電車に揺られて二時間。次々と移り変わる景色を眺めながら、私――アミュス・ネージュは手帳に思うままに言葉を書き連ねていました。
『心の内を書き記すことは、自らの心情を知る手段の一つです。感情が生まれた以上、それに振り回されることも数多くあります。ですので、自分を落ち着いて見る事が出来るのは、いつでも平常心でいられるようにするための一つの手段なのですよ』
ジェラ先生が教えていただいた事を、今でも律儀に行っている……というより、その頃に癖が付いてしまったといいますか。気付けば手帳一杯に感情が書かれていたりすることもあって……。
「……ふぅ」
手帳を閉じて、読みかけの文庫本を取り出す私。当分……駅に付く事はないでしょうから。何せ――都会の一等地にあるラピッツ本社から相当離れた場所に目的地は所在しています。
「先生……」
町外れに位置する、魔物研究家の家。それが今の先生の所在地です。そして私アミュスは、先生に自らの近況等を伝えるために、久々に先生の元へと足を進めているのでした。

――――――――――――――

「ねぇ……お母さん、お母さんは田舎に帰ったりしないの?」
先日発生した事件と、そこで行った取引等に対する必要書類をまとめ終わったカレンは、お茶を淹れた私に向けて、突然聞いてきたのでした。
「え……」
田舎……と言われましても、私に田舎なんて、等と考えていますと、そういえば久しく先生の所へ顔を見せていない自分がいることに思い当たりました。手紙こそ交わしているものの、実際に先生の元に参じた事は……ネージュの姓を頂いて以来ですから――ざっと二十数年は顔を合わせていません。そう言えば、先生の元に帰ろうとした契約解消日、あの手紙を見て取り止めて、そのままカレンの家庭教師として雇われていましたから、実際行く機会を殆んど無くしていたと言うか何と言うか……。
そんな私に、カレンは一枚の紙を差し出してきました。それは電車のチケット。行き先は――ジセン駅。指定日は、来る七連休の初日。丁度カレンの仕事がなくなる日です。
「暫くジェラさんに会っていないんでしょ?この前の一件でアミュス、すっごくそわそわしていたじゃない」
この前の一件とは、ラピッツ本社に程近い街で起こったスライム大量発生事件でした。魔物か人間か、むしろ魔物なら最高などと考えた稀有な――まぁそう表現せざるを得ないでしょうが――人達が、『はぐれ』のスライム達に取り込まれ転生して増殖していったと言いますか……そのせいで町の一部が大破し、コアになっていたスライムの出したチャームスメルが建物に染み込んだりして、一時その地域は大混乱に陥りました。
警察官の不手際のせいで事件はさらに拡大するかに見えましたが、たまたま町を訪れていた先生が一挙に解決してしまったという報告を耳にしたときには、思わず街に先生の姿を探しに行こうとしてしまったり……カレンに押さえられましたが。流石に仕事中でしたし。
そんなわけで、あの日以来ジェラ先生に顔見せしたいという思いはあったわけでした。その後も多少そわそわしていたのかもしれません。尤も、普段から一緒にいるどころか、種族としても繋がってしまっているカレンには明らかに挙動不審に見えたのでしょう。
「だから……たまには親孝行しなくちゃな、って思って、ね。大丈夫。ジェラさんとは話をつけてあるわ」
思わず見ている私の頬が綻んでしまいそうな笑顔を向けながら、カレンはチケットを揺らしていました。

――――――――――――――

『休みの間、ゆっくり過ごしていってね!』
……俗世間に少し毒されているきらいもありますが、カレンもあの事件から、随分と成長しました。親離れ子離れの時期なのかもしれませんね……としみじみ考えながら、私はページを捲っていきます。
『The Next Step Is……』
「……あら?」
いつの間に目的駅直前に?そう時計を見つめ直してみると、確かに目的地到着時刻直前の時を針は指していました。
どうやら、小説に集中して、時を忘れてしまっていたようです。こんな現象を『キング・クリムゾン』と世間では言うらしいですが、誰も言っているのを聞いたことがないのは何故でしょうか……。
……そんな事よりも、電車から降りる準備をしなくては。私は、読みかけの文庫本に栞を挟んで閉じ、手提げ鞄に入れる(流石に体内収納はまだ無理です)と、お土産の品物を入れたバックを手に持って、ドア付近まで歩きを進ませました。

――――――――――――――

ジセン街……それはこの世界の学者にとって憧れの地です。日進月歩、魔学と機械工学を主軸に研究が進んでおり、この街で研究に一年携わるだけで、様々な企業から技術顧問として声がかかる事としても有名です。現に私の愛車であるRX-73 Liquid Model(あの一件の時に乗っていた単車です)も、車体の振動を抑える構造を開発したのはこの街の研究員でした。
「……ふぅ」
さて、先生の家は……と、地図を取り出して確認してみますと、駅からやはりそれなりに離れた位置にありました。この距離は歩いていくのは……流石に骨です。
かと言って、先生にお手数を掛けさせるわけにもいきません。
「……仕方ありませんね」
観念したように、私は財布の中身を確認して、タクシーを呼ぶことにしました。

「この辺りにお願いします」
住所を運転手の方に知らせたところ、運転手は多少怪訝そうな目で私を見つめてきます。どうしたのでしょうか?
「……あの変人の所かい?」
「……あら?変人といいますと……?」
十中十先生が仕えている家主の事ではあると思いますが、一応尋ねてみますと、運転手はため息がちに呟きました。
「……あの変人はな、スライムって魔族の種族特性や特徴、生態について研究してるんだとよ。研究者としての腕は悪くないってもっぱらの評判だ。現に既に幾つかの発明品の稼働原理を理論化して発表したしな。そのときに稼いだ金うち三割くらいは不要だとか言って研究員に返納。その後町外れに一割ほど使って研究ラボを建設。生活費と研究費が残りの六割らしい。
全く、酔狂だよな……あんなもの、只の細胞の集合体が魔力によって仮初めの命を得たもんだって既に研究され尽くしてんじゃねぇか……」
……まぁ、確かに運転手の指摘も間違ってはいません。体を形成するのは細胞と魔力、スライムの弱点は細胞を壊死させる炎と氷、そして魔力を奪う吸収魔法ですから。しかも研究対象となるのは死んだスライムか、あるいは魔力の低さに知力を持てなかったスライムだけ。死んだスライムは細胞だけ残り、生きたスライムは魔力で体を作る。なのでそんな研究理論が成立しても仕方なかったりします。
私はあえて、自分がスライムであることは言わないでおきました。言う必要もないですし……冗談にしかとられないか――あるいは恐れられるかですしね。
常識を崩すのは、いつだって崩そうとする異端者。崩れた常識は、長い年月を掛けて異端も取り込むように再構築されていきます。……異端として扱われるか、常識となるかはその後の証明研究次第ですが。
私からは何も話すこと無く、運転手はひたすら愚痴を垂れ流します。
「……そりゃあいつらのお陰で生活が良くなってんのは分かる。解るがあいつらのあの態度は何とかなんねぇのか。いかにも『俺達が時代の最先端だ』とでも言わんばかりに冷たい目で俺達を見やがって……まぁそんな奴ばっかじゃねぇのがまだ救いだがな」
自らの実力を過大評価する人間は、どこの世界にもいるようです。魔獣(とこの世界で分類されるもの)使役の術士に関してもそれは同様の事だと、先生は常々仰っていました。
『過信は滅亡に繋がります。謙虚さが仕える上だけでなく、あらゆる場面や行為には必要です』
全てに於いて完璧と名高い先生でさえ、何事にも謙虚に望むよう心掛けているのですから。私にそう言って聞かせたのは、ともすれば他者を見下してしまいかねない力を持っている先生自身を戒めるための行動であったのかもしれません。
「……っと、到着だ」
メーターに表示された金額通りの金銭を渡すと、私は荷物を両手に、すっとタクシーから降りました。
「有り難うございました」
――お礼の言葉を忘れずに。

