お決まりの一日がつまらない四コマなら、丸めて蹴ってゴミ箱へ。お決まりでなければ続きを描け。
退屈しない日常は、既に日常を越えている。当たり前だ。日常は言わばルーチン。ルーチンを満たせない日常は日常ではない。
その考えからしたら、今俺――アネス=スムルドの日常はまず間違いなく日常ではない。そもそも今まで日常があった覚えはない。
カホン使いは物好きじゃないとやってられん。寧ろカホンの名前すら一般人は知らない以上、路上パフォーマンスや音楽酒場への飛び込みをやらなければ生きていけねぇ。パトロンなんざ宛に出来ん。知名度のない演奏家なんざそんなもんだ。楽器も含めて、な。
で、そんな俺でも、今が日常を外れていることはよく分かる。理由?んなもん……。
――――――
『ロリポップ』
ロリポップを頂戴な
カボチャ被った子供が笑う
悪戯好きな子供達
棒付きキャンデー持てるかな?
顔より大きなロリポップ
みんなで分ける幸せがある
貴女も一つどうかしら?
今宵もまた来るかしら?
いつものように来るかしら?
夜更けより前に来るかしら?
明日も準備が必要かしら?
ぐるぐる渦巻くロリポップ
狙うお菓子はロリポップ
すぐに無くなるロリポップ
赤くて白い渦巻きに
甘酸っぱさを織り込んだ
それを舐めた子供達が
胸がきゅんとなるんだって
舌よりも赤いまん丸ほっぺ
綻ぶときには
幸せの粉が降り注いで
君は今日もまた来るかしら?
笑みを浮かべて来るかしら?
路地のこの店に来るかしら?
明日も準備が必要かしら?
ぐるぐる渦巻くロリポップ
狙うお菓子はロリポップ
すぐに無くなるロリポップ
幸せの粉が降り注ぐ
眠りに付いた子供達
夜も楽しき異世界の子ら
朝日が昇って踊り出す
グラスの中には砂糖水
妬む心が何処にもない
素敵な時代の子供達
今宵もまた来るかしら?
いつものように来るかしら?
夜更けより前に来るかしら?
明日も準備が必要かしら?
ぐるぐる渦巻くロリポップ
狙うお菓子はロリポップ
すぐに無くなるロリポップ
―――――――
「わは〜♪」
「あはは〜♪」
「あんこ〜る〜♪」
……この通り、今の相手はフェアリーの一団だ。どうやら偶々妖精の国からこちらに来てしまったらしい一団だが、帰るためにテンションを上げなきゃならんらしく、偶々目に付いた俺たちがそのテンション上げる役目を負うわけになった。
まぁ……その甲斐あってこの通りテンションが鰻登りになったわけで、既に妖精達が俺達を輪の外に手を繋いで回ってやがる。所謂『フェアリーサークル』だが、実物を見るのは初めてだ。……巻き込まれてないよな?大丈夫だよな?輪の外だし。
「ありがと〜あねさ〜ん♪」
「「ありがと〜らべるさ〜ん♪」」
回りながら、徐々に地面に浮かぶ転移の魔法陣。風の噂ではどこぞの宿では、妖精の国に住む人間の協力を得てこれの固定化に成功したらしいがそれはさておき……ちゃんと名前は呼んでくれよ。あねさんって、俺は男だぞ?ラーヴェルの奴も苦笑してやがるし……。
「おう、じゃあなっ!」
「じゃあね〜」
相手の妖精達に手を振る俺達。小さなお客さんだ。お帰りの際は優しく見守るさ。それがパフォーマーとしての務めだ。
地面に描かれた魔法陣、それが一際強く光を放つ。その光が俺達二人の目を強く焼いた瞬間、割と沢山いた色とりどりの妖精達は、魔法陣跡という証拠を残しつつ一人残らず消えた。
残されたのは、俺達二人。演奏後の疲労感が心地良い。
「……ふぅ。あの子達みたいな歌い方は、中々慣れないわねぇ」
「ラーヴェル……お前元アイドルじゃなかったのか?」
両手にあたる先端の鈎爪を重ね合わせ、んーと伸びをするラーヴェルに、カホンを仕舞いつつ俺は律儀につっこんだ。無論アイドルでも声色というものがある以上、差はどこかしらで出てくる事は知っている。彼女の場合、それが軽めなポップスに合わないだけだ。
