八十八(やそや)村は、三方を山に囲まれた村だった。
農地と畑と家屋だけで、殆んどの土地が埋まってしまうような、小さな村。
スーパーも無いため、一部の日用品は、車で一時間ほどかかる場所に位置する半陽町まで買いに行かなければならなった。
『俺ら東京さ行くだ』の村ほど酷い環境ではないが、それでも東京の便利な生活を夢見て、村を出ていく若者も少なくはない。
当然、子供も少なくなる。事実この村には、十歳に満たない子供は三人しかいなかった。

この物語は、その一人に起こった、桜咲く頃の出来事………。


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十日前、六才になったばかりの華隣(かりん)舞には、誰にも言わない秘密があった。
頭の悪い書き出しではあるが、彼女が秘密を持っていることは疑いようのない事実なのである。
元より秘密と言っても、誰かと指切りを交して約束したものではない。彼女が意図的に秘密にしているものだ。
それに彼女には、秘密を話す対象が周りに一人もいなかった。八十八村にいるあと二人の子供は、いずれも村長の孫の二人だけ。
長男の橋間尊(はしまみこと)は七才で、その名の通りやたら尊大、夜郎自大もいいところの性格をしていた。
次男の橋間厳(はしまごん)は五才。名前とは反対に気弱で、兄には逆らうことが出来なかった。
この二人、特に兄の尊と舞は仲が悪く、弟は兄につきっきり。そのために、一緒に遊ぶことは全くないのだ。
そのため、二人が文明の利機であるファミコン(初期、2Pまでしか遊べないものを言う)を家でやっている間、舞は外で一人遊ぶことになる。
この状況を聞いた大人達は、きっとどれだけ舞ちゃんは寂しい思いをしているんだろう、と考えると思われる。
でも、舞は寂しくはなかった。そしてその理由こそが、舞の秘密なのである。


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一年前。
「よぉし、たんけんだ〜」
五才になったばかりで、まだ元気はつらつな舞は、冒険のつもりで裏山にある森にうきうき気分で入っていった。
同世代の遊ぶ相手は男二人、しかもゲームに夢中で相手はされない。されても威張るだけ。
だったら自分で楽しめばいいや、と思うようになったのは彼女の性格か。いずれにせよ、彼女は森を目指した。
冒険、と名がつくからには、その向かう場所に何らかの危険性が伴うものだ。ここでの危険性は、昔からの言い伝え。
『あの森では、時々神隠しが起こる』
裏山の森の名前は『島居の森』といい、外れの島で安穏と過ごしていた植物の神(精霊のようなもの)が出張の際、自ら住む島と同じような木を生やして出来たとされている。その森では、やけに木の枝や根が絡み合った場所があり、そのために旅人が迷いやすかった事が、神隠しの原因である、とは事情通の言葉。
だが、彼等は知らなかった。もう一つの事情を。


二つの事情どころかそもそも『神隠し』すら何のことか分かっていない舞は、
「やっほ〜、かみかくしさ〜ん、でっておいで〜」
などと元気に一声、森の中へと一歩踏み出したのだった……。


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踏み出して数分後、
「わ〜、きれいなおはな〜」
鬱蒼とした森が突然開けると、そこは色とりどりの花が咲き乱れる平原だった。
「チューリップ、パンジー、タンポポ、つばき、ひまわり、きくのはな、ゆりのはな〜」

花を一つずつ指差しながら、舞は嬉しそうにその花の名前を、一つ一つ叫んでいった。

自然に囲まれた環境で育った舞は、花の名前と姿を一致させる程度の知識は身についていた。ただ――彼女は知らなかった。向日葵は、夏にしか咲かない事を。狂い咲きにしてはその数が多いこと。そして―――向日葵だけに限らず、ここに咲く花の大半は季節を無視して咲いている事―――。
「………あれ?」
しばらく季節を忘れた花に囲まれて幸せな気分に浸っていた舞は、視界の端に今まで見たことが無い、とても綺麗な花の姿を捉えた。
それは『光の角度によって、七色に花びらの色が変化する薔薇』で、不思議なことに棘は持っていなかった。
「わ〜きれ〜!」
舞の位置からは離れている位置にあったが、気にせずに舞はその花目がけて走っていった………。