「……さて、と」
電車に乗る前に、私が先生に告げた時刻。それが腕時計にきっちり現れていました。
視線を移すと、目の前にはインターホン。さらに移すと、研究室らしき建物……そこまで大規模ではなさそうですが、私が都会では見たことはないような設備が見えます。何をするんでしょうか?沢山の筒状のものが壁に接着されているようですが……?
「――あれは高濃度エーテル保管容器。研究で使う魔法器具の維持、及び建物に使う魔法障壁のためのエーテルを保管する場所だよ」
「そうなんですか……

……!?」

いつの間に、私の後ろには白衣を着た、無精髭一つ無い艶々の顔をした、おおよそ二十代後半くらいの男が立っていました。その手に握られているものは、ゴムで栓のされた試験管でしょうか。
その男は驚いた顔をしているであろう私をキョトンと見つめた後、合点がいったように手を打ち合わせると、ごめんごめんと頭を下げた。
「自己紹介がまだだったね。僕はプーケ=トレン。この研究所の責任者兼所長だね。君がジェラの言ってたお客様、アミュス=ネージュさんかな?」
「え……あ……はい……」
何でしょう……不思議な雰囲気を持った方です。雲で覆われた一本道……といった感じでしょうか。ふわふわしているようで、その実一本明確な筋は通っている……そんな方でした。
「遠路遥々こんな辺鄙なところまで、よくも来てくれたね。ま、立ち話も難だし、ジェラも待ってるし、荷物沢山持っているみたいだし、ジェラも待ってるし、家に入ろっか」
どこまでもマイペースなようで、それでいて相手を気遣いながらプーケ氏は私を住居の方へ手招きいたしました。
「あ……はい……」
そのまま流されるように、私はプーケ氏の家へとお邪魔することになって――。

「――お久し振りです、先生」

「久し振りですね、アミュス」
'卒業'あるいは'免許皆伝'して以来その姿を目にしたことも無かったのですが、二十数年ぶりに顔を会わせた先生は、やはり何も変わっていませんでした。ただ――私の感じ方が変化したのかもしれませんが、心なしか雰囲気が和らいだ気がします。
「先生のご活躍、お聞きいたしました。あの事件をほぼお一人で解決なさったと耳にいたしまして……」
ジェラ先生は、少し照れたように三編みにされた髪の色のように幽かに頬を火照らせながら、それでも笑顔を崩さず私に話します。
「偶々研究用のフラスコや試験管を購入するために街にいたのですよ。そしたらあのような事が起こってしまい……見知ってしまった以上放っておくわけにはいきませんから……」
いや、普通の人間やスライムなら他人の振りをしますよ、ジェラ先生。
「……ふふっ」
まぁ……らしいと言えばらしいのでしょうが。恐らく、紅茶を置いた後席を外しているプーケ氏が何やら言わなくとも、先生なら動いて解決したのかもしれません。そして、先生の'教育'を受けた私も、恐らく……。
「……そう言えば、あの事件のスライムは今何処にいらっしゃるのですか?……恐らく私の予想通りかと思われますが」
先生はふふっ、と微笑んで紅茶を一杯口にしました。その行為すら、教則本に載せても何ら違和感の無い、寧ろ載せるべきだと思われるほどにどこまでも洗礼されていました。
カップから口を離し、お皿の上に置いたジェラ先生は、利き手である右手をお腹の上に置きました。
「……メイド'虎の穴'ですか……」
予想通りと言えばそれまでですが。私が鍛えられた、ジェラ先生の胎内レッスン。わりと厳しい、愛の鞭がどこまでも飛んでくるような場所。私もどれだけ胎内で失敗したことか……その度に愛の鞭と罰とが入れ替わり立ち替わり襲い掛かってきましたし。下手をしたらマゾになっていたかもしれません……今となってはあの扱きは有り難いと思いますが。カレンの教育にも流用できるアイデアが幾つもありましたし。現に幾つか使わせてもらいましたし。
私は内心、ジェラ先生の中にいるスライム達に同情していました。これからどんな手解きを受けるのやら……と。痛いだけじゃなくて、気持ち良い鞭も揃っていますからね……。
「それはそうと」
今度はジェラ先生から話し始める番でした。遠い日に思いを馳せていた私は、先生の声に思わず反射的に背筋を伸ばします。(案外、スライムはこの行為が苦手だったりもするのですが、先生の長年の指導で身に付いてしまったり)。
高僧の教えを乞うお坊さんのような私の姿勢に、先生は思わず「あらあら……」と漏らしていらっしゃいました。
「アミュス、そんなに畏まらなくてもいいんですよ。別に貴女にお説教をしようなんてつゆも考えてはいないのですから」
「……あ、済みません……では、お言葉に甘えて……」
そんなにガヂゴヂに見えたのでしょうか……私もまだまだ未熟ですね。
肩の力を少し抜いて先生をテーブル越しに見据える私に、先生はにこやかに告げました。
「今更ですけど、面と向かって言わせてもらいます。
――首席合格おめでとう。ジグリー様からも聞きましたよ。冥府執行官試験首席合格は、ここを卒業したメイド達の中では、貴女が四人目です」
実はカレンの家庭教師と平行して、私は冥府執行官の試験を勉強していたのでした。カレンと……娘と一緒にいるために。
通常、冥府執行官の合格証書は、試験受験者の保護者の元に届きます。私の場合、本来ならばクライアントであるジグリー=ウィルケット様の元へ。その際、事件のお詫びも込めて、ジグリー様が先生に封書でお伝えなさったそうです。
通知と同時に先生から手紙を頂いた時は……正直、嬉しくて泣いてしまいました。ともあれ、この資格があるお陰で、私はカレンに『教える』立場として正式に『側にいられる』事となったわけです。
クェルからもお手紙を頂きましたっけ……。
「ありがとうございます。これも、先生の教えあっての事です」
心からの笑顔で答え、紅茶を一口。先生の手解きを受けたのかもしれませんが、プーケ様の紅茶は、中々に味がいい……。
「カレンも、機会があれば一度先生にお目にかかりたい、と言ってましたよ」
でも、今回は一緒に行こうとは言ってきませんでした。恐らく、気を利かせたのかもしれません。師弟水入らずの時間を、邪魔したらまずい、という風に考えて。
先生は、やや嬉しそうに三編みをふるふるさせています。殆んど人前で感情を見せないと言われる先生ですが、案外スライムの前では見せていたりするのです。まぁ……長く一緒にいた自分だから分かる部分も無きにしもあらずですが。
「でしたら、空いている日程があればこちらにいらして下さい、私は貴女をいつでも歓迎しますよ、と伝えていただけますか?」
「プーケ様の都合は?」
先生の発言だと、プーケ様の事は心配ないように聞こえるのですが……?
「今の研究が'スライム族について'ですから。人間であったカレンさんの話は色々と興味深そうですし、少なくともご主人様から彼女の来訪を断る理由は無いですよ。寧ろカレンさんにいらして欲しいと考える筈では」
それはそれで別の問題もありそうですが、先生がいれば問題はないでしょう……と、思いたいです……はい。
心配はありますが、機会があればカレンを連れてこちらにまた伺うことを心に決めました。
「では、そう伝えさせていただきますね」

