ただ無気力に、空を眺める。
膝から先が八の字を描くように地面に座り、両手を股間の前にある地面に着いたまま、光の気配が見えない澱んだ――けれどどこか澄んだ瞳で空を眺める少女がいた。
剥き出しの地面と巨木の値の辺りに無造作に投げ捨てられている鞄。その口からはみ出している本には『はなみ つきひろ』と、御世辞にも綺麗とは言えない字で書かれていた。元々は彼女のものではなかったものが、お下がりとして与えられたものらしい。
全ての気力が奪われてしまったかのように、湿気で微かに和らいだ地面にへたり込む彼女。身に付けている黒のスカートは見るも無惨に千切れ傷が幾つも入り、紺の長袖シャツにクリーム色のチョッキ、そして防寒用のブレザーも全てが、切り裂かれ破れていた。両足の靴は脱げ、靴下も足の裏に大きな穴が開いていた。
みずみずしい薄肌色の腕も、綺麗な脚も、草や枝に切られたのだろうか、幾つもの裂傷が見てとれた。幾つかの傷は静脈を裂いたらしく、既に渇いた血の痕が、点々と残っている。
ボロボロという表現が適当な状態だというのに――彼女は自分に対して何もしようとしなかった。いや――何も出来なかった。ただ空を……見上げているだけ……。

――――――――――――――

それは一瞬の事だった。
あまりにも突然で、端的で、呆気なくて……だからこそ、理解が出来なかった。

電車の、脱線事故。脱線した電車は柵を壊しながら飛び出し……。
その時、彼女の母親は、咄嗟に彼女を突き飛ばした。何が起こったか分からないまま振り向くと、母親が居た場所に横たわる、異常な形にひしゃげた鉄の塊……。その先端部は住宅に激突し、見るも無惨な姿に変化していた。
母親の名前を叫びながら、ゆっくりと、恐る恐る、こわばりながら電車だったものに近付く彼女。周りの大人が叫ぶ声も耳に入らず歩き続けて……ようやく彼女が見つけたものは、真っ二つに体が裂けて、もう息絶えた後の母親の姿だった。

その瞬間、彼女の心は、ぱきん、と壊れてしまった。

さらに運の悪いことに、その先頭車両には彼女の父親と――兄が乗っていた。兄の名前は花見月弘。彼女の本の持ち主だった。
本当ならば、早く帰って一家の団欒を楽しむ筈だった花見家は、この瞬間に、娘だけを遺してこの世を去ってしまったのだ……。

――――――――――――――

……その日から何日経っただろうか、少女には分からなかった。一日のような、三日のような、それとも一週間のような……。
既に少女は、日付などどうでもよかったのかもしれない。寒さも、暑さも、痛みも、既にどうでもよかったのだろう。壊れた心では、絶望を感じることすら出来ない。
何処とも知れず歩き続けていたが、数日前からついに脚も動かなくなった。体が、限界を迎えているのかもしれない。それでも少女は、何も考えることなく、開ききった瞳孔を持つ瞳を空に向け続けていた。
睡眠も、覚醒も分からぬままに、少女はこの日も、命があり続ける限り、虚ろに留まり続ける――筈だった。

