潮騒。
銀の砂浜。
明日には満月になるだろう月の照らす地上では、ロマンスを語り合うカップルの影が何組か見てとれた。
静かな海。寄せては返すその動きは移り気だと喩えられるけど、私はそうは思わない。お母様はいつでも一途だからだ。今日でもお父様と愛し合っていたし、明日もきっと愛し合うだろう。たまにお節介の風の精霊さんにからかわれて憤慨――というより恥ずかしがっているんじゃないのかな?――して、まぁ海が荒れちゃったりする事もあるけど。
「………んっ」
私は砂浜を歩き回っていた。別に忘れ物したわけじゃない。忘れ物をしたのはむしろ人間の方だ。カップルの影を縫うように歩き回る何人かの人間は、そうした誰のものか分からない'忘れ物'を寄せ集めているけど。
「………んっ」
正直、萎えたくなったりもする。どうして一日でここまで汚く出来るんだか。怒りたい感情を遥か通り越して呆れたとしか言いようがない。
自分達の生まれた場所を、自分達が還る場所を、こうもあっさり汚せるその心情が、私には全く理解できないし、それは理解しなくてもいい感情だと思っている。
「………ふぅ」
砂浜のごみ掃除が一段落着いて、私は一息ついた。今の私の格好は、正直可愛さとは一万と二千光年ほどかけ離れていると思う。『ティナ』と腕の辺りに刺繍された、上下お揃いの水色のツナギ――寧ろジャージ――、ほらね、可愛くないでしょ?でもお掃除で、可愛い服装を汚すのは嫌だし、可愛い服装は、大概動きづらいし。こういうのを、人間は『てきざいてきしょ』って言うらしいけど、そんなもの、当たり前じゃないのかな?自分が得意なものを自分がやる。得手不得手を弁えてやる事は当然じゃないのかな?人間は違うのかな?かな?
疑問は尽きない。まるでこの、ビニール袋に溜まったゴミのように、誰かが捨てたものを拾い上げて溜まっていく。
「………よしっ」
明日人間に会えば、少しは分かるのかな?そんな淡い期待を抱いて、私は集めたゴミをゴミ捨て場に持っていく。
裸足の私に、昼間の太陽が散々暖めたコンクリートは凶器にも等しい。靴を作ることも出来るけど、水がすぐに蒸発しそうな程に熱されたそれに、果たしてどれだけ通じることやら……。
でも作らなきゃ私の体が危ない、って事で、私はツナギの袖を取り外して、足の周りに巻いた。暫くすると、それが立派なスニーカーになる。これで短い間なら耐えられる。
私は素早く走ると、ゴミ捨て場にゴミ袋を分別して置いて、砂浜に素早く戻った。それだけで、スニーカーの靴底が足の裏すれすれになる。……厚底のサンダルなら良いのかもしれないけど、戻るときまでに同じようにすり減るから一緒だ。
だったら、最初っから早く移動して、パッと出してパって帰る、それが一番良い選択だと、私は思ってる。厄介事は、真面目にやってすぐ終わらせる、それが一番楽な方法だって、私は今までで散々なまでに学んだから……。
「………よしっ!」
清掃終了!私は解放感をそのまま行動に移した。上下のツナギとペラペラの靴を鉄板のごとく熱いコンクリートの上に投げ捨てた。じゅっ、と音がして、一気に服が蒸発していく。
そんな光景を気にせず、私は海の方へと戻っていった。
今日のゴミ掃除は、明日は海で遊べる事をそのまま意味する。
本来私達はあまり人間と関わるのはよろしくないらしいけど、この辺りのゴミ掃除をしたら、その次の日だけ、人間の世界で遊ぶことを許されるんだ。それが人間と結んだ『契約』なんだって。
「ふふふっ」
明日はどんな格好で外に出ようか、そんなたわいも無いことを考えながら、私は水の底へと潜っていった。
―――――――――――――
『お疲れ〜!』
『お疲れさま!』
『乙』
帰ってくると、他のみんなから同時に、お帰りコールが雪崩のように降ってくる。私はそれに一気に答えながら、自分の部屋に戻っていった。
「ふぅ………」
そういう種族とはいえ、一緒の顔がこうもずらりと並ぶと、確かに地上に一気に出たら驚くわよね……としみじみ思っちゃう。似てるどころじゃなくて、瓜二つ……いや三つ?四つ?一先ずとんでもない量な事は確か。
だってみんな……この海を統治しているお母様の娘だから。
ウンディーネって、確か人間は名付けていたかな。水に宿る精霊で、霊力の高い者はこの広大な海すら思うままだっていう凄い存在だって知らされている……らしいけど。
穏やかだけど、怒らせると人間を溺れさせたり食べちゃったりする、とも伝えられていて……と言うよりはお母様が伝えさせていて、だから人間と上手くやっていくために人間と約束を交わしているみたい。
その内の一つが――余程の事でない限り、人間を食べないこと。
お母様が最後に人間を食べたのが……最近だった気もするけど……あぁそうだ。ちょんまげの人が見られなくなった時だ。その時は確か、どこかの山から汚い水が流れてきて、私達の殆どが病気になっちゃった時だ。その時はお母さん、荒れに荒れて一つの村を飲み込んじゃったっけ……。でもその場所には何故かほとんど人はいなかったらしい。
兎も角、余計なトラブルを抑えるように、お母様は人間達と契約をしている以上、私達もそれを守るのは当然だったし、何より破る意味がなかった。
だって、普通に暮らしていれば破らないような、破らなくても別に暮らしていける様なものばっかりだもん。
わざわざ人間なんかを食べなくても、私達は生きていけるし、それに――食べたいとも思わないしね。
だって、あんなに面白い話を聞かせてくれるのに、そこまで酷いことをしている人じゃないのに、食べちゃうなんて酷いと思わない?