プーケ様が二回目の紅茶を淹れて、また出ていきます。長い間お会いしていなかった分の対話を埋めるには、一時間やそこらの会話で埋まる筈もありませんから。
「……この紅茶……トワイライトブルームですか」
「ええ。私のお気に入りですから」
確かに……紅茶の作法の時はずっと同じ紅茶だった気がします。普通の紅茶よりも若干風味が消し飛びやすいですが、その分あっさりとした甘味と微かな渋味が体全体に染み渡るので好きと、以前先生は仰ってた気が。尤も、仕える主人に合わせて家で出す紅茶は変えているそうですが。つまりここの主人――プーケ様もこれが好きか、あるいは紅茶に興味の無い人か。
……ご主人様?
「そう言えば……前に仕えていらしたあの方は、あの後……」
あの方、と言うのはジェラ先生が前に仕えていた、先生が見掛けた時死にかけていた少年、アルク=タゴール様の事です。事を終えた先生が去った後、あの方はどうなったのでしょうか?
紅茶を一口。いつも通りの笑顔で先生は返します。
「ええ。無事転生は終了して、今はダリア・オリンピア学園で教師をなさっていますわ。時おりアトモス大学の方でも臨時講師をされているそうで、中々分かりやすいと評判だそうです」
若干抑揚がなくなったのは、本当に嬉しいからでしょう。と言うより先生、三編みが幽かに踊ってますよ。
それにしても……ダリア・オリンピア学園とは、また大きな学校に勤めて……。確かに、元人間であれば体の勝手は想像つきやすいですし、先生も色々教えたでしょうからね……。
「あと本――と言うよりも教科書も共同で執筆なさっているそうで、原稿を出版社の方に何回か持ち込んでいるそうです」
……先生、何ですかその彼……ではなく彼女の妙なハイスペックは。そこまで時間は経っていないのに、もうそんな事まで……何を教えたんですか、先生。それは喜んでも仕方ないです。はい。
改めて先生の偉大さを(以下略)。

何故だかは分かりませんが、スライムは赤ワインがお好きという説が流布しているそうです。それが真実かは兎も角として、少なくともジェラ先生は好きです。尤も、昼間から浴びるように飲むとか、そのような無茶で無粋な行為はしませんが……ソムリエの資格も持ってますし、デキャンタの腕前も相当のものだったりしますし、ワインを飲むのにもそれなりの流儀をお持ちのようですし。
なので、夕食時までワインを飲むことは、当然の事ながらありませんでした。その代わり……ワインよりも濃厚で濃密な会話を、交わすことになったのです。
「……そのカレンさんについて、いいですか?」
ジェラ先生の顔からその瞬間、笑顔が消えました。真剣そのものの表情に、ある筈の無い心臓が脈を速め始めます。
「……はい」
いつか……誰かに訊かれるとは思っていました。カレン……ウィルケット家の一人娘『だった』彼女を、図らずもスライム族に変えてしまったことを。内心、安堵している自分もいましたが、構成する心理の大半は――懺悔でした。裁判官による審判を待つ咎人が、心底自らの罪を悔いるような感情。
「……スライムになってしまった、その過程の一部始終を、教えてもらえますか?」
責めたりするのではなく、ただ単に事実を確認する事を目的とした一言。それに応えるように、私は今までの事を洗いざらい話しました。手紙で以前伝えた事も含めて、全てを。

今でも、あの衝撃は記憶に残っています。倉庫の戸を開けるのと同時に、乾いた破裂音。
破裂音。
何が破裂したのですか?
どうしてカレンは倒れているのですか??
カレンの胸に向けられた、黒い筒は何ですか???
時間は遅く、ただ遅く過ぎていき、次第に冷えてゆく私の心。激情は、度を超すと激情そのものを冷やして、凍りつかせていきます。もし私の堪忍袋というものが存在したとしたら、恐らくはその瞬間に切断されたのだと思います。
犯人に……いや、間に合わず、どうすることも出来なかった自分に怒りを覚えていました。
結果として、母乳の中に混入したスライム分や、ミーアの体が体内に残っていたことで、それらがカレンをスライムに変え、命を救いました。一番避けなければならない事態が、一番避けようのなかった事態を救う手段となったのは、皮肉としか言いようがありません。

「――というわけです」
私が言い終えた後、先生は黙って考えているようでした。私は自分がうまく話せた自信はありませんでした。恐らく、断片的な話を繋ぎ合わせているのでしょう。
「……」
やがて、先生が顔を上げ、最初に呟いた一言は――。

「……それで、アミュス=ネージュ。貴女はその事をどう考えているのですか?」

「……」
今度は先生の話を私が聞く番です。先生は私をしっかりと見据えながら、続けました。
「アミュス=ネージュ。貴女は、図らずもカレン=ウィルケットという人間を――それも貴女を慕う人間を同族化させる切っ掛けの一つを作ってしまいました。その事に対して、貴女はどう考えているのですか?」
先生の一言一言が、私の中に重くのし掛かってきます。同時に、深く沈んだそれらが、私の本心を浮かび上がらせていきます。
気付けば私は――私の心のままに、先生に返答しておりました。

「――他に救う方法がなかったのかと、自らの無力を恥じております。たとえ、本能が安堵と喜びを伝えても、カレンが生き返った事が嬉しいと思ったことが事実でも、それは変わりません」

乳を与えていたあの時、スライムを含めないような飲ませ方をすれば――。
遺伝子に組み込まれたのを知った時、その遺伝子を休眠させて淘汰させれば――。
うろの中で、二人一緒に逃げてしまえば――。
手紙に気付くのが、もう少し早ければ――。
単車を、もう少し速めれば――。

――カレンは、死なずに済んだかもしれないのに。

「……」
先生は、黙って私を見つめていました。まるで私の言葉の裏、心の内までも見透かそうとしているように。そしてそのまま立ち上がると――あれ?何で私の方に近付い
ばふっ
「――!」
新鮮な布の香りがする、先生のメイド服。先生が丁寧に洗われているだけあって、肌触りも作られたときのままに近い感触を維持しています。その向こうに感じる二つの膨らみは、作業に邪魔にならない程度の大きさに調節されていながらも、確かな柔らかさをもって私の顔を受け止めます。
そのまま先生は、私を優しく抱き締めるように、両手をゆっくりと私の背中に回していきます。
とくん……とくん……
先生の脈が、私の顔から直に伝わってきます。それはまるで私を包容するように、暖かい響きを体に伝播させていって――。