彼女は失礼ね、と言いつつ、声の調子を確かめている。あのようなアイドル調は相当声に負荷が掛かるらしい。まぁ……歌声を直すために猛特訓したらしいからな……ラーヴェル。その苦労のお陰で、他のセイレーンより深い声が出るようになったらしいが、その代わり高く薄い声は出し辛いという。世の中上手くいかんもんだな。
……そもそもあんな歌詞を書くラーヴェルに問題があると言ってはいけない。音自体は俺がつけたからな。妖精にはあの手の歌詞や音響が効果的だ……が、どこか歌詞に悪意が感じられるのは気のせいか。
「そう言えば、これは私が生まれる前の話だけどね」
「ん?」
「'バフォネット'って言う遠距離会話用の道具があったらしいのよ」
「ほう」
「そこに書かれていた事に、'中学生以下の子供に手を出した罰'として'Agnusの刑'と言うものがあったらしくて……ね」
「歌詞に悪意込めすぎだ」
やっぱり込めてたのかよ。通りで頭文字からサビを作ってたのか……。
――――――
人と鳥の二人旅、と聞けば鳥が飛ぶ中、それを追うように旅する人間を想起するかもしれない。あながち間違いではないが、問題が幾つかある。その鳥が人の外見を持ち、その歌に魔力が籠もっていることだ。
セイレーンとの二人旅。この時点で日常からは若干外れることになるが、それ以上に二人で旅を始めてからやたら魔物関係で絡まれることが多くなった。
例えばホルスタウロスの子守唄(親まで一緒に寝ていたがな)。
例えばリザードマンの故郷の歌(旅をしていると時々聞きたくなるらしい。つか寧ろラーヴェル、海出身のお前この歌よく知ってたな。これ内陸地方の歌だぞ?)。
例えばドライアドの森の歌(マンドラゴラが叫ばなくて良かったぜ……何故あぁも周辺に埋まってるんだか。しかも演奏後増えてるし)。
例えばラミアの輪舞曲(人間に擬態中で、上手く舞踏会で踊るつもりだったらしい。上手く行くと良いがな)。
こういった具合に、道行く魔物達に半ば強引だったりする場合もあるとはいえ、歌の依頼をされたりするようになった。カホンの外観と、陸をゆくセイレーンが珍しいからだろうか。
勘違いする人もいるだろうが、人間相手もかなりやってはいる。寧ろそちらの方が多いくらいだ。旅出の歌、祭りの歌、時にメランコリック……え?セイレーンの歌の魔力はどうした?乱交万歳の能力だろ?
流石にその辺りの対策は万全だ。歌うときに、魔力遮断の首輪をラーヴェルは身につけている。魔力遮断とはいっても、人間擬態の術は発動し続けるという御都合主義もいい代物だ。何でもマーメイド達が歌を練習する際に使用していた物をセイレーン用に作り替えた物らしい。便利な道具があるもんだ。まぁ念のため、魔防増強の道具を人間に対しては付けてもらっているがな。今のところ被害はゼロだ。
で……そんな奇妙な二人組の俺達が現在何処にいるかというと……。
―――――――
「水ぅ!元気の良い水売ってるよ!是非見てっておくれ!」
「火と風から貴方を守る!マンドラマント、一着3000でDo-Dai!?」
「ナドキエ出版からの新刊、『泡は焦がれ、綿は笑む』を入荷したよ!あのベストセラー作品『時計の針はそのままで』の……」
「一口食えばおったまげ!二口食えばバビョーンと!新作肉料理『ベルキル』!是非挑戦してみて頂戴!」
「スフィンクスに挑戦する貴方へ!基本リドルを学んどけ!そのためにはまずこの本だ!」
「……凄いわね、この町」
「……ああ」
立っているだけで気圧されそうだ。この砂漠の入り口となる町――アレイグラドの住民の商魂逞しさに。寧ろ辺りに溢れる大量音声に。
「フリスアリス領も元気だったんだけどね……」
「流石に、比較対象にもならん……」
人だろうが魔物だろうが関係なく商売が交わされる空間……耳が痛い。鼓膜がヤバい。だがそれでもこの活気が妙に心地良い。荒々しくも暖かさがある。熱さがある。