私は色々と知りたい。外の世界の事を。私達が行けない世界の事を――。
うきうきとした気分に浸りながら、明日外に着ていく服を選ぶ私。ん〜、やっぱりいつもの薄水色のワンピースがいいかな。気分的に。
服を用意したあと、遠足に行く前日の幼稚園児のような気持ちで、私は眠りについた。
明日が楽しい日でありますように――。
――――――――――――――
次の日、
「行ってきま〜す!」
お母様に元気一声そう伝えると、私は家を出て、海の底から地上へと向かった。出る場所はもちろん、人間が出入り禁止になっている入り江。流石に、海の中から人の形をした水が浮かび上がってくる光景は、人間にとってホラー以外の何物でもないでしょ。井戸の中から、テレビの中から、髪の長い女性が出てくる映画がホラーの傑作の一つらしいから。……それ以前に『わけがわかんない』事を人間は恐れるみたいで、少しでも違ったら、それだけでヒステリックになってしまうらしい。
そんなわけで、余計なゴタゴタを起こしたくない私達としては、人目につきにくい場所で陸に上がって、そこからこっそり周りと交わって遊ぶのが当然の行為だった。今までもやってきた事なのだ。
出入り禁止になっているだけあって、人間に見つかるような事は私が生まれてから一度として発生したことはないらしい。だから、この日も誰かに見つかることはないだろうと思って……ちょっと調子に乗った出方をしてみたんだ。
少し深くに潜って――そこから水面に向けて一気に上昇する!水飛沫を上げながら、入り江の地面より高い場所に飛び上がる私。まるで飛び魚のように、腕を広げながら滑空する私は、そのまま空中で体を一回転させて両足で着地っ!体操選手も水泳選手もビックリの大技を無事成功させて、誰もいないだろう辺りを見回して――。
「………」
固まった。お互いに。
硬直が完全に解けないまま、私はゆっくりと視点を下に下ろす。そこからゆっくりと再び上に上げていく。
足は見えることから幽霊じゃないことが分かる。脛の真ん中の辺りから上はよそ行きのワンピース。あまり着られていないのか、それとも新品を着ているのか、汚れ一つ見当たらない白だ。袖口から覗く腕は傷一つ見当たらない代わりに――白い。外にあまり出ていないのかもしれない。ワンピースに凹凸が目立たなかったりする辺り、多分私と同い年なのだろう。
「………」
私は相も変わらず硬直したままの彼女の顔を見つめる。日に当たっているとは思えない、この時期の海辺の客では見られない、染み一つない白い肌。開かれたまま固まった黒い瞳には海から反射された光がキラキラと映っている。
……ええと。今、多分見られたよね?海の中からどっぱぁぁんとウルトラC風味を決めるところ。人間には多分不可能な動き。で――私くらいの人間の子供が絶対できない動き。
ついでに自分の目線を下にずらしてみると……あ、水溜まりと足が一体化してる。彼女はそれを見てるのかなぁそれよりも早く人間の姿に擬態しないとあぁ上手くいかない一先ず落ち着かないと深呼吸すーはー。ふぅ。
……さて。
「あ、ここは危ないから近付いちゃいけない場所だよ〜」
う……自分ながら苦しい言い訳……。内心これはないでしょと自分に突っ込みたくなった。あぅ……。
「………」
で、目の前の硬直した娘はまだ硬直したままだったりして。……このままじゃ固まったまま一日を終えそうだ……。流石にそれは避けたいから、私は質問をすることにした。
「……えっと……今さっきの……見た?」
頷く彼女。やっぱ見られてたかあっはは〜、何てそんな事を思ってる余裕は無し。どうしよ。人間に正体がバレることはご法度。何とか誤魔化さないと……。
「え、えーとっ!この入り江はね、わりと色々な人が通ったり入ったりしそうなんだけど実は神隠しの入り江とか言われていてその訳がこの崖だったりしてあはは何言ってるんだろう私ええと落ちやすいから気を付けてって言うかこの場所に近付かない方がいいよその方が安全だよねぇ浜辺の方がいいと思うよ私は――」
最終的に自分でも何話しているか分からなくなってきたけど、とにかく多くを語って彼女に私のあの大ジャンプを忘れさせないと……あれ?目的ってそれであってたっけ……。
「……」
――正直に白状しよう。この時私は誤魔化すのに必死になるあまりに足の擬態を完全に解いている状態だったのだ。当然彼女が下の方を向いているのに気付いた時には既に遅し。今度は私が氷のように固まる番でしたとさ。
「……あなた……ウンディーネ……?」
固まった私に直接聞いてくる彼女。そのフィラメントのように細い声につられるように私は――頷いてしまう。……あ、ばらしちゃった。お姉さんや妹の話のように、叫ばれて逃げるよね、多分。……そしたら私も海に帰ることになるか。あぁ……昨日の夜は無償奉仕か……わざわざあんな熱い場所を歩き回って……?
