今や書物にしか名の面影が無い大陸がある。かつてそこに属する国家のうち、軍事に秀でた二国が、各国と同盟を結び、尽きることのない戦争を行っていた。
原因は先祖の先祖のまた先祖。追い続ければキリのない恨みの連鎖が、国民を悲哀と怨磋と諦観の連鎖へと追い込んでいた。殺さなければ殺されるその連鎖だけが彼等の心を縛り、生を死同然の行為へと結びつけていた。

ある時、一国が密かに開発していた生物兵器が、戦線に投入されることが決定した。戦争終結の希望の種となる筈だったその兵器は、確かに戦争は終結させた。……大陸内における全国民分の行方不明者を出して。

大陸の戦争を支援していた国々は、直ちに現状確認のために兵士を出していった。しかし……それらは直ぐに、行方不明者の一員へと変化した。海流に乗って流れ着いた唯一の映像による報告では、大陸内に居るのはかつての国民ではなく、様々な姿形をした……しかし全て雌性体の少女達のみであり、その全てが体の一部に触手と思われる器官を保持していた。その少女達が笑顔で兵士を取り囲み――ここで映像は途切れている。
戦争支援の国々はこの数少ない情報から、この得体の知れない、人に似た生物が大陸を占拠したと判断せざるを得なかった。生物学的見地から生物の捕獲を喚起するものも居たが、錬磨の兵士が行方不明となっている現状は、過剰なまでの排除理論が主流となっていた。それこそ、戦術核の使用を認めてしまうほどに。

作戦は実地され、核爆弾は大陸に何発も落とされた。大陸の形が変わってしまうのではないかと思えるほどに、それは執拗に落とされたのだった。
飛行機の上から撮影された映像では、この作戦の前は予想通り沢山いたあの生物が、作戦後、少なくとも地上からは消え去ったように見られた。
国家跡に生えた木は、何故か焼けることはなかったが、それ以外の町跡、文化の痕跡すら、全て消し去ることで、ようやくこの異様な狂気は終焉を迎えた……かに思えた。

だが……作戦終了から数日後、作戦を実施した国家の一つから突然、連絡が途絶えた。何の前兆も見られない中での連絡の断絶に、上層部は危機感を募らせ、すぐに軍備増強等の対策をとらせた。予感が正しければ……と付くときの予感は、斜め上に捻りを加えた所まで当たっているものである。

果たして、'それ'は生きていた。生きて――この大陸にまで到達していたのだ。戦術核を用いた爆撃は、'それ'らを滅ぼすことが出来なかった。それどころか'それ'は、爆撃を利用して気流に乗り、大陸各地に散らばっていったのだ!
世界の映像が、次々に途絶えていくなかで、上層部は次々と逃げ場を探し始めた。最早大陸が制圧されるのは時間の問題だ……それが理解できたからこそ。
見捨てられた人々は、己の境遇を嘆きながら、殺めんと武器を持ち、上層部の元へと集った。だが、既に行方は知れず。
人々の嘆きは、そのまま同胞に対する怒りへと変化した。行き場のない感情の暴走。それがこの暴動の正体であった。

互いが互いを傷つけ合う中――'それ'は、その悲しみを飲み込んで、怒りを吸い込んで、嘆きを受け入れながら……幸せの花を咲かせ、喜びの木を生やしていく。
大陸が'それ'らの地となるのは最早、時間の問題であった。

一方、'それ'が元々居た大陸では……あちこちに残った大樹が、放射能を浄化し、大地を潤していた。破壊された文化すら飲み込んで、木々は成長を続け、新たな命を生み出していく。

その中で唯一、文化の面影を残す場所があった。

研究所跡。

大樹が中への進入を阻むその場所に、一人の兵士が居た。
最初に隣の大陸から送られた、大陸国家滅亡の原因究明部隊の一人、それも最後の一人である。
「……随分、大きくなったんだな……」
未だ放射能が溢れる研究所外部を、研究所内部から眺めると、彼がこの研究所に入ったときから隣に生えていた巨大な木の根が、窓枠を大きくはみ出している。自分がこの研究所に偶然行き着いた時は、少なくとも窓枠に沿っていたはずだ。序でに、研究所の入り口を塞ぐように、根も張り出してはいなかっただろう。
放射能による突然変異か、と疑いたくもなったが、それが見当違いの予想である事は、彼が一番知っていた。何故なら――。

