物心ついたとき、母も父も家には居る事が無かった。
その業界では知らない者はいないどころか、知らずとも何かしらの恩恵を受けている可能性が高い貿易会社ラピッツ。その副社長の地位にまで登りつめたのが、私の父であるジグリー・ウィルケット。
そんな父を支えるのが、秘書である私の母、ノース・ウィルケット。
二人の顔は、私の手に今握られている写真でしか見たことはない。そして――その写真に私の姿はない。産まれる前に撮られた写真なので当然だけど、私は、この二人との繋がりを自分に対してどうしても感じることが出来なかった。寧ろ――赤の他人のように感じていた。顔が少し似ているだけの、赤の他人。
一度でも会って涙ながらのハグを交し、一言でも「私が貴女の母よ」という言葉がかけられていたら、私がこの写真を見るときの目も、少しは変わっていたのかな………。

「カレン、昼食の準備が出来ましたよ〜」
「は〜い、今行くわ、アミュス」

自己紹介が遅れたけど、私の名前はカレン・ウィルケット。御年16才。
そして、今私を呼んだのが――。

「――ごちそうさまでした」
「はい、ごちそうさま」
私が立ち上がるより先に、屋敷のメイドさん達が次々にテーブルの上を綺麗にしていく。

そのメイドを指揮する立場にいるメイド長。彼女の名前はアミュス・ネージュ。
私が産まれてきたときから、アミュスはずっと私の側にいてくれた乳母兼メイドさんだ。幼い頃は母乳すら、彼女からもらっていたらしい。だから私は彼女と話す時は普通の言葉を使ってもらってるし、名前もそのまま呼んでもらうようにしてる。
嬉しいときは笑ってくれた。
イケナイコトをしたら叱ってくれた。
悲しいときは励ましてくれた。
楽しいときは一緒にはしゃいだ。
私の思い出の大半は、アミュスとの思い出で占められている。学校で同世代の女の子と話すより、彼女と話す方が面白く、また興味をそそられた。
その所為もあってか、何人かの親友を除けば、殆んど友人はいない私。でも別に他の人に恨まれたり、嫌われたりはしてない……筈。アミュスには、「もっと色々な友人を作っておいた方がいいわ」って再三言われてるんだけどね。てへ。

私に隠し事はない。友達に対しては多少あるにしても、アミュスに対しては全くない。――だってしようとしてもすぐ見抜かれるし。………そんなに考えてることが、顔に現れやすいかなぁ、私。
でも、私はアミュスの事を殆んど知らない。私が知っているのは、彼女が昔からこの家に仕えていることと、彼女が家事のことは大概出来てしまうことくらいだ。
でも――私は実はもう一つ、アミュスについて知っている事がある。それは、アミュスが一番隠したい事であることは、あの時の様子からして間違い無い。
アミュスの秘密。それは――。



「手紙?」
「ええ。カレンのお父様からよ」
非日常はいつも突然。そもそも日常が続く、という事がどれだけ珍しいことか。でも――まさかこの日に来るなんて。
私が17才となる誕生日の一週間前の夜。周りのメイド達と誕生パーティについてああだこうだ考えていた頃だ。
父親から手紙が来ることは、これ迄の人生でも稀――高々1、2回程度のことだ。その手紙の内容は、大よそが自分に対して行動を強制するもの。愛情の欠片すら、文の中に感じる事はできない。
時々来る母からの手紙の場合、逆に母親としての立場や愛情を訴え過ぎている感じがして、逆に受け付けなかった。まるで私がカレンじゃなくて、ただの『母親の娘』として見られているような感じがしたのだ。
今回も恐らく、そのような手紙だろう。どこか暗鐔とした気持ちで封筒を開く。

「――」

私の時が、止まった。


『カレン・ウォルケット、私の娘よ。まずは親として、貴殿の誕生日を祝し、ありきたりながら謝辞を述べよう。17歳の誕生日、おめでとう。
さて、早速だがカレン。17歳と言うことは、貴殿も社交の場に出る一年前の段階に入った、と言うことだ。
私としては、娘である貴殿に社交の場で、自身の名を貶める様な醜態を晒すことを望まない。貴殿も、己の失態で後々まで汚名を被る事をよしとはしないであろう?
よって一週間後の誕生日、貴殿を我が屋敷に住まわすことに決定した。更に、乳母のアミュスに代わり、専属の教師を貴殿に付ける。教師は大変教育に関して優秀であるので、貴殿に英才教育を授けるに辺り適材であるとしてこの職に就けた。
これは決定済みのことだ。異論は決して認めない。
では、一週間後を楽しみにしている。

ジグリー・ウィルケット』




――な、何?何なの?この文章。
訳が分からない。
誕生日、いきなりジグリーさんの所へ連れて行かれる?しかも社交場デビューのために英才教育?
それに――この文章、アミュスに代わりって………まさか!

「アミュスっ!?」
私は思わずアミュスの肩を掴んでいた。信じられなかったのだ。
アミュスが、私の'母さん'が、突然私の前から行ってしまうなんて。
父が一度言ったら聞かないことは知っている。でも、まさかアミュスを馘にするなんて思いもしなかった!
アミュスには、これが嘘だって言って欲しかった。言って欲しかったんだ。
「アミュスっ!ねぇ!私と一緒にいるよね?いられるんだよね?ねぇ、ねぇっ!ねぇってば!?」
アミュスは――沈黙。それは暗に肯定を意味する事は、私にも十分分かった。
分かってしまったんだ。

「――馬鹿ぁっ!?」

気持に振り回されるまま、私は自分の部屋へと駆け込んだ。
そして顔を枕に埋めたまま、ずっと泣いていた。
ずっと、その日は泣いていた………。



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「馬鹿ぁっ!?」
泣きながら走り去るカレンお嬢様の背を眺めながら、私――アミュスは、お嬢様を抱き締めたいと言う気持ちを必死で抑えていました。
それがどれだけお嬢様を傷付けることになるか、と言うことも私は十分分かっていました。
ですが、もしお嬢様を抱いてしまったら、私はきっと自分を抑えきれず、そのまま抱き続けてしまうでしょう。その行為は父上様との契約に反してしまいます。所詮、どれだけ古くから勤めていようとも、私は雇われの身でしかないのです。
それに――あぁ、あぁっ!私があの娘の産みの親であったなら!私が今抱く感情のままあの娘を抱き締められたというのに!?
しかしそれは無理な話。私は、子供を産む事が出来ない体なのですから。そもそも――お嬢様にすら隠しているこの体で、人の子供を自らの娘のように思うこと自体が、ある意味おこがましいのかもしれません。
もしも秘密を話すことで楽になれるのなら、私は今直ぐにでもそうしたでしょう。でも、それは出来ません。もしそれをしてしまったなら、何もかもが崩壊してしまう――。それは、永く生きている私がよく知っています。
――でも、秘密を隠し続けられる時間も、残り少ないようです。
「っぅっ…………っぅぅぅっ………」
輪郭を失っていく私の体を眺めながら、私は気付けば、嗚咽を漏らしていました………。



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この屋敷はこの日、二つの嗚咽が響いていた――。



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チュンチュン………。
「……………」
どうやら、いつの間にか寝てしまったらしい。
でも、私の心はまだ晴れない。
今は、誰にも会いたくなかった。特に――アミュスには。

「お嬢様、朝御飯の準備が出来ました」
普段はアミュスが呼んでくれるところを、今日は別のメイドさんだった。
「……アミュスはどうしたの?」
私がそう壁越しに尋ねると、メイドさんは体調不良ですお嬢様、と困ったような声で返して来た。
「………こんな時に来るなんて………」
アミュスは、時々体調不良を理由に、部屋に篭っている事がある。普段は周期的な物だったけど、稀に突然それを理由に休むときがある。それは、何かショックな事が起こったときだ。
「…………」
今行きます、と一言、私は着替を始めた。
多分、今日一日は出てくることが無いと思うから…………。

