私たちが住む世界とは違う世界……と表現するのは在り来たりだろうか。だがそれ以外に今から記す世界を表す術を知らない事をここに詫びたい。
この世界では、魔物と私たちの世界では呼ばれた存在が、人間と共存して暮らしている世界だった。平和とは言えないが、数十年前に発生した'世壊戦争'の前後に比べればかなり安全にはなっている。例えば、一人旅での死亡率は格段に減った、そんな時代の風景。

「ほう、人間の吟遊詩人とは珍しいものだ」
酒場のマスターが、今しがた扉を開いて入ってきたばかりの青年を見て、思わず漏らす。青年はやや弱々しい笑顔を浮かべると、そのままカウンター席の隅に一人座った。
「この地方でもそうなんですか?」
マンドリン・リュート、その辺りの楽器を彷彿とさせる弦楽器を席にもたれ掛からせるように置き、吟遊詩人の青年はカウンター越しにマスターと向き合った。
「ああ。私も生きて永いが、ここ十年から二十年近く見てないな」
それは仕方ないことですけどね、と青年は心の中でそっと呟く。世壊戦争の被害を一番受けたのは人間である。強力で誰でも安易に使える武器の製造を行うことで他の種族と渡り合っていた人間は、真っ先に他の種族達から攻撃の対象にされた。武器を得るため、製造の知識を得るために、そしてエルフやフェアリー、マーメイドに対抗するために主にマスターのようなドラゴニュートや、オーガ、ドワーフ等と言った、肉体的身体能力的に人間より優秀であった種族が、人間の集落に攻め入ったのである。
あまりにも突然の奇襲であったため、なし崩しのままに被支配対象へと変わってしまった挙げ句、死傷者多数、行方不明者も多数発生し、築き上げた文化が根底から破壊されてしまった。
そうして武器を得た種族は他の種族を駆逐した挙げ句、互いに覇権を争って共倒れ。何も得るものはなく、失ったものは多数。まさに'世を壊す戦争'は、こうして終わってしまった。
だが、これはあくまでも正史だ。真実は他に在ることをこの世界の民は全て知っている。誰かが、その三種族に対して手を下したのだ。そう。人知を超えた存在の何者かが――。
――話がずれたが、そうして一度相当数にまで減少した人間は、文化を破壊されたことで他種族に対するイニシアチブを握りづらくなったため、小さな集落でひっそりと暮らすだけの集団となった。牙を抜かれた狼のようにただ大人しく、そしてひたすらに排他的な種族――それが人間であった。だからこそ、通常であればどこぞの気紛れな風来坊以外は外の集落に顔を出すことはない。このドラゴニュートのマスターの言うことも、至極もっともだろう。
なのに何故青年はあのような発言をしたのか?それは青年のいた集落はわりと異種族交流が盛んな地域であったからである。森に囲まれた地の、小さな集落の分散地。交易などもある程度行われているので、どの集落でもある程度は人間がいたのである。
『森の人』――人間のうち、森に逃げ延びた人はこう呼ばれる。そしてそのもう一つの特徴は――。

「りゅ〜と〜、あたしお腹空いた〜」

青年の声よりキーが遥かに高い、いやそもそも男の声ですらない声が、青年の体から響いた。よく見ると、青年の胸ポケットの辺りからひょっこりと、小さな顔が晒し首のごとく現れている。状況は微妙に怖い筈なのだが、その愛くるしい顔のお陰で、まだ『閑古鳥の店で首だけ出してだらけている子』のような可愛らしさが出ている。頭上のアホ毛がゆらゆら揺れるのもチャームポイントだ。
「あぁごめんラムジーク。マスター、僕にはチルブラン、ラムジークにはメープルクッキーを一つお願いします」
リュートと呼ばれた青年は、マスターに注文を告げると、胸ポケットに指を一本差し入れ……そのままゆっくりと引き抜いた。普通の胸ポケットより幅広に作られているそこから、指にしがみつくように現れたのは、人形のような女の子……ではあるが、その額からはアホ毛のようにも見える触覚らしきものが二本、空気の振動でゆらゆらと揺れており、その背中からはさながら蝶のような、体を包み込めそうな大きさの羽が二対、呼吸に合わせて開いたり閉じたりしていた。
『森の人』のもう一つの特徴は、常にお世話役の妖精が一人(こう表現しないと妖精は大変腹を立ててしまう。単位は大事である)、人間のお供に付いていることである。
「りゅ〜と〜、あの子は今日はいないの〜?」
ラムジークは長旅の疲れを隠す気配を微塵も感じさせないような間延びした口調でリュートに話しかける。ぺたんと木製のカウンターに座り込んで上目遣いに話す姿は、それだけで胸をときめかせてしまいになる程の可愛さを誇る。だが不用意に連れ去ろうものなら、翌日にはハグベア(獲物をベアハッグして捕らえる狂暴な熊)の抱擁を受けている自分を発見しているだろう。精神に干渉する魔法は彼女達の十八番なのだ。
「あぁ、シャンテね。シャンテはもう暫くしたら来るみたいだよ。だからそれまで、この店でゆっくりとしてようか」
リュートは特徴的な弱々しい笑みを彼女に浮かべながら、ポケットから紙を一枚取り出す。文明崩壊後も製造方法が伝わっていた紙。吟遊詩人の必需品だ。
先端が軟らかくなった木炭を握るために黒手袋をして、リュートは何かを記し始める。少々癖が強いが、読めないこともない字である。