「……」
あれ?この子……逃げる気無いの?ずっと私を見つめているみたいだけど……。
「……」
あれ?どうしてこっちに近付いて……?この子、私が怖くないの?聞いた話では、正体がばれちゃった時、皆怖がって逃げちゃったらしいけど……。
「――ねぇ……」
固まってしまって、体が思うように動かない私の目の前に、彼女は立って――。
「――一緒に、遊んで……?」
「……え?」
ええと、今、コノコナンテイッタ?
遊んで?
私が?
彼女と?
「……ダメかな?」
……いやそれは別に構わないんだけど、
「私……ウンディーネだよ?」
「そうだよね。ダメ?」
……ええと?
「ウンディーネだよ?」
「……ダメ?」
「……ウンディーネだよ?」
「…………ダメ?」
「…………ウンディーネだよ?」
「………………ダメ?」
……まさか同じやり取りを三回もやるとは思わなかったけど、でもこれではっきりと分かった。
――彼女は、私を怖がっていない。それも、私が人間じゃないって知って理解していて、それでも私と接しようとしている。
「………」
私は返す言葉もなく、彼女の姿を見つめていた。弱々しい笑みを浮かべながら、私に対して手を差し出してくる彼女。
「……ね、一緒に……遊ぼ……」
……どうして彼女はここまで私と遊びたがってるんだろう?っていう疑問もあったけど、それ以上に……私の中に、彼女に対する興味が沸き始めていた。ううん、興味なんて言葉じゃない。単純に、一緒に遊んでみたい……遊んで、彼女がどんな子か知りたい……。
私が抱いたのは子供ながらの『未知に対する好奇心』だったのかもしれない。でも、そんな事私には分からなかった。この子と一緒に居てみたい、そんな思いが私の心の容器をたぷたぷと満たしていたから。
だから私は――。
「……うん……いいよ!」
恐る恐る、でもしっかりと彼女の手をとった。
――――――――――――――
彼女の名前は、渡瀬彼方(わたせかなた)。どうもこの辺りに住んでいるらしいんだけど……この海に来たことはなかったみたい。何でも、お母さんやお父さんが連れていってくれなかったんだって。体が弱い……それが理由だって言ってたけど……。
確かに彼方は体が弱かった。駆け足で走ろうものならすぐに息が荒くなってしまうほどに。それでも静かにしてると言うよりは、寧ろ活発に動いていた。
それこそ、
「彼方、待ってよぉっ!」
私が時々遅れてしまうくらいに。
「……あははっ♪……こほっ」
でも、すぐに止まっちゃうけどね。止まった彼女には私はすぐに追い付ける。
「彼方……もう!話の途中でいきなり走らないでよっ!」
正直、私達は走ることに慣れていない。だって普段は海の中で泳ぐし。……歩くのはごみ広いのお陰で慣れてきたけど。
彼方は、肩で息をするのを何とか抑えて、にこやかに答えた。
「……ごめ……って……しれるのが……れし……ったから」
整えきれてなかったみたい。はい、もう一回。
「……ごめんね。……だって……走れるのが……嬉しかったから……」
「?」
どういう事なんだろう。まぁ体が弱いって言っているし、その辺りに関係しているのだろうけど。
あまり触れない方がいいんだろうな、なんて考えていたけど、彼方と過ごす時間の中で、そんな事を考えていた事すら忘れていった……。
彼方は水着を持ってなかったし、私も周りに正体をばらしたくなかったから、海で泳ぐことは無かったけど、
「……ティナ〜!」
「彼方〜!」
私達は海を満喫していた。降り注ぐ太陽の光は私たちに笑顔しているよう。時々雲が太陽を隠して、私達の肌を守ってくれたりしたのが嬉しかった。シルフの悪戯かな?