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「……あれっ?森に誰かいるの?カズラお姉ちゃん」
「女の子ですよ、エッちゃんと同じぐらいの」
「ねぇっ!それ本当!?一緒に遊んでもいい!?」
「そうですね…………あ、あらあら………あの花畑の方に近付いちゃって………」
「大変っ!教えてあげなきゃっ!」
「あ、ちょっと…………あらあら………もう行ってしまいましたか………」
「……カズラ」
「あ、サラお姉様。いついらしたのですか?」
「今さっきよ。ようやく獲物が黙ってくれたところ。………で、まさかあの娘を人間に会わせようなんて事を認めてはいないでしょうね?」
「さぁ?どうでしょう?」
「全く………妹で可愛いのは無邪気で天津燗漫なあの娘だけよ……」
「ふふっ………無邪気さならもーちゃんも持ってるじゃないですか」
「あれは無邪気とは言わないの」
「まぁ………あの性格は『まっどさいえんてぃすと』って言うんでしたっけ」
「………教えたのは私だけど、あなたの毒舌、何気にきついのよね」
「毒は遅く、鈍くですよ、サラお姉様」


(あの娘だって、同じくらいの友達が欲しい年頃。姉としてどうして反対しましょうか。例えそれが人間であっても、ね………。ふふっ、サラお姉様には悪いですけど……)


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「はぅっ!」
突然、強い力で引かれて、舞は転んでしまった。その脚には、緑色の植物の弦が絡み付いていた。
「ううっ…………」
地面にぶつけた顔の痛みに、思わず泣き出しそうになる舞。それでも目の前の花を見つめていた。
「駄目ぇっ!」
次に響いたのは声だった。舞と同じぐらいの年頃の、女の子の声。
舞は驚いた。当然だ。この場所は自分以外は誰も知らない。そもそも村に自分以外の女の子はいないはず。そう考えた舞が、視線を後ろに回すと――。

そこには女の子が居た。肌は舞よりも綺麗な肌色、どちらかと言えば大きな瞳、整った顔。少し髪が乱れているように見えたのは、急いでここに来たからだろうか。花柄のワンピースが幽かに乱れているところからも、それが読み取れるが――。
その思考も下半身を見ると、一瞬動きを止めてしまう。
少女の下半身は、幾つもの植物の蔦が絡み合い、解れ合って構成されていた。その一つは、今舞の脚に絡み付いているそれである。
下半身を見つめた後、舞はやや恐る恐る気味に、彼女の表情を見つめた。

―――幽かに彼女の瞳が、赫に染まっていた。

「その花に触れたらっ!毒で死んじゃうよっ!だからっ!ふれないでっ!」
息も絶えだえに舞に叫ぶ彼女。今にも泣き出してしまいそうだ。
一方、いきなり叫ばれた舞は、ただビックリしていた。元々素直な娘なので、彼女の発言(事実ではあるが)を真に受けてしまったのだ。
『死んじゃうよっ!』
いきなり宣告された、自らの死の可能性。危うく自分で、冥界の扉を開きそうになった恐怖。その前では、彼女が異形の存在であることも、どうでもいいように思えてしまった。
「速くっ!離れてっ!」
女の子に急かされるように――脚に巻き付いた弦に引かれるように――舞はその植物の元から飛び退いた。植物は――いや、植物の内に潜む存在は――きゅう、と口惜しそうな音を出して、地中にその薔薇を沈めた。
思わぬ出来事に、腰を抜かす舞。そんな舞に、彼女は身を寄せて――抱き締めてきた。

舞の体に、森の香りが伝わっていく。その安らぐような香りに、一瞬目を閉じ、彼女の為すがままに任せてしまう舞。
「よかったよぉ………触れる前でよかったよぉ………」
まるで我が子を心配する母親のようにそう言いながら、舞に頬擦りする彼女。頬からも、森の香り。
「あ、あの………」
困惑気味に舞が出した声に、彼女は気付き、頬擦りを止めた。
「え、えっと…………なに?」
今更ながら、自分のしていた行動に、幽かに頬を赤らめる彼女。
そんな彼女に、舞は場違いな――ある意味では適当な――質問を投げ掛ける。
「あなたは………だれ?」
恥ずかしがりながら、彼女は答える。
「あたしは、ハエトリグサ娘のエッちゃんだよ!」
「エッ………ちゃん?」
舞は戸惑って聞き返すばかり。
「そう。エッちゃん」
エッちゃんは姉三人に比べて控え目な胸を張りながら、舞を見つめた。
舞は素直な娘だった。他人が自分に対して心配して泣いてくれる行動を、そのまま自分を思う気持として受け入れる事が出来る娘だった。
「………あの」
だからこそ、相手がハエトリグサ娘という人間ではない種族、その上人間の天敵と言っても良い種族だという事実を越え、
「………ありがとう」
感謝を言う事が出来たのだろう。元より、舞自身がその事実を知らなかった事もあるが。

