雪の思い出、今は無き国を想う





いつか見た世界。
綺麗だと思う心は、時と共に掠れていく。
この俺の後ろで舞い散る雪すら、日常と化した今では情緒の欠片すらない。

「……こんなに、儚いのにな」

寒風が吹く。
服を大きくはためかせながら、肌と布の隙間を通り抜ける。その氷に撫でられたような鋭い寒気に、俺は思わず身を縮ませた。

「………」

この国には、滅多に人は訪れない。時おり変わり者がマゾ気取りもいいところに寒さ我慢大会を実行しに来る以外は。
目立った産業もない。豊かな土壌に種を植えても、この寒さでは育たないので農業もない。工業の計画は、寸でのところで中止に追い込まれた。発注元の会社が倒れたからだ。その後もいくつかの会社がここを工業街にしようとして、謎の倒産を遂げている。いつしかこの国は、『呪いの国』とすら呼ばれるようになった。
冷酷な氷の王に呪われた土地だ、と。
そんな噂が一度立ったら、国を挙げてのアミューズメントなど望めるはずもない。誰が好き好んで呪われに来るのだろう。それに楽しむ場所なら他に候補はいくらでもある。何が悲しくてこんな北の辺境の地にまで足を運ぶのだろう。
……以上の理由から、この国の産業は停滞している。時間すら止まって……朽ち果てようとしている。
そんな国に居る人も、徐々に少なくなっていき、何時しか俺以外の若い奴は全て、他の国に出ていった。
年寄りも死んでいく中、大統領は、この国の終焉を宣言した。
来る3/25、この国は消えてなくなることを。

「ほい、これが店最後のウォッカだ」
最後の一軒となったバー、そこのバーテンダーであるムードテクノが、俺にウォッカを出す。
「……」
俺は無言でそれを飲み干し、価格より少し多い額の金を渡す。
「お、サンキュ」
ムードテクノは、そう陽気に手をヒラヒラさせた。この男は、もう都会の方で働き口を見つけたらしい。この場所で燻っている俺とは違って。
「を、もう行くのか?」
席を立ち、ドアに手をかけた俺に対して奴は近づき、俺のポケットに何かの紙を忍ばせた。
「何かあったら、俺に連絡しろよ〜!」
最後まで陽気に、奴は俺の前で振る舞っていた。
俺はと言うと……ただ俯いていた。まるで靴を眺めるように。

「………最後か」
そう思うと、何だか切なくなってくる。ノスタルなど、幻想に過ぎないと言うのに。もとより何もなかったものが、再び何も無くなるだけだというのに。
どうして、どこか物悲しいのか。

「………」

考えていてもしょうがない。俺もこの国を出ていく必要がある。そのための準備に戻らなければ――。

「これが滅び逝く国……か」

「――?」
不思議な声が背中から聞こえた。やや驚きつつ振り返ると、そこには異様に線の細い、そこまで厚着をしていない男が一人、雪原に立っていた。
その男は、俺を見るとやや驚いたように喋り出した。
「あぁごめんごめん。まだ人がいたんだね。殆んどの人が抜け出した、って聞いたから」
話し方に、全く悪気はなかった。そもそも、先程の台詞自体にも、何ら悪意は感じられない。もっとも、警戒するに越したことはないかもしれないが……。
「不審かい?」
男の問いに、俺は素直に頷いた。それはそうだ。どこの世界に、今の会話で不審だと思わない人物がいるだろう。
訝しげな目をする俺に、この男は懐から何かを取り出し、突きつけてきた。何かと見てみると、入国許可証――。
「カゲロウ……?」
「そう。それが僕の名前。職業は……旅人かな」
そうにこやかに告げる男――カゲロウ。だがその目は、その台詞が酔狂でもなく真剣であることを証明していた。
「この街に来たのは、本当は『ロザリーのリンゴジャム』と『鏡面水』、俗称『ハート温泉』、この三つなんだけどね。あとはこの国の歴史書、かな」
見たいものが妙に俗だが。
「……ロザリーは三日前に出た。鏡面水なら売り切れ。ハート温泉はあるが、今は行路が雪に埋もれて行けない」
「それは残念」
そうカゲロウは肩をすくめる。
「でも一番残念なのは、この素敵な国がもうすぐ、終わりを迎えてしまうことかな」
本当に残念そうな声だ。
「……(こくん)」
実際、俺も残念だ。残念どころの感情じゃない。生まれ育った国が消えてしまう。所属していた場所の、完全な消失。それを悲しみ以外の感情でどう表現できる?下手したら悲しみと言う感情すら生ぬるい。
心に穴が開く。この時の俺の状態は、まさしくそれだっただろう。
「………」
いつから俺は、話し言葉を忘れてしまったんだろうな。もしかしたら、心の空白にあった物がそれなのかもしれない。
「……」
その沈黙に、カゲロウは付き合ってくれた。
辺りに、吹雪の音が響く。

「……君は、何処に行くつもりだい?」

「……?」
唐突に、カゲロウが俺に尋ねてきた。吹雪の中、空虚な目で前を見続けていた俺は、その問いに対する有効な答えを持たなかった。いや、持てなかった。
「この国が消える。そうしたら君達は僕と同じように外の国に行くのだろう?だから、その国の事について、少しでもアドバイスできればと思ってね」
カゲロウの声。その内側に秘められた親切心。だが――。
「……」
俺は、どうしても口を開くことが出来なかった。
まるで、喉に巣食った何かが、俺の舌を掴んで動けなくしてしまっているかのように。
「……」
カゲロウはそんな僕を見つめると、少し考えてからぽん、と手を打った。
「成る程ね」
成る程?何が成る程なんだろう?そんな俺を気にしていないかのように、カゲロウは続ける。
「君は色々心に抱えてるみたいだから、僕でよければそれを聞くけど?」
抱えてる?俺が心に何かを。
聴く?この男が俺の心を?
何か言いたかったが、俺の舌は相変わらず固まって動かない。
カゲロウはそんな俺の腕を掴み、掌を見た。
「!?」
何をするんだ、と思った。だが実際に何かされたのはそこまでだった。
カゲロウは、俺の掌をしげしげと眺めた後、少し安心したような顔を浮かべてこう言った。
「君はギター経験者みたいだね。なら、いつでも奏でられるじゃないか。己の思いを」
そうして立ち上がると、呆然とする俺に向けて、去り際にこう叫んだ。
「帰る家に置き去りにされたギターがあるならば、久しぶりに触れてみるといい!そうすれば、抱えたものは中から飛び出していく!
今日は話を有り難う!じゃあ、またいつか!」
そのままカゲロウは、吹雪の中を歩いて去っていった……。

家に帰った俺は、早速、部屋の隅に転がったギターを取り出した。被さった埃の大きさは、どれだけ俺が遠ざかっていたかの証拠。
あの頃は、俺はただがむしゃらに弾いていたが、今となってはもうそれは思い出でしか――。

「――?」

時を経ても、案外昔とった杵柄とやらか、構えるとコードが自然と浮かんでくる。同時に、このように腕を動かせば響くと言うことも。
俺は久々に――ギターをかき鳴らした。

コードをかき鳴らしているうちに、俺の頭に浮かんで来たのは、かつて見た樹氷の風景。誰も立ち入れない世界で、その木はひたすら空へと伸びていた。
独り、然れど、存在感。
その木を祝福するように、辺りを吹雪が舞う。全て吹き飛ばしてしまいそうなほどに、強力なそれが。
「――!――……――!」
次に思い出したのは、夜に電灯に照らされはらはらと降る雪。俺はその時、手袋をして窓の外に手を伸ばし、氷の粒を受け取った。だがそれはすぐに水滴に変わってしまった。俺はそれを哀しく思いながらも、どうしようもないと諦めていた。
「――!――!――!」
次々に浮かんでは消える、風景。それは俺がこの国で育ち、この国を愛していた証拠でもあった。
この国は呪われていると言われて悔しかった。
そんな国ではないと声に出して伝えたかった!
だが伝えることなど出来ずに……いつの間にか俺は声を封じていた。
俺自身の意思で――。

「――っ」
歌い終えたとき、俺の心の中が少し軽くなった気がした。ふと、視界が滲んでいる気がして、軽く拭うと――涙。それも特大のもの。
「……ははっ」
何だ、簡単じゃないか。
伝えたいことは、抑えずに奏でれば良かったんじゃないか。
どこまでも内向きで、どこまでも自己中心の世界でもいい。

「抑え込みすぎてたんだな、俺――」

その後、俺は荷物を纏め家を出て――故郷は消えた。



「失われた国の石碑なんざ、よく建てる気になったな」
数年後、俺とムードテクノはあの場所を再び訪れた。俺達の故郷、その存在を示す石碑を見に。
「でも満更じゃないだろ?」
別々の国に移った後、俺達は互いに連絡を取って、目に見える形で故郷を残す運動をした。結果として、この石碑だ。
「まぁな」
そう笑うと、ムードテクノは石碑に再び目を向けた。
「……俺達の故郷は、記憶の中にはあるが……」
俺の言葉を継いで、ムードテクノは言う。
「いつかは、きっと忘れてしまうだろうな」
「ああ。だがな……」
俺はそっと微笑んだ。

「ここに刻まれた歌が、夢や幻ではない過去だと、伝え続けるだろうさ」

俺達の過去の残滓に過ぎなくとも、消えること無く、残っている――。

その国は、舞い散る雪のように儚く消えた。
だが、俺達が経験した雪の思い出は、形を変えて、消えること無く日常に生き続ける。

歌の名前は『chilblain』
そして俺の名は――


――シューゲイザー


fin.





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