浜辺を一緒に走り回ってみた。砂に足をとられて一緒に転けたりもした。どうしてこんなに走りづらいんだろうね、砂浜って。でも……小さな蟹さんは普通に歩いてるし。
「……わ〜、蟹さんだ〜……」
蟹の親子が通り過ぎるまで、彼方はずっと見つめていた。私も一緒に見ていた。愛嬌ある小さな生き物を。
「……私……生きている蟹を目にするの……初めてなんだ……」
目を輝かせて蟹を眺める彼方に、触れちゃいけないよと私は注意した。愛嬌ある動きだから私も以前触れちゃって、指先が切られちゃったことがあったからね。人間の指なら切られることはないにしろ、挟まれるとかなり痛いし。
蟹はそのまま近くの岩場の影に。折角だからその岩場にも登ってみた。
「わ〜!すごいきれい……」
「でしょ〜?」
実は……ってほど秘密の場所じゃないんだけど、この場所はこの辺りの海を見渡せる絶景スポットだったりする。……ん?他の人間?大体昼間は浜辺にしかいないから、岩場周辺には近付かないんだよね。大体夕方辺りかな、集まってくるのは。
「こんなに広かったんだね……」
彼方がぼそりと呟いた声に、私は続けた。
「そうなの。太陽の角度次第では辺りの島も見えるんだよ」
島と言うか……岩場だけど。それも時々お姉さん達が歌の練習をしてる岩場だけど。
「へぇ、そうなんだ……」
そう言ったっきり、彼方は海を眺め続けた。
ざささぁ……さざざぁ……
穏やかな波音が響く。そよ風が産み出す、大人しい波。まるでそれは私達の間を流れる空気を表しているかのよう。
何となく肩を寄せ合ってみたくなった私は、何気なく彼女に凭れかかった。
「わ……」
人間らしい、暖かい肌。触れるだけでほんのり伝わってくるそれが、とても気持ちよく感じた。
「……ティナちゃんの肌……気持ちいいね……」
人間の体温よりほんのり低い私達の体は、人肌には丁度気持ちいい温度になるみたい。さっきより私に凭れかかる彼方に、私もさらに寄りかかった。
そのまま……二人の体温が一緒になってしまいそうな時間、私達はずっと凭れ合っていた。
さざざぁ……ざささぁ……
波音が、私達の体を優しく包んでいた……。
岩から降りた後、私達は砂の城を一緒に作ってみた。
「彼方〜、そっちはどう〜?」
「……ちょっと崩れそうかも……」
泥んこや土と違ってさらさらとしている砂は、ちょっとの風で吹き飛んでしまったりするけど、それでも二人で一生懸命に積み上げて重ね合わせて、砂粒を飛ばされながらも、何とか膝から腰の辺りまでの高さの塔を完成させた。悪戯好きのシルフの気配はないから、暫くは持ちそう。彼女ら、気の向くままに吹き飛ばすからね……。
「……もう一つ、作ろう……?」
「うんっ、いいよ!」
彼方の声に、私は元気よく返した。
他にも沢山……沢山。私は彼方と時間を忘れるほどに遊んだ。
どちらもお金を持っていないから、売店で物を買うとか、そんなことは出来なかったけど、それでも楽しかった。
本当に、楽しかったのだ。
――そうこうしているうちに、太陽はすっかり西に落ちようとしていた。
――――――――――――――
「あちゃ……もうこんな時間か〜……」
そろそろ海に帰る準備をしないとマズイと思った私は、帰りの挨拶を――、
「彼方、今日は遊んでくれてありがとっ!ま……た……?」
――全部言い切ることが出来なかった。
彼方の顔は、海で死んだ人を出迎える家族のような、とても暗い顔をしていた。それは何かを堪えているようで……何かを耐えているようで、さっきまでの笑顔からは、とても想像つかないような表情を浮かべていた。
「……どうしたの?彼方。そんな暗い顔しちゃって……また会えるんでしょ?私はこの海にいるから、ほら、彼方ってこの辺りに住んでるんでしょ?だったらそんなに悲しまなくてもここに来て私の名前を呼べ」
「ティナちゃん」
私の空回りした言葉は、彼方の一言で楽に遮られた。そのまま彼女が続けた言葉は――、
「……お願い……。私を……食べて……」
――私にとって、一番信じられない、予想すら出来ない言葉だった。
「――え……ちょ、ちょっと、どうしてそんな事を言うの?……私達は人間を食べることはないよ?」
正確に言うなら、出来ない、とも付け加えなきゃいけない。お母様が人間達とかつて結んだ協定がある。『海を過剰に汚すこと無かれ、さすれば我らは汝らの導き手となろう。さもなくば汝らは我らの糧となろう』。それがこの時に結んだ協定の一つだ。ここにあるように、よっぽど酷い仕打ちを海に与えない限りは、私達は人間を飲み込むことはない。つまり――食べることは出来ないのだ。
尤も――食べなくても生きていけるから、そんな行為をする意味が無いのだけれど……。
「……お願い……」
でも、それでも彼方は私に一生懸命しがみついて頼んでいる。