その感謝の言葉に、しかしエッちゃんは首を振った。
「ううん。お礼を言いたいのはこっち」
エッちゃんの瞳に浮かぶのは、幽かな涙。
「この森に、来てくれて、ありがとう……」
例えそれが冒険目的でだとしても、エッちゃんは嬉しかった。
人間を糧とする、意思を持つ植物。彼女達はその意思ゆえに、常に孤独である。
他の搾精生物が近くに居ればいい。だが、この森にいるのは、彼女を含めて四人。しかも彼女は他の三人――いずれも姉だが――とは年が離れている。一緒に遊べるような、同世代の友人など存在しないのだ。
だからこそ、
「……ねぇ」
エッちゃんは求めていた。
「お友達に、なって?」


それは、舞も求めていたものだった。
「!………いいの?ううん!いいよ!」


こうして、舞はハエトリグサ娘のエッちゃんと友達になったという『秘密』を持ったのだった。


友達になった二人は、ほぼ毎日のように一緒に遊んでいた。
山の中の清流で水遊びをしたり。
花畑の中で日向ぼっこをしたり。冠を作って被せ合ったり。
紅葉を二人で眺めたり

エッちゃんのお姉さん達にも、時々会ったりもした。
「あらあら………可愛らしいお客さんね」
そう優しく微笑みながら言って舞の頭を撫でたのは、次女のウツボカズラ娘。通称カズラお姉ちゃん。
カズラは現れるとき、必ず飲み物を出してくれた。花畑の花の蜜を精錬した、甘いジュースを。
カズラ自身は、二人の遊びには殆んど参加しなかった。
「二人の笑顔を見るのが、幸せですから」
彼女はそう言って、二人の姿を眺めている事が多かったのだ。

「ふふ………こんにちは」
静かに手をひらひらと振っていたのは三女のモウセンゴケ娘。通称もーちゃん。もー姉ちゃんと呼ぶと語呂が悪いと言う理由で彼女がそう呼ばせているらしい。
もーちゃんは、二人の遊ぶ姿をただ眺めるだけだった。眺めながら、カズラお姉さんの巨大な葉っぱの一枚にいつも何かを書いていた。
一度舞は、何が書かれているのかエッちゃんに聞いたが、エッちゃんは何も知らないらしく、首を横に振るだけだった………体がかなり震えていたが。
舞は本能的に、これは聞いてはいけない事だと理解し、以降は一度も聞いていない。

あと一人、長女のサラセニア娘、通称サラお姉様がいるらしいが、舞は一度も見たことがなかった。エッちゃんの話だと、彼女はあまり人間と顔を会わせたくないらしい。
でも一度話がしたいな、と舞はぼんやりと思っていた。

エッちゃんの案内は、森の危険な場所を避けたものであったので、舞は危険な生き物にも出会わずに二人で遊ぶことが出来たのだ。


―――そして、一年が経過し、舞は小学校に行くことが決まった。


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「へぇ〜、小学校に行くんだ〜」
羨ましそうな、楽しそうな声でエッちゃんは舞に話しかけた。
「うんっ!」
元気に返事した舞。だが、その顔はどこか寂しそうだ。時々表情に、一瞬だけ翳が差している。
「――どうしたの?」
気付いたエッちゃんが舞に尋ねると、舞は少し暗い表情のまま、答えた。
「――しょうがっこうにいくとね、エッちゃんとなかなかあそべなくなっちゃいそうなんだ……」
どこか寂しそうな舞。今まで遊んでいた友達に会えなくなる辛さは、相当のものだろう。