「……貴女は、いつも懸命でしたよね」

――え?
先生……今、何と仰いました?
確認しようと見上げようとする私の頭を、先生は静かに撫でていきます。まるで親が子供にするような、柔らかく優しい手つきで。
「――初めて会った時も、感情と理性で千千に心を乱しながらも、自分を保とうと懸命になっていましたよね。私の中で修行を受けていた時も、素直に、技術を吸収しようと懸命に頑張っていましたよね。そして今は――カレンのためにと懸命に頑張っている。
そんな貴女――アミュス=ネージュだからこそ、自分が起こした失敗を、それも取り返しのつかないようなそれを必要以上に気にし、自分を必要以上に責めてしまうのも良く解ります。

だからこそ――自分を許してあげたらどうですか?」

「――!!!!」
自分を……赦す?どうしてそのような事を――?
混乱する私に、先生は続けます。
「実はカレンさんから手紙の受け渡しと言伝てを頼まれていましてね。私の家にアミュス=ネージュが泊まる許可いただきたいという手紙に、このような手紙がついていたんですよ」
そのままジェラ先生は体内に仕舞ってあったカレンからの手紙を取り出して、私の前で開き始めました。魔法によるコーティング加工をしているのでしょう。取り出したとき付着した粘液が、テーブルに置いた瞬間に引いていきました。
「………」
手紙に手を出すべきか――そんな問いは意味がありません。何故なら……問いが出る以前に私はその手紙を手にとっていたからです。
開かれた手紙、そこに書かれていた文字は、間違いなくカレンの文字でした。

『アミュスお母さんへ。
こんな回りくどい方法をとってごめんなさい。でも、きっと私の口から言ったら、お母さんは無理して誤魔化すと思うんだ。
お母さんは、あの日私がスライムになってしまったことを――ううん、自分の罪だと思っていると思うの。殺されて生まれ変わらせてしまった事まで、何とか出来なかったのか、なんて考えていると思うんだ』
その通りでした。悟らせまいとしていたカレンに看破される程、露骨だったのかもしれません。
『アミュスって、知られたくない事が多い時ほど慎重になりすぎるから、語りたくないことがあるって、はっきりと分かっちゃうんだよね。で……この場合は理由は簡単。昨日の今日と言っていいほど、最近の話だもんね。……さすがに数年前は最近って言わないかな?』
あの事件から、数えてもう三・四年経ちました。その間にカレンは一般的な学業や商業のイロハ、そして様々な教養を学び、社会を知りながら――今では立派な社会人として活動しています。私とは違って、ずっと前を向いていました。私とは反対に。
時の流れを感じて、少しもの寂しくなった私は、次の一文で――、
『兎に角、そんなずっと負い目とか感じられても、私は困るよ。だって――』

『――ありがとう、って、言えないじゃん』
周りの音が遠退いていく感覚を覚えました。

「――!?」
ありがとう……?私に?そんな事を言われる資格なんて、私には……。
だって、私はカレンに……娘に、何もしてあげられなかった。助けてあげられなかった。それどころか……私は、あの娘に手をかけるような事を――。
「続きを読みなさい、アミュス。否定するのは簡単ですが、否定ばかりでは先はありませんよ」
先生の声を無思考で捉えた私の頭は、目線を続きの部分に移しました。
『だって、私をここまで育ててくれて、愛情をたっぷり注いでくれて、大切に思ってくれて……仕事だからとか、母親だからとか、そんな事じゃなくて、ただその事が嬉しかったの。口で言うのも気恥ずかしいから、結局こんな形になっちゃったけど……。
アミュス……ううん、お母さんは自分でいろいろ抱え込みすぎだと思うよ。万能と言われるジェラさんに近付きたいとも思ってるかもしれないけど、私はそんなお母さんを見ているのは辛いんだ』
私が、カレンに苦しい思いをさせていたのですか……?私が思い悩んで、苦しんでいると言う事実が、側にいたカレンを……。
『多分お母さんは、誰かに甘える、って事をあまりしたことが無いんじゃないかって思うの。ジェラさんのところの訓練がどんなものだったのかは分からないけど、【他人に甘える】なんて訓練、ある筈無いしね。だって……本来学ぶものじゃないし』
誰かに……甘える……。
私の頭は、いつの間にかカレンの書いた言葉を反復していました。甘えること、そういえば私は、カレンにあの木のうろの中でした行為と、翌日の誕生日会以外にした事が無かったような……。ジェラ先生に甘えることもありませんでしたし、甘える対象でもありませんし、何より……甘える余裕なんてありませんでしたから……。
『アミュスはいつも一生懸命なんだよね。一生懸命働いて、一生懸命心配して、一生懸命愛して……。誰かのために一生懸命になれるのはとても素晴らしいことだし、素敵なことだとは思うの』
一生懸命、先生も私の事をそう評していました。何事も真っ直ぐに、素直に、失敗の無いように徹底してやろうと、意識的にも無意識的にも行っている姿がそう見えたのでしょうか……。
手紙のそこかしこに、私を労ろうとするカレンの心遣いが見てとれました。同時に、私が思い悩むことはないとも、繰り返し繰り返し伝わってきました。
こんなに心配させて……などと自分を戒めたい気持ちになりかけた私は――。

次の一節で――。

『でも、でもね……。
お母さん。甘えて……いいんだよ。苦しかったり、耐えられなかったら、甘えてもいいんだよ。気を遣わないで、負い目なんか考えないで、一人で全部背負い込もうとしないで……誰かに甘えていいんだよ。
もちろん私にも……ううん、一度は、私に甘えて?』

「――!」
カレンの手紙は、この先は私に向けてのメッセージではなかったのですが、もし私へのそれであったとしたら、恐らく私は読むことが出来なかったでしょう。
甘えていいよ、背負い込まないで。その言葉は、直線的で、だからこそ私の心を捉え、深く突き刺します。コアを直接触れられたように、私は動けなくなりました。やがて湧き出してくる……表現しようの無い感情――。
嬉しいような、申し訳ないような、感謝と罪悪感が入り混ざった感情が私の中をぐるぐると巡ります。そのどれもが涙腺をちくりちくりと刺していき――いつの間にか、手紙の文字が滲んでいました。

「『P.S.
ジェラ様。私にとって見ず知らずの存在である貴女様に頼むのはいささか礼儀知らずと思われても仕方の無い行動かもしれません。ですが、どうかお願いします。
お母さんを……怒らないで下さい。そして……甘えさせてあげてください。私の前じゃ、お母さんは弱味を見せようとしませんから。今の私じゃ、お母さんの甘え対象にはまだなれないんです。どうか、お願いです』……だそうですよ。
――いい娘さんではありませんか。近頃では他人はおろか身近な人を気遣う、という行為すら忘れてしまう人間が増えてきているそうですから」
いつの間にか、ジェラ先生は席を立ち、私の隣に立っていました。肌触りのいい素材で織られた服、それが覆い隠す瑞々しい肌の感触が、私の服越しに伝わります。太陽の光を存分に吸っていたのでしょう。その生地はほんのり暖かく、私の首元から背中にかけて、優しい温もりが伝わってきます。
涙が伝わっていた頬に、ジェラ先生は優しく頬擦りします。私の体温を持った液体が、ジェラ先生の頬によって塗り広げられ、心地よく肌を冷やしていきます。
「スライムは全てを受け入れます。それがどんな存在であろうと、体に受け入れていくのです。アミュス、貴女はそれをした上で、それでもどうしようもなかったのか、と悩み、苦しんできたのですね。もしかしたら、人の魂を受け入れたが故に、そうした考えを保有していたのかもしれません。もしそうであるなら、人間のように、割り切って進んでいく事も、たまには必要ですよ。それが貴女を、より成長させていくのですから……」
――我慢よりも先に、体は動いていました。