結局その日は、アミュスと顔を合わせる事は無かった。その次の日も、次の次の日も――気付けば、別れの日まで残り二日となっていた………。



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「…………このままじゃ、駄目だよね」
今までは、あまりアミュスに会いたい気分では無かった。でも一日、二日と過ぎていき、私の心には『このままじゃいけない!』と言う気持が沸き上がってきた。
このままだと――すっきりしない気持のまま暮らす事になる。アミュスのいない場所で、恐らくは一人で。
それだけは嫌だった。一緒に連れて行くことが無理なら、せめて――。

「カレン?」
そんな折りだった。
「!!!!!!!!」
戸の外に響く、突然の来訪者の声。しかもそれは、私が今会おうとしていた――。
「アミュス………」
戸を恐る恐る開けると、果たしてそこにはアミュスが、神妙な面持ちで立っていた。
「――」
予期せぬ出会い方をして、前進が固まってしまった私の手を軽く握り、アミュスは静かに言った。
「………どうしても、話したい事があります。一緒に、来てくれませんか?」
断るつもりなど、全く無かった。


小さな頃、アミュスとよく遊んだ森。そこに生えている一本の巨大な木は、国が記念物にしようと申請中らしい。
私たちはそこに出来た巨大なうろの中に、昔のように身を置いた。
何年ぶりだろう。この森に二人で入るのは。
「…………」
暫く続く沈黙。破るのは――私。
「………話って、アミュスが………秘密にしてること?」
アミュスは静かに、答えとして首を縦に振った。
「…………」
沈黙。お互い、何をどう切り出して良いのか分からないのだ。少なくとも、私はアミュスが秘密にしている事の内容を知っている。でもアミュスはそれを知らない。
もしかしたら、私が知っていること以外にも、アミュスが秘密にしていることがあるのかもしれない。それすら――言い辛いことかもしれない。
なら――その一つは、私が切口を開いてあげないと。お互いが気まずいまま別れるのは――私が嫌だから。
そして私は――

「ねぇ………アミュス?」

自ら引金を引いた。


「私、知ってるんだよ………アミュスが、実は人間じゃないって」


そのときのアミュスの顔は、驚きと若干の恐怖が入り混じったような、何とも表現しづらい表情をしてた。
「………い、いつから?」
恐る恐る、と表現するのがぴったりな速度で、どこか脅えながら訊いてきたアミュスに、私は解き放たれたように、思い出を語るように返した。

「まず、最初に変だなって思ったのが、五歳かその前くらいの、私がちっちゃかった頃。あの頃私、よく走り回って転んでたよね」
「……………」
「その時、アミュスにも何回かぶつかっちゃったりして……今思えばああやって、アミュスに甘えていたのかも………」
「…………」
「その日はたまたまアミュスがいなくって、他のメイドさんと遊んでいたときがあって――抱きついたとき、あれ?なんか変だな?って感じたの。
あれが、そもそもの始まりね」
「…………」
「あの時は、アミュスだけ特別なんだ、って思っていて、あまり疑問に思わなかったけど」
「…………」
「次は、初等教育中かな。ジグリーさんは食べるな、って書いてあったお菓子をひっそり買ってみんなで食べたとき、お菓子の乾燥材を捨てようとして、アミュスは火傷してたよね?」
「…………」
「乾燥材の袋が破れてて、そこに水が入り込んで発熱した。その原理は化学で最近やったものだけど、その時は私、わんわん大泣きしてたよね……」
「………ええ」
「アミュスは大丈夫だから、大丈夫だから、ってずっと私に付きっきりで、その場でお茶会は終っちゃったっけ」
「………ええ」
「でも思い出すと、乾燥材に水がかかったのはアミュスが触れた後だった………」
「…………」
「………それだけでもまだありうるとは思ってたし、それに私は子供だったから。そういうものだと思ってしまえば、あっさりと受け入れられた。しばらく私、乾燥材に触れられなかったでしょ?」
「………ええ」
「…………でも、それにも限界が来た。決定的になったのは、私が中等教育に上がった頃――」


「………お嬢様、もう十分です」


「カレンって呼んで。それに敬語は禁止、でしょ?」
アミュスは顔面蒼白だった。屋敷の光の届かない月夜、うろに吊した電気カンテラは、どこか疲れてしまったような彼女の顔をくっきりと映し出す。
ほんの少し涙ぐんだような声で、アミュスは私に訊いてきた。
「…………どうして、今までに、分かっていた、と一度でも、言ってくれなかったの………?」


私は、アミュスにゆっくりと近付いて、そのまま抱き締めると、彼女の耳元で囁いた。




「アミュス、理由は一緒。私も、アミュスとの関係が壊れるのが嫌だったんだもん。だってアミュスは………私を育ててくれた――お母さんじゃん」




「!」
アミュスの中で、今までずっと張り詰めていたものが、
「………ぁぁ、あぁ、あぁぁ、あぁぁぁぁ………」
今大きくほぐれたらしい。
アミュスの形が、だんだん変化していく。服が透けていき、肌の色も段々透き通って――その姿は、私がいつか見た姿、そのままだった。

中等教育を受けていた頃、どうしても寝つけない夜、私は屋敷の中を散歩していた。その時、誰もいない筈の浴場で、水音が響いていた。
何かしら、と好奇心に任せて覗いてみたら――そこにいたのは、湯船一杯に広がった弾力のある何かと、その中心にいる、半透明のアミュスの姿だった。
ドアの音に気付いたアミュスはこっちを向いた。
私とアミュス。二人の目と目が合って――そこからは思い出せない。きっと、知らぬ間に気絶してしまったんだろう。
次の日の朝、あれは夢だと思う私の考えを消したのは、いつもより過剰に心配するアミュスの姿だったのは、非常に皮肉だった。
その日の夜、私は少し考えていた。
アミュスが人間じゃなかった。その事実がショックだったのは確かだけど、同時に、あぁだからこうだったんだな、って合点が行ったのも、また確かだった。
アミュスはみんなと一緒に風呂に入らないから、アミュスの事をみんな知らないみたいだった。つまりアミュスは、自分のことを隠している。それは無理もない事だって、分からないほど私は子供じゃなかった。
じゃあ、私はどうするの?
アミュスは人間じゃない。
だからどうしたの?
アミュスの全てを否定するには、私はあまりにもアミュスと時間を過ごしてきたし、それに――血が繋がっていない、親子のようなものだったし。
私にとって怖いのは、アミュスが遠くに行ってしまうこと。なら――。


――気付かない振りをしてしまおう、そう考えたのだ。


アミュスの首から下は、今や完全な軟体――スライムに変化して、私の脇から背中にかけてをすっかり覆い尽してしまった。服が幽かに溶け始めた。一瞬、もったいないと言う考えが頭の中によぎったけど、次の瞬間には、その考えすら吹き飛んでしまった。

――やわらかくて、あったかい――

服が溶け、皮膚が見えた場所から伝わる、アミュスの鼓動、温もり。スライム独特の弾力は、むにむにと私の体を取り囲んでいく。
やがて、全ての服が溶けてしまった私は、私を包み込んだまま動かなくなってしまったアミュスに、そっと口付けをした。
そして何をするわけでもなく、そのまましばらく――二人で抱き合っていた。
――裸のままで。