エッちゃんは別れを経験したことはない。そのような対象が存在しないからだ。姉妹はいつも一緒だし、遠くに行く友人など、元から友人がいない彼女が持つ筈はない。
しかし、この一年間で、友達が側にいない時の寂しさというものを、エッちゃんは覚えていた。それは彼女の成長――肉体的ではなく、精神的なそれ――の証明。
気付けば、エッちゃんは舞を優しく抱き締めて、頬擦りをしていた。一年で少し成長した胸が、ワンピース越しに舞にその感触を伝える。
「大丈夫。私はいなくならないから。この森で待ってるから。だから、寂しがらないで。私はいつでも、ここにいるからね……だから……会いたくなったら、いつでもここに来ていいんだよ。そしたら……一緒に遊ぼう?」
エッちゃんの体から森の香りが立ち上る。舞はその香りとエッちゃんの言葉に、心の中の寂しさが薄らいでいくような気がした――事実、薄らいでいた。
ああ、二人って、あったかいね………。
柔らかな春の日差しの中、二人は抱き合いながら、目を閉じて、花畑の上で静かに寝息を立てていた………。


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「じゃあ、また会おうねっ!」
夕方、森の入り口まで舞を送っていったエッちゃんは、遠ざかる背中に手を振っていた。

「じゃーね〜っ!」
元気良く――しかしやや小声めに叫んだエッちゃんだが、ふと、周りに人の気配を感じた。とっさに森に隠れるエッちゃん。しかし、次の瞬間には、その気配は完全に消えていた。
「………何だろ?見られていなきゃいいけど………」
サラお姉さんの言葉が、エッちゃんの頭を過ぎる。
『村の近くでは、人間になるべく姿は見せないで。見られたら、妙な人間が入ってくるからね』
「………大丈夫、だよね?」
自分に何度か言い聞かせて、エッちゃんは森へと帰っていった………。

「………何だったんだ、今のは」
その日五度目の、酔い醒ましの散歩に出ていた九十九業(つくもごう)は、森に見えた生物に、自身の興奮を隠せずにいた。
東京に出た人間は、すべからく事業に成功するわけではない。当然、失敗するものもいる。業も失敗した者の一人で、大手企業の就職に失敗。中堅企業に勤めたはいいがリストラの憂き目に合い、失意のうちに田舎に帰ってきたのだ。
田舎に帰ってからは、親戚の家に身を寄せるが、毎日のように酒に浸り、散歩に出ては村人に絡むなど、一族の鼻摘み者となる一歩手前の段階に差し掛かろうとしてあた。
この日も昨日の繰り返し、となる筈だったが――。
「あんな生物……いやバケモンか?が田舎にいたとはなぁ」
やや下品な笑いを浮かべる業。彼の中にあるのは、エッちゃんを見掛けた瞬間に浮かんだ'天啓'。
――あの生物をバラして売り払えば、たんまり金をせしめる事が出来るじゃねぇか。なぁに。バケモノだ。殺しても誰も文句を言いやしねぇ。それにそうすりゃ酒が買える。いや、家も建てられるかもな………。
欲望に脂ぎった考えを胸に、業は親戚の家へと向かっていった………。


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翌日。
いつものように森へと向かう舞。この日は家にあったバスケットを勝手に拝借して、おにぎりを四つ入れて持っていったのだ。
うきうきと森へ足を進める舞。だが――。

猟銃を親戚の家から勝手に拝借した業は、森に向かう舞の姿を見て、いよいよ自分にツキが回ってきたと感じていた。
彼はほぼ全ての村人を嫌っていた。村人が自分に対して冷たい事、自分の考えを受け入れない保守的な考えしか持たないジジイが村の中心であること、それが主な理由である。村人が彼に冷たいのは、自分の行いから来る事、彼の考え方自体が理想論で、しかも自己中心的なものである事にすら全く気付いていなかった。
彼はただうるさいだけの子供も嫌っていた。村長の孫の二人はいわずもがな、自分に冷たい目線しかくれてやらない舞も嫌いだった。だが、その舞はいま、楽しげに森に向かっている。連日の散歩で、村長の孫と舞が仲が悪く、一緒に遊ぶ仲ではないことは耳に入っている。舞は一人で森に行くのだろう。だが、あのバスケットの大きさは、明らかに六歳の子供が一人で食べられる量ではない。
つまり、森の中で誰かと会っている。そしてそれこそが………。
業はエッちゃんの存在を他の村人には話してはいない。言ったところで信じやしないだろうし、何より、獲物は独り占めをしたかった。
「………はっはっはははは……」
幽かに笑い声が漏れ始めているのにも気付かず、業は後ろから舞の姿を追っていった………。


∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫


「エッちゃーん!」
いつものように、森の途中、ハエトリグサが群生している場所で舞は叫んだ。そして指を折りながらそのまま待った。
10秒、20秒、30秒………。
「………ふはっ!」
どうやら指折りしている時に自分の息まで止めていたらしい。深呼吸をして、舞は数え直した。
これくらい待つのはいつものこと。エッちゃんは森にいるけど、どこにいるかは分からない。だから、来るまで遅れてしまう事がよくあるのだ。
待つ時間はちょっと寂しいけれど、退屈はしなかった。時々木の蔭を見ると、恥ずかしそうに半身をこちらに見せている娘――ラフレシア娘、とエッちゃんは言っていた――が見えたり、アリ娘さん達が食糧を運んでいたり、色々な風景が見えるからである。
と―――

「だ〜れだっ!」

いきなり誰かが、後ろから舞の目を手で覆った。声だけでも分かるが、足元に感じる蔦の感触、森の香り、それらもまた、犯人を一人に限定していた。
「エッちゃん!」
せ〜いか〜い、と言う声と一緒に、舞の視界が開ける。後ろを見ると、そこに見えたのは、予想通りエッちゃん。そして―――!

舞が色々見回していたとき、業は見付かりやしないかと内心ハラハラであった。見付かった場合、バケモノに会える貴重な機会を、みすみす無駄にすることになる。
彼の中に、殺人犯になるかもしれない、などという恐れはなかった。ただ、金と、欲望のみ。
そして、目的の対象が現れた。
上半身は、ロングヘアーの、どこか活発そうな少女。しかし下半身は、いくつもの蔦が絡み合った植物の――バケモノ。
こうなったら、最早迷いはなかった。業は弾を猟銃に詰め、そして――。


「あぶないっ!」

一瞬のことだった。
舞はエッちゃんを押し退け、自分がその位置に入った。
弁当の入ったバスケットは、草の茂みの中へと飛んで行く。
次の瞬間、


乾いた音が、魔を抱く森の中に響き渡った。


一瞬。何が起こったのか、エッちゃんには理解できなかった。
突き飛ばされて、倒れて、大きな音がしたかと思ったら何か暖かいものが顔にかかって、起き上がって辺りを見回すと、舞が、


仰向けに、倒れていた。
胸から、赫い血をだらだらと流しながら。


エッちゃんの精神が、凍る。自身の脈拍の音すら、遠く感じるほどに。
ふと、無意識のうちに自分の顔に手を触れると、何かが顔に付着していることに気付いた。
恐る恐る、その手を目の前に持っていくエッちゃん。


血と、肉片。


「い………」
彼女の精神が、

「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

悲鳴を上げた。


エッちゃんは、ほとんど条件反射のように自身の服を破り、舞の体から流れ出ようとしている血を、必死で塞き止めようとした。
「嫌あっ!死なないでぇっ!舞ちゃん!舞ちゃああああんっ!」
その目には、滅多に流すことはないと言われる、涙。


動揺したのは業もだった。まさか、バケモノをかばって人の娘が死ぬとは、思ってもいなかったのだろう。
早く弾を詰め替えようとするが、どうにもうまく行かなかった。
やや震える手を何とか使い、ようやく弾を入れ終え、ハエトリグサ娘の頭に標準を合わせた。
「これで―――」
そして引金を―――。

バシィンッ!

―――引こうとした瞬間、男の手から猟銃が消えた。
突然のことに、呆気にとられる業。暫く思考停止していたが、やがて激昂し、周りに怒鳴り散らした。
「何しやがんだこの馬鹿野郎!」

彼は知らなかった。この世には、食物連鎖において人間よりも上位の種が存在することを。そしてそれは、決して怒らせてはならない存在であると言うことも――!


「――妹を泣かせましたね」


鈴。彼女の声の比喩に、これほど当てはまるものはない。鳴り響くのは一瞬。しかし、一度響けば全ての音は止む。
凛として響くウツボカズラ娘の声は、静かに、しかし尋常ではない量の怒気を含んでいた。敏感な者では、たちまちに失神してしまうことだろう。
「あぁっ!?何だ!?このバケモンが!」
だが、この男は果てしなく鈍感であった。その一言一言が、男を地獄への階段に上げていることに気付かずに、男は凄む。
対するカズラは、眉一つ動かす気配すら無かった。ただ相手を―――睨みつけるのみ。