『虚塔の側の樹木は
翳る太陽を求め
命無き巨人に辛み
天へとその身を伸ばさん』

《詩》。我々の世界でそう表現される文体だ。意訳文にすると上記のようになる単文をさらさらりと書き上げると、紙をラムジークの目の前に置く。ラムジークは「よっと」と一声立ち上がると、その紙の上にちょこんと座り、そのまま瞳を閉じた。
途端、彼女の体が緑色に光り出した。光は木のカウンターに置かれた件の紙を縁取るように広がっている。
見慣れた光景なのだろうか、他の客は青年の方に一瞥すらくれない。青年の方も、ラムジークの方を横目で眺めながら、次の《詩》を描いている。

『水の中の炎に触れ
爛れた皮膚をもて甘し
音を超えて駆る閃光
落者(イカロス)の友は暗雲と共に』

書き終えたとき、ラムジークは紙の右下に指で文字を書いていた。彼らの世界でも一般的と言えないその文字は、いわゆる妖精文字と言われるものだ。解読法は妖精達の極秘とされているので、『森の人』も読めない。ただ、読みを教えられるだけだ。
文字を書き終わったラムジークは、軽く伸びをすると次の紙に飛び乗る。今度は赤色に輝き出した。リュートはそれでも気にすること無く、紙を取り出しては《詩》を記し続ける。
この行為を何回か繰り返し――リュートは最後の一枚を回収した。
「――ん〜っ、気持ちよかったぁ〜」
付き物から解放されたかのように大きく伸びをして、またぺたんこ座りをするラムジーク。それに合わせるように、マスターはメープルシロップのたっぷりかかったクッキーを花柄の皿に乗せて出す。丁度子供の掌くらいの一口サイズが五枚ほど。そのうち一枚を彼女は手に取ると、そのまま頬張り始めた。頬張ると言っても、一回の量は一欠片ほど。そもそも人間にとっては一口でも、妖精のサイズでは下手をしたら自身の体より巨大なサイズなのだ。腹に入りきるのか、という心配もあるだろうが、心配なく。体が小さい分、必要なエネルギー摂取回数も多くなるのだ。だから――。
「ごちそ〜さまぁ〜」
この通り。あっという間に一枚平らげてしまっている。大した胃袋である。
「ははは……」
恥ずかしげもなくクッキーにもたれ掛かって眠ろうとするラムジークを微笑ましく眺めながら、リュートはチルブランを一口、舌先で遊んでから飲み込んだ。

「………」
窓の外、人が辛うじて聞き取れる音域で風が擦れる音がする。耳聡く聞き付けたリュートは、ラムジークに視線を向けた。ラムジークもその視線に返すような目線を向ける。
「んにゅ〜、来たね?」
触角をピコピコ、羽をパタパタと動かしながら、皿の上に腰かけて窓の外に目を移すラムジーク。
「あぁ……そうだね」
実は半分ほど酔っているリュートだが、その手は愛用の弦楽器『タクト・ダクト』に伸びていた。持ち上げて、構えるリュート。その目は観音開きのドアに向けられている。
「……ん〜」
触角が、風に揺れる――刹那。

「《―――》!」

人間では理解できない発音。超音波ともとれるが寧ろ耳に優しく感じられる声が、風と共に店の中に流れ込む。間違いない。彼女がこの店に来る。僕はさりげなく席を立ち、観音開きの戸を開く。それに合わせるように――緑色の影が舞い降りた。

