思い残すことなど、もう何もない――。
自らの保有するベッドの上で今、一人の老人が名を天に還そうとしていた。息子や妻が席を外した自室で一人、薄らぎつつある視界を惜しむように、瞼をゆっくりと閉じつつある彼の名はイーディ=イスキュール。
若かりし頃は冒険者、あるいは自警団として名を馳せており、幾度も襲い来る魔物を撃退した歴戦の猛者である彼。最愛の妻と結ばれ、子を多数もうけた後も、その力量はほぼ衰えを見せなかった。
高齢を理由に引退してからは、日々白髪に染まる己の髪に象徴される老いを楽しみながら、家族達と幸せな日々を送っていた。
老いが己の身を蝕みつつあると知ったとき、己がまだ壮健であるうちに心残りがないようにしようと、早々に遺書をしたためた。遺産の分配法、妻や息子に宛てたメッセージなどが書かれたそれは、前もって家族に置場所を知らせておいた。盗んで書き換えるような不届き者は、彼の家族には存在しなかったからだ。
息子や娘も、今や立派に成長し、それぞれの所帯を持つようになった。幸いなことに、今だ誰も死んではいない。逆縁を呪うこともなかったのだ。
一人残す妻――ライラには申し訳ない気持ちもあるが、これが天が定めた寿命である以上、彼にはどうすることも出来ない事を、妻は重々承知してくれていた。彼女なら、私が死んだ後も、きっと気丈に生きてくれることだろう。
もう、家族に対して思い残すことは、何もない……。
そう、家族に対しては……。
『……イーディ……』
……風が擦れるような声が、誰も居ない自室に響いた。少女のような、何処か弱々しく儚い声。だがイーディの耳にはしっかりと届いていた。
聞き覚えのある、声の主の正体。イーディはさして動かない首を虚空に――ある一点を見つめるように向けた。
ぼやけた焦点の瞳でも、彼女の姿は目にすることが出来る。表情はよく分からなかったが、恐らく悲しげな表情をしていることだろう。
「……オヴェリア」
虚空にいたのは、一匹の妖精――オヴェリアと名付けられた、ムーンダストをあしらったようなスカートが印象的な妖精だった。
はたはたと羽を動かしながら、彼の顔に辿り着くオヴェリア。壮年期と比べて幾らか痩せこけ皺の寄った顔。その額に軽く口づけをした。彼女なりの……挨拶である。
『……まさか私が、貴方を看取ることになるなんて……ね』
「……僕もだ……来てくれて……嬉しいよ……」
何処か哀しそうなオヴェリアの声とは対称的に、イーディの声はどこか晴れ晴れしたようにも聞こえたのだった。
彼らの出会いは、イーディが二歳くらいの時にまで遡る。偶々花壇の近くでうつらうつらしていたイーディに、オヴェリアがスピリチュアル的な運命を感じたのが始まりだった。幸いなことに、イスキュール家の両親は妖精の願い(ずっと側に居たい)を聞き入れるほどの度量はあった。無論、妖精の国に連れていかない事は約束させていたが。
それから、彼女は彼の人生をずっと見守り、彼女自身も彼と歩み続けていた。仕事場には、『隠匿(インビジブル)』を用いて側に待機し、彼を補佐したりもした。彼自身も大変な努力家であったので、それなりに成果を挙げており……オヴェリアは、イーディの側に居るのが当たり前になっていた。
それだけに、彼の妻となったライラに若干の嫉妬を覚えたこともあったが……、彼の人柄に似合う素敵な女性だったので納得してしまったり、互いに打ち解けあったり……良好な関係が続いている。
ただ、息子や娘達には、彼女の存在は秘密にしてあった。元々彼の側に居たいがために着いてきたのだ。彼の妻は例外にしても、その子らに態々伝えることはないだろう。そう彼も考えていたし、オヴェリアも同意見だった。
イーディ、オヴェリア、ライラ。この三人の関係は、こうして続いていったのだ。――今日この日まで。
『……長いようで、短かったわ……』
イーディと過ごした日々の事を思いながら、オヴェリアはふっ、と呟く。種族が違えば、当然体感時間も違う。妖精達の時間感覚は、自身の寿命から考えるに雄大だ。同時に、快楽を求める習性から刹那でもある。
「ああ……私が……小さい頃からだな……」
『……魂が、貴方に惹かれた。そう表現することしか出来なかったわ、あの時は……』
一目惚れ――当時の彼女の感情を表すのに、これほど適当な表現も早々無いだろう。運命。まさに運命だった。
「……オヴェリア……君は私の、何処に惹かれたんだろうね……?」
『魂、ね。貴方の内側から輝く、純然たる輝きを持った魂……それが私をまずは惹き付けたのよ。
それから、一緒に暮らすうちに……貴方の顔姿形から心に至るまで、全てが魅力的だった。出会えた運命を、居るかは分からない運命の神様に感謝したわ。素敵な人に出逢わせてくれて有り難う、って……』
