間近くかかるかもしれない。それでもいいか?」
その言葉に、一瞬も躊躇う必要は無かった。
「よろしく頼む!」
思わず身を乗り出して流駈の手を握っていたくらいだ。

†††††††††††

頼んでから一週間経ち、俺は改めて携帯の画面を見て、今日がクリスマスイブの日だと知った。
――一人きりのクリスマスイブは、何年ぶりだっただろう――

今はただ、美紀に逢いたかった。
かけた携帯電話は、相変わらず血の通わない声がリフレインしていた。

†††††††††††

四日後、つまり12月28日。
年越しの準備に忙しい人々が流れていく風景を、カウンター越しに眺めながら、バイト最終日の俺は少しナーバスな気持ちでいた。
どうやら流駈は探すのに手間取っているらしい。早く探して欲しいと願う気持だけは俺は人一倍あるのだが、残念ながら俺にはそれに見合う技術がない。
自分の無力を、これ程悔しいと思った事はない。考えてみれば、俺の時は、あのメールから止まったままなのかもしれないな――。
レジ打ちを行いながら、頭の片隅でそんな事を考えていた。

†††††††††††

電話が来たのは、バイト代をもらった、その帰り道。
バイブの振動を感じるやいなや、俺は慌てたような、焦ったような手付きでコートのポケットから携帯を取り出し、通話ボタンを押した。
相手を確認するまでもない。この時期に俺の携帯に電話をかけるような奴は、美紀を除いて、今は一人しかいない。
「どうだったか!?」
挨拶もなく、俺は電話に叫んでいた。周りで何人かが俺の方を見ていたが、気にしない。
流駈は少し溜めてから、ああ、と答え、
「これからうちの事務所に来れるか?住所メモを渡したい」
と聞いてきた。
俺の返答は言うまでもない。Yesだ。

†††††††††††

「早く行ってやりな」
そう言う流駈からもらったメモに書かれていたのは、俺のいる場所から500km以上も離れている場所の住所だった。
幸いなことにバイト代が入ったばかりだ。バイクで行ける。
俺はそのメモを受けとると、
「ありがとうございました!」
と叫び、事務所を後にした。
嬉しかった。
これで美紀に事の真意を聞くことが出来る!
何より美紀に逢える!
逸る気持を押さえきれず、俺は家へとバイクを走らせた。

この時、俺は気付いていなかった。
「早く行ってやりなよ」
俺の感情からしたら当然である一言を、何故わざわざ口にしたのか、と言うことに。

俺は気付いていなかった。

その時の流駈の表情が、明らかに翳を差していた事に――――。

†††††††††††

晴れていた地元の空とは違い、こちらの空はどんよりと曇っていた。
指先がかじかむ。思ったより寒い。念のためと旅用荷物の中に、コートを入れておいて正解だったようだ。早速着込もう。
新幹線のぞみ号という、サラリーマンかブルジョアでない限りそう頻繁にお世話にならないであろう車両に一人揺られて数時間。着いた世界は暗色の空。
でもまぁ、予報によれば雨雪は降る事はなさそうだという。
俺は駅の外のロータリーに停まるタクシーに乗り込み、住所の書いてあるメモを渡した。
今は一刻でも早く、美紀に会いたかった。
やっと会えるかもしれないという安堵感を、俺は楽天的にも、タクシー内で味わっていた。

だが…………。

「―――――――!!!!!!!!!!」

もうすぐ到着します、という運転手の声に、タクシーの中で、流れる景色を見つめていた俺は―――――愕然とした。

そこは大きな病院だった。
後で聞いた話では、地域最大にして最高の設備を誇る病院だと言うが、その時の俺にはその事実などどうでもよかった。
ただ、信じられなかっただけだ。

「どうされました?到着しましたよ?」
運転手がいぶかしげに俺を見つめながら聞くのに気付き、動揺を隠そうとしながら――無理だが――俺は運転手に訊いた。
「―――本当に、この場所で合っていますか?」
運転手は少しむっとした表情をして、他にこの住所の場所があるなら行ってみたいものです、と答えた。
俺の中に、最悪の予感がむくむくと沸き上がってきた。いや、もうこれは確信だろう。
一先ずは運転手に、非礼を詫びながらタクシー代を渡し、荷物をひっ掴むと俺は病院に駆け込んだ。