「……ぁぁぁっ……あああああっ……あああああああっ!」

先生の目には、今の私はどんな顔をして映っているでしょうか。
先生の目には、今の私はどのように感じられるでしょうか。
先生をきつく抱きしめながら、私は先生のメイド服、その肩の部分に涙を流していました。心の底から溢れ出す涙。それが涸れる頃、私の心もそのまま姿を沈めていきました……。

――――――――――――――

(……ん……?)
次に瞳を開いたとき、私の視界一面に広がっていたのは……。
(……これは……先生?)
複雑に隆起した、赤い、肉と液体の中間とも思える物質で満たされている空間でした。所々、喘ぐような、溜め息のような音が聞こえるということは……。
「……先生の、中ですか……」

「ようこそ。この素晴らしき回帰空間へ」

「………」
先生……どこで覚えたんですか?その言葉。一応聞いてみましたが、先生は「……副産物です」と俯いて一言。……まぁ理解はしましたがどんな人物ですか?
それよりも……と、改めて辺りの風景を見回してみました。
膨れては萎む肉の要素が強い壁や地面。その隙間を満たす仄かにねっとりと絡み付く肉液、肉液の中を透過して拡がっていくワインのように濃い赤の気体は、肉の壁に隆起している血管のような場所から定期的に吹き出していました。
どくんっ……どくんっ……と、液体ごと空間を揺らすような重い音が響きます。これがジェラ先生のコアが打つ脈です。一つ脈打つ度に、風景を満たす液体に全身がかき混ぜられていくような独特の感覚が私の体に刺激を与えていきます。脈に同調するように時おり開く肉の壁は、向こうの存在をこちらに伝えるように喘ぎ声で語りかけてきます。
この空間に於いて、私の体は完全にスライムとなり、先生の体に溶け込んでいます。スライムの色はコアが決めるので、極端に混じり合わない限り、分離すれば元の色に戻るのです。
「先生……」
私は、コアを先生のコアに近付けていきます。私もスライムの平均よりはコアは大きいのですが、先生はその私よりもさらに大きかったです。正直、気圧されてしまいそうにもなりますが、スライムが誰かを体の中に招く、その行為の意味を考えるなら――。
「アミュス……」
先生も、コアを私の方に近付けていきます。先生が近付くにつれて、脈動が少しずつ大きくなっていきます。私が吹き飛ばされそうな重く――そして確かな衝撃。
二つの物体が、一つになるために互いに近付いてゆく、その風景は、まるで生命の誕生を思わせるようなものだと、プーケさんの知り合いである作家の方は言っていたそうです。言い得て妙、ではあります。実際、スライムの体は生命の塊のようなものです。そして――。

「「――!」」

――結合する瞬間に溢れる歓喜も、まさにそうではないでしょうか。
先生のコアに接した瞬間、膨大な量の触手が私の体の中へとその範土を拡大していきます。同時に、私のコアも先生のコアに向けて大量の触手を伸ばして、ずぶずぶと沈み込ませていきます。
「――!!!!!!!!」
叫び声をあげることすら出来ないような、強烈としか表現しようがない刺激が私の中に電流を打ち込みました。生身の人間が受ければ一瞬で廃人となってしまうほどの情報。それが体全体に一気に流入してくる感覚。情報が組み込まれた触手が、複雑にうねりながら私の奥深くまでを一気に掻き回して、結合していきます!
「――あぁはぁっ♪」
先生の方はまだ叫ぶ余裕があったのでしょう。私の情報を受け入れて繋がっていく快感を示す喘ぎ声が、ただ震えているだけの私の耳に届いていきます。
先生の体に絡み付けなくなった触手は、同じく絡み付けなくなった先生の触手へと体を伸ばしていき、そのまま巻き付いてぐにゅぐにゅと混ざり合っていきます。そうして繋がった神経は快楽を伝える媒体となって、私の中に一気に流し込んでくるようになりました。
私に刺さった触手の一部が、突然ぐぽん、と膨らみました。恐らく、先生の体液が管内に溜められたのでしょう。ですが、私にはどうすることも出来ず――同じように自らの触手に体液を注ぎ込むだけでした。
そのまま膨らみは、徐々に私へと近付いていって――!
「!!!!!!!!!!」
びゅぐん!びゅぐるぶしゅぷしゃあぶりゅりゆゅゆりゅう〜っ!
体内で触手の先端が開いたかと思うと、盛大な音を立てて私の中に先生の体液が流れ込んでいきます!同時に、体内の快楽神経が先生の触手に絡まって――!
「んはぁぁぁぁぁぁんっ♪」
先生の中にも、私の体液が流れ込んで神経が組み替えられていきました。互いに体に侵入し同化していく触手。一つの輪のように繋がった快楽神経。そして――半ば融け合っているお互いの体。もう既に二人の差は、持っている意識だけなのでしょう。その意識すら、私は吹き飛んでしまいそうなところを何とか保っていました。
ですが――!
びゅぐん!びゅぐぐんっ!
「!!!!!!!!」
体の中に差し込まれた触手が、勢い良く蠢きます!神経を直に刺激するその快感に、私はただビクビクと震えることしか出来ませんでした。その上、その刺激に反応した私の触手が先生の神経を刺激して――得られた快感が先生の体内を巡ってから、繋がった神経を通り抜けて私のところに叩きつけられるのです。そうして感じた触手がまた動いて――!
まさに螺旋……先生とは違って精神に余裕がなかった私はどうすることも出来ないまま、ただ意識を磨り減らすだけでした。
「あはぁっ♪……アミュス!大丈夫ですか!?……はんっ♪」
膨大な快感の情報を処理しながら、私の心配をする先生でしたが……既に私の体はオーバーヒートしていました。処理できる快感の量を一気に超え、しかもそれが長時間続くうち、私の意識は、もう殆ど消えかかっていたのです。
このまま……先生に……。そんな遊離した感情も沸き立ち始めていました。既に瞳は光を失い、口はだらしなく開いたままで、繋がった触手がコントロールを失ったようにびゅくびゅくと送り込んでいるだけでした。
先生に伝えようと動かした口は、ただぱくぱくと音を鳴らすだけ……。

もう、このまま消えてしまいそう……そんな考えが頭を過った瞬間――私の意識は途絶えました。

――――――――――――――

とく……とく……とく……。
(…………)
意識を取り戻したとはいえ、先程の強烈な'交わり'で気力や体力、精神力すら使い果たしてしまった私は、先生の秘所(……う〜ん、スライムが持つ秘所って、表現が微妙ですね……)から伸びた臍の緒によって、栄養と魔力が送り込まれていました。娘を見るような優しい表情で、私の髪を鋤いている先生に、私は力の入らない顔を向けることしか出来ません。
今、私は一体どんな表情を先生に向けているのでしょう……。思考は浮かべようとした瞬間に霧散します。心は何かで満たされていますが、それはただ満たされているだけで、私の心の役割を果たしません。上手く繋がらないのです……。
「ごめんなさい。加減を見誤ってしまって……」
先生はそっと、私の額にキスをすると、少し大きくした乳を私の口に差し入れてきました。舌先に――身体に染み渡っていく甘い感覚。そこに寄り集まるように、私の思考も段々と形を持ってきました。
次第に視界もはっきりとしてきて――。