――――――――――――――

「女王様……」
木々の間を、高速で羽根を震わせ飛ぶ。まるで影を縫うように、時に蛇行して、時に急上昇急降下して飛ぶ一匹の蜂がいた。複眼、柿の身状に膨らんだ昆虫の腹部は白と黒の横縞に彩られ、先端には一度しか使えない、麻痺毒注入のための針が抜き身のまま生えている蜂だ……少なくとも、今述べた部分は。
ただし、複眼があるのは人間で言う目の、それも黒目の部分であり、昆虫の腹部は、人間で言う尾てい骨の部分から皮膚と繋がっており、羽根は肩胛骨の辺りから伸びているものであった。つまり、人間と蜂が融合したような生物なのである。
あと外見的特徴に付け加える点が在るのならば、首元はほわほわした綿毛状の体毛で被われており、それが手首と足首、それと股間から腰回りにかけてもあった。さらに手首から先の部分は清潔さが感じられるような白手袋を、足首から太股にかけては蜂の腹部と同じような、黄と黒の横縞模様のタイツのようなものを身に付けている。ちなみに腕は四本ある。左に二つ、右に二つだ。
蜂娘、と人間には名付けられるであろうこの存在は、しかし可愛らしいと表現されるであろう顔を焦りと恐怖に彩りながら、森の中を滑空していた。
「……女王様」
数日前、この蜂娘が母、すなわち女王蜂の治める巣が、人間の盗賊達によって襲われた。何匹かの犠牲者を出しつつ迎撃した彼女らを待ち受けていたのは、蜂娘殲滅戦を行う騎士団であった。
圧倒的多勢に無勢の中、女王は近衛蜂だった彼女に、ある任務を託したのだ。
則ち――。

「……女王様……」
左手の一つで既に折れてしまった槍を持ちながら、残りの腕で楕円状の物質を大事そうに抱える蜂娘。彼女の頭から生えた触覚は、右へ左へ風に吹かれて揺らされながら、'存在'を探している。それが女王様の願いであり――彼女達の希望でもあるのだ。
と……彼女の触覚が細かく震え始めた。その兆候に、蜂娘は目尻に涙を浮かべる。もうすぐ、もうすぐ女王様の意思が達成できる……それは最後の親衛隊員として、感涙すべき事象なのだ。
涙を槍を持つ左手で拭い去り、彼女は触覚の導くままに空を駆ける。目的を、達成するために。

そして――。

――――――――――――――

瞳は、近付かれる瞬間までその存在を捉えることはなかった。ただ……片耳に微かに響く羽音をはっきりと『音』と脳が認識した瞬間に、彼女はその存在を視覚で確認し――宙に浮き上がった。
普通であれば叫ぶなり恐怖するなりしたのだろう。だが……何も感じていないのだろうか、彼女は瞳を開いたまま、為すがままにされているだけだった。
何かに抱き抱えられた背中から、柔らかいものが皮膚に溶け込んでいったが、それすら何も感じないかのように、微動だにする気配は無かった……。

――――――――――――――

人間の体の中に、女王様から授かった卵が入り込んでいく。混ざり合うように溶け込んでいくそれを嬉しそうに眺める蜂娘。これを見届ければ、やるべき事は既に限られていた。そしてその事こそが、女王様だけでなく、蜂娘達の幸せにも繋がっていく事なのだ。
喜びの涙は、彼女の頬を伝って流れ落ちる。雫は月光を受けて、彼女達の髪と同じように黄金色に輝いていた。
蜂娘はひたすらに飛ぶ。
人の手の届かない場所へ。
安全に日々を過ごせる場所へ――。

――――――――――――――

少女はあの日以来初めて、事故のフラッシュバック以外の夢を見ていた。
自分が見たこともないような森の中で、自由に走り回っている夢だ。それを遠くで眺めているのは、父親と母親、そして少し意地悪だけど嫌いではない兄。
ゆき、ゆき、と兄が彼女の名前を呼ぶ。そろそろ帰る時間が来たらしい。はぁいと叫んで、そちらに近付こうとする彼女――ゆきは、その兄の顔が段々ぼやけていくことに気付く。父親と母親の方に視線を向けると、彼らも同じように顔がぼやけていった。
このままでは消えてしまうような気がして、ゆきは必死で追い付こうと走った。けれど、段々と彼らの姿自体がぼやけていく。早く……早く追い付かなければ消えてしまう!
――その思いが、彼女の体の根本を変化させた。懸命に走る彼女の背中がもごもごと盛り上がっていく。まるで埋め込まれていた球体のものが四つ蠢いてるかのように……。
びり、と背中の服が裂ける。背中ごと突き破って現れたのは、昆虫のような膜質の羽根だった。だがゆきはそれを気に留めること無く走り続ける。
段々と速くなっていくゆきの体。いつの間にか足は地面を離れていた。背中の羽根が、細かく振動している。空気を掴み、彼らに向けて体を飛び立たせて――!