振り払うことが出来たのかもしれない。ううん、袖を水に変えればそのまま逃げることも出来た。でも、必死で腕を掴む彼女の尋常じゃない気配に押されて、私の足は氷のように固まってしまった。
「……彼方、突然そんなこと言われても、私達はそんな事出来ないんだから無理だって。自殺なんてしちゃ駄目だよ。それを他の人に頼んでも駄目だよ。何でそんな事を言ったのかは分からないけど、私はそんな事出来――」
何とか説得しようと咄嗟に出てきた言葉をひたすら口から流す私は――、
「……ティナちゃん」
――またも空回りに終わって、塞き止められた。鈴のように細く、でも凛と響く声の後、私達は静寂を再び手にした。
さざざぁ……ざささぁ……
波音が再び私達の耳に入る頃、彼方は再び口を開いた。その声は細々としていたけれど、私の耳にははっきりと届いていた。
彼方の話す、過去と、迎えるだろう未来を。
「……ティナちゃん。私はね……ずっと小さなころから、体が弱くてね……なんとかって名前の病気らしいけど、ずっと病院に入りっぱなしだったの。学校にも一度、行ったことあったんだけど……すぐ悪くなっちゃって……。
何回も手術したみたいなんだけど……全然治らないみたいなの」
楽しく遊んでて気にならなかったけど、確かに彼方はよく咳をしていた……それこそ、走って息を荒くする度に……。
病気の名前は分からなかったけど、相当酷い病気なんだろう、って事は分かった。彼方が生き物を知らないのも、病院の中しか知らないからだろう。
学校にも行けず、籠の鳥みたいな生活を送っていた彼方。どれだけ辛かったのか、私が想像できるような辛さじゃ無かっただろう。
もう一度彼方の顔を見たとき、彼方は――悲しい笑顔を浮かべていた。
「……もうダメみたいなんだ。私……お母さんやお父さん、お医者さんは大丈夫だよ、きっと治るよ、なんて元気付けてくれたけど……私……分かっちゃったんだ。私が……もうすぐ死んじゃうんだって……」
そんなこと無い、なんて無責任な事を言えるほど、私は子供にはなれなかった。多分、言ったら彼方は傷ついちゃうから……。
「……今日、海に来たのは……?」
私の疑問に、彼方は「うん」と頷いて続けた。
「……お母さん達にたのんだの。『海に行かせて』って。……ほら、あそこの病院。あそこに私はいたの……」
そう彼方が指をさしたのは、海に面するこの町唯一の病院(お母様によると)だった。
「……あそこでね、みんなで楽しそうにしているのを見ているとね、とっても羨ましかった。いつか私も、あんな風に遊びたいなぁ……って。でも……連れて行ってもらえることはなかった……」
今日までは、って彼方は言うと、そのまま少し黙ってしまう。私はそんな彼方に、何も言うことが出来なかった。
さざざぁ……ざざざぁ……
波音に背中を押されるように、彼方はまた口を開いた。
「……今日もね、本当は駄目だったんだ。私が何回頼んでも、お医者さんはダメだって。でもお母さんが『お願いします』って言ったら、ここに行けたんだ……」
嬉しそうな口調。でも私は――彼方の中に渦を巻く感情が少し、見えた気がした。次の彼女の言葉で、それは確信に変わる。
「――どうして……どうして私は何も決められないの……?体が弱いのも……外に出られないのも……学校に行けないのも……病院の白いかべを眺め続けるのも……同い年の子と知り合えないのも……どうして……どうして……どうしてどうしてどうしてどうしてぇっ!」
「っ!?」
さっきまでの静かな様子からは考えられない、彼方の取り乱し方。たじろぐ私に、ダムを壊した時のように溢れ出る激情をそのままに、彼女は私に有らん限りの感情をぶつけてきた。
「もうダメなのっ!どうして私は生まれてきたのっ!?病院の中でみんなを羨ましそうに眺めるためっ!?あれもダメこれもダメっていろんな事をダメダメ言われるためっ!?何にも出来ない病院の外にも出られないまま死んじゃうためっ!?もう嫌だよっ!どうして思うようにさせてくれないのっ!?どうして私に選ばせてくれないのっ!?私はずっと我慢してきた。我慢我慢我慢……それでどうなるの!?結局何も選べなかったじゃないっ!選んだものをダメって言われて、そのうちそのうちって引き延ばされて――結局何も選べないまま死ぬんじゃん!何も出来ないまま死ぬんじゃん!なら――せめて、死ぬ場所だけは選ばせてよ!どうして!?どうして私の好きにさせてくれないのっ!?」
「――」
私は何も出来なかった。ここで「それは彼方のために……」なんて言っても、聞き入れられる筈もない。尽きかけた寿命を肌で感じた籠の中の鳥は、鳥籠を蹴破り外の空を望む。それは魂を解き放つため……。
彼方は……彼方は自由を望んでいた。命が少なくなって、待っていても自由は来ないって思ったから、こうして外に出て――戻りたくないから、連れてきたお母さんを撒いてここまで来たんだろう。
でも――どうして、私に……!?