「……魔王……は?今の……君は……」
『魔王様は運命を操れないわ。もしも操れたら、この世界は既に魔界になってはいないかしら?』
成る程、とイーディはゆっくり頷いた。確かに、真に運命が操れるなら、この世界の行く末を既に早々に操っているだろう。
敢えてしない、という可能性もある。けれど戯れに人間の遊戯に付き合うには、余りに今まで双方の犠牲が込みすぎている節がある。少なくとも人間よりも頭の良い魔王(オヴェリア曰く)だ。無闇に自らの軍勢に犠牲を出すような戦いは望まない筈だろう。
魔王は極悪非道と世間では教えられてこそいるが、実態は果たしてそうだろうか、そう考えてしまう事も彼は度々あった。少なくとも先代はその節もあったのかもしれないが。曾祖父の話を聞いた彼は、その凄惨さにいつも身震いしたものだ。だが……祖父の話を、今代の魔王に代替わりした瞬間の話を耳にした時、思わず唖然としてしまった記憶は今でも頭に残っている。
『魔王城の方面から、膨大な魔力の塊が放出されたのを、未だに覚えている。ちょうどワシらは魔物との戦闘の最中だった。いかにも狂暴な、女っ気の欠片もないような体をした、ワシらを殺めんとする奴等だった。その魔力の波に当たった魔物達が……目の前で次々と女じみた姿に変じていった。身に付けていた服も含めて、全て、な』
その後祖父はそれら……だった彼女達を降伏させ、自警団の元に連れていったが、懸賞金が貰えなかったと愚痴を溢していたが、その時にふと漏らした一言が、彼には印象的であった。
『……奴等、暫くするとワシらに色目を使い始めてな、体にしなを作って迫ってきたよ。流石に妻帯の身、自警団に押し付けてトンズラかましたがね……』
色目、迫る。恐らく性行動だ。魔と交わらせ、魔を増やす。交わった相手も魔に染まる。染まらなかったとしても、真剣に(形は様々だが)愛してくれている相手を邪険にすることなど、人間として出来るだろうか?
北風、太陽。先代が北風なら、今代は間違いなく太陽だろう。効率からいったら非効率かもしれない。浸透する時間と魔王軍の戦力を考えれば、北風方式の方が効率はいいのも確かだ。
けれど……現魔王は太陽を選んだ。闇色の太陽だけれど、少なくとも彼等にも、光を投げ掛けてくれている。
『……私がライラさんを認めているのは、彼女の魂が、貴方のそれをさらに輝かせるのを理解できたから。……ちょっと、悔しかったけどね』
少し伏せ目がちにするオヴェリア。先代の時代に比べ、今の魔物は遥かに感情豊かである、と祖父は漏らしていた。個体差種族差こそあれ、どの魔物も泣き笑い怒り悲しみそして喜ぶ。まるで人間のように。
人間を魔に近付けるのと同時に、魔も人間に近付ける。現魔王の融和政策。もしかしたら、お互いに歩み寄らせるためにそうしたのかもしれないな、彼は殆んど回らない頭でそう考える。
「……嫉妬……か?」
『えぇ、嫉妬よ。貴方を取られてしまうこと、それに嫉妬しない女なんて居ないわ』
再び哀しそうな瞳をイーディに向けるオヴェリア。ぼそり、と呟くように吐いた言葉は、彼女の闇といっても過言ではない言葉であった。
『貴方を妖精の国に連れていって、幸せの中で私と過ごそうなんて考えたこともあった。そうすれば、貴方は私とずっと居てくれる、ライラさんの元に行かないで……』
でも、と首を振るオヴェリア。心なしかその瞳が潤んでいる。イーディはそんな彼女をじっと見つめていた。
『でも、ね。そんな事をしてしまったら、貴方の魂の輝きは濁ってしまう。他の人とは違って、今より輝くことなんてない。それが分かってしまったの。
だから私は――』
「ある時期……暫く、私の前から姿を……消していた……と」
彼女の言葉を継いで答えた彼に、彼女は頷く。徐々にイーディの言葉が鈍く、不明瞭になっていく。
彼女は彼の側に居たかった。だがあの精神状態で彼の側にいたら、いつか本能が爆発して、彼を連れ去ってしまいそうだったのだ。故に、何も言わず、去っていった。
それに気付かない彼ではなかった。なるべく普段通りに過ごしていても、時折枕元に置いた砂糖水を気にかけていた。そして――当然それが何を意味するか知らないほど、ライラは無知ではなかった。
「……あの時は……ライラが手を強引に引いて……君の居そうな……場所を……逐一探し回ったんだよね……」
ようやく彼等がオヴェリアの居場所を探し当てたとき、日は西に傾きつつあり、二人とも服は汗だくになっていた。花の中で瞳を涙で濡らしながら眠っていた彼女をライラは叩き起こし、イーディを先に帰らせて、女二人の会議――座談会と洒落込んだのだった。