――――――――――――――

「………?」
ゆきが目を醒ました時、夜空は既に見えなくなっていた……正確には、空自体が彼女の視界にはなかった。黄金色、あるいは琥珀色といった表現がぴったりな壁が、ドーム状に周囲を取り巻いている。一つある出口らしきものからは、輝かしい光が漏れてきているが、それはゆきの位置までは届かない。かなり先の方にあるのだ。
「………」
何ら驚く素振りを見せずただ眺めていたゆきだったが、光を目指そうとしているのだろうか、ゆっくりと立ち上がろうとして――失敗した。体が、何か白くてプルプルしたゼリー状のものに包み込まれているのだ。しかもよく見ると、そのプルプルしたものは彼女の周囲二メートルくらいを覆い尽くすほどの量があり、光の方に行くにはそれを掻き分けて行くしかないのであった。
もう一度立ち上がろうと体に力を入れたが、ろくに栄養をとっていない体に力が入る筈もなく、立ち上がろうとした瞬間に膝が砕け、前のめりに倒れてしまう。ぶるん、と大きく震えたその物質は、彼女が与える衝撃を、彼女ごと全て受け止めた。
と――先の衝撃で少し崩れたのだろうその物質の欠片が、だらしなく開いたままのゆきの口に入ってしまった。
「―――」
物体に受け止められたまま、彼女はピクリとも動かない。喉に詰まらせたのなら、肉体が反応して咳き込むが、その気配すらない。ただ、耳をよく澄ますと、微かに聞こえる音がある。それは彼女の口の中で、舌が件の欠片を味わっている音だ。くにゅ、ぷちゅ、とゆっくり舌で押し潰しながら、白いゼリーを細かく分解しては飲み込んでいく……。
やがて口の中に何もなくなったゆきは、口を微かに開いて、目の前に満たされたゼリーをぱくりぱくりと食べ始めた。小さな口で、ゆっくりと削るように食べるゆき。口の中で崩してもお腹に貯まるらしく、暫くすると彼女は口を動かすのを止めた。
同時に、瞼が少しずつ落ちていく。満腹になったことで、急に眠気が押し寄せてきたらしい。彼女は素直にその衝動に従うことにした……。

――――――――――――――

「……ふぅ……」
物陰からゆきの様子を窺っていた蜂娘は、彼女がローヤルゼリーを口にしていることを確認すると安堵の溜め息を漏らした。何せ、あの量を一人で、しかも短時間で精製するのにどれだけの体力と栄養を使ったか。これでもし失敗したら……考えるだけで暗くなりそうだ。
「……ふふふ……」
だが、結果としては大成功だ。件の少女は、暫くはローヤルゼリーを食べては眠る日々が続くだろう。その間に、彼女の体は……。
「……ふふっ……女王様……貴女様の遺志……私めが今、果たしておりますわ……」
そう誰にともなく呟くと、蜂娘は彼女の口許に、白い蜜を一滴垂らすのだった……。

――――――――――――――

歌が聞こえた。子供を寝かしつける、母親の歌だ。優しくて、暖かい、包容力のある声に、ゆきはうっとりとしていた。
誰が歌っているのだろうと首を巡らし、顔を確認しようとする彼女。けれど、顔を確認しようとしても、どうしても靄に隠れてしまう。すぐに思い出せる筈だとして記憶を探ってみても、どうしても顔が思い出せない。
おかしいと思った次の瞬間には、ゆきの顔はその胸元に抱きすくめられていた。記憶にはない、埋もれてしまいそうな程に柔らかい感触。立ち上る香りは、まるで糖蜜のようにどこまでも甘く、春先の太陽のように暖かく、そして優しい。
嬉しそうに背中の羽根を震わせながら、ゆきは胸に顔を思いきり埋める。抱いている誰かは、そんなゆきを強く抱き締めた。
まるで……二度と離したくないかのように。
しばらく埋めたあと、満足したように顔を上げた彼女が見たもの、それは――。