「……彼方ちゃん……」
さっきよりは落ち着いてきた彼方が、私の方を生気を失った目で見つめている。そして訥々と、言葉を紡いでいく。
「………ウンディーネは、海の化身。海は全てを受け入れる。お母さんに読んでもらった童話に書いてあったわ。なら――私の体も受け入れてもらえるんじゃないかな……って、そう思ったの」
「……でも、それって……」
私と遊んだのは食べてもらうため?
それって彼方は結局病院にいるのと変わらないんじゃないの?
その問いに彼女が返したのは――笑顔。あまりにも純粋で――それでもどこかずれてしまった笑顔。
「――本当はね、誰にも会わなかったら、岩場とその奥の砂浜で遊んだら、そのまま海に飛び降りるつもりだったんだ……だって、私に友達なんかいないから……ティナ、今日会った貴女以外いないんだから……っ」
思えば、最初から疑問に思うべきだったかもしれない。あの入り江に近付く人は、この辺りに住む人はいない。なのに彼方はあの場所にいた。どうしてか……?
――死んでもいいって思ってるからじゃない。
「……彼方……」
でも、私はそれでも彼女を食べることなんて出来ない。当たり前じゃん!さっきまで一緒に遊んで、楽しい気持ちにさせてくれた彼方を、友達をどうして食べる気になれると思う!?
「……ダメだよ、彼方。私は彼方を食べられないよ……」
「……どうして……?」
「どうして……って、さっきまで一緒に遊んだでしょ?また遊びたいって言ったでしょ?それなのに自分から遊べなくするようなこと出来ないよ……」
「……どうせ、もう遊べなくなるんだよ?」
「それでもっ!って言うかどうせなんて言わないでよっ!貴女の勘違いだってあるかも――」
「お医者さんが話してたんだもんっ!」
「っ!?」
「『もしもの時を、覚悟してください』ってっ!もしもの時って何?死ぬってことでしょう!」
医者が……多分、廊下で親と話しているのを、実際に死が近付いて過敏になった耳が捉えたんだろう。彼方は……その言葉で確信してしまったんだ。
自分は、もう永くない……って。
「……ねぇ……私を……食べて……?」
心の底から悲しい声をあげて、私に近付いてくる彼方。
「……ダメだよ、彼方……っ!」
私はそれを何とか留めようとする。それでも引き下がらず、強く求めてくる彼方。そして――っ!
「お願い……私を……っ、ぐぅぅっ!」
突然、胸を押さえて苦しみ出す彼方。私が駆け寄った次の瞬間――!
「――ごほっ……ごぼがぼっ!」
――大量の血ヘドが、彼方の口から吐き出された。その血が私の肌や服を赤く染めたけど、私はそんな事は気にならなかった。
「――彼方ぁっ!」
無理に無理を重ねて私と遊んでいた彼方の体は、既にボロボロだった。吐血を皮切りに、次々に咳を重ねていく彼方。胸の痛みにも苦しみながら、それでも彼方は――私を見つめ、私に殺してと頼んでくる。
「……い……いや……いやぁ……」
何をしたらいいのか、どうするべきなのか、私は全く分からなかった。彼方が苦しんでいるのに何も出来ず、彼方の願いを聞いてあげることも出来ない私は――!
「……いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
パニックに陥り、頭を抱えて叫んだ。私も限界だった。誰か、誰か私を助けて……っ!
「ぁぁぁ………」
やがて、叫び疲れた私が喉を休め、そのまま頭をあげると――
――――――――――――――
――世界が止まっていた。
比喩でも何でもない。文字通り、完全に停止していたのだ。波は立ったまま、水滴の一粒一粒は浮かんだまま、まるで写真のように止まっていた。
いつの間にか波音は消えていた。音と音の、微かな境目に投げ込まれたように、辺りには囁き声一つしなかった。
彼方も……私を見つめたまま止まって――?
『ティナ』
「!!!!」
私の背中から、大人の女性の声が聞こえた。ただ大人、ってわけじゃ無くて、もっと威厳に満ちた――!