「………!?」

考えてみれば凄い状況ではあります。臍からも口からもとくとくと栄養が与えられ、尚且つ自分は体を曲げているわけではない。これは……。

「……少し、体を若返らせてしまいましたね……」

少しどころではなかったりします。私の体は、今人間でいう幼児、あるいは小学生くらいにまで逆行していたのです。何をどうしたら……とは思いますが、先程の交わりで精神と体をだいぶ先生の方に明け渡していたような……。それ程までに先程の交わりは強烈でした。危うく永遠に我を忘れてしまうほどに……だからこそ、体積に準じた身体になったのでしょう。
「……しばらくそのままでいて下さい。今、貴女の体と心を返しますから……」
とく……とく……とく……どくん……。
優しく……ただひたすらに優しく、体と心が注ぎ込まれていく感覚に、私はどこかむず痒さと――暖かさを覚えていました。まるで初めて苺を口にしたときのような、甘さと酸っぱさが入り交じった感情が心の中を染めていきました。
『甘えて、いいんだよ?』
(……あぁ……カレン……)
これが、甘えるということなのですね……。依存するわけでもなく、ただ相手に一時的に自分を委ねること……。抱えたものを誰かと分けて持つこと……。
(……あぁ……)
暖かく、ゆっくり流れる幸せを感じながら、私はゆっくりと、また目を閉じていきました……。

――――――――――――――

目が醒めると、体は元に戻っていました。人間で言う臍の辺りに差し込まれた触手は既に抜かれ、服も着せられ、畳の部屋で布団に寝かされていました。
既に日付は翌日の朝。……どれだけ交わっていたんでしょうか、私達……。確か到着したのが昼過ぎで、ゆっくりと紅茶を飲みながら会話をしていたのが恐らく夕暮れ時。そこから手紙を見て――。
……まぁ考えても仕方がないことですし、起きることとしましょうか……。

「お早う御座います、先生」
「お早う御座います、アミュス」
メイド'虎の穴'で鍛えられ、生活の中で習慣と化した挨拶を交わし、朝御飯を頂きます。因みにプーケ様は既に頂いていたとか。生活費維持のための研究を行っているそうで、早めに出しとこう、とか考えているらしいです。……研究者として大丈夫なんですか?それ。
『……なお、怪盗ゼリ、なる犯人は未だ捕まっておらず、警察は目撃情報を求めて……』
「あ……これは数日前の事件ですね」
数年前……下手をしたら私が物心ついた頃から手口不明の盗みを働く怪盗ゼリ。尤も、盗むのは全て曰く付きの代物だったり、また盗む家も色々と裏があったりするのですが……。
この前も、とある美術館から『Pink Rose』という有名な宝石細工が盗み出されたのですが、実はその持ち主は、身に覚えの無い借金のかたとして他人から奪い去ったそうで……。
「そうですね……」
……あれ?先生?三編みが明らかに痙攣してますよ?顔は笑顔ですが、私が気付くレベルで三編みが異常なことになってます。……まぁ聞かないでおきましょう……色々ありそうですから。妙にギャンブルが上手かったりしましたし……今までどれだけ吸収したんでしょうか。

――――――――――――――

その後も、今までの思い出話を二人で続けていました。時おり、先生と一緒に屋敷の清掃を行ったりもしました。昔に比べて実力が上がったと誉めてくださったのが嬉しかったです。……まぁ十数年も屋敷で同じことをやっていたわけですから、上手くなっていない方がおかしい……とは思っているのですが。

そして……掃除が終わった、昼過ぎ頃でした。
「少し……宜しいですか?」
先生はそう一言告げると、スカートの裾をつまみ上げました。それだけで、私には何を意味するか理解できました。スライムですし、何よりジェラ先生ですから。
「はい」
私はそう頷くと、身に付けたジェラ先生のメイド服を脱いで畳み、掃除した部屋に静かに置くと――スカートの中に身を潜り込ませます。
すぐに体全体に、ジェラ先生の体が掛かります。私の体を飲み込んでしまうかのように――実際飲み込んでいますが。
私はそのまま、ジェラ先生の体の中に意識を繋ぎ、自分の体を先生に融合させました。そうして先生が作り出す広大な――そう、広大な体内空間を移動していきます。
声を聞き分け、喘ぎ声の遠い場所へ。そうして辿り着いたのは――。

『ウ……ンン……』
『ク……ウァ……』

馴れない固体化を維持しながら、人間の形になったスライム達が皿を丁寧な足取りで運ぼうとしている様でした。人間の足で歩く、そのような行動が、案外スライムには辛かったりします。足を持ち上げる、という行為を本来は行う必要がないからです。かく言う私も、何回も失敗しましたっけ……。
いつの間にか私の背後に、ジェラ先生が立っていました。体内ですから、移動は自由らしいです。
「この子達が、今回のメイド候補生です。つまり――この前の事件の子達なのですよ」
改めて見てみても、素晴らしいくらいに多いです。下手をしたらラピッツ本社の社員より多いのではないでしょうか。これが……この前の事件の被害……。
改めて、先生の偉大さを(以下略)。何と言いますか、この場所に来てから思い知らされてばっかりな気もします。
しかしながら……この中から何人が生き残るやら……と、'虎の穴'を経験した身としては思わずにはいられません。そして……中で何人が『恋愛関係』を結ぶやら……。
「アミュス、貴女にこれを見せた理由、分かりますか?」
「はい」
当たり前です。卒業し皆伝した元生徒がやることと言えば――!
「宜しい。では、貴女の為すままに動きなさい。私はその間、他の生徒達を見ていますので」
被害者はこれだけではなかった模様。まぁそれだけの規模の事件でしたし、仕方ありません。
私は、スライム達が見渡せる位置に移動し、辺りに私の存在を知らせます。スライム達が私の方を一斉に向いたところで、私はゆっくりと――しかし確かに伝わるように告げました。

「皆さん今日は。私はアミュス=ネージュといいます。本日はジェラ先生に代わって、卒業生である私が、貴女方の指導に当たります。
さぁ、準備は宜しいですか?では――」

――――――――――――――

全員の指導を終え、先生の体から出た頃には、既に夕方近くになっていました。流石にあの大人数全員に教えるのは骨が折れもしましたが、嫌な疲れはしませんでした。
寧ろ、心地よい――。

先生は私が授業を教えている間、別のクラスに筆記試験を行わせ、その間に夕御飯用の買い出しを済ませ、調理準備まで済ませていました。――先生、貴女は何なんですか。よくもまぁ同時進行でここまで……。
取り敢えず、先生は「お疲れさまでした。どうも有り難う御座います。美味しい料理をご馳走しますので、ゆっくりしていって下さいね」と厨房に入って行きましたが……流行っているのでしょうか?『ゆっくりしていってね』という言葉は。それだけ世間がせわしないのかもしれませんが……。
暫くすると、部屋から何やら美味しそうな香りが漂ってきます。どうやら肉を焼いているようで……ワインで味付けですか。そしてこの音は野菜を刻む音……?
先生?何人かに分身していません?どこまで器用なんですか……。