「――おきてますかー♪」

「……君か」
彼は、彼を呼びかける声の主の方に振り返る。袖の辺りがぼろぼろになった白衣を身につけた、年齢がようやく二桁越えたくらいではないかと思われる外見を持つ少女が、ドアを無くした壁から、ひょっこりと顔を出している。艶の良い小顔が愛嬌を振りまく様は、思わず可愛さのあまりに抱きしめてしまいたくなりそうだ。
「はい♪お母様が、そろそろお食事にしましょうって、セプトさんを呼んでらっしゃいましたので」
鈴が鳴るような可愛らしい声が兵士――セプトに用件を告げた。年の割りにしっかりしている……わけではなく、そもそも元より彼女は兵士より年上であった――いや、年上『だった』。
「……もう、そんな時間か」
早くに目が覚めて、外を覆う木を眺めていたが、知らぬ間に朝食のじかんになっていたらしい。セプトは長時間同じ格好でいたことから固まった筋肉を伸びでほぐし、彼女の導きのままに、部屋を出た。

核爆発の衝撃から生き残った研究所跡は、しかし設備自体はどれも使えるものばかりであった。電子攪拌機、薬剤保管室、マジックアーム、電子顕微鏡……恐らく発電器官さえ作れば、再び研究を進められるだろう。尤も、研究する人は今はおらず、研究していた人も、今では研究する気はないだろうが。
少女の後ろをついて行くセプト。これが当たり前になってどれほどの時間が経っただろうか。初めのうちは心理的に不安でしかなかったそれだったが、慣れとは恐ろしいものである。移動中に足音が一つしか響かず、布ずれのような音が響くのにも慣れたものだ、とセプト自身は自嘲している。自分は何をやっているのか、報告する対象が既に無くなった今、この場所にいることの必要性など無くなっているも同然であるからだ。
だが、彼は彼自身の意志でここにいた。それは言ってしまえば彼自身の意地でもあったかもしれない。様々な存在に与えられたこの場所で、為せる事を為そうという、意地。
それをあざ笑う者は、この世界の何処にもいない。人間の間では彼は死亡しているものと思われているし、彼と共にいる存在は、その思いすらも全て受け入れるからだ。
……やれやれ。
彼は自分に呆れたような溜め息を吐くと、そのまま目の前の少女の姿を眺めながら、足を進めた。

少なくとも、上半身は紛れもなく少女である。あちこちが擦り切れた白衣(曰く、お母様が着せてくれた物らしい)を身につける身体は、何処までも華奢であった。セプトが力を入れたら折れてしまいそうな腕や腰、首。それだけに守ってやりたい気持ちも働く――上半身だけなら。
問題は下半身である。どこか煤けた白衣から飛び出した物は二本の脚ではなく、セプトの腕ほどの太さを誇る触手が、何本も生えている。それらはコンクリートの床でうねりながら、その上に存在する身体を前へと進めていく。伝説上の魔物であるスキュラのような蛸足と言うよりは、寧ろどこか植物を思わせる、妙な暖かみを感じさせるものであった。
人間の上半身に、触手の下半身――彼女の『お母様』もそんな存在であるのだろうか、彼はしかし疑問に思わなかった。当然である。この建物に居ること自体が、彼が『お母様』に会ったことの証明であるのだから。
「どれだけ経ったのやら、な……」
セプトは彼女の後をつけながら、『お母様』に出会った日のことを思い出していた……。




簡単な任務でないことは分かっていた。隣国――いや、隣の大陸と一切の連絡が取れなくなるなど、従来の常識で考えられるような事態ではない。
一瞬たりとも気を抜けば、恐らくやられる。標的に見つかったら、その時点で終わりだ。そう何度も言い聞かされる度に、この任務の重要性と共に、自分達が厄介払いを受けたのではないかと言う疑問すら沸々としてくるのだった。
だが、所詮自分達は一般の兵士でしかない。上に逆らうことなど出来ないのだ。それに自分達が失敗すれば、国民に被害が及ぶやもしれない。そう考えれば、疑問を抱くことの愚かしさすら感じられる。初めから、あらゆる意味でやるしかないのだ。そう思い直したところで、海路を使い向かっていた、目的地である大陸に到着した。
――大陸の環境は変化していた。青々とした森が広がり、間違いなく空路からの侵入は困難だろう事が見て取れた。初めから隠密侵入を目的として海路を選択したことは、手段としては正解であっただろう。
ただ、手段は正しかろうと、任務が達成できるか云々はまた別の問題である。