――――――――――――――

夢の世界から微睡みゲートを潜って現実世界に戻ってきたゆきは、しかし心はまだ壊れたままだった。ぼおっとしたように辺りを見回すと、目の前に見えたローヤルゼリーを口にしていく。その量も、寝る前に食べた量よりもさらに多くなっている。そして、食べ終わると、すぐに眠気が襲いかかり、夢の世界の住人となる。そして夢を見ると空腹になり、また起きてローヤルゼリーを食べ、そしてまた眠り、夢を見て……。
実は彼女の心は、壊れていたとはいえ、徐々に元に戻りつつはあった。それは蜂娘が眠るゆきにたらしていた白い蜜が心を治す効果があったからだ。しかし、彼女の心が戻ることはなかった。それは彼女の心の傷の深さを物語るが、同時に彼女の肉体の変化をも意味していた。
肉体と精神は、互いに連関している。既に彼女の肉体は、事故当時の肉体とは別物となっていたのだ。
彼女の体と融合したあの卵は、彼女の遺伝子を蜂娘の――それも女王蜂の幼生体に近付けていく効果を持っていた。蜂娘がゆきに与えていたローヤルゼリーが、その効果を促進すると共に、蛹となるために必要な栄養を彼女に与えていく。
栄養を摂取していったゆきの体は、連れ去られてきた時より一回りも二回りも大きくなっていった。まるで芋虫のように這って動き、大量のローヤルゼリーを体に取り入れてゆく。その様子を蜂娘は喜びの涙を流しながら眺めていた。
時おり、彼女は羽根を震わせ、羽音を眠るゆきに向けて聞かせるようになった。彼女の羽音が巣に響くとき、ゆきは夢の中で蜂娘となり、木々の間を風を巻き起こしながら飛び抜け、木の蜜や花の蜜を摂取して生き、自らも蜜を分泌して他の生物を潤していた。そして――自分そっくりの女王様が、そんな彼女を優しく見つめていた。時折呼ばれては抱き締められ、口に甘い蜜を与えられて、自分の蜜も吸われて……。夢のなかで、人間でいる時間が徐々に短くなっていることに、ゆきはついに気付かぬままに……。

――ローヤルゼリー最後の一欠片を口にして暫くすると、ゆきだったものは体の表面を蠕動させ、体を軽く蠢かせた。それはまるで来る時を迎えるために体をほぐしているかのようであった。そして動きが止まって暫くすると……彼女の皮膚が固く変化し始めた。ついに蛹化が始まったのだ。
少しずつ、今や芋虫状になった体が蛹と化していく。その時も、彼女は光の気配が見えない澱んだ――けれどどこか澄んだ瞳でどこにも焦点を合わせること無く眺めているだけであった。
やがて、表面の皮膚は全て変化し、蛹が完成した――。

――――――――――――――

「――っ!」
見覚えのある景色。けれど、どこかは思い出せない。思い出したらいけないと心が叫んでいる。けれど、私の頭はその情景に付けられたキャプションを読み上げていく。夕暮れ時、木の柵、鉄の摩れる音、団地の近く、コンクリート、押された体、轟音――お母さん。
「――!!!!!!」
目の前で真っ二つになった母親。
目を見開いて倒れている母親。
もう呼吸もしていない母親。
血肉が溢れ出ている母親。
もう助からない。
助からない。
誰か。
誰。

「い……嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
壊れたままの心が塞いでいた記憶の蓋が壊され、ゆきは忘れてしまいたい記憶と共に感情を取り戻した。親の亡骸の前で目を閉じて踞り、耳を塞いで叫ぶ彼女。だが助ける人も、気に留める人もいない。彼女がいるのは精神の世界。周りに、人は居ないのだ。居たとしても、彼女の記憶では……皆死んでいるのだから。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
周りの風景をかき消そうとしているかのように、ひたすら叫び続けるゆき。その行為自体が、彼女の記憶にこの光景を刻み付けていく。幾つも傷をつけて、忘れられないように……。