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「お気に入りだったんだからね」
すっかり布切れになってしまった服を抓みながら、頬を膨らませるカレンを見ていると、私はどうしようもなく申し訳ございませんと言う気持になってしまいます。
「申し訳ございません………」
カレンが私の事を知っていたから……そして抱きついたから………思わず耐えられなくなってしまって……恥ずかしい。
「いいって、そこまで気にしてないから」
そう言うと、カレンはどこか悪戯な笑みを浮かべました。何を言うつもり――いえ、分かっています。今がその時だと言うことも。
産まれたばかりの時からカレンの姿は見てきましたが、思えば小さい頃以来、カレンの裸は見ていなかったように思います。
少女から大人への過渡期、まだ未成熟ながらもその体は、『女』を意識させるには十分なものがありました。透き通った藍色の瞳、栗色の長髪、調った顔立ち。
染み一つない――私の贔屓目でしょうか?――肌に、華奢な体つき。適度に張り出した胸にくびれた腰。
スラリとした足の、そのつけ根の中間には、今だ誰も受け入れていない綺麗な筋が一つ。

どれをとっても、非常に可愛らしく、また、非常に愛しく感じられました。

「それより――」
悪戯な笑みを浮かべたカレンは、私の方に身を乗り出すと――、
「私はアミュスについて知りたいの。アミュスは私のことは知ってるけど、私がアミュスを知らないのは、何か不公平だと思うな」
――私が考えていた通りの言葉で、私に聞いてきました。
いつかは聞かれると思った事でした。
いつかは話さなければならない事だと、心のどこかではそう感じていた事でした。
だから――。


「――どんな話でも、カレンは受け入れて………くれます?」
「当然じゃない」
私は――全て打ち明けようと思いました。


「………分かりました。でも、これから話す事は他言無用ですよ。内緒にしておいて下さいね」



「私――と言うよりスライムと言う種族は、大概の場合に産まれた場所も、時間も――親すらも知りません。
私もそうでした。気が付いたらこの世界に'存在していた'のです。
産まれてすぐの私は、野獣と大差ありませんでした。ただ獲物を捕えて食う、それだけの存在――無論、その獲物には人間も含まれていました」
カレンは、私の話を黙って聞いていてくれました。普通なら『残酷な!』と返して来るであろうこの言葉にも、眉一つしかめず、受け入れているようでした。
「しかしある時、一人の血まみれの女性を捕えたとき、私の中に凄まじいまでの感情が流れ込んで来たのです。それが私――アミュス・ネージュの始まりでした」
「ねぇアミュス」
「はい?」
突然カレンが声をあげたので、私は話を中断しました。カレンはどこか言いづらそう――言葉にするのが難しそう――に、どこかたどたどしく聞いてきました。
「その……体に、感情が流れ込むって………どんな感じなの?」
私は純粋に返答に困りました。人間の感覚で表すことが、とてつもなく難しいからです。

私は少し考え、今まで何もなかった体の中に、炎と氷を同時に投げ込まれた感じ、と我ながら分かりづらい返答をしてしまいました。 カレンは、その答えにやや分かり辛そうな表情を見せましたが、答えてくれてありがとう、と言いました。仄かに、暖かな声で。

「感情を持ってしまった私は、どうしようもない孤独感と、本能的な空腹感、それがせめぎ合い、日々神経を擦り減らしていきました」
誰かと一緒に居たいと願いながらも、一緒にいると捕食してしまうというジレンマ。針ネズミのそれもありますが、誰かといた、という『感情記憶』を持ってしまった私は、今までのように獲物を見る事が出来なくなってしまったのです。
「形が保てなくなりそうな程思い悩み、スライムとも人ともとれない姿のまま、獲物も狩れず、何も食べずにいた私を、ある日――」


『私と一緒に、来ませんか?』


「その時の事は、今でもよく覚えています。私を拾い、食事を与えてくれたのは、赤い三編みのお下げが可愛らしい、いつも笑顔を絶やさないメイドさんでした。
彼女は私を、自身の仕える主人の屋敷に連れていくと、まずこう告げたのです。
『貴女には'人の感情'が芽生えています。そうなった以上、これから貴女は、人間社会の中で生きていく必要があります。私が、その術を教えてあげましょう』と。
その屋敷で、私は………自分の体の使い方やメイドとしての作法、人間社会の常識などを学んでいったのです――」
そこまで話し終えて、私は、カレンがやや呆然としているのに気が付きました。どうしたのか尋ねると、カレンは何か思い当たることのあったような口調で、恐る恐る口を開きました。
「その………アミュスを拾ってくれた人の名前って………まさかジェラとか名乗ってたり………」
今度は私が驚く番です。
「ご存じなのですか?」
「名前だけは。赤い三編みをして、いつも笑顔を絶やさない世界一の万能メイド、って業界では生きた伝説になっているらしい事をクラスメートが噂してたから」
………改めて、私の恩人――正確には人ではありませんが――の偉大さを思い知らされました………。
「彼女――私は先生と普段は呼ばされていましたが――の元にいて数ヶ月。ようやく全ての課程が修了した所で、彼女の主人が私に仕事を斡旋してくれました。
それが、この屋敷――」

「…………………」
カレンはややうつ向いたまま、一言も話しませんでした。私が次に言うことが、何か分かったのでしょう。
なら私も――それに答える義務があります。
「この屋敷にて交した契約は、大きく三つ。
1.カレンのお世話役と乳母、そしてメイド長の兼任。
2.その間、館の者に対する捕食は禁止。
そして――3.なお、期限は後程、カレンのお父上様からの手紙によって知らされるものとする」
私の今の言葉に、カレンは黙ってうつ向いていました。私はただ、そんなカレンの姿を見つめることしか出来ませんで――?


ぷよん。


「!?」
と、突然カレンが持たれかかったかと思うと、私に抱きついてきたのです!そして、私の自慢できるほど大きくない胸の部分に顔を埋めてきたのです!
「か、カレン!?」
あまりに唐突だったので、私は内心パニックを起こしていました。その間にもカレンは私の胸の谷間に顔を押し付けて――あぁ駄目っ!そのまま押し付けたら――!

ずぽんっ。

「………あれ?」
カレンの頭は、私の胸を貫通して向こう側に出てしまいました。正確に言うなら、カレンを窒息させないように、私が胸に穴を開けたのですが………。
「ん〜っ!」
私の体を懸命に押して、晒し首状態から脱出したカレンは、私を、どこかぼんやりとした――えっ!?
「ど、どうしましたかカレン!?」
どうして泣いているのですか!?やはり先程のが苦しく痛かったからですか!?それともやはり私が人間でないというのが――!
内心のパニックが、自分の顔に出ているのがありありと分かりました。
どうしましょうどうしましょう!原因が分からなければ対処しようがありません――。


「アミュス……ううん、ママ」


「――!?」
私のパニックは、カレンの思わぬ一言によって、一気に吹き飛んでしまいました。
………え?
「か、カレン………今………何むぐぅっ!」
最後まで言葉を発しようとした私の唇は、カレンによって塞がれてしまいました。その上、私の'口'の中に、カレンの舌が入り込んできたのです。
「ん……くちゅ………ちゅぶ………」
私の粘体舌に巻き付けるように、カレンは舌を動かしてきました。スライムには人間で言う歯や歯茎はありませんが、ひとしきり舌と戯れると、カレンはまるで人間にするように、口の中をねぶり回しました。
二人の口の中で、カレンの唾液が私の粘液と混ざり合い、撹拌されていきました。時々何か塩辛いものが舌に当たるのは、カレンの涙でしょうか………。
「………ん……」
つ………と、二人の唾液が橋をつくり、唇が離れていきました。心なしか、肌がお互いに紅潮し、息が荒くなっている気も――。
カレンは、うるんだ瞳のまま私を見つめると、やがてその顔をわたしの胸に埋めながら、優しい声でこう言いました。

「今日だけは、ママ、って呼ばせて………」

「………」
思えば、この娘は実の母親の温もりに飢えていた娘でした。ならば、この私が母親になろうと、乳母の職に就いたときに決意したのです。
――いつの間にか、私たち二人は、親子であることが幸せになっていたのですね………。