おそらくジョイレインの祭りにも勝るとも劣らないだろう活気の中、俺達は西に行くための準備を整えた。まずは水、次に食料。流石にのたれ死には洒落にならん。
「あら、セイレーン用の防砂服も売ってるのね」
「おうよ姉ちゃん!その品はな『砂漠の歌姫』御用達だぜ!きめ細かい布地が砂の進入を防ぐ一級品だ!どうだ!一枚買ってくか!?」
あちらでは布着を扱っている。わりとラーヴェルの普段着に近い感じの、全身に巻くタイプの布だ。……マミーじゃないぞ。あれは包帯だ。まさか砂漠の砂風で喘ぐのを『歌う』とか言ってるんじゃないだろうが……。
「幾らするのかしら?」
そんな俺の考えをよそに、ラーヴェルは商談に入ろうとしていた。
「ヘヘッ、本来は20000行くところなんだが、姉ちゃんは可愛いからおまけで16000でどうだ!?」
その言葉に、ラーヴェルの目の色が、幽かに変わった気がした。同時に、店主の目も変わった気がする。この二人の周りに何故か空気が渦を巻いて見えるのは俺だけではないだろう。というか、そうであってくれ。
「……10000は?」
「16000だ」
「11000でどうかしら?」
「んなら15500だ」
「じゃあ11500」
「ん〜、さらにおまけで14500だ!」
「12000ね」
「14500だ。これ以上はまけられねぇ。カミさんに叱られちまうぜ!」
「私も折れるとしたら12500が限度ね。どうにかならないかしら?」
……何つー値段交渉バトルだ。通常の何倍をふっかけて来るか知れたもんじゃねぇ……。しかし、ラーヴェル、お前どんな人生経験積んできたんだよ……。
両者にらみ合いのまま、暫く動きを見せない二人。このまま別れて終わるかと思ったが……ふと、ラーヴェルが器用に、端の籠に入ったくず布を指さした。指とはいっても、羽の先だが。
「……あそこにあるくず布のうち、この布の修繕に使える物を幾つか追加したら、14500でも構わないわ」
その申し出に、店主は考え、指を折りつつ……頷いた。
「――よし、その申し出に乗るとしようか!14500だな……よし!毎度あり!」
金銭を受け取ると、早速くず布の質を確認する店主。そのまま三〜四枚程、購入品のそれと同じ色合いの布を選び、布着と共に袋に入れ、ラーヴェルに手渡した。
それを器用に羽を通して受け取ると、そのまま店を去るラーヴェル。買い物結果は……まぁ店の勝ちらしいな。
惜しいことをした、そんな表情を浮かべながら、ラーヴェルは俺と再び合流した。早速着替えるのかと思ったが、そうでもないらしい。砂漠に入る前には、まぁ着るとは思うがな。
俺も粗方食料は買った。準備自体は出来ているが、折角の町だ。粗末でもいい、今日は宿を確保して寝るとするかな。
……その宿でも値段交渉をするラーヴェルには……何というか……当たり前だとは分かっているんだが……うわぁ。
――――――
実は、行動を共にしているとはいえ、俺はラーヴェルとはまだ一度も体を交わしていなかったりする。理由は……俺に交わる気がなかったのもあるが、何よりラーヴェル自身が自制していた節がある。彼女なりの流儀だろうか。問いかけるのも野暮だし、まぁ何も問わないでおこうか。
「……星が凄いな」
星空は見慣れてはいる。こちとら旅の楽士だ。野宿の夜に眺める空、満天の星。手を伸ばしたとして掴めない距離にあるはずのそれを、どうにも身近な存在に感じてしまう時間だ。
「ええ……」
意外なことに、ハーピーやセイレーンは頭上の空をあまり見ないらしい。子供時代は見ていたらしいから、飛んでからの問題か。だとしたらそれも分かる。飛ぶときに頭上に目を向けられる筈がない。その点人間は贅沢だ。歩きながら頭上の空を見られるからな。
「……あの星の名前は、何だったっけな……」
空を見て、星が目に入ると、思わずやってしまうことに、その空に存在する星の名前は何かと考えてしまう。作詞の時の癖かな……歌うぞ?ただ叩くだけだと思うなよ?