「お母様!」
振り返ると、そこに居たのは深い青色のドレスに、マリンブルーのロングヘアを持った――私のお母様が、心配そうな表情で私を覗き込んできた。
『ティナ、貴女の叫び声が来たから来てみたら……どうしたの?』
叫び声――そうだ。さっき、私はパニックに陥ってたんだ。死んじゃいそうな彼方ちゃんの姿と、受け入れられない、歪んではいたけど――懸命な願い。
ウンディーネは人を食らう。その起源は遥か過去の話。お母さんが海を荒らす海賊達を倒すために仕方なくとった手段だ。これに懲りて、海を無闇に荒らさないよう、人間達に示すために……。
時代が過ぎ、人間が海を過剰に荒らす度にお母様は罰を与えてきた。つまり、人を食らうのは――そうした罰の意味合いが大きい。
だけど………。
「………お母様――」
私は、彼方の願いを、お母さんにすべて伝えた。
彼方の体が、もう数日も持たないことも。
彼方は、せめて自分の思う場所で死にたいって事も。病院の中で、いつものように見守られながら死にたくないって事も。
私は彼方ちゃんを飲み込みたくない。彼女に人のままで居て欲しい、って事。
そもそもその噂が事実と違うと伝えたけど、聞き入れられなかったこと。
そして――彼方の涙。
「――ねぇ……お母様………私はどうしたらいいの……?何をしたらいいの……?分かんないよぉ……っ」
彼方は、ずっと何も出来なかった。自分の意思は、ずっと封じ込められてきた。死ぬ間際のこの時期になっても、閉じ込められたままだった。
自分が、自分の思うままにならない。その思いが、彼方にとっての心の全てだった。なら――
『せめて、死ぬ場所だけは選ばせてよ!どうして!?どうしてわたしの好きにさせてくれないの!?』
――あんな言葉が出てきたとしても、仕方無かったのかもしれない。
だから、分からなくなってしまったのだ。私は何をするべきなのか。何ができるのか。
もう、限界だった。頭の中がまとまらない。このまま逃げ出してしまいたかった。逃げ出して、深い海の奥底で何もかも忘れ一人消えてしまいたかった。
自然と腕はお母様のドレスに伸び、私は顔を押し付けて泣いてしまっていた。
何の涙か分からなかった。分からないことの涙なのかもしれない。
『………』
お母様は、そんな私の背中をぽんぽん、と叩きながら、胸元から砂の入った瓶を一つ取り出して、中の砂を彼方にかけた。そして、瓶に新たな砂を入れ、また懐に仕舞った
「………お母様?」
今の行動の意味を、私はお母様に聞くと、お母様は静かに答えた。
『この砂は、'神隠しの砂'。かけた人間の存在を、周りの人間から消してしまう道具……』
……周りの人間から、消す……?
「それって――」
『もう誰も、彼女――彼方ちゃん、だったかしら?この子の存在なんか忘れてしまっているわ。思いでの品物も、全て消えてしまっているし、もしあったとしても、自分と関係あるなんてつゆも思わないでしょうね……』
つまり……お母様は、彼方と他の人間の関わりを、全て断ち切ってしまった、ってこと……。
お母様の瞳が、彼方の方を向く。やや哀れんでいるような、複雑な視線を、動かない少女に投げ掛けていた。やがて、溜め息と一緒に視線を外すと、今度は私の方に目を向けた。そして――
『彼女の魂は、ティナ、貴女がどうするか判断しなさい。それが――彼女の願いを叶えてあげる条件よ』
私に言い聞かせるように告げると、お母様の姿は、そのまま海に溶けて、消えていった……。
――そして時は動き出す。
――――――――――――――
「――ほっ!ごほっ!ごぼっっ!」
時が止まる前と同じように、激しく咳き込み始める彼方。本当に苦しいんだと思う。目の端っこに溜まる涙の粒、口の中から、端からまた漏れる血、次第に汚くなっていく彼女の声――!
先の事なんて、私は全く考えられなかった。
けど、先の事を考える覚悟は、あの閉ざされた時の中で十分すぎるほど培われていた。
「……彼方ちゃん」
私は小声で彼女の名前を呼ぶと――!
「――ごめんっ!」
「――!!!!」
――吸血鬼がかぶり付くような勢いで、私は彼方の唇に私のそれを押し付けていく。同時に、私の体を思い切り注ぎ込んでいく。
「!!!!!!!!」
苦しそうに身悶える彼方。ごめん!あと少しで苦しくなくなるから!
そのまま、服の擬態やら何やらを一気に解いて、彼方を全身で抱き締める私。私の体は次第に彼方の全身を包み込んでいって、身に付けていた衣服を融かしていく……。
「!!!!………――」
こぽり……と私の中に濁った血の塊を吐き出す彼方。流し込んだ体を一時的に逆流させて、体の外に追い出すと、私の背中の辺りからこぽん、と音を立てて落っこちた。地面には落ちないように、私は海へと体を伸ばして道を作り、海の中へと放り込む。お母様、ごめんなさい。後で綺麗にします。
血を吐いてからの彼方は、さっきまでとは違っておとなしくなった。発作がどうやら止まったみたい。私の体の中が気持ちいいのか、目をゆっくりと細め始めていた。
'……ぁ……は……'
彼方の中に私の体が吸収されていく……これから次第に、ゆっくりと私と一つになっていくのだ。頭の中に聴こえ始めた声が、同化開始の合図となっていた。
'……てぃなぁ……てぃなのなか……あったかいよぉ……ふわふわだよぉ……きもちいいよぉ……しあわせだよぉ……'
嬉しそうな声。それは全て彼方の心から私に伝えられているものだ。その言葉を聞いて、私の中に浮かんだのは――。
「――ごめんね……ごめんね……」
選択を後悔してはいけない。それは相手に失礼だ……でも、それでも、私は彼方に謝りたかった。
本当は、私はあの時に彼方を置いて逃げるべきだったかもしれない。そうすれば彼女にとっては辛いかもしれないけど、少なくとも私が遊んだ渡瀬彼方という少女の存在が消え去ることがなかった。でも――今私がしていることは……その少女の存在を、少女が幸せの感情に浸っている間に消してしまうことに他ならないのだ。
もしかしたら私は、彼方が消えてしまう悲しさに泣いているのかもしれない。だとしたら、私は何て自己中心的なんだろう。自分が望んで彼女を迎え入れたようなものなのに、自分で悲しむなんて。
彼方を取り込んで大きくなったお腹を抱えながら、私は涙を流していた。
'……ありがとう……てぃなちゃん……ありがとう……'
彼方のお礼の言葉すら、今の私には液体窒素をかけられたようにしか感じられなかった。私は――彼方にお礼を言われるような事はしていないから。
「……ううっ……いぐっ……」
次第に彼方の声も、膨らんだお腹も小さくなっていく。彼方の体は、もう殆んど私の体と一つになっていた。もう、元に戻ることはない。
「……ごめんね……ごめんねぇぇっ……」
安らかな笑みを浮かべながら、消えていく彼方の体。その笑みが消える前に――自然と口は動いていた。
「……おやすみ……なさいっ……かなたぁ……」
声に反応するように浮かべた彼方の笑みが――薄れて消えた。
「……ぅぅっ……あぁっ……ぅああっ……ぅあああっ……」
隣には誰もいない。体にいるのは、彼女だったものの魂だけ。もう二度と、彼女に会うことはない。記憶を残して、生まれ変わらせることなんて出来ないから。
何も出来なかった。
何もする事が出来なかった……っ!