「………いいわよ、カレン」



「………っく…………ひっく………えぐっ………ぁぁぁあん………」
胸に顔を押し付けたまま泣き出したカレンの頭を、私は優しく撫でてあげました。
カレンの涙が、涸れるまで…。



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その後、私達は他のメイドさんに見付からないように屋敷に戻った。
だってさ………二人、裸だよ?しかも上半身だけなら兎も角全裸だよ!?流石に満月の夜二人で庭を全裸で散歩なんかしちゃってる姿見られちゃったら、どんな噂が立つやら………。


そして翌日――


「「「「お誕生日、おめでとうございます!カレンお嬢様!」」」」
メイド一同によるおめでとうの大合唱が始まりの合図となった
明日(の朝)が出発の日、と言うことで、今日に誕生会が繰り上げになったのだ。
私が住んでいた屋敷は、ウィルケット家の別荘となるらしい。だから、メイドさん達のお別れ会も兼ねていたりして――それはそれは激しい、いろんな意味で激しい会でしたよ、ええ。
アミュスがどこからともなく取り出したツイスターゲームでみんな凄まじい体勢になったり、アミュスが参加しない理由を必死で探していたり。
ある場所ではメイドさん四人が麻雀をしていたり、終ったかと思いきや一人が麻雀で占いを始めちゃったり。
アミュスがダーツで一回に180点出していたり、私もやったけど50点すら行かなかったり。
件の四人がポーカーを始めてる間に残り全員でウノをしたり――。

プレゼント交換のくじ引き大会。私がもらったのは――アクアマリンのネックレス。
誰からの――!

アミュスが涙を流していた。

「―――」
私はその時、何も言えなかった。
ただ、周りの音と景色が遠ざかって行く気がして――。


気付けば、私はアミュスに抱きついていた。そして――、
「「ぁぁぁぁぁああああああああああああん!!!!!!」」
大きな声で泣いてしまっていた。
他のメイドさん達は、ただ黙ってそれを見ていてくれた………………一部絵にするなり写真撮るなりしてたみたいだけど。


そんなこんなで、楽しいパーティはあっと言う間に過ぎていった。
そして何もなく夜も過ぎていく………。


朝。日が出てすぐの中庭に、一台の軽自動車が止まっていた。私が乗り込み次第、出発するのだろう。運転手が、車の座席で仮眠をとっている。
私とアミュスは、屋敷の入り口からそれを眺めていた。他のメイド達はまだ………起きていない。
「………これで、いいの?」
アミュスが私に聞いてくる。私は首を縦に振った。
「あまり沢山いすぎると………私………また泣いちゃうかもしれないから………」
今でも、気を抜いたら涙が溢れそうになる………。
「………でも、ごめんなさい」
アミュスが心底申し訳なさそうに私に言った。一緒に行けないことを謝ってるのだと思って、私は返す。
「謝ることないって………これは………仕方がないことなんだし」
あ、また涙が………何とかこらえたけど。
「でも………」
「ほらほらぁ、気にしすぎなんだって。私は元気だからさ」
何とか空元気を使って演技したけど、アミュスは首を横に振って、そして………。

シュッ!
「あいたっ!」


「――え!?」
アミュスが手近にあった石を掴んで、車の近くにある茂みに勢い良く投げ込むと――声?
「全く………気配を完全に無に出来る能力を妙なところに生かさないの――代表者クェル!」
「――ええっ!?」
って事は………。

「あちち………やっぱしバレましたか。本当に直前までバレないつもりでいたんですが」

「ばらいでか。私の気配探知を軽視しないで下さい」
「仕方がありませんね――みんな!」
「――えぇえぇえぇぇえ!!!???」
ということはやっぱり――!


ガササササササッ!
「「「「カレンお嬢様!!」」」」
残りのメイドさん達が、一気に茂みから現れた!


「…………というように、いつでもお出迎えできるように、既に配備されていたみたいです。――昨日の夜から」
呆然とする私に、アミュスはそう呆れたように告げると、クェルさんのところに近付いて、何か耳打ちした。クェルさんはそれに頷くと、私のところに近付いてきた。
そして、私の頭にぽん、と左手を乗せると、優しい声でこう言った。
「お嬢様。私たちはお嬢様のメイドです。なら、出発にお出迎えするのも仕事です。そして寧ろそれとは別の心情で、私たちはお嬢様を見送りたいと考えております。私たちは、長い間一緒にいた、家族のようなもの。お嬢様に対しての最後の仕事であり、家族としての最後の願い。聞き入れてもらえますか?」
「!!!!!!!!!!!!」
最早、涙腺は完全に緩んでしまった。こんなにもみんな、私のことを思ってくれて――!

「…………」
涙でうまく声が出せなかった私は――大きく首を縦に振った。


「じゃあね!アミュス!みんな!」
「さようなら………カレン」
「「「さようなら、カレンお嬢様!」」」

別れのクラクションが、私たちの声を掻き消すようにけたたましく鳴り響いた。
エンジンの音が一回、二回………。
ブロォォォォ…………
遠ざかっていく私を、黒い修道服風の服装を着たアミュスと、様々な服を着た元メイドさん達は、いつまでも見守っていた。
私は、視界からみんなが消えるまで、窓の外から手を振っていた。
いつまでも、いつまでも………。



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カレンの姿が見えなくなった後、私はジェラ先生の屋敷に戻る準備を始めました。
他のメイド達も、あるものは新しい勤め先に、またある者は別荘となる屋敷に残るなど、それぞれ行く当ては決まっているようでした。
食糧は大体水ぐらいしか必要にならないので、後は思い出の品とか――。

「………あら?」

テーブルの上に、カレンが受け取った便箋が放置されていました。恐らくは忘れていったのでしょう。
本来ならば、カレンの私物には手を出さない私ですが、この時――私の中に何か暗雲立ち込めるものがあったのです。それはこの便箋を見たときから、沸き上がってきた感覚でした。
私はその便箋を開き、手紙を取り出しました。カレンが読んだのは一枚だけ。しかし、その便箋の中には二枚手紙があったのです。
私はその二枚目を見て――愕然としました。


『カレン。
貴殿の家庭教師の名を覚えておくといい。


ジェラ


では、こちらで会えることを楽しみにしている。


ジグリー・ウィルケット』



「!!!!!!!!!!!!」
私は、思わず手が震えて手紙を落としてしまいました。
ジェラ先生は、あの屋敷から当分離れることはない旨を、私が出る前に言っていました。そして有言実行、不言実行というメイドが守るべき心得を堅持し、自らにも厳しい彼女が、その約を破り他所に勤めることなど、絶対有り得ないのです。
と言うことは――この教師は――!?
「カレンっ!!!!!!!!!」
私はペットボトルとキーを片手に、思わず屋敷を飛び出ました……。



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「…………」
軽自動車の後ろの座席で、私は声を圧し殺して、密かに涙を流していた。
運転手には、私がただ蹲って寝ているように見えるだろう。いまはただ、この涙を他の人には見られたくなかった。
まるで、ドナドナの牛のような気分で、私は運ばれていった――。

パァンッ!ドガァッ!