彼らが大陸に侵入したことを、『お母様』はその瞬間に知った。彼らの害意の有無まで全て見抜いて。
『お母様』は彼女の愛しい娘達に『お願い』をした。娘達はそれに――全員、笑顔で応えた。

『彼らの中で最も害意の少ない人を除いて、みんなで《救って》あげましょう』

果たして、それは何の支障もなく実行された。
ある者は蔦に擬態したそれの触手に絡まり、そのまま連れ去られた。
ある者は、それの管が放つ芳香に心を惑わされた。
またある者は、種々にとけ込んだ管に、爪先から一気に呑み込まれた。
ある者は集団の『娘』達に呑み込まれ、ある者は『娘』の蜜を飲まされ……一人ずつ、一人ずつ減っていく中で、残った兵士達は、既に『娘』に占拠された船に戻ることも出来ず、如何にして島から脱出するかを考えながら、逃げ場のない島の中を逃げまどっていた。
やがてその数も一人一人減り……ついにセプトだけになった。

セプトだけとなったところで、『お母様』は、娘達に彼を研究所に案内するように頼んだ。兵士を《救った》娘以外は、その『お願いを聞き入れた』のだった。
一人になったセプトは、しかしそれでも逃げ続けていた。任務は失敗もいいところだ。だがしかし、現状島から逃げられないことは分かっていたし、それにこのまま帰ったとして、任務を果たせなかった彼に居場所のないことは明々白々であった。
そうして、彼が逃げ延びた場所は――。

「……はは、ははは……」

――当初の目的の場所である、研究所であった。ここまで来て、どうやら首謀者に填められたらしいことを勘づいたセプトであったが、今更戻ることも出来ない。
「……えぇい、ままよ」
半分投げやりの心情で、彼は研究所内に足を踏み入れた。

「……何をやっていたんだ」
研究所の中核とも言える研究室、其処にあった物は、幾つものガラスケース跡と、何かが引きずり出されたような痕跡。いや、寧ろ外側から壊され、中にいたモノが這い出てきた、と評することが出来そうなモノだった。
あちこちに掛かった機密事項の書類を隠す鍵、それを壊しつつ、書類の類を漁るセプト。一文字一文字を追う度に、彼の表情には呆れに近いモノが浮かんでいく。よくもまぁ、人道をここまで無視して研究が出来たものだ、と。
事細かに取られたデータ、それが何を意味するか理解するには、彼にその手の知識は足りなかったが、行われていた実験内容の羅列だけでも、十分この実験の残虐性が理解できた。
――そして、それを推し進めた研究者の、悔悟の情も、その文からはありありと見て取れた。

『赫月浄日、被験者〇〇の肉体を接合。同時に'芽'は〇〇に蔦を伸ばし、そのまま一体化させていった。神経系に根を張りやすいよう皮膚を軟化させていたが、それが良かったかもしれない。〇〇は安らかな笑顔を浮かべていたからだ。
そんなことを何気なく考えて居ることに気付いた私は、何て身勝手なんだろうと思う。本来ならば、こんな実験など、初めからするべきでもなく、受けるべきでもなかった。だが、私は負けてしまった。科学者としての好奇心や、軍からの圧力、そして時代の流れ、全てに負けてしまったのだ。
にもかかわらず、いや、だからこそ私は救いを求めているのかもしれない。この愚かで罪深い私、自分ですら赦せなくなった私を許してくれる存在を、無意識に求めているのだろう』

『赫月裁日、被験者〇×へと細胞を移植した。しかし、移植した側から被験者の身体が同細胞に融合、そのまま元の細胞群と一体化してしまう。
被験者はその間、しかし一度として泣き叫ぶことは無かった。それどころか、喜びと快楽と、或いはそれに近い感情の脳波ばかりが検出されたりしたのだ。これも細胞の抱く'種'の効果か。
……しかし、軍部はこの結果をどう思うのだろうか。いや、軍部は関係ない。私自身が、この事をどう思っているのか。結論から言えば、二つに割れている。一人の人間としての自分と、科学者としての自分。まさか自ら崇拝している科学が、自らを苦しめる悪魔だったとは思いもしなかった。いや、悪魔に変ぜさせたのは自分か。
何れにせよ、実験は止められない。止めなければならないのに、止めることが、出来ない――』