そうして出来上がった食事は――三人前にしては少し……いえ、かなり多量……まぁ当たり前ですが。先生と繋がった私の栄養の一部も、先生の体内にて分解されますからね。流石にあれだけ中にスライムがいれば、これだけの量になるのも必然ですか。
ワインソースのかかったステーキに、緑黄色野菜とポテトのサラダ、サーモンのマリネにフランスパン、マーガリン、クラッカー(Not兵器)にイクラや茹で玉子……。スープはコンソメ、そしてワインは赤……。見紛う事なきパーティメニューでした。
「では、頂きましょうか」
食事の前の祈りを捧げるのは人間の習慣ながら、私達にとって教育的に適した行為ともなっています。つまり、今日の糧を感謝することで、糧が生命ある存在であること、無闇に食い散らかすことの愚かさを幾度と確認することが出来るからです。
しかし、中にはこんな質問をする困り者もいたりしますが……。
「だれにいのるの〜?」
「まおうさま〜?」
「なんのかみさま〜?」
……えぇと。何と返答すればいいのでしょうか。基本的に他者への信仰が行われるのは教育後半からですからね……それまでは自分中心ですし。
まぁそれは兎も角として、今は食事前です。先生が頂きましょうかと言った以上、私も祈りを……。
「平和に糧が得られしことを、神に感謝します」
三者三様の速度で告げると、マナーに沿ってナイフやフォークを使い分けながら、食事を頂き始めました。
個人的に……失礼ながら意外でしたのはプーケ様がマナーが完璧でいらしたことでした。後で先生に聞いたところによると、「偉い方々のパーティで恥をかきたくないそうですから、私にマナー指導を依頼してきた」そうで、それがこの家に仕えるきっかけとなったとか。実際、かなりのスパルタで教えたそうです。それで平然としていられるプーケさん……貴方も何者ですか?やはり超人には超人が集うのでしょうか。神秘です。
料理の味は……今さら私がとやかく言う必要もないでしょう。店が開けます。ミシュ〇ンが来ます。それだけのクオリティをこのあまり高くない(ジェラ先生曰く、最高級の肉よりも扱いやすいそうです)肉で出す辺り……プライドスナッチを平然と習得していそうです。
吸収した後、技術を昇華しているのでしょう。私にはまだ真似できませんが……いつかは……いつかは……。

「そう言えば、アミュス」
大量の食事を体の中に納めた後、味の余韻に浸っていた私に、先生は話し掛けてきました。伸びやかに椅子に凭れている私。恐らく先程飲んだワインが、相当回っているのでしょう。お酒は、そこまで強くないのです。
「……はい、なんでしょうか、先生……」
流石に声ははっきりとさせます。メイドとして、ダ行全滅なんて無様な事態だけは避けなければならないのです。
先生は、特に赤らんでもいない頬とは対称にフリーダムに揺られている三編みを背景にして、私にぐいっと顔を近付けてきました。……多少酔っているみたいです。
「貴女、よく移動に単車を用いていると、随分前にクェルさんから聞いたのですが……」
あぁ、あの事ですね。
「はい。そうです」
私が単車に乗ったきっかけは、『緊急時に何で移動するのが一番効率が良いか』ということを考えて有名な自動車販売店を歩いていた時の事でした。初めは一般的に乗用車……というのも考えたのですが、クェルに「渋滞対策は必要ですよ〜」と言われてしまい、はてさてどうしたものかと考えながら町を歩いていると――。

――初めて、心惹かれるものに出会いました。

近未来的な曲線フォルム、スケルトンブルーとダークブルーの色合いも美しく、何より小回りが効くわりに馬力の高いエンジン……。
流石に値段は張りましたが、普段からあまりお給料を使うことの無い私には手が届く代金です。免許も取得して、無事購入いたしました。……まぁ流石に屋敷の景観に合わないので、運転する時は裏口から出ていますが。
「……貴女が乗っている姿が、全く想像がつきません……」
先生から漏れた溜め息は、ほんのりと葡萄の味を帯びていました。そこまでガブガブと飲んでいた覚えは無いんですけれど……?
まぁ……メイド服で750ccを乗り回す姿を想像できるかと言われれば、出来たとしてかなりナンセンスな代物になることは間違いないのですが。
「普段は移動には流石に歩きで行ってますけどね」
序でに言うならば、荷物が多いときには乗用車を使用します。750ccを使うことは――事件発生時ですか。バイクで逃げる盗人を、警察官に連絡しながら追い掛けて捕らえたことも……実は何回か。その度にクェルから皮肉混じりの言葉を頂いたのも、今となっては良い思い出です。
「先生も乗ってみますか?風がとても気持ち良いですよ?」
酔いの影響で少しハイになった私の問い掛けに、先生は「考えておきますね」と一言。
少しの間の沈黙に、私は先生がバイクに乗って颯爽と現れる風景を想像して、やっぱり似合っていますねなどと一人にやけていました。先生はそんな私の頬を――おさげでむにむにと引っ張ってきました。先端を手のように変えて、むにむにむにむにと。
「ひゃぅあ!」
むにむにむにむにむにむにむにむにと。
「ふふふ……綺麗な肌ですね。弾力も良くて……ふふふふふ……」
先生に頬を揉まれる、それもおさげに頬を揉まれる、異常な情景ではありましたが、意思を持ったスライムならばありうることなのです。それに……とっても気持ち良いですし。
「ふゅ、ふぇんふぇい、ふぇんふぇい!」
私は頬をむにむにされるまま先生に呼び掛けましたが……酔いも入っているのでしょうか……目が爛々と異様な輝きを放ってますし……返答がございませんでした。
「うふふふふふふふふ……」
気付けば先生の頬もそれとなく赤くなっていらっしゃるような……まさか……えぇと……本日飲んだワインは――。

『ディア・ベラス』

「(……それは酔う筈ですね)」
よりによって先生の大好きなワインじゃないですか。体との相性が良いのか、他のお酒では殆んど――それこそ樽単位で飲まないと酔わない先生が、このワインでは反動が来たように酔いますからね……。それは先程からの行動も納得が行きますよ……。
覚悟を決めるのに、そう時間は掛かりませんでした。既に先生の顔は私の唇に自身のそれをくっ付けてしまうほどに近付いています。いつの間にか椅子は外され(倒しはしないのもまた先生らしいと言えばらしいのですが)地面に押し倒されていました。そして体術能力の差は歴然……逃げるにはもう遅いのです。
「ふふふふ……んむぅ……」
先生の唇が、触れて――。

――――――――――――――

――文章再現はおろか音声再現どころか映像再現すら出来ないほどの光景が、先生の体内で繰り広げられました。
辛うじて再現できる場所だけを断片的に再現するならば――。

全身のあらゆる場所を先生の触手で貫かれ、私が伸ばした触手ですら先生のそれに接続され、挙げ句の果てに先生の触手に包み込まれながら胎内に招かれ、貫いた触手から母乳成分が送り込まれ、繋ぎ変えられ敏感にさせられた快楽神経が常に刺激を受けているといった、人間では到達すら出来ないような状況でした。