その甲斐もあって、その次の日からはオヴェリアはイーディの元に、何処かばつの悪そうな、それでも心の靄がとれた晴れやかな顔で戻ってきたのだった。
ただいま、と一言。
『……あの時ライラさんは、私が居なくなってから、貴方がいつも心配そうに砂糖水入りのコップを眺めているって話してくれた。毎日、ライラさんを気にかけるのと同じくらいに、私の事を気にかけていたって、ライラさんはちょっと悔しそうに言っていたかな。ちょっと負けた気がする、って。
そして同時に宣戦布告されたの。「貴女が彼を愛するのなら、私は彼を貴女以上に愛してみせる」って、ね。それで私は――妖精の国に連れていかず、イーディ、貴方を愛し続けることを心に誓った。奪い合い、取り合い、そうした面もあったけど……私は、ただ貴方が好きで好きでしょうがなかった――ライラさんと同じように』
恋のライバル、二人の女性を表現するのにこれほど適当な言葉もないだろう。一人の相手を、奪い合わず愛し続ける事を認め合った仲なのだ。相手が自分の事を大切に思うことを願いながら。
『だから――貴方に何度でも、天国に持っていってもらえるようになるまで言うわ。
――イーディ、私……オヴェリアは、貴方の事を、どこまでも愛している。
同時に、貴方にも感謝しているわ。私を――何処までも愛してくれて』
その言葉に……彼は静かに微笑みつつ……ゆっくりと口を動かした。
「……私も……だよ……」
そして、もう殆んど動かない腕を動かし、彼女の髪の毛をそっと鋤いた。
彼女は、そんな彼の手に、そっと身を寄せたのだった。
――――――――――――――
『せめて……痛みを和らげてあげるわ』
そうオヴェリアが取り出したのは、綿毛のような、白いホワホワとした物質が入った瓶。蓋を開き、彼女はそれを彼に振り掛ける。
「――?」
舌が動かなくなった彼は、不思議そうにオヴェリアを見つめると、彼女はそっと微笑んで、額に口付けをした。
『これは私達の国にある植物、ケサランパサランの綿毛よ。人間に対して強い幻覚作用はあるけど、同時に鎮痛剤としての効果もあるわ。
幻覚も、ただ幸せな気持ちにさせるものだから……』
言葉の途中で、効果が出てきたらしい。イーディの瞳がとろんとしてきて、意思の光がやや濁る。口は自然と上弦の月を描き、痛みから来る体の力が抜けていく。
「――」
ありがとう……そう唇は動いた。そんな彼に対し彼女は、笑顔で、彼を見つめていた。
『ううん……。最後に、私が貴方に出来る、せめてもの事だから……。
痛みもなく、幸せな思いのまま、天に昇って欲しいから……ね』
そう言いながらも、オヴェリアには分かっていた。イーディは、態々そんな行為をしなくても幸せだったと。それでも……彼女はただ見ているだけでは居たくなかった。
彼の心臓が、少しずつ弱く音を立てていく。確実に、終わりの時が近づいている。
イーディの瞳が少しずつ閉じていく。彼が瞳を閉じる間際まで、オヴェリアは笑顔を、彼に見せていた。
――彼女は気付いていただろうか。彼女自身の眼尻から、光の筋が頬を伝って、彼の体に滑り落ちていった事に……。
――命の時計は止まり、魂は天へと昇っていった。それは、この家に今居るものの誰もが感じられたことだった。
オヴェリアの居る部屋のドア越しに、啜り泣くような声が聴こえてくる。だがそれがオヴェリアに届くことはなかった。
彼女もまた――泣いていたから。
――――――――――――――
葬儀は家族でしめやかに行われた。ライラを中心に、息子達や娘達が、それぞれの思いを父に抱きながら、地方に伝わる葬儀を行っていく。
オヴェリアはそれを、ライラの肩の上からずっと眺めていた。彼への祷りの言葉を、彼女達と共に呟きながら。
「私はね、あの人と出逢って過ごした日々が、とても幸せだった。ただ幸せなだけじゃなくて、心の底から、『ああ、自分は幸せなんだ』って、納得できるような幸せを、あの人との日々の中でずっと感じていた。
オヴェリア、貴女もそうなんでしょ?」
息子達や娘達がそれぞれの家に帰ってから、ライラはオヴェリアに微笑みかけていた。オヴェリアはライラを見つめながら、素直に頷いた。
『うん。私もイーディに出逢えて、本当に幸せだった』
そのまま沈黙する二人。その沈黙は気まずさよりも、これから先をどうするか、心の羅針盤を定める強さが感じられる沈黙だった。
イーディを愛した記憶を胸に、彼女達はまた別の道を行くのだろう。
別れが生むのは、何も悲しみだけではない。
その先に向かうための力も、時に与えるのだ。
fin.
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