「――覗き見は、感心しませんよ」


「――ッ!?」
日誌を読み入っていたセプトは、突如として背後から響いた声に、思わず心臓が跳ねた。気配も感じられなかったとは、相当読み入ってしまっていたらしい。
そんなセプトの様子を見ながら、声をかけた存在はやれやれ、と首を横に振った。
「『お母様』が貴女に会いたがっております。どうか来ていただけませんか?」
声の主の方に、セプトは警戒しながら視線を向ける。果たして、予想通りの相手であった。仲間を襲った存在――だが、彼女らとは、纏う雰囲気に若干の差異があった。
何故だろう。彼女は今まで襲われた存在と比べて――やけに落ち着いている。それに……若干の怒りや気恥ずかしさが、彼女からは感じられた。つまり、他の個体よりも、知性はある、と言うことだ。
彼は、任務を継続するため――と言うよりは、それ以外の選択肢を持ち合わせていないことから、素直にそれに従うことにした。だが――その前に。
「――もう暫く、この日誌を見ていていいか?何があったのか知っておきたいんだ」
セプトとしては、今まで眺めていた資料を、完全に読んでしまいたかった。任務だからと言うよりも、自分が知りたいから、と言う動機で。どうせこの任務は失敗だ。ならばせめて、自らの記憶にだけは、何があったかを留めておこう。そう心に決めた結果の言動である。
セプトを静かに眺めていた少女は、やや恥ずかしそうに顔を赤らめつつ、どこか哀しげな顔をして、答えた。
「……正直、恥ずかしいですけど……どうぞ。それまで待っていますから」
彼女の許しを得て、彼は日誌を読み進めていった。
研究の内実、過程、理由、被験者の名前、性格、作り上げられた生命、目的――そこには、この研究所で起きた出来事全てが記されていた。時が経つごとに心が乱れ、壊れていく研究者の様子も、文や文字の乱れから容易に想像はついた。そして――。

『赫月誓日、戦場に放たれる日が近付いてくる。戦況は伝えられていないが、芳しくないのは確かのようだ。
彼らにとって、彼女は兵器に過ぎない。感情を与えるな、指令を与えろ、思索を与えるな、嗜好を与えろ、と言うのが軍部の願いだ。けれど私は、この願いを真っ向から否定した。
私が軍部を知らないように、軍部は私を知らない。寧ろ知らせない。知らせてたまるものか。
私は彼女に与えなければならない。軍部が与えないのならば、私が与えるしかない。彼女の全てを、全てが軍に奪われてしまう前に――』


――ここで文は途切れている。そして日誌もこの日で途切れていた。そして、日誌に書かれた日の一週間後――赫月醒日――に、隣の大陸からの連絡は全て途絶えたのだった。


「……」


全てを読み終えた彼は、直立のまま日誌を全て整理し、鍵を壊した引き出しの中に入れた。そして、ドア付近で待つ異形の少女に礼をし、そのまま部屋を出ていったのだった……。


そうして案内された場所は、研究室の中心部、様々なモニターが所狭しと並べられ、各所の映像が映されているが、本来繋がっているはずのケーブルの代わりに、幾本もの触手が捻れ刺さっていた。それらはモニター内までも侵蝕し、映像の一部はもごり、と隆起するなど形が変化している。
本来は研究所内全体を監視する為の設備だったらしい。軍の秘密兵器研究の場所にはそうしたカメラも何も付いてはいなかったが、それ以外の場所には過剰に付けられていた。それはまるで、研究員を監視する目的で付けられているかのように。
今ではそのカメラ全てが作動していないが、代わりにこの大陸のあちらこちらの映像が、未解析の技術によって映されている。
そして、そのモニターを見渡せる中央部。本来管理者が座るべき席に座っていたのは――。