「ぴゅ〜うっ!仕事を終わらせて帰ってきたよリュー!ラムちゃん今日も可愛いようりうりうりうりうりうり」

緑色の影は、落下の勢いを感じさせない軽さで僕を押し倒すと、そのままテーブルの上で眺めていたラムジークを翼に変化した手で抱き寄せた。そしてそのまま、翡翠色のほわほわした羽毛で覆われた胸元に抱き寄せてしまい、そのままなでぐりし始めた。
される側である彼女からしたらたまったものではなかったりするだろう。何しろ、ふわふわと毛羽立った羽毛は、殆んど他人に触れられることの無い妖精からしてみれば、時としてくすぐり地獄の拷問器具に等しかったりするのだから。
――現に今のラムジークは……。

「嫌ぁぁはははひゅはははく、くすぐひゃはははひゅうひぃぁははははははははははははははははひゃめ、ひゃめひぁあははははははははははははは!」

言葉の文法すらろくに成立しない状況である。理性が吹っ飛んでしまいそうなほど一気に全身を擽られているのだ。仕方ない。
因みに擽りは、時として痛みよりも有効な拷問手段となることを忘れてはいけない。
来て早々放置プレイを食らうこととなったリュートは、彼女達の様子をどこか微笑ましそうに見つめながら……頃合いを見て止めた。
「シャンテ、このままだとラムジークがバルムンク卿の元に行っちゃうよ。お願いだから、ちょっと止めて」
シャンテと呼ばれた、翡翠羽のハーピーは、その言葉でようやく我に還ったらしく、顔を青白く染めて慌て出した。
「どどどどどどうしよううううラムちゃんラムちゃん死なないで生き返ってお願いだから正気を取り戻してぇっ!」
先程までの勢いのまま、ラムジークをガックンガックン振るシャンテ。恐らく人形であれば首ちょんぱは免れないであろう振りにようやく我に還ったラムジークは……彼女の頭上に氷の塊を出現させ、そのまま落とした。
「はぎゅん☆」
愉快な呻き声と共にラムジークを手放し、床に突っ伏すシャンテ。間抜けな構図だが、命に別状はない。
一方のラムジークは、酸欠と興奮で赤くなった頬を何とか調えながら、怒りを滲ませた声で潰れているハーピーに叫ぶ。
「あ〜ん〜た〜ねぇ!会うたび会うたびあたしを殺そうとするのを止めてよぉっ!なん回首が飛びかけたことか……っ!」
「ぴゅう……ごめんなさい……可愛いからつい……」
しおしおと萎れた声で返すシャンテ。心底反省している声だが、たぶん次回も忘れるだろう事は、ラムジークは十分理解している。だからこそ溜め息を漏らすだけで、他に何も言わず自分の運命を呪うだけだった。
「はぁ……」
ハーピー族の物覚えの悪さにやや辟易しているラムジークの横で、リュートは『タクト・ダクト』の弦を調節していた。何もここにシャンテが来たのは、ただラムジークをなでなでぐりぐりするためだけではない。その為にリュートも――当然ラムジークも彼女を呼んだりはしない。寧ろ後者はそれが無ければ普通に一緒に旅してもいいのに、とも思ってはいる。
他の客は、初めは突然入ってきたシャンテの様子に驚いてはいたが、リュートが調弦を始めると、何かを待ちわびるようにリュートの方向に体を向けていった。既に手にはアルコールの入ったガラスのカップが握られている。

――Zet――

弦が響く。その一音。無調整のアルペジオ。何も押さえずにかき鳴らされた、弦楽器をやるものは何度も耳にするであろう和音は、場の空気を集約させるのに十分な効果を持っていた。

――Zet――

続けてかき鳴らす音に反応したのは、ラムジークだった。彼女は背中の羽をパタパタと動かして地面に鱗粉を少し落とすと、靴を確認して、ネックの部分に飛び乗る。そのままリュートと視線を合わせ、互いに頷いた。そして――そのまま背中から地面の方に落ちるラムジークは、弦の辺りで羽を開き一回転すると――!

――Du dAn da Dudu Da Dudu Dudaduda Du dAn Dan dU Du dAn――
――Tutti Tuta turA TutituratUratu Ti tURa Ti RA――

リュートが押さえた弦を、まるでステップを踏むように――あるいは強く蹴りつけるように舞い始めた!同時にリュートは魔法銀製のピックを取り出し、ステップしていない場所を弾く!時おり演奏場所が交差するが、その時はラムジークがリュートの手の甲に手をついて跳ね、位置を入れ換えるのだ。

――Du daN dA dAn Du dAn Da Dan dudU dA――
――Turai rA Rai Tu rai re Lai Turura――

次第に盛り上がるダブルの『タクト・ダクト』の演奏。パフォーマンスも兼ねたその動きに、会場は静かに盛り上がっていた。次第に緑色の光がラムジークから溢れ出していく。それは酒場の中を優しく照らしていき――!