「……大丈夫?」

泣きじゃくる彼女の頭に、突然響いた声。それは取り込みたての布団のようにふかふかと、ゆきを包み込んでいく。耳から手を離し、泣き腫らした目のまま顔を上げると……そこには、ゆきをそのまま成長させたような姿の、蜂娘がいた。ただし、胸も蜂の腹部も通常の蜂娘より段違いに大きい。
「………」
ただ呆然と蜂娘を見上げるゆき。そんな彼女を――蜂娘は自らの胸に招き入れた。
ばふっ、と音がして、彼女の顔は蜂娘の胸に埋もれてしまう。日溜まりのように暖かく、躑躅のように甘い香りがする谷間に、ゆきは自然と顔を押し付けていた。涙が、自然と溢れ出ていく。先程までとは違う、悲しさをゆっくりと押し出そうとする涙。
そんな彼女を、蜂娘は四本の腕で抱き締めた。精一杯甘えさせるような、優しい抱擁――。種族は違えど、その姿はまるで母娘のようであった。

泣き疲れてくらくらしているゆきの口に、蜂娘は乳首の先端を含ませる。そのままゆっくりと、二本の腕で乳を揉み始めた。
じわ……と、滲み出すように溢れてくる蜜。それをゆきは、恐る恐る舌を出して舐めとっていく。舌のくすぐったい感触が蜂娘を刺激し、さらに蜜の量を増やしていく。
目を細めて美味しそうに蜜を飲むゆきの頭を撫でながら、蜂娘はゆきの耳元に囁きかける。
「大丈夫……これは怖い夢……大丈夫……ただの怖い夢よ……大丈夫……貴女は私……大丈夫よ……私はいなくならないわ……」
何度も何度も、ゆっくりとゆきに囁く蜂娘。呟く一字一句が、ゆきの頭の奥深くに刻み込まれていく。耳元を擽る風の感覚と、優しく髪を鋤かれる感覚がどこかこそばゆいのか、乳房にさらに顔を押し付けるゆき。蜂娘は乳首から大量の母蜜が出るのを気にせず、さらに囁いていく。
「……貴女は私……だから一つになろう……いなくならないから……私に入ってきて……一つになろう……」
その言葉に従うように、ゆきは蜂娘に体を押し付けていった。同時に蜂娘も、ゆきを抱き締める力を強めていく。
すると――ゆきの体が、蜂娘の体の中に沈み始めたのだ。それに驚く様子も、抵抗する様子もなく、少しずつ、少しずつずぶずぶと蜂娘の体に同化していく彼女――いや、ゆきが蜂娘に吸収されていく。
既に腕から下は蜂娘の体の中に飲み込まれている。だが、それに気が付いているのか、それとも気付いていないのか、依然として蜜を飲み続ける彼女の顔は、まるで全てを忘れてしまったかのような笑顔を浮かべていた。
いや、実際彼女は、母親の死を夢の出来事のように思ってしまっていた。それどころか、自分の存在すら、目の前の蜂娘と同じ存在であるかのように思ってしまっていたのだ。今までの夢の中で、人間としての記憶が、徐々に蜂娘としての記憶に溶け込んでいき……この瞬間、全て蜂娘のそれに吸収されたのだ。
「――」
この世の全てが幸せに満ちているような笑顔を浮かべるゆきの瞳に――澱みはもう無かった。あるのは、ただひたすらに澄んだそれだけだった。やがてその瞳すら……。

「……おかえり、ゆき……」

目の前の蜂娘の中に、全て綺麗に溶け込んでいった……。

――――――――――――――

蛹になって数日後、生まれてくるであろう女王に捧げる特製の蜜を精製していた蜂娘の耳に、乾いた竹が鳴らすような、ぴしりという音が響いた。
「――あ……ああっ!」
喜びのあまり精製を止めてしまいそうになった蜂娘だったが、女王に失礼があってはいけないと、再び作業に集中した。
その間にもぴしり、ぴしりと何かが割れていくような音が巣の中に響いていく。
「……ん……ぁぁ……」
罅の広がる音の中に、誰かの喘ぐような声が混ざり始める。いや、喘ぐと言う言い方では語弊があるか。貯えられた生命のエネルギーを声として発散しているような――。
やがて罅が蛹の中程まで入ると、そこからじわりと溢れ出してきたのは、甘い芳香を放つ澄んだ羊水であった。罅を押し拡げるように流れ出すそれは、徐々に勢いを増し――!