「――こんにちは♪」


――外見的に、まだ年端も行かぬ少女であった。ただし、下半身はセプトを襲った少女達と同じ触手であり、それでいて少女達の何倍も太く、長い。
先端は大の大人が一人すっぽりと入るような、ぷっくりとした蕾状になっている。幽かに開いたそれからはとろとろと蜜状の何かが流れ、辺りに甘い香りをまき散らしている。
モニター室内にのたうつ、彼女の触手。それが奏でる鼓動は、さながら部屋全体が心臓になったかのように響きわたる。セプトの心音も、それに同調するかのようにとくん、とくん、と歩調を合わせて唄う。
知らず、目の前の異形を受け入れてしまう方向に、精神は移動していく。セプトはその心の動きを確かに感じていた。間違いなく……今回の事態の主犯は……間違いなく目の前の異形だ、と。
「……貴女が、……'オピッタ'か」
知らず、呼びが『貴女』になっているのに気付かず、彼は呼びかけていた。それに応えるように、彼女――オピッタはにっこりと微笑む。
先程まで案内していた少女がいつの間にか姿を消す中、オピッタは椅子から降り、セプトにゆっくりと近付いてきた。
「そう、私がオピッタだよ♪」
どこか舌っ足らずの声。ふわふわとした調子のしゃべり方に、思わず調子を崩しそうになるセプトは、気を持ち直しつつ訊ねた。
「……この大陸から、人間の姿が消えた原因は……貴女か?」
「うん♪」
笑顔で肯く彼女に、罪悪感の存在を疑う彼は、しかし次第に確信するようになる。
――彼女は純粋な、あまりにも純粋な確信犯だと。

「――みんなを、助けてあげたんだよ♪」


「助けた……!?」
到底助けたとはいえない状況で放たれた、助けた、という言葉。それが何を意味するか、オピッタは、さも当然であるかのように答えた。

「みんなをね、幸せにするためにね、わたしの娘にしてあげたの♪」

「――!?」


流石のセプトも、これには驚愕せざるを得なかった。娘にする、とオピッタが口にしたということ、先程の少女が言っていた『お母様』という言葉、そしてそれに類似した、自分たちを襲撃した少女の異形達……!
ぐにゅり、と音を立てのたうつ触手、その一つが、先端をこちらに向ける。グロテスクな物体の筈なのに、生命が通っている瑞々しさの中に、どこか少女の無邪気さが合間見えた。
「今、私から生えてる、たくさんのおっきな蕾みたいの……わかる?
これね、私の子宮なんだよ?ちょっと見ててね……んっ」
驚愕するセプトをよそに、オピッタは息み始める。膨らんだ蕾が、ぴくん、びくんと震え始めた。まるで芽吹く寸前の地面のように。
――くちゅ、り……。
「んっ……はぁ……♪」
蕾が、綻ぶ。切れ目を入れたトマトが湯の中で皮を剥いでいくように、蕾がその太い表皮をめくりあげていく。
弾力性のある肉厚の花弁は、複雑かつ整然に絡み合った血管状のものが、内側で魅力的な模様を描いている。そして花弁の内側では、まるで太陽に当てた毛布のような柔らかな肉壁が、むせかえりそうな甘さを誇る蜜似よってぬらぬらと光り、ゆらゆらと誘いかけている。
恐らく、蜜を羊水と置き換えれば、この中は間違いなく胎内も同然なのだろう。蜜の香りによってやや冷静を取り戻したセプトの思考に合わせるように、オピッタは呟いた。
「ふぅ……ここでね、中でぐもっぐもっってやわらかく解してぇ……わたしの種を植えつけてぇ……娘にしちゃうの♪」
しゅるり、しゅるりと、彼女の足代わりになった触手が、その先端をセプトに向けながら、段々と近付いていく。
「たくさんあるでしょ?研究者のおにぃさんたちが、こどもを沢山作れるようにって、いっぱい、いーっぱい増やしてくれたの♪」
母性溢れる、柔和さと幸福さをブレンドしたような表情のまま、オピッタは自身の下腹部を優しくさする。それに反応したように触手達がぴくん、ぴくんと歓喜に震えていた。
「今はみぃんな、わたしのかわいい娘。だって、わたしをこんな素敵な体にしてくれたんだもの♪お礼しなくちゃって……ね♪」
熱を持った視線。両腕は触手によって絡まれている。香りは彼の鼻から入り、脳を、身体を、少しずつ彼女の色に染めていく。
「娘になるの……とってもきもちいいんだよ?もちろんわたしもきもちいいし……♪」
頬を赤らめ――顔を火照らせながら、ずずり、と蕾を近付けていくオピッタ。既に自身が何度も経験した『産みの悦び』が頭に浮かんだのだろう。彼女の中で、セプトが中に入るのは既定路線のようだ。
「……ねえ、ほら。そこの近くのに入って?」
しゅるり……と、セプトを捕らえていた触手が外された。生き物の持つ暖かみが残る腕。どこか名残惜しさすら覚える感触であった。
目の前には、彼を招くようにどっぷりと蜜で満たされ、柔らかな内壁が呼吸に合わせて蠢いている。おいで、ここはあったかいよ、くるしみも、かなしみも、すべてわたしがすいとってあげる……。
――セプトの動揺は、いつの間にか消え去っていた。代わりに、オピッタの『娘』になることを、徐々に魅力的に感じるようになっていた。恐らく、子宮の中は気持ちいいのだろう。全身を包み込まれ、微睡みの中に浸ることになるのだろう。視覚と嗅覚、触覚と聴覚――味覚以外の神経が、それを如実に彼に対して伝えている。
その一方で、しかしセプトは、そのまま彼女の中に身を預けることを拒否する心理を持っていた。何故か――それは彼の本能の叫びだったのかもしれない。このまま入れば、彼の彼としての人生も、興味も、精神も、欲望も、全てが溶かされ、全く新しい存在として再生されてしまう。それはセプトの……現在の願いに反する事なのだ。
だが、その一方で彼自身は、恐らく逃れられないことも感じてはいた。この島、いや、この研究所から。いずれは彼女の願い通りになる。それは、任務に就いた時点で定められた、彼の運命……ならば。
「……どうしたの?」
首を傾げたオピッタに向けて、セプトは――自らの願いを、告げた。