俺が指さす先を、ラーヴェルも眺める。ハーピー種が鳥目、というのは嘘だ。夜でも視界は開けている。
「……えぇと……ちょっと分からないわね」
「そうか……」
もしかしたら、名前が付けられていない星かもしれない。星座一覧表か何かがあれば分かるかもしれないが、俺はそんな物持っていないし、持っていても……滅多に使わないだろう。
「……」
そのまま暫く沈黙が続く俺達。星空を眺めていたのもある。だがそれ以上に、二人で交わす会話のネタがない。
無理に捻り出すものでもないから、沈黙の流れるままにしていた俺の耳に飛び込んできたもの。
「……ねぇ」
「……ん?」
窓に両羽をつけつつ、空を見上げるラーヴェル。その口から漏れたのは、素朴な、しかしはっとさせられる問題ではあった。
「……名前のない星は、無いものと同じなのかしら……?」
「……」
違う、とは言える。名前が有ろうが無かろうが、そこに在る事に変わりはないからだ。目に見える物が'在る'わけではない。在る物が'目に見える'だけの話だ。そう言えば楽になっただろうか。
だがそれが情もない返答であることは俺は十分承知している。言うにしても間合いは大事だ。まずは俺は沈黙を選び、ラーヴェルの言葉を促した。
それに応えるように、彼女はオーボエのように澄んだ声で続けた。
「……アイドルは、光が当たらなければ、存在しないも同然なのよ。光が当たり、輝いて初めて、アイドルはアイドルでいられるの……」
でもね、と呟くラーヴェル。その顔は、どこか寂しげでもあった。
「……でも、彼女達はアイドルである以前に、れっきとした一人の存在なのよ。光が当たらないだけで、存在はそこにある。けれど、光が当たらない限り、それは気付かれることはないわ。持つ名前すら、ね。
……それって、存在しないことと変わらないわよね?」
「……」
その通りだ。存在はする、だが気付かれない。初めから存在しないのと、そこに何の違いがあるだろうか。名前を持つ、ゼロの存在。文字にすると妙な話だ。
「……考えるほどに残酷よね。私達も、彼女達も、お互い通う道は残酷よ。光を与える人の身勝手で、全て決まってしまうもの……六等星だって、もしかしたら大きいかもしれないのに、輝かないから名前が付けられず、そのために誰にも意識されないなんて、ね……」
「ラーヴェル……」
『##』を案じているのか。それとも自らを省みているのか、それは分からない。俺は前者と言うよりは、寧ろ後者だと感じている。
ラーヴェルは照らされた相手に歪められた。そして元の姿を消した結果、今度は過剰なまでに光を当てられた。会った相手が悪い、言ってしまえばそれまでだが、それを割り切れるのなら、今の彼女は無かっただろうし、こうして後輩を案じるような言葉も出てこないだろう。
……にしてもな。
「……つくづく思うぜ。アイドルってのは星に似てるってな。
ラーヴェルの言う通り、光の当たり方で屑星もいっちょ前に光ったり、光の届かないビッグスター、さらに寿命を迎えたアイドルが未だにカリスマ誇ってたりな」
前の二つは、ジパングで伝説になっている藪医者の話だ。ラーヴェルも多分知っちゃいるだろう。一番最後はブラックホール。'名付けられた存在'の残滓だ。展開まで似せなくてもいいのに、と思わざるを得ない部分もあるが。
だがな、と俺は言わせて貰う。
「――俺達は星じゃねぇから、星とは違って多数は輝かせられねぇが、星とは違って自ら光を投げかける存在にはなれるんだぜ?
残酷かもしれねぇが、その道を選んでいるんなら、俺達が光り輝いて照らせばいい。光が足りないなら、もっと輝きに行こうじゃねぇか。
幸い、今の俺達には知らしめる'名前'があるんだから……よっ」
教会や反魔物勢力に見つからないよう偽装しつつ進んだ旅の途中、俺達は何度も路上ライブを行っていた。俺の名もそうだが、ラーヴェルの名は徐々に広がっている。
この前の草原では、
『おや、珍しいですな?最大の武器を自ら鞘に収めているなんて』
と彼女に話しかけてきた、取材に出ているという烏天狗や、
『その箱、箱じゃなくて楽器なんだ!皆に教えてくるね!』
と、唐突に現れた宝箱からひょっこり顔出したミミックに、
『歌!唄!詩!SONG!良い声してるじゃないか君ぃ!それに打!撃!鼓!BEAT!懐かしくも斬新なグルーヴ!ねぇねぇ君達二人の名前は何かな何かなねぇねぇねぇ!』