「――んはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」

蛹の中で踞っていた一匹の蜂娘が、誕生の雄叫び――いや、解放の歌声を響かせた。羊水に浸されていた全身を震わせながらおもむろに立ち上がると、纏っていたそれが地面に流れ落ちていく。
額の上から生えた二本の触覚が、空気に触れてぴくりと動き、縮こまり畳まれていた羽が徐々に真っ直ぐに伸びていく。百合と薔薇のアロマを違和感無く混ぜ合わせたような濃密なフェロモンが、全身から発散される。豊満な胸の谷間や美しい脇、綿のようにほわほわした白い毛で覆われた股間からは特に濃縮されており、抱え込まれているだけで大半の生物は抵抗する気を無くすだろう。
蜜をそのまま染料にしたような黄金色の髪の毛が、背中の羽根が震え起こす風によってふわふわと揺れる。首回りと手首、足首には股間と同じような綿毛が覆っている。
安産型の形の良い尻の少し上、人間で言う尾てい骨辺りから生えている、黄色と黒のストライプが鮮やかな蜂の腹部が、確かな質量を伴ってゆさりと揺れた。その大きさは蜂娘の平均より遥かに大きい。また先端には、針の代わりに太くしなやかな管が、ほんのりと伸びていた。
「……ふふっ……」
どことなく気品のある笑みを浮かべながら、成長したゆきに似た顔立ちの女王蜂娘は、ゆったりとした動きで蜜を精製する蜂娘のもとに移動する。そしてそのまま……。

「お疲れ様――有り難うね」

彼女の額に、労いの言葉と共にキスをした。
「!!!!!!!!」
その瞬間、彼女の体の中から大量の蜜が迸った。巣と同じ成分で出来た受け皿の中に、体の各所で分泌精製されていた濃密な蜜が、まるで黄金色をした滝のごとく叩き込まれていく。蜂娘にとって、女王の接吻をその額に受けることは最大の褒章なのである。
「――女王様、私は、私はぁぁぁぁっ……」
感涙にむせぶ蜂娘を胸の谷間に埋めながら、女王は赤子をあやすように彼女の髪を優しく撫でた。
「よしよし……先代女王の命を、よくぞここまで成し遂げて……本当に、感謝しております……」
蜂娘に優しく語りかける女王。浮かべる表情は、まさに慈母のそれといっても過言ではなかった。
「……ですから……今は静かにお眠りなさい……目が覚めたら……儀を行いますから……」
ぽんぽん、と背中を軽く叩くと、抱かれていた蜂娘は、力尽きたように倒れ込み……静かに寝息を立てていた。ゆっくりと、優しく地面に寝かすと、女王は優しく微笑みながら目を閉じて、自身の下腹部を優しく擦った。

「(ゆき……。貴女にも、心の底から感謝してるわ。私に親としての暖かさを伝えてくれた。心は奪われる悲しみで壊れてしまっていたけど、思い出は光輝いていたわ。貴女の光のお陰で、私は育つことが出来た。
さぁ……今度は私が貴女に返してあげる番。私の中で、蕩けるほどに愛してあげるわ……。繋ぎ合わせた心が、優しさと愛に満ちるように……。
そして、今度はあなた自身が……)」

ゆきの魂は、一部が女王の中に混ざり合った他は、全て女王の中に取り込まれたままであった。いずれ新たな女王を彼女が生むときに、彼女の魂を変質させて注ぎ込むのだという。
その日まで、女王は彼女に幸せを与え続ける。彼女が、夢でも事故の記憶を目にしなくなるまで。
ゆきの全てが、蜜に染まるまで……。

fin.




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