乾いた音、続いて衝撃。それを背に強か感じた瞬間、私は意識を手放してしまった………。

最後に感じたのは、どこか生暖かい液体が、私の顔にかかって………。



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時処変わってこちら、ウィルケット邸。そこでは、暗くなっても未だに現れない軽自動車に痺を切らしそうなジグリーと、ひたすらあたふたするノース、そしてジェラの名乗る、赤い三編みを持つ家庭教師の三人が、リビングに集まっていた。
「どうしたのかしら、どうしたのかしら。ねぇジグリー」
「私に聞くな。お前もやたらにうろたえるな。客人の前だろうが」
ひたすらうろたえるだけのノースを静かにたしなめると、ジグリーは教師に向かって厳かに告げた。
「ジェラ殿。済まない。娘はまだ来ないようだ。座ってはいかがかな?」
「よろしいのですか?」
教師は、笑顔を絶やさぬままに椅子につこうと動き――そして止まった。
「皆さん、座ったまま、と言うのも難ですから、少しお茶でも飲みませんか?」
「お茶か………」
考え込むジグリーだが、今だ落ち着かないノースを一別し、溜め
息をつきながら教師に告げた。
「………頼む」
「かしこまりました」
ニコニコと急須と茶葉を取り出す教師。一分も経たないうちに、緑茶が入れられた湯飲みが三つ、テーブルに置かれた。
「ほう………緑茶か」
ジグリーの一言に、教師は驚いた顔をした。
「ご存じなのですか?」
「私を誰だと思っている。極東での貿易で何度も味わった事がある」
失礼な、と言外に込めてお茶をすするジグリー。それを開始の合図としたかのように、勢い良く流し込むノース。そして――ゆっくりと飲み干した教師。
「この渋味が堪らないんですよね〜」
「慣れるまでは苦労するが、な」
「そう言えば、どのようなお茶が好みなのですか?」
「私か?そうだな――」
などとお茶談義に花を咲かせ始めたジグリーと教師の横で――ノースはかなり咳き込んでいた。急に飲み込んだため、蒸せたのである。
おまけに、煎れたての緑茶の熱さに舌を焼くと言う、まさに踏んだり蹴ったりな状態に陥っていた……。
飲み始めてから数十分後………。
「申し訳ございません……ぁ………そろそろ布団に入ってもよろしいでしょうか?お嬢様には明日、ご挨拶させてもらうと言う形で」
今にも寝てしまいそうな顔をした教師が、ジグリーにそう告げた。
「ん………それもそうか………」
心なしかジグリーも、うつらうつらし始めていた。妻のノースに至っては、既にテーブルの上で寝息を立てていた。
「ではジェラ殿、よい夢を…………」
「よい夢を」
一礼して、部屋を出ていく教師。ジグリーはそれを見送ると、家に着いたら電話するよう運転手にメールを送信し――意識が途切れた。



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………ん……いたた………。
一体、何が………!


ぼやけた私の視界が捉えた風景は、明らかに車の中とは様変わりしていた。――様変わりじゃない!私は、見知らぬ部屋に連れ去られていたんだ!ここがどこか分からないけど、すぐに逃げなくちゃ!
私はすぐに立ち上がろうとして――その体が鎖か何かで固定されているのに気が付いた。胴体を腕ごとぐるぐる巻きにされ、ご丁寧にも脇の下で鎖をまとめる巻きかたで。
以前クェルさんがメイドさんの一人を縛るときに、その縛り方をしていて、どうやら絶対抜けられない縛り方らしい。
「―――っ!」
孤独。
恐怖。
不安。
それらをまとめた負の感情が私の中で暴れだしていく。いつの間にか、体はカタカタと震えていた。濁点がカに付くのも時間の問題かもしれない。
「―――」
今、何時なんだろう。そんな考えが頭をよぎった時――。

パァッ!

「わ――」

部屋の電気が一斉についた。暗闇に馴れていた私の瞳は、刺す様な光から自らを守るために瞳のシャッターを勢い良く下ろす。
慣れてきた辺りで、恐る恐る瞼を開くと――!


「!!!!!!!!!!」
そこは殺風景な部屋だった。置かれているものは、ソファと、冷蔵庫と箱の他には――何も無い。部屋と言うよりは、倉庫と呼ぶ方が合っているのかもしれない。
その倉庫の真ん中に立つ一本の柱。そこに私は鎖でくくり付けられていた。
周りを見渡すと、確認できた人影は三人。うち二人はジャンパーにジーンズと言う、どこにでもいる格好をしていた。片方はニット帽、片方はサングラスをしていたので、それで判別できた。
あと一人は――何と言うか、奇妙な格好だった。着ているシャツもズボンも、色を考えていない継ぎ接ぎだらけで、しかもそこかしこが破れている。前衛芸術ともとらなければ、こんな格好はする人はいないだろう。
それだけじゃない。この人――どこか変だ。人のように見えて、実は人でないかのような――。
ニット帽は携帯電話をかけて、誰かと話しているみたい。かなり遠くだから、声は聞こえない、何を言っているのかは聞こえないけど……。
電話を止めると、サングラスが私に近付いてきて――いきなり銃口を額に突きつけてきた!
「おかしな真似しやがったら、テメェの額に穴が開く。覚えときな」
ドスの利いた、絶対的恐怖を与える声。私の背筋に凄まじい寒気が走った。
泣く事も出来ずただガタガタと震える私の姿を見ても、サングラスは銃口を私から離しはしなかった。そのまま、ニット帽と話をする。
「あいつはどうだ?うまく潜り込めたか?」
「ああ。家庭教師を募集していたところに、ジェラの名前を出せば一発だ。実際あいつ自身の技術も凄まじいものがあるからな」
――え?
「流石上流貴族のメイドを首になった何でも屋だぜ。今頃あの副社長も、あいつの事をジェラだと信じてんだろうな」
「違いない」
――え?何の話をしているの………?
家庭教師?何でも屋?副社長――!?
「………ん?」
何の感情もない、羽虫を見つめるような目で、サングラスは銃口越しに私を見つめる。そして、何でもない事のように――それこそ世間話でもするかのように――サングラスは私に、
「………分かっちまったか。理解しちまったか。残念だ残念だ」
告げたのだ。


「――ミーア、声帯模写だ」


「…………」
ミーアと呼ばれたもう一人は、何も言うことなく、表情一つ変えること無く頷くと、枷をつけられたような重々しい足取りで私に近付いてきた。
その姿に、私は思わず声を漏らしそうになった。けれど――口を開けた瞬間、そこに銃口が滑り込んできたのだ。
「額より先に、口に穴が開けられたいなら、叫びな」
叫べないのを分かっていながら、サングラスは私に呟いた。その間にも、ミーアは私に近付いてくる。そして、肩に手が置かれたと思った、次の瞬間。

ぬぼぉおっ!

異様な音を立て、ミーアの輪郭が崩れた!そのまま私の体にまとわりついていく――私の着ていた服が、瞬く間に溶け始めた!ミーアはスライムだった!
そして、

すぽゴボォッ!

「い――」
銃が抜かれた瞬間叫ぼうとした私の声は、口の中に猛烈な勢いで入ってきたミーアに全て吸収されてしまった!そのまま私の中に体を押し込んで――!
「――!――!―――!」
いっ!息がぁ!食道から肺にかけて、ミーアに完全に塞がれてっ!酸素が!酸素が全く入ってこない!
だ、だんだん視界がぼやけて――。

ずぽぉんっ

「――ぁ、――ぁっ、――ぁっ」
体全体を包み込む事無く、ただ肺と食道に入り込んだだけで、それ以上入り込まずにミーアは私の体内から出てしまった。その体の一部は、何故か私の中に残ったままで――!