……妙にウザったらしい、バックパックを背負った太り気味の人間男が、一気に俺達の名前を聞いてきて……誰が広めたか知らんが翌日会った奴が、早速ラーヴェルの名前を指さし叫んできたからな。……そんなに特徴的なのか?俺達。
兎に角、俺達にはまだチャンスがある。無ければ作る。光を投げかけるのはその後でも遅くねぇ……いや、遅くねぇのは嘘か。いつでもそう言うのは遅いものだ。だが、ただ遅いと嘆くより、嘆かないだけの力で、届く範囲でそんな『六等星』を見つけて輝かせる。
嘆くならば、動け。それは俺のカホン布教も同じだ。有名になれば、それだけこの楽器も輝ける。知られないと恨むなら、知られるように叫び、打つしかない。それが輝くための手段だ。
「……」
彼女の沈黙。はっきり言えば俺の言葉は楽天的な理想論だ。実際そう上手く行くわけがない。意見を体に受け入れるには時間はかかるだろう。
「……まぁ、先は遙か遠いが、暫定の最終目標地点の理想郷くらいは定めておく方がいいだろ。それすら通過点かもしれねぇがな」
あくまで楽天的な俺の言葉に、ラーヴェルは何処か呆れたように返す。
「……その行く先を、誰かが幻だ、と呟いたら?」
やや茶化すような口調で、俺は彼女に向けて呟いた。そろそろこの話を終えよう、という思いを込めて。
「その時は……幻と名前を抱いたままオサラバするか?」
素敵な未来ね、そうだな、とお互い笑い、俺達はそのままそれぞれのベッドに横になった。かれこれ……何日ぶりかのベッドは、微妙に心地よかった。
流石に氷点下の気温とまでは行かないが、昼の暑さからは想像できない寒さを誇る砂漠沿いの町。毛布は多めにしているし、窓も閉めた。あとは夢の世界に入るだけだ。そう目を瞑ったところで、何処か恥ずかしそう……と言うか何処か辛そうにラーヴェルが一言。
「あ、アネス。セイレーンには発情期があるんだけど……もしかしたら旅の途中、どうしても抑えきれなくて、貴方を襲っちゃうかもしれないから……」
「……覚悟はしとくさ」
わざわざ言わなくてもいいのに……と思いながらも、彼女の言う発情期を、'我を忘れる時間'と置き換えると、何となく言いたくなる気持ちも理解できる気がした。
誰でもなくなる時間、もしかしたらそれを、自分を抑えてきた節のあるラーヴェルは怖がっているのかもしれない。
――それこそ、過剰に。
――――――
誰かは俺達に問うだろう。
何時この旅を終えるんだ、と。
俺はこう答えるだろう。
旅立ってもいないのに、何故終わりなど尋ねるのか、と。
彼女は……ラーヴェルは、一体何を答えるのだろうか。
――――――
俺達の当面の目的地である『奴隷国エヴァンズ』までの案内を町で買って出たのは、代々砂漠を案内する役目を担っているというケンタウロスだった。
まさかケンタウロスが、という思いもあったが、それ以上に驚いたのが、彼女が名前を持っていないことだった。誰もが『案内人さん』と呼ぶうちに、自身の名前を忘れた、と当人は言っていたが、果たしてそれが真実やら。
「魔物すら珍しい砂漠の中で、私の名前を問う奴などいないからな。私は旅の案内人だ。それ以上も以下もないさ」
寂しさの欠片もなく言い切る彼女のその声に戸惑いこそ覚えたが、彼女の来歴を聞けば、それも何故か納得できてしまう。
彼女の母親も、祖母も、そのまた祖母も……祖母が祖父になる頃までずっと、彼女の家は代々砂漠の案内をやっていたらしい。そして、その母も、祖母も、そのまた祖母も……祖母が祖父になる頃までずっと、一族は名無しのままでいたという。
「まぁ、『案内人さん』というのが名前のようなものだ。特に気にする事はないさ」
今の雲一つ無い青空のように明るい声で話す彼女に、俺達は何も言えなくなるのだった。
ひとまず料金は彼女に先払いはした。荷馬のような役割を担う事になる分、チップも多めにして。
俺とラーヴェルと案内人の、砂漠行脚の始まりだ。
―――――――
「この辺りはな、私の祖母の祖母の、そのまた祖母の……遙か先祖の時代は、かなり肥沃な大地だったという。まぁ、祖母が祖父であった後の話だがな」
無駄にスケールが大きい案内人の話を耳にしつつ、俺達は砂漠を、適度に水を口にしつつ歩いていく。相変わらず空は青い。雲一つ無い空からは憎たらしいほどに刺激的なサンライトが俺達に向けて降り注いでいく。