†††††††††††

アポを受付で取り、数分後、ようやく彼女のいる部屋に入る許可が出た。既に俺の心臓は落ち着きを保てなくなっている。一体、何故美紀はここにいるんだ?デートの時はいつも元気な姿を見せていた美紀。病気は既に完治したと、病弱の原因を言ったときに話した、あの事は嘘だったのか?
俺の中にとりとめもなく浮かぶ思考の断片。それは他のどれとも身を結ぶ事なく、水泡の如く弾けて消えていく。
病室の前に着いた。『海部美紀』と言うネームプレート。他には誰も部屋にはいないようだ。
俺は一度深呼吸して、スライド式ドアの取っ手に手をかけた。

†††††††††††

最悪の予感は、これ以上無いほどに当たっていた。

†††††††††††

美紀は、ベッドの上に横たわっていた。
だがそれは、俺の知る美紀のどの姿とも、似ても似つかなかった。

腕などには沢山のチューブがついており、点滴液がそこを通って美紀の体に入っていく。
口と鼻を覆う透明なマスク――呼吸補助器が装着されたその顔は、三ヶ月前に最後に会った時より青白く、どこか痩けている感じがした。
心電図は………今は平常通りだ。何も異常はない。

驚きの硬直状態が解けてきた俺は、震える足をどうにかして美紀に近付いた。
美紀は、俺に気付いたらしい。ほとんど動かないであろう首を俺の方に向けた。
「………どうして?」
ここが分かったのか?ここに来たのか?その二つの意味が篭っていた。
俺は叫び出したくなるのを何とかこらえ、心を落ち着けて話しかけた。
「………住所は流駈の奴に頼んだ。どうしてかは――」
俺は顔を美紀に近付けた。
「――どうしてあんなメールを打った?お前らしくもない、バレバレな嘘のメールを」
心の中で何とか必死に押さえていた感情が漏れだしそうだった。ベッドに乗せた手が震え出しているのがよく分かる。
美紀は、俺の方に相変わらず顔を向けたまま――心なしか少し微笑んだ顔をして――言った。
「………嫌われたかったの……」
耐えられなかった。
「………っざけんな!何でだよ!何でいきなりそんな事思うんだよ!?理由分かんねぇよ!俺といる時間がつまらなくなったのか!?」
気付いたら叫んでいた。この部屋の防音加工とか、周辺の部屋への配慮とか、そんな些細なことを忘れてしまったほどに。
「それなら面と向かって言ってくれよ!どうしていきなり――」

「―――タカが好きだからだよっ!」

「!!!!!!!!!!」
それは、今の彼女にしては相当無理をした大声だったんだろう。少し咳き込んでいた。だが、それよりも、俺は――。
「―――好きだったら、何で嫌われようなんて思ったんだよ!?理由分かんねぇよ!」
男としてはみっともない、喚き散らすように美紀に叩き付ける言い方をしてしまった。でも、とても抑えられそうになかった。
それに対する美紀の返答は――
「―――タカを、悲しませたくなかったから……」
「!?」
――俺が考えもしなかった理由だった。お前と別れる以上に、哀しい事などない、そう俺は考えていた。
驚きのまま何も言えなくなった俺に、美紀は、静かに話し始めた。

「―――一年ほど前かな。私の病気が、再発しそうだって、医者に宣告されたのが。
その時はまだ、平気だと、思ってたの。体が動くし、何より――タカと別れたくなかったから、タカと一緒にいたかったから」
「…………」
俺は黙って美紀の話を聞いていた。少しずつ、落ち着きを取り戻して来たような、そんな感じがする。だが、同時に、何かあればすぐに爆発してしまいそうな感覚も。
「でも、限界が来ちゃった。………三ヶ月くらい前、ついに再発。体がうまく、動かなく、なってね」
「………都合が悪くなったのは、その事か」
微笑。それは無言の肯定。
「医者に言われたの。病気がね、全身に回っちゃって、もう手の施しようがなくなっちゃった、って。
私は悲しかった。タカと、いられなくなる、こともそうだけど、何より、

私が死んだ時、タカが悲しむこと、それが耐えられなかった」

ここで美紀は一度言葉を切り、そして続けた。
「私が死んだら……タカは……私のことを哀しい思い出として覚えちゃうと思う。だから………私のことで、タカの幸せを逃して欲しくないから…………タカには、私のことを早く忘れて、幸せになって欲しいから………」