「――自らの同族を手にかけて何を言い出すかと言えば、私達を化け物呼ばわりとは………」

自らの言葉を言い終えないうちに、
シュルルッ!ガシィッ!
蔦で忽ちのうちに男の全身を拘束した。
絶対に縄脱け出来ない結び方で。
「うわぁっ!」
両手両足を縛られ、そのまま地面に倒れる業。
「なっ!何しやがる!」
それでも怒鳴る。気付かないのか、あるいはそれでも、自分の優位を確信しているのか。

氷点下の台詞を吐きかけても、男は一度として自らを省みなかった。
「――化け物、それはどちらの事を言うのでしょうね?」
「あぁっ!?それはテメェらの事だろうが!」
「――私達は決して同族を殺したりはしませんよ」
「あぁ!?知るかんな事!バケモンは人を襲うからバケモンっつーんだよ!」
カズラは、内心、この男に呆然とする思いだった。ここまで醜く、我の強い人間と言うものを、カズラは見た事はない。そしてどこまで単純で、どこまで愚鈍かを知るために、審判の台詞を、業に言った。
絶対零度の声と、視線と共に。

「――人を驚異に陥れる存在を化け物と言うのならば、今の貴方も、この私と変わりませんよ」
「なっ!何言ってやがる!どんな事をしようが、人間は人間だろうが!化け物が化け物であるようになっ!!」
判決は―――
「――久しぶりですよ、私………こんなに、怒っているのは」
蔦の一撃によって示された。

ビシィッ!

「な―――」
その一撃だけで、男は自身の体に何が起こったのかを理解した。そして、自らが相対するもの、それは決して触れてはいけない存在であった事も―――。
「――いいでしょう。貴方を緩慢に扱う気はありません」
「な……何をする気だ……?」
今更脅えながら運命を問う業。そう、蔦の一撃の正体は――。
「――自身の内臓を自身の口でくわえさせてから、痛みを直に感じさせながら食べてあげましょう」

――蔦の一撃の正体は、骨盤と背骨の境目を砕き、人体を二分しやすくするものだった。

「!!!ひぃっ!や、やめろぉっ!」
男の命乞いも、完全に逆上したカズラにはまるで意味をなさなかった。
最も、逆上していなかったところ、嗜虐心を満たす行動をしていただろうが…………。

「――私は'化け物'なのでしょう?ですから'化け物'として振る舞ってあげようとしているのです。感謝、して下さいね」
にっこりと、毒々しい笑顔で死刑宣告をするカズラ。同時に巨大ウツボカズラが、足元から業を徐々に飲み込んでいく。従来よりも、早いペースで。
「なぁっ!やめろぉっ!やめろぉっ!やめ―――」
男にしてみれば精一杯の懇願までも、巨大ウツボカズラは飲み込んでいき、そしてカズラは、人一人を飲み込んだ巨大ウツボカズラと共に、森の奥へと消えていった………。





「舞ちゃんっ!舞ちゃんっ!」
必死に叫んでは、服で血を止めようとするエッちゃん。既に、彼女の服は半分以上が破りとられていた。
しかし、そのどれもが血を完全に吸ってしまい、飽和状態となってしまっている。
「…………」
その様子を、今しがた来たばかりのサラは、痛々しい表情で見守っていた。可愛い妹が助けようと賢明に手当てをしている、その対象の命は、もう―――
「あっ!!!!サラ姉ちゃん!!!!」
「…………」
サラの存在に気付いて、エッちゃんはかぶりつくように近付いた。その目は必死そのものである。
「ねぇっ!舞ちゃんをっ!舞ちゃんを助けてぇっ!」
「…………」
エッちゃんは必死でサラに頼む。頼み込む。サラの服の裾をつまみ、何度も引きながら。

その目には、涙がキラキラと輝いている。
「ねぇっ!どうして黙っているのっ!?」
サラは、もう、黙っていられなかった。真実を話すことが、例えどれだけエッちゃんを傷付けることになったとしても――。
「――らないわ」
サラは、重々しく口を開いた。
「―――え?」
聞き取れなかった――あるいは、無意識に聞こうとしていなかったのかもしれない――



「………彼女は、もう、人間としては助からないわ」



「!!!!!!!!!!!!」
助からない。その一言に、呆然としたエッちゃん。暫く、身動きが出来ずにいた。
やがて、硬直が解けていくと――、
「う………そっ………じゃあ………舞ちゃん死んじゃうの!!!???」
返事も聞かず、舞の体を必死で揺らすエッちゃん。舞のため、と言うよりは、
「嫌だぁっ!死なないでっ!舞ちゃあん!死なないでよぉぉっ!」
自分の心を必死で保とうとして、必死で舞を起こそうとしていた。
体を揺らすことで、舞の血液が外に出る速度が早まった。それに気付かず、揺らし続けるエッちゃん。