乾燥しているから割と着込んでいても大丈夫だが、肌を出している部分は日焼け確定だな。ラーヴェルに至っては肌の露出を極端にまで抑える着方をしているし。
「……そこかしこに短い草があるのは、その名残かしら?」
ラーヴェルの何気ない問いに、案内人はゆっくり頷く。
「表面こそ砂が覆っていて、命も絶え果てたように見えるけれど、実際はまだ自然は生きている。命はまだ途絶えてはいない。砂の下で、じっくりとこの地を支えているのだ」
伝えられてきた話だがな、と彼女が〆るその表情は、何処か物悲しげではある。視線の先に'死んだ川'があるのも確かだが。
かつての草木も川も枯れ果て、不毛の大地となった今も、この地に潜む命は根ざす命に糧を分け与えている。その命に、何のリターンを返しただろうか……。
町の活気は程遠いが、今耳には風に乗った命の音達が多重に響いていた。……時折遠くにいるベルゼバブの羽音が響くがそれは兎も角として、その音が、まだこの地は生きていることを伝えているように思える。
死んでいる表面と、生きている内面……そこまで聞いて、ゾンビとかスケルトンとかマミーとかその辺りを想起してしまった。違う、あれは甦っただけだ。ポップス王であるミシェル=シャックの唄うスリラー宜しく甦っただけだ。兎角、命というものは表現に難いものがある。
「……内に眠る、命、か……」
ラーヴェルも何やら思い悩んでいるが、俺は早々に考えを打ち切り、見渡す限りの砂の海を眺めつつ、奏でられる風の調べに耳を澄ましていた。
馬の蹄の音が、鈍くも響いている。そのリズムに身を委ねていると、まるで俺自身が馬に乗っているような、独特の揺らぎが自然と感じられる。
……これをカホンで打つのは中々楽しそうだな。
――――――――
「そろそろギルタブリルの集落だ。現れても下手に手出しをするなよ」
五回ほど夜を超えた頃、案内人が俺達に警告を出した。ギルタブリル――確かデスストーカーと人間では噂されて等しい、'砂漠の暗殺者'か。甲殻の足で音も立てずに近付き、麻痺効果のある毒を持つ針で相手を刺して戴くという。おまけに……。
「確か、手を出されたら燃えるタイプなのよね?」
「ああ。意地でも屈服させたくなるそうだ。前にキャラバンの相手をしたときがあったが、言いつけを破り手出しをした隊員数名が連れ去られたよ」
祖母も、そのまた祖母もそう言ったことがあったらしい。砂漠に立つ周辺諸国が群れのリーダーと交渉はしているらしいが、どうしても『ハグレモノ』は出てしまうらしく……。
「……最大の抵抗が『無抵抗』とはねぇ」
教会騎士が聞いたら大挙して集落に押し寄せそうな言葉だこと。まぁそんな物騒な集団が、わざわざこげな処まで来るとは思えんがな。
「よくある話だろう?下手に動くと、余計な被害を招くなどという事は砂漠の外でも珍しくはない筈だ」
人、それをお節介という。或いはトラブルメーカーとも。そうした人間或いは魔物には、将来の貧乏籤神が取り憑いているに違いない。
「ええ、それは全くもって同感ね。ロックを馬鹿にする集団とジャズを馬鹿にする集団の衝突なんて正にそれよ」
「違いない。そのくせポップスを叩くときは一致団結して、そしてポップス側はロックやジャズを馬鹿にしてたりするんだよな」
あの争いほど馬鹿らしい物はない。争ってばかりじゃクロッサバー何ぞ生まれない。まるで文化が国境で仕切られているという主張だ。目は何のためにある、耳は何のためにある、脳は何のためにある。それら全て一切が音を生み出し象り合理非合理一切丸め込んで作り出すのが音楽だろうが。
兎も角、余計な手出しをしたがために双方痛み分け、得るもの無し、骨折り損の草臥れ儲けになる。まだ違う世界だと思っていた方がマシだ。
「あとはアレね。セッションでやたらフレーズを追加してくるの」
「アレも酷いな」
余計なフレーズが加わるだけなら修正できるんだが、やたらめったら入れてくると曲自体が成り立たなくなる。そういう奴には是非ともソロだけでやれ、と伝えたい。探究するのは勝手だが、最低限流れは読め……と。
そこまで考えて、俺達二人は、何処か怪訝そうな表情を浮かべる案内人に気付いた。……まずった。二人だけの世界で周りに気を配っていなかった。
「盛り上がっているところ悪いが、そろそろ現れると思う。警戒を怠らず、静かに行くぞ」
……声のニュアンス的に恐らく、二人の世界に入るなという意味合いも含まれていたかもしれないが、普