「…………けんなよ」
この日、
「………え?」
俺は初めて、彼女に怒りを覚えた。
状況がそうさせたのかもしれない。全てを分かち合っていた、などと洒落た事を言うつもりはないが、一番大事なことを黙っていられた事実。
「ふざけんなよ!嫌われれば忘れるだと?んなわけあるかよ!嫌われたら嫌われたで、嫌な思い出として残されるだけだ!悲しませたくないだなんて言うなよ!互いの苦しみを理解してこその関係じゃねぇか!」
そして、俺は、気付けば胸のうちを叫んでいた。
「俺は忘れねぇよ!お前がどんなに俺に嫌われようとしても!お前がどんなに俺を遠ざけて、俺に忘れてもらおうとしても!

当たり前だ―――俺はお前のことが好きだからなっ!」

「!!!!!!!!!!」
半涙目で驚く美紀に、俺は続ける。
「なぁ………、両思いなんじゃねぇか………。病気がそうなら、俺に一言ぐらい言ってくれよ………!心配したじゃねぇか………、いきなり消えんなよ………!」
泣きそうになるのを男の見栄で何とかこらえ、震える声で俺は、美紀にそう告げた。
「…………ごめんね。嘘、ついて………でも、タカの前では、元気な姿のままでいたかったから………」
「ばかやろう………無理すんなよ………」
「ごめんね……………」
それは、恋し合い愛し合った二人の、哀しい告白、哀しい会話。暫く続いた一言での会話は、彼女は、体力の限界が来たのだろう。糸が切れたように意識を失った美紀によって、終りを迎えた。

永遠に続くような沈黙の後、どうしようもない程の無力感で満たされながら、俺は、部屋を出た。
最後に振り向くと、そこには静かに眠っている、美紀の姿があった。
その頬は、涙が光を反射して、煌めいていた。

†††††††††††

その二日後の、大晦日の夜だった。
美紀が亡くなったのは。
二人で年を越すことは、二度と叶わなくなってしまったのだ。

葬儀は身内だけで行うそうだが、特別に、お香だけはあげさせてもらう事になった。
「美紀に優しくして下さってありがとうございます」
その言葉一言一言が、俺にとっては何よりも辛かった。

香をあげた後、俺はすぐに葬儀場を出た。別に家族と一緒にさせようと気を遣ったわけではない。ただ、美紀の前にいると、涙が出そうになる。その涙を、美紀の家族に見られたくなかっただけだ。

雪。
ちらちらと降り始めた雪は、あまり気温の高くないこの周辺地帯を、徐々に白く色付けしていく。
俺の着ていた黒いコートの上に、白いファーがかけられていく。

遠くで、霊柩車が鳴らす別れのサイレンの音が聞こえた。

数秒と持たなかった。

「…………っくっ、………っくっ………」
涙は、悲しみは、自分の意思では、理性では、どうしようにも抑えられなかった。路上でしゃくり声をあげる俺。
「………っそっ…………ぅして、俺を置いて………んだよっ…………!」
中途半端に降る雪が、今は恨めしかった。
俺の涙を隠せないから。

俺の目の前を通る美紀の霊柩車。それはまるで、彼女が俺にさよならを言っているように感じた。
永遠の、さよならを。

こうして俺は、大切な人をを失った。

†††††††††††

一年後、俺は美紀の墓の前に来ていた。
今年の冬は暖かいらしく、雪は降りそうにもなかったが、それでも美紀の命日には、ちらちらと空から仄かに雪が降り、俺の肌に、コートに触れては水玉になっていった。

あれから、俺は物思いに更ける時間が増えた。
心の空白を埋めるのに、体は相当の時間を必要とするらしい。
食欲も暫くは減衰していて、少しやつれていたらしく、バイト仲間には心配された。
そんな俺の肩を、流駈はただ、優しく叩いてくれた。
ただ、それだけで嬉しかった。

なぁ、美紀。
お前、最後に言ったよな。
『タカには、私のことを早く忘れて、幸せになって欲しいから………』って。

なぁ、美紀。
いつかお前の墓に、花が飾られなくなっても――いや、飾られなくなったら、どうか安心してくれないか。
お前を忘れたかどうかは分からない。
いや、忘れることはないだろう。
だが、俺は、新たな道を歩き始めることが出来たんだ、と。

お前と果たせなかった幸せを、掴みに行こうとしているんだ、と―――。


fin.



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