――Reu I La TaTaTai RaraRai CaCaCai SiLaBi Du Qua――

――立ち上がったシャンテが、喉を震わせ歌う。歌詞の無い、音だけの歌を。
Overture『Joy!』……文明が滅ぶ前、人間達の街にあった歓楽街、そこで生まれた一人の歌姫が、文字も読めない客でも簡単に歌えるような歌をと言う目的で歌い始めたのが初めと言われる、全三部構成の曲のうち、導入曲に当たる序曲だ。

――Reu I La Sababa DaBaBa DalALa Ski Bi Da Bap Pap――

Joy――その名前の通り、短調のメロディながらどこか楽しさを覚える構成をしている。主に跳ねる弦の音に、上手く絡むボーカルがあるからだろうか。
ラムジークはシャンテが歌い始めた頃に地面を離れ、全身から発される緑色の光を酒場全体に広げる。妖精族得意の幻術――それは使い方を考えれば、いい演出道具となるのだ。同時に、彼女は部屋の音響もいじっている。

――Didic Didic Didic Didic Didic Tur Didad Didad Didad Didad dic――
――Tu Bar Di La Tudidu Bar di La――

いつの間にやら、他の客がハンドクラップを始めていた。現実と幻想の境目にある状況で、観客は自主的に二つを繋いでいるのだ。現実の音を、幻想の空間へと運ぶことで。

――ZeZezeZet Zet Zezet――
――Bar dir La!――

――やがて曲が終わりを告げるのと同時に、ラムジークは光を抑えた。夢の余韻を残しつつ、そこから観客を現実に引き戻していくのだ。
「……ふぅ……」
軽く額を腕で拭い、ラムジークはシャンテの方へふらふらと飛ぶ。シャンテはそれを胸元の柔らかな羽で受け止め、優しく抱き止める。明らかにハグを我慢しているのが、羽先の震えで分かる。
リュートはそんな二人の様子を微笑ましく見守りながら、『タクト・ダクト』を床に置き、観客だったものに語りかけた。
「一時の幻想空間、お楽しみいただけましたでしょうか。また別の機会があれば、私達『La musique』が貴殿方を再度幻想にお連れいたしましょう。
でさ、またその日が巡り来るまで……」
そのままマスターに食事代金を払い、余ったクッキーを袋に包むと、二人に呼び掛けて、店を出ていった………。

――――――――――――――

「りゅーと〜♪」
シャンテの頭の上からぴょこんと首と羽根だけ出して、ラムジークは嬉々としてリュートに呼び掛ける。リュートは相変わらずの力の無い笑みを浮かべながら、『タクト・ダクト』をシャンテの頭――ラムジークの方へ向けた。
と――。

Chu!

――そのネックの部分に、ラムジークは頭から飛び降りてキスをしたのだ。そのまま、体を緑色に光らす彼女。すると、キスをされている『タクト・ダクト』も緑色に光り出す。そのまま光は、彼女の方に流れていき……やがて収まった。
彼女――ラムジークは妖精族であるが、妖精族が存在するには、大量のマナ(魔力)、あるいは生命力が必要である。多種多様な生命を内包する森の中ならば兎も角、草生い茂る場所が珍しくなった外界では無闇に生命力を吸おうものなら枯れてしまうのである。それは避けなければならない。
そこで自分の片割れともなる存在に、自らの魔力の一部を付加し、それを用いて生命力を集めるのだ。片割れであるがゆえに加減が利き、必要過剰量を集めずに済むのだから。
片割れは基本的に無機物で、その形に合った集め方をする。例えば『タクト・ダクト』はかき鳴らすことで聞く相手の体力を微少量奪う、といった具合に。そうして『タクト・ダクト』のような片割れに集まった生命力を、ラムジークのような妖精族は片割れに接吻することで吸収するのだ。
因みに、自然な甘味もマナ回復には使えるのだが、量や効率は前者の方法よりも悪かったりする。
ともあれ彼女は回復し……。
「――〜っ!生き返るうぅっ!」
魔力吸収後の彼女のはしゃぎ様が、リュート達に笑顔を与える物であることは言うに及ばない。尤も――。

「ぴゅう〜っ!はぐぅ〜っ!」
「わぷひゅっ!こ……こらぁぁはははひははははははははひゅひゃはははひゃああああっ!」

直ぐ様ハーピーの胸元に抱きつかれてしまうのだけれど……。

――――――――――――――

町や集落を渡るリュート御一行。渡った町で彼らは詩を描き、そして去る。
その目的は……リュートはこう言っていたという。

「世界を、僕が見たままに描きたいからです」

――fin.




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