昨日のあの交わりは――先生にとっては加減した児戯だとよく分かる――交わり。
ぐじゅぐじゅ、ぬるぬる、むびゅむびゅなど、俗に汚いと評される擬音語の羅列。
方向やタイミングすら予測がつかない――刺激。
ただひたすら、相手を求めるために盾を捨てて刃を磨くような――。あるいは内に眠る原始への回帰本能をそのまま実行に移したような、理性の欠片も存在する余裕すらない交わりに、わたしは……ほんろ……さ……れ……。

だ……め……こ……こ……ろ……g…………。

――――――――――――――

「……ごめんなさい。私としたことが、本当にごめんなさい……」
せんせーが、あみゅすにとくとくと。
とくとく、とくとくと。
やわらかぁいおむねから、おへそのくだから、とくとくとあたたかいのをくれるの。
きもちいいの。
なんでせんせーがあみゅすにあやまってるのかわからない。わからないけど、きっとかなしいことをしちゃったんだ。
あみゅす、ないているせんせーはみたくないから、せんせ〜にあまえるんだ〜。そうしたら……。
「……んっ……うふふ……」
えへへぇ……わ〜い、えがおだぁ……。
「ふふふ……待っていてくださいね。すぐに戻してあげますから」
あ……とくとくってはいってきた……♪
あったかぁい……あったかいよぉ……。きもちいいよぉ……。
……せんせー……。
あみゅす……。

――――――――――――――

「……一体私は、電車の中から今に至るまで、何回キング・クリムゾンを経験したんでしょうか……」
二日目の夜に先生に押し倒されてから、目が覚めたのが四日目の朝。おまけに先生がどこか申し訳ないような表情を浮かべてますし……。
「……本当にごめんなさい。あそこまで前後不覚になるとは……」
ステーキを焼くのと、私達が飲んだ分で、『ディア・ベラス』一瓶が完全に消費されていました。料理でそこまで使わないことを考えると――お互い、かなり飲んでいたようです。それも、気付かないうちに。
「仕方無いですよ。そのような事もあります」
先生、付き合いの場以外では大体紅茶を好んで飲んでいますから、少なくともお酒を飲むこと自体が少ないですし。加減を忘れても致し方ないかと。

それはそうと……本日はカレンの元に帰宅する日だったりします。一応、普段からいつでもここを出られるように準備はしておきましたので、出ることはいつでも出来るのです。
実は本来なら、昨日帰る予定だったりするのですが、……よく覚えていないんですよね……昨日の事を。ただ、幽かに暖かく、幸せだったような感覚だけは、朝方に残ってはいましたが……。先生はその辺りも含めて、謝っておられるのでしょう。
「……ふふっ」
何か……可愛らしいな、とも思えてしまいます。先生の、知らなかった一面を見られた気がして――。

――――――――――――――

「……先生、短い間でしたけど、お世話になりました。また機会があれば、そちらに伺わせていただきます」
「どうぞ。いつでも私は、貴女をお招きいたします」
互いに挨拶をし終えて、私はジェラ先生の元を去ることにいたしました。時間は昼頃。丁度、私が先生の家に着いた時刻と同じ頃です。
振り返ると、私を見送るために、ずっと外に立って手を振っていらっしゃる先生の姿がありました……。
私はその姿に……二三度手を振って、そのまま坂を降りていきました……。

――――――――――――――

「お帰り、お母さん」
電車に揺られて数時間。ようやく家に着くと、そこには私が着くのを今か今かと待ちわびているようなカレンの姿が。私の顔を見て、どこかほっとしてもいるようでした。
「ただいま、カレン」
私がバッグを邪魔にならない位置に置いて、着替えの部屋に向かおうとすると、「ちょっと待って!」と引き留められました。引き留めた張本人――カレンはそのまま、跳ねるような足取りで部屋の奥へと入っていきます。
「……?」
どうしたのでしょう?妙に嬉しそうでしたが……。何やらガサゴソと音がするのは、四苦八苦しながら探しているからでしょうか。
やがて音が止んだ頃、カレンは一つの包みを持って来ました。丁寧にラッピングされたそれは、所々に皺らしきものが見える辺り、カレンが一人で包んだものでしょう。
「開けてみて、お母さん」
何やらこらえきれていないカレンに押されるように、私は紐を解くと――。

「――っ!」

――そこに入っていたのは、私が普段身に付けている、カレン特製のメイド服……。ただし、それは私が見知った姿とは違っていました。
――あの事件で開いた穴が、どこにも開いてなかったのです。微かな、よく見ないと分からない程度の縫い目の跡の他には、穴があった場所を知る術はありませんでした。

目を見開いたまま、私はカレンの方へと首を向けますと、カレンは……静かに、けれど力強い笑みを私へと向けました。

「あの事件から、お母さんはずっとこの服を着ていたよね。穴も塞がずに。流石に私だって分かるよ。お母さんが……あの時の事をずっと気にしているって。
過ぎ去ってしまったことを運命と捉える。そうするには……あまりにも重すぎることだし、何より、お母さんにとっては結果オーライなんて言える結末でも無かった。
私を殺させてしまったこと、それを救うこともできなかったこと。その無力の証拠として、穴を埋めることはなかった。そうでしょ?」

「………」
私は何も言えず、ただカレンの言葉を耳にしていました。そんな私にカレンはでも、と続けます。
「でもね、手紙にも書いたかもしれないけど、そんなお母さんを見ているのは、私も辛いんだよ。全てを受け入れるのがスライムでも、受け入れて穴が開いたらどうしようもないじゃない。
だから……。

だから私は、お母さんの穴を埋めてあげたかったの」

私の手から、特製メイド服が溢れ落ちそうになりました。何とか持ち直しましたが。カレンは、そんな私の態度に構うこと無く、そのまま話を続けていきます。
「隣にいるのに、遠い関係なんて辛いよ。お母さんには、私の事で必要以上に苦しんで欲しくないよ。居るだけで苦しくなるなら、その原因を無くしたいよ。そのために、私は何ができるか……今は、この程度の事しか出来ない。目に見える穴を塞ぐ、その程度の事しか……」
私は……持っていたメイド服を、置いたバッグの上に重ねました。そうして、カレンの方へ、一歩、一歩と足を進めていきました。
「でも……こんな私でも、いつかは埋められるよね?ぽっかりと空いた、お母さんの穴を――」

「……ありがとう……カレン」

「――わっ!お、お母さん……」
自分の心に空いた穴を埋めるのは、自分にしか出来ない事です。ですが、そのきっかけをくれたり、支えてくれたりするのは――。
「――カレン……」
私の背丈とほんの少ししか違わないカレンを、私はしっかりと抱き締めました。
その存在を確かめるように。
大切なものを手放さないように。

――――――――――――――

過去が無力だったのは仕方がない事実。でも、無力なりに動き、助けようとした事実もまた、存在することを忘れてはいけないのです。
そして、それに感謝する人物の思いもまた存在することを――忘れてはいけないのです。
私はその事を気付かされました。
最愛の娘に、そして――。

――尊敬すべき'先生'に。



fin.




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