「やめなさい!死ぬのが早まるだけよ!」

サラの一声で、正気に戻ったエッちゃんは、自分のしてしまった事を思い―――心がぐらついた。
「!!!!!!!!あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
エッちゃんの瞳から、涙が、いよいよ激しく流れだした。それは、絶望という暗い衝動を伴った涙。全ての悲しみを、強引に押し流してしまおうというもの。
サラは、自身の決断に少し後悔の念が混じり始めた。このままだと、エッちゃんから笑顔が消えてしまう。最悪、心が壊れてしまうかもしれない。姉として、それは避けたい。かと言って、このまま黙って見てるわけにもいかなくて―――!
一つ、思い当たった。最善ではないが、最悪の事態は避けられる、ただ一つの方法。
「…………一つだけ、魂を生かす方法はある」
「……っく………え?」
瞳の焦点が少し定まっていないままに、エッちゃんはサラに聞き返した。サラは、何かを思い出すかのように目を瞑り、続ける。
「…………この娘の魂を、貴女の中に取り込むのよ」
「取り込む………」
うわ言のように、サラの言葉を繰り返すエッちゃん。先程より、瞳に光が戻ってきている。
「――随分前にね、私より遥かに長生きしてるカタツムリが言ったのよ。『相手が強く自分を想うとき、魂は光輝く。私達魔物は、その肉体を食べることで、魂を永遠のものと出来る』って」
「魂を………永遠に………」
いよいよ光が戻ってきた。あともう一息と、サラは言葉を続けた。
「確証はないけど、多分真実だとは思うわ。だから………もう泣かないで」
サラは、エッちゃんの頭を静かに撫でた。時として人間相手に用いられる柔らかな指先越しに、仄かな暖かみと、エッちゃんを思うサラの気持が伝わってくる。
――気付くと、もう一つ、エッちゃんを撫でる感触が増えていた。
舞が、懸命に腕を伸ばしながら、エッちゃんの涙を拭ってあげようとしていた。色を失いつつある瞳には、聖母もかくもやらと言うほどの慈愛に満ち満ちている。その目は、エッちゃんに「泣かないで………」と、優しく語りかけているかのようだった。
二人のお陰で少し心が落ち着いたのか、涙が一時的に収まったエッちゃんは、瀕死の舞に向けて、優しく話しかけた。
「………っく、ねぇ、舞ちゃん。………わたしの、中で、一緒に、生きたい?」
舞は、声を出すほどの体力は残っていなかった。血は体から体温を奪い去りながら、どんどん流れ出ていく。意識も徐々に朦朧としだしてきたようだ。目の光も、徐々に消えていく、その中で―――。

い、っ、し、ょ。

「!!!!!!!!!!!!!!!!」
舞の唇が紡いだ四つの言葉。そして優しく微笑んだ顔。それを目にした瞬間、エッちゃんは先ほどまで抑えていた感情がもう止められなくなった。
嬉しさと、悲しさが、涙によって引きずり出され、溢れ出していく。
「……ぅうっ……ぁうっ……」
舞を抱き締めたい気持をこらえながら、エッちゃんは葉の一つを舞へと近付けていった。

それは大きな葉だった。人間男性の身長ほどの大きさがあり、舞くらいの子供なら、全て包み込んでしまえるような―――。
かぱぁ……、と音を立てて葉が開く。内部は柔らかそうなピンク色の襞で一面が覆われており、繊毛がそわそわと、風になびかれる草のように動いていた。
エッちゃんは、サラお姉さんに手伝ってもらいながら、泣きながら舞の服を脱がして、舞の体を、優しく葉の内側に置いた。そして、
「舞ちゃぁぁぁぁぁんっ!」
葉が閉じきるのを抑えながら、舞のやや青白くなった頬に、口付けをした。
やや冷たい頬。でも熱はまだ、完全には失われていない、柔かい頬。
エッちゃんが顔を離すと、葉は完全に舞を包みこんだ。エッちゃんは、大切なものを抱くかのようにその葉っぱを抱いて、
「……舞ちゃん………舞ちゃん……」
と何度も繰り返しながら、いつしか泣き疲れて眠ってしまった………。


∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫


……あ……れ?ここは?
まっくらだよ。……なにもみえないよ。
わたし、しんじゃったのかなぁ………。
あれ?でも、なんだろう。
あったかい………。
なんだろう、このきもち………。
からだが、きもちいい………。
なんか、ふかふかして………。

――とくん、とくん、とくん………――

なんだろう、このおと。
きいているだけで、なんか、あったかい………。
エッちゃんのおと?
………あはは。
エッちゃん、おかあさんみたいだね。
やさしく、やさしくしてくれて………。
ふぁ………。
なんだかねむくなってきちゃった………。
………エッちゃん。
ずうっと、ずうっと一緒にいようね…………。


∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫


眠ってしまったエッちゃんに、葉っぱの布団をかけようとしたサラお姉さんは、舞の入った葉っぱが仄かに輝いているのに気付いた。その光は、徐々に蔦の中を通り、やがてエッちゃんの体の中へと入っていく。エッちゃんの、人間で言う心臓辺りが輝き出したところで、サラお姉さんは布団をかけて、その場を後にした。
自分にはまだ、やる事があった。


∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫


「………まさかこのような事になるとは………思いませんでした」
「あら、ウツボお姉さん、獲物を一匹捕えてたんじゃ?」
「カズラ、お姉さんですよ、もーちゃん。次言ったらコッキーと呼びますからね」
「それだけは止めてカズラお姉さん。私達より長生きしてるあの生物を思い出すから」
「よろしい。………酷い味でしたわ。排気ガス、煙草、酒………」
「あぁそう。―――葉っぱもらえる?」
「ええ。いいですわ……」
「………わ、確かに酷いや。これは明日はあの清流の水を飲んで、日陰でずっと休んだ方がいいね」
「そうします………」
「じゃ〜私は自室に戻るね」
「その前に」
「え?」
「今まで貴女が、あの娘達について書いてきた、私の葉っぱを借りたいのですけど、いいですか?」
「ちょっと待って。今日の分を綴じてからでもいい?」
「………どのくらいで終ります?」
「もう終るよ〜。はい」
「ありがとうございました」
「いいって。じゃ、また明日〜」
「………さようなら」


∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫


「………具合いはどう?」
「サラお姉様………」
「………食べた相手が悪かったね。都会に行くと誰しもがこうなるらしいわ」
「そうですか………」
「………どうしたの?」
「………あの娘は、エッちゃんは大丈夫でしょうか?」
「…………」
「あの娘にとって、舞ちゃんは親友でした。それが目の前で無惨に殺されて――」
「――舞ちゃんの魂は、あの娘の中にあるわ」
「!!!!!!本当ですか!?」
「さっき、確認したわ。彼女の魂の光は、あの娘の中で輝きを放っている」
「そうですか………良かった……これであの娘も、そこまで傷付かずに――」
「………寧ろ、ここからが問題ね」
「え?どうしてですか?」
「………魂を、あの娘が将来的にどうするか、よ。そのままずっと、あの娘は彼女の魂を持ち続けるのか。それとも、新たな妹をあの娘が'産み'出すか」
「……………」

「まぁ、今考えることではないけど、将来、いずれ考えることになるわ。その時、エッちゃんはどうするのか。

――私達はその時、何が出来るのか」


∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫


「あははっ…………ねぇ…………今日はどうする?ん………じゃあ、こうして遊ぶ?…………いいね………じゃあそうしよっ…………」
夢の中で、エッちゃんは舞と、いつもの花畑で遊んでいた。その声は、まるで蝶々が舞うように軽やかで、とても楽しそうだった。
しかし、彼女の寝顔は………どこか寂しげな表情をしていた………。


その後、舞が帰らないことを心配した親の通報により人々は森を捜索。焼き切れ、血に濡れた彼女の衣服と、業の指紋のついた猟銃が発見された。
焼き切れた場所や血痕の状況から、舞は殺害されたものと断定。業は殺人犯として村に知れ渡った。
数日後、下半身を食い千切られたような業の遺体が発見された。村人達は森の野獣に襲われたものとして、あっさり処理した。その臓物の一つには、明らかに業の歯形がついていたのにも関わらず。


しかし、舞の遺体は、未だに発見されていないという………。

そして今、もう一つの話が村の中を巡っている。





それは、舞によく似た子供が、森の中で遊んでいる、と言うものであった………。



Fin.




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