『――まだしばらく、この世界を人間の視点で見ていたい。だから、今は、まだ……ごめん』
残念そうな表情を浮かべ、思わず『ごめん』と口走っていたセプト。それをしかし、オピッタは受け入れた。一週間に一回、『娘』になるかどうか尋ねる、という条件を加えて。
この話を、オピッタと供にいた案内の少女は、
『まさかそんな事が起こるなんて……』
と不思議そうな顔をして聞いていた。普段は出会った『人間』は、全て『娘』に変えてしまうらしい。それも、心からの善意から。
邪気の欠片もない、異形の少女。これを軍部は'敵地制圧用の生物兵器'として用いようとした。傷を負ってもすぐ回復して、どのような攻撃を受けても死ぬことがなく、敵を喰らい、生物非生物問わず破壊し、或いは前者を自らの手駒に出来るのならば、これほど便利かつ優れた生物兵器はないだろう。
それを考えるなら、逆にこの結末は良かったのかもしれない、そうセプトは、ハムエッグトーストを口にしながら考えていた。もしもあの戦争で一方が圧勝する事態になったとしたら……自らの国の滅亡も目に見えていたからだ。
――尤も、現状を見るに、未来における国の滅亡は避けられない、それは確信していたが。


「――セプトさん♪」
食後、呼び掛けられた声に、セプトはカレンダーを頭に描いた。一週間に一度、娘になるか尋ねられる時間が来たのだ。
いつもならば、セプトはごめん、と断り、残念な表情を浮かべるオピッタを後目に、あてがわれた部屋へと戻っていくのが恒例だった。

――だが。

「……」


セプト自身、もういいかな、と思い始めた。
何らかの方法で、任務の失敗を知った国家が、この大陸の徹底的な爆撃を行い、その爆風に乗って『種』となった娘達が散らばり、広がったこと。その出来事はセプトにとって、自らの居場所の消滅を二重に意味していた。
つまり、国家が自らを死んだものとし、その国家すら死ぬであろう未来が予測できたのだ。
いや、国家だけならまだいい。いずれ人類は、その主導権をオピッタ達に譲ることになる、その事も理解できてしまったのだ。
「……」
セプトは、オピッタと向き合う。もう何度も向き合った筈だが、この日は彼にとって、オピッタの全てが、とても新鮮な物に感じていた。

「……娘に、なってくれますか……?」

オピッタの問いに、彼は、少し躊躇うような表情を見せながら――。

「――はい」

――彼の返事を、空間に残したまま、その全身は、オピッタの子宮の一つに、呑み込まれていった。

「……セプトさん……♪」


オピッタは、今し方セプトを呑み込んだ子宮を抱えつつ、ゆったりと子守歌を歌っていた。
それは、子宮が奏でる脈と混ざり、研究所を、大陸を巡る命の音と、なっていったのだった……。

fin.







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