「――あ、あ、あー、あああ、あ〜」

「!!!!!!!!」
ミーアの口、喉元を押さえながら調整している、声。それは、あまりに私に似ていた――いや、そっくりだった。カセット越しに聞いたら、間違い無くあんな声になるだろう。
そこから更にミーアは、体の中の空洞を広げているみたいだった。単調な声が、次第に奥行きのあるものになっていく――。


「――私は、カレン・ウィルケット」


私が視点の定まらない状態で呆然としている中、ミーアの声は、完全に私と瓜二つになってしまったのだ。
電話、声、誘拐拘束。これだけ揃えば、自分の行く末は分かる。分からない筈がない。

「調声(チューニング)は終ったか」
サングラスが、ミーアに確認する。ミーアは、どこか不満げな表情を浮かべながらも、こくり、と頷いた。
私は、死神の鎌が、私に振り下ろされたのを感じた。
サングラスの右腕が――銃口が、私の左胸にぴったりと当たる。


「じゃあな――」


最後に聞こえたのは――。



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いつか、カレンは私に言ってきた事があります。
『ねぇ!アミュスは凄いよね!私がどこにいても見付けちゃうんだから!』
違うんです、カレン。
分かってしまうんです。
私は母乳を与えるときに、なるべくスライムが入らないように体内で精錬してから飲ませていましたが、それですら完全には取り除けていませんでした。
結果――カレンの体内に残留し、遺伝子の中に若干量組み込まれたスライム分に、私の遺伝子が反応していたのです。
皆さんは不思議に思いませんでした?スライムはどうしてああも集団で居ることが多いのか。あれは種族的特性なのです。
分裂、成長、融合、同化。スライムは主にこれが本能にあります。ですから、比較的楽に融合できる同族の気配には敏感になるのです。
そして、今はこれが――。
「………カレン………カレン………」
改造小型バイクのハンドルを握り締めながら、私はカレンの中に残ったスライム分を必死で探知しました。嫌な予感がしたのです。あの『ジェラ』の記述を見てから、私の中にある暗雲。もはや確信と言っても良いでしょう。
通常、生きる伝説であるメイド、ジェラの名前を用いる職業メイドはいません。名乗る以上は、どのような不可能も可能にする事が必要になりますから。この時代でその名を名乗るのは、私の先生か――詐欺師。
となると――!

「!」

わ、私の中に、声にならない悲鳴が………!
「カレンっ!」
間違いありません!この悲鳴は、カレンのものです!同時に――私が始めて感じる、別のスライムの気配……!
気付くまでもなく、私はギアをトップに変え、フルスロットルで気配の方向に向かいました。
着いた場所は既に廃棄された倉庫地帯。私はキーと、とあるトラップを一瞬で愛車に仕掛けると、気配探知を頼りに、ある倉庫の扉を勢い良く開けました!

そこには――。



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パァンッ!
ガァッ!


銃声。
扉の開く音。


そして、貫通した左胸より血を流し、撃たれたショックにより気を失った――カレン。


その肌がみるみる色を失っていく様を、アミュスは呆然とした表情で眺めていた――。



もう、助からない………。
一目で分かる、カレン・ウィルケット殺害の瞬間だった………。



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「………見ちゃったか。見ちゃったね」
「あぁ、見られたぜ」
人一人を殺しておいて何の事もないように、ニット帽を被った男とサングラスをかけた男は私に近付いてきました………。
「………見られたからには、しょうがないよね」
「あぁ。お嬢さん、恨むんなら自分を恨みな」
何の抵抗もなく28口径の拳銃を抜き、私に突きつけてきました。その瞳に、殺しの愉悦などありません。只の『作業』としての殺人として、私を殺そうとしていました。


目の前でカレンを――私の娘を殺しておいて――!


「……銃を抜いたら、覚悟は出来ていますか………?」
「………は?」
私は、全身が沸々と煮えたぎるような感情を抱きました。下手したら彼等は、ジェラ先生と出会う前の私よりも獣に近い人種なのかもしれません。
己を生かすためでもなく、獲物に感謝するわけでもなく、ただ自らの相対的な能力優位を確信、過信して相手を仕留めるだけの――偶。



「嚇しの道具ではないんですよ?それは」



――今思えば、よくあの時、犯人を殺さないだけの理性が私に残っていたな、と思ってしまいます。
私は一瞬で両腕をスライムに変化させると、犯人の口から肺の辺りにかけて一気に浴びせかけました。そして胸の辺りを圧迫しながら、口と鼻、そして両腕に張り付かせたのです。
「「ふむぐぅっ!」」
引金を直前に引かれ、私の体が一部弾けましたが、すぐに回復できるので問題ありません。開いた穴は、次の瞬間には塞がりますから。しかし……直らないものもあります。
「………カレンがくれた、特製メイド服………」
とりもちに捕まったようにべったりと床に張り付けられている男達の目の前で、私は着ていた服を脱ぎ始めました。どうせ晒したところで、呼吸が全く出来ない彼等にははっきりと見ることは出来ないでしょう。それにあと一人――いや、一匹を相手にするのに、衣服は邪魔になるからです。
「――あ………あ………」
スライムは、私を見て脅えていました。当然でしょう。私と彼女では、木星とBB弾程に実力が離れていますから。
脱ぐ途中、二人によって出来た穴を忌々しく見つめ、そこから一気に脱ぎました。そのまま、人間としての擬態を解きます。
足が繋がり、グラスの下部のような形に変化し、体の色も蒼く透き通る――あっと言う間に、私は本来の姿、スライムへと戻りました。
「あ………ア………ウゥ………」
恐らくカレンの声を模写したのが、恐怖のあまり解けたのでしょう。どこかフィルターを通したような人工的な声が、滅茶苦茶な服を着たスライムから漏れています。――次に何が来るかが、私には良く分かりました。

「………ヴアッ!」

恐怖に突き動かされるままに、私に攻撃するスライム。両腕と髪を鋭利な刃物にして、私へと伸ばします。ですが――、
「――無駄なことを」
直線軌道の攻撃には、そのまま身をよじるか――あるいは横から絡め取ってしまえば良い。その全ての刃を、繋がっている触手の部分で絡め取りつつ、私は自らと接続していきました。
「ヴア゛ッ!ヴヴッ!ア゛ア゛ッ!」
自分が捕食される恐怖からか、ますますがむしゃらに切りつけようとするスライム。その刃すら、次の瞬間には私の体となって――。
まるで自分が借金取りのような立場になってしまっているような気がして、少し罪悪感を覚えました。話が通じない、と言う前提条件を、知らず心の中に課していたのかもしれません。そう……相手がただの獲物と言うようにしか。
――それはまずい。それでは私は彼等と同じではないか。
私は彼等とは違う。少なくとも相手のことを考えて――それすらも思い上がりかもしれませんが、それでも私は相手を考えているのです!
随分と刃を吸収し、大きくなった体積分のスライムを後ろに回しながら、私は話してみる事にしました。
「………もう、やめにしませんか?このままだと………貴女が死にますよ?」
彼女は、私の言葉に一瞬反応しました。攻撃を止め、じっくりと私を眺めるように。が、やがて――、
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!」
突然狂ったように叫び出すと、私の全方位を取り囲むように刃を出現させ、攻撃してきました。
私は吸収した分の体積を用い、球状の障壁を張って攻撃を受け止めながら、今の彼女の様子の豹変について、思考を巡らせていました。
(あの豹変………契約?調教?それとも………洗脳?人を操る方法は、邪法として先生に教わったけど、それは同族には効かないし………ならば!)
一か八か。私は彼女の死角から触手を一本出し、彼女に向かって突き出しました。
狙うは――核。
攻撃ばかりに集中していた彼女は、突然の攻撃に防御することも出来ず――。


私の触手が、彼女の体に命中、そのまま核を包み込みました。


核からの命令が届かなくなった体は、触手を通じて私に吸収され、そして核は………私の体の中に取り込みました。
(――ここからが一仕事――)
私は意識を、彼女の核の中に這わせ――記憶を覗き込みました。