「……ぅあああっ………ぁああああああああああああああああああああああああああああぁぁっ!あああああぁあああぁん……っ!うあああああああああああああああああああんっ!ああぁぁぁぁ……」
日が暮れて、月の帳が空に広がる頃、誰も近付かない入り江の中で、私はただ、泣いていた……。
泣き疲れて眠るまでずっと、ずっと泣いていた……。
――――――――――――――
その日から暫く、私は自分の部屋に籠っていた。まるで誰かと会うことをどこまでも拒むように。
ごみ掃除当番の日だけは外に出たけど、その翌日に地上に出て遊ぶことはしなかった。
しても……悲しくなるだけだから。
彼方の魂は、まだ私の中にずっといる。時おり優しい波長を私に投げ掛けてくるけど、私はそれに対して、ただ謝りたい気持ちで一杯だった。
もし自分が彼方と会わなければ……。
あの時外に出なければ……。
そんな思いばかり頭を巡っていた。
お母様は、そんな私を黙って見守ってくれた。
今の私にとって、そんなお母様の気遣いが、本当に嬉しかった。
――――――――――――――
満月の前日。
あの時から多分、三度目くらいの満月が明日に迫っている。
夏に比べて随分と昼間の人間も減ったけど、夜のごみ拾いは終わらない。
だって現に目の前に使用済み花火があるし。
「……はぁ……」
彼方の魂と一緒に過ごしてきた私。その間、謝りたい気持ちと自己嫌悪、そして悲しみで殆んど部屋に篭ってうじうじしてたけど、流石に自分でも思うんだ。
このままうじうじしてたら、彼方が可哀想だ、って。
彼方が願ったのは死じゃなくて『自分の意思で動く、という自由』。普通なら我が儘かもしれない。「私を食べて」なんて。でも――彼方はそれ以外に、自分を解き放つ方法を知らなかった。ううん、自分で自分をどうすることも出来なかった。
何もかもを決められて、そこに自分の意思がなかった。だから彼方は自分の意思で――死に場所を選んだ。……そう考えると、たまたま彼女と出会っただけの私は、単に貧乏くじを引かされただけなのだろう。
でももし、誰にも会わなかったとしても、彼女はこの場所で死を選んだ。死に場所を自分で選ぶ――海で死んだ場合、お母様の中に魂が囚われることになる……。
――もしかしたら、いずれにしても彼方は、どこかの場所に囚われる運命だったのかもしれない。そう考えると、少しやるせなくなった。
「……彼方……」
想い出の入り江に、私は一人立ち尽くした。あの日以来、立ち入る事が怖かったこの場所は、あの日と変わらない静けさを保っていた。ウンディーネ達の出入り口として使われているから、足跡は随分ついてるみたいだけど……。
暫く立ち尽くした後、私は土の壁に指を置き、動かした。ウンディーネだけに伝わる文字で、文章を書く。
私の、彼方への気持ちを綴ったそれを。
私は、これからやるべき事を考えた。人間を一人取り込んだことで、私もお母様みたいになる事が出来るようになったらしい。もしお母様みたいになれば、どこかの海や湖を治めるために、自分でウンディーネを産み出せるようになるみたい。
私はまだ力が足りないけど、お母様の元で修行して、力を付ければ、きっとお母様みたくなれるんだ。
そうしたら、彼方も……。
いいえ、自分で自分を許せる筈――。
その後、気の遠くなるような時間の後、お母様のそれとは別の海で、私は彼方を娘として産み出すのだけど、
それはまた、別のお話。
fin.
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