「――思った通りだわ」
記憶の中、そこには二人の『彼女』がいました。ただし、片方は最早死に体。体の主導権はもう片方の『彼女』に一方的に握られているようでした。

「コロスッ!コロサナキャコロサレルッ!コロサナキャ――!」
私にやられてボロボロになった、主導権を握る『彼女』は、動くことのない体を必死に動かそうと、必死で神経に命令していました。
「ウゴケッ!ウゴケッ!ウゴケッ!ウゴケッ…………」
届くはずのない命令を出しながら、『彼女』は――泣いていました。泣きながら、必死で命令を出していたのです。
「………ゥアゥッ………ゥァゥッ……」
その声すら、泣き声にしかならなくなった事が確認できた私は、気配を消して『彼女』に近付くと、昔カレンにしてあげたように、後ろから抱き締めてあげました。
「どうして――泣いているの?」
抱いたことで抵抗するかと思われた『彼女』は、涙でうるんだ瞳を私に向けると、そのまま――
「ウワァァァァァァァァァ………!」
私の胸に顔を埋めて泣き出してしまったのです。
私がそのまま『彼女』を抱き締めていくと、『彼女』の記憶がそのまま、私の頭に流れ込んで来ました。
「………成程ですわね」
同時に納得がいきました。彼女が、どうして戦いを止められなかったか。
今現在転がっている死に体の『彼女』。あれは元々『彼女』と一つの存在――寧ろそちらが本体だったのです。それを――。
『戦わなければ殺す。言うこと聞くならば可愛がってやる。それ以外の知能はいらない』

私が窒息させている男二人が拐い、俄仕込みの強引な誓約を乾燥材の山を用いて脅しながら実行。素質のない二人の誓約は、当然不完全なまま成立してしまい、『誓約に縛られた彼女』と『誓約に縛られない彼女』に分裂。さらに後者は、無理な誓約で傷付いてしまったのです。
泣いていたのは、誓約と本心の相克。その所為で『彼女』達は、存在消滅の危機に瀕していました。
ならば――。

「――誓約が不完全なのが幸いしましたね。痛みがなく終りそうです」

私は、誓約の象徴である腕輪を、硬化させた体で貫き、消滅させました。

瞬間――。

『!!!!』


突然『彼女』達の体が発光し、私に伝わる肌の感触が減っていったのです。肌が――光に変化していき、私の体をすり抜けていきます。そのまま、倒れている『彼女』の光の方へと集まっていき――!

ひときわ強く輝くと、そこには一人の『彼女』が、すやすやと安らかな寝息を立てていました。

「……………」
その寝顔を眺めながら、私は彼女の核から、意識を出しました。奪った体積分の体を分裂させ、そこに彼女の核を置いたまま………。


「カレン………」
カレンの亡骸の前で、私は一人立ち尽くしていました。男二人は既に酸欠で意識を失っていたので、私の体を外した、その後で。
溢れだした血は既に乾き、倉庫の中に赤い巨大な染みを作っていました。撃ち抜かれた場所からは、幽かに向こうの景色が見えています。
心臓貫通。銃口から発射された瞬間の熱によって皮膚は変質。そして、最低でもこの場所まで30分はかかるであろう救急車。
――考えれば考えるほどに、助けることなど出来なかった、と理解は出来てしまいます。しかし――。


「カレン……………」


守れなかった。
私の最愛の娘を。
あの時、意地でも手放さなければ………。
あの時、主人であるカレンのお父様に歯向かっていれば――。


抱き締めたとき、私の中に埋めてしまえば――!


「――!」
何て事を考えているの!私!しっかりしなさい!埋めてどうなるの!スライムの本能を抑えなさい私!
「…………」
…………。
私の目の前で、カレンはその命を散らしてしまいました。私が出来たのは、その犯人に対する復讐だけ。
守ってあげることが、できなかった――。
私は、無力です――。


「……………ぁぁぁぁぁぁあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」


次第に温もりが消えていく物言わぬ屍に、私はただ抱きついて、涙を流していました………。



トクン………

「――え?」
突然私の肌に、信じられない衝撃が伝わってきました。


鼓動。
私のものでなく、もっと若々しく、力強い――。

トクン………

「――!」
それは音だけでなく、確かな感触として、私の手に、体にその存在を伝えてきます!

トクン………トクン………

顔を離してカレンの胸を確認しますと、確かに胸が上下していました。しかも、それだけではありません!

「傷が………塞がって――」

信じられないことに、銃弾によって穿たれた穴が完全に塞がってしまっていたのです。まるで、元々何もされていなかったかのように――。

トクン…………トクン…………トクン…………

鼓動が高鳴る度に、カレンの体が熱を取り戻していきます


そして――!



「………んん………」



幽かにカレンの瞼が震えたかと思うと――開いたのです!



「――ッ!!!!!!!!!!!!!!」
私は、自分の瞳が信じられませんでした。
カレンは――まるでイエス・キリストの如く蘇ったのです!
「!………ぅゎぁぁぁぁぁぁああああああああああああんっ!」
私は大人げもなく泣きながら、カレンに抱きつき――


「「――へ?」」



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ゆらゆら――。


ここ、どこだろう――。


何か、あったかい――。


ずっと、ここにいても――。


……あれは、何だろう――?


光――?


何でだろう――。


あそこに行かなきゃいけない気がする――。



………行かなくちゃ。



「………んん………」
私が重い瞼を何とか押し上げると、そこには、蒼い瞳に涙を一杯浮かべて、私を見つめるアミュスの顔があった。
――あれ?アミュス、何でここにいるの――?
そんな疑問を頭に浮かべる間も無く、アミュスは私に抱きついてきた。
私もアミュスを抱こうとして――。


「「――へ?」」


腕がうまく動かない事に――腕だけじゃなかった。
私の体は、顔ぐらいしか自分で動かせなくなっていた。しかも、動かせない場所は何かぞわぞわした感覚があって、どこかもどかしい。
私が視点をアミュスに戻すと、アミュスは……えぇと、何て言ったらいいんだろう…………嬉しいのか困ったのか分からない表情をしていた。
………何が起こっているの?



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私が感じたカレンの肌の感覚は、今まで感じていた人間特有のそれではなくて、寧ろ――私たちのような感触でした。そういえば、どことなく瞳も蒼かったような。
――まさか、まさかまさかまさかまさか。

私の直感は当たりました。

次第に、左胸からカレンの肌の色が変化していきます。肌色から、クリアブルーへ。同時に、変化した場所から衣服が溶け始めていきます。それは段々の足の方に近付いていって――。
カレンの足は一つにくっつき、やがてワイングラス状に広がっていきました。
顔の変化は一瞬でした。首が透き通ったと思った瞬間、髪も含めて全てが蒼く染まっていたのです。


こうなったのには心辺りがありました。
カレンが赤ん坊の頃に、私が与えたミルク。それが原因で遺伝子の中にスライムのそれが入り込んだこと。
今私の中にいるスライム。それが恐らくカレンの体内にスライムが残るような何かをしたであろうこと。
そして――文字通り引金を引く行為。
死を迎えそうな重症を負ったカレンの体を、体内のスライム分が入れ替わることで生き長らえさせようとして――結果として、全身がスライムに置換することになったのでした。


分かってしまいました。
今、カレンは、まさしく私の娘になってしまったのだと………。



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「…………成程ね」
半液状となった自分の腕をしげしげと眺めながら、私はアミュスの心底申し訳なさそうな説明を耳にしていた。
「つまり、私はもう人間じゃない、そういうわけね」
かなり衝撃的な事実なんだけど、それでも全く心に響く感じがしないのは、多分私が一度死んでしまったからだろうな。
あの時に、人間としての私の部分が消え、人間だった頃の記憶と、スライムとしての自分が残ったんだろう。
「本当にごめんなさい………」
目が覚めて既に数十回目のごめんなさいを、アミュスは私に言う。その度に私は気にしてないよ、不可抗力だって、と返してる。
だって――なってしまった以上はしょうがないから。
「それより――」
そんな事より、私は気にしなければいけないことがある。
「私はジグリーさんの所に行かなきゃならないけど、服とか、どうしよう………」
まず一つ。誘拐されたこと、スライムになったことで、私のよそ行きの服が完全に駄目になってしまったことだ。これでは外にも出られない。
次に――アミュスの後ろにいるミーアの存在。
「どうするの?アミュス」
その質問には、アミュスがあっさり答えてくれた。
「大丈夫ですよ。そういう機関がありますから。そちらに預けることを彼女も承知してくれましたから」
その後ろでは、これまた申し訳なさそうな顔をしたミーアが、おずおずとこちらを眺めている。何か可愛いと思えてしまうのは、変わっちゃったからなのかな?
アミュスはそれに、一番目の事も心配ないって言っていた。つまり………代えの服が有るってこと………なのかな?
「服の擬態の仕方を、人間へのなり方の後すぐに教えますから」
「………え!?……あ」
そっか………そもそも体の方をどうにかしなきゃならないんだった………。
「そして、第三の懸念も大丈夫です」
「………え?」
第三の懸念?そんなもの、あったっけ………?
………って何で忘れるのよ私!犯人の男二人をどうするかって大切なこと!
あ、でも大丈夫って………何する気なのかしら………。
「そろそろ来る頃だから――カレン?」
「はい?」
アミュスはどこかにこやかに微笑みながら――ってあれ?いつの間に着替えたの?しかも巨大な篭持ってるし。というより後ろにいたミーアはどこ――。
「ちょっと私の中に入ってて下さいな」
言うが早いか、私の体をそのままスライム化した手で包み込んで――。


………あれ?
私はどこ?蒼い世界に一人浮かんでいる感じがするんだけど………。
ん、でも、何か、懐かしいような。


『アミュス・ネージュの、体内』


うわっ!
『ミーア!?』
一人でいた筈なのに、いつの間に隣に彼女が!?
『うん。アミュス、ニンゲンと大事な会話、これから、する。だから、私達、安全な場所隠れた方が、いい』
うぅっ、元人間だっただけに少し心がちくちくする………。
『アミュスの中、安全。声、出さない限りは』
ミーアはそう一言言うと、そのまま大きく伸びを始めた。
――え?あ。
そう言えば、今の会話で私、一回も口を開いていないや。何だか、随分あっさり順応している私がいるなぁ………。
「…………」
アミュスの会話が聞けないのが辛いや………。



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「――魔法生物誓約法違反、洗脳罪、対象の無断魔族化及びその他多数のの細かい罪状………どんだけですか〜この犯人。ま、こんだけあれば最早言い逃れは出来ませんでしょうが」
「お手数おかけします。冥府執行官クェル」
私のようなスライムや、その他妖精が人間社会において職を得る時、魔界に精通する人間ないし親人的で人化可能なな魔物が、ペアで同じ職に付くことが法で決まっています。クェルはその前者だったのです。
「いや〜私もこうなるとは思っていませんでしたよ。まさかアミュスのスライムがこの年までお嬢様の体に残っているとは」
特徴的な、多少抜けた話し方で私に話すクェル。それは数時間前、メイド長とその部下と言う関係の時と寸分違いません。とはいえ、ここでは観察対象と観察者。完全に立場は逆転していますが。
「――私の処分は」
図らずとはいえ、カレンをスライム化させてしまった原因は私にもあります。その事を聞いたところ、彼女は笑いながら否定しました。
「またまたぁ。罪は基本的に彼等にしかありませんよ。貴女の罪は、不正誓約解除と捕縛、この二つで既にお釣りが出るほど相殺されてますから」
そう言って、手帳に何か書き込むと、持ってきた袋を置き去りにしたままで、彼女は猛スピードで倉庫を出ていきました。
「では、私はもう一仕事ありますから〜」
ドップラー効果を伴いながら、その声は倉庫内に反響し続けました………。
………さて。
私は体の中に響かせました。


「もう出しますよ」



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『もう出しますよ』
え!?いや、その、あと、随分いきなりですねってあぁあぁ何かに引きずられて――!


ぱぁんっ!


「………ん………あれ?」
生きてる?いきなり撹拌されて目を回したところに吸い込まれてこの場所へ、なんだけど………。


私の体は、アミュスのバスケットの中に入っていた。


「…………」
人間一人分の体積のバスケットって、どれだけデカイ物を持ってきたのよ……アミュス。


………でも、まぁいいや。それよりも今は………。


「早いとこ、人間に変われるようにしましょう。アミュス。やり方を教えてもらえる?」



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彼女は屋敷の中の構図を、入る前に既に情報を仕入れていた。だからおおよそのターゲットの位置は既に知っていた。あとはそれを手に入れ、奴らに手渡すだけ。
彼女の思った通り、警備システムを封じれば盗むのは容易かった。予定では、あと数分で指定された車は来る。そしたら――。

「可愛い可愛いコウモリさん。その皮矧いであげましょうか」

「!」
彼女は慌てた。誰かいる!娘の屋敷にいるのは私とウィルケット二人だけの筈!誰だ!誰がいるんだ!

「――よくもまぁこんな手の込んだ犯行を考え付きますよ。要人の娘を誘拐させ、声だけ複製して殺害。その一方で要人に睡眠薬を飲ませ、貴金属類と、私的書類、そしてそれを含めたスキャンダルの火種をありたけ盗んで受け渡す」

そんな彼女の様子を知ってか知らずか、犯行の過程をスラスラと口に出す声。彼女は銃を取り出し、虚空に向けた。
「誰だ!出てこい!」
その声は、誰が聞いても明らかに上擦っている。

「目が覚めた頃合いを見計らって、身代金を請求。思考力の落ちた寝起き状態で明らかに短い期限をつければ、どんな相手でもパニックになる。もし相手が娘の安否を確認するのなら、コピーさせた音声で演技させればいい――」

「どこだっ!出てこい!」
最早半狂乱となってあちこちに銃を向ける彼女。それに構うことなく、声は話を続けた。


「身代金を奪い終えた後、別のタカリ屋にスキャンダルを売り渡してタカらせる算段だったんでしょ〜?――教師ジェラ、いいえ、クレデクス・クロース?」


彼女――クロースはその瞬間、自らの目の前に突如として女が現れたのに気付いた。かと思うと次の瞬間――!

ドゴォッ!

「か、かは、ぁ………」

鈍い音と共に、クロースの意識は闇に堕ちていった………。

「………っふ〜。これにて一見落着ですね」
クェルは、クロースに手錠をかけると、そのまま自分の車の中に投げ入れ、どこかへと去っていった…………。



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『続いてのニュースです。
昨夜、貿易会社ラピッツ副社長ジグリー・ウィルケットの長女カレン・ウィルケット(17)が、誘拐犯グループにより誘拐、殺害されそうになったところを救出されました。奇跡的にカレン氏には怪我はなく、現在は精神的カウンセリングを受けているといいます。
警察は、誘拐グループの三人を、窃盗、誘拐、殺人未遂の疑いで逮捕――』


あの後、クェルさんの車に乗せられてジグリーさんの家に着いた私達は、これまでの経緯を説明した。
ジグリーさんは、その話を聞き終えると、ゆっくりと私に近付いて、そして涙を流しながら「済まなかった………」と一言私に謝った。ノースさんは、ただひたすらに私を抱き締めてくれたけど、どうにも自分を落ち着けるためにやっているようにしか、私には感じられなかった。
そして私は今何をしているかと言うと――。


「はい。P.17〜29をやりますからね」
「は〜い」
雇っていた教師が誘拐犯の一味で、しかも本物のジェラですらなかった事を知ったジグリーさんに、クェルさんが耳打ちしたのだ。「アミュスはジェラの教育を受けた」って。それを聞いたジグリーさんは、そのまま私の家庭教師として、アミュスを再び雇い入れたのだ。
雇われることが決まった時のアミュスの喜びようは、今でも忘れられない。だって、危うく混ざっちゃいそうだったしね。ふふっ。


「カレン?今は授業に集中しなさいよ」
「あ!ごめん!」
「ごめんなさい、ですよ。気を付けなさいね」
「は〜い。ごめんなさい」



これからもヨロシクね。
私の大切な'お母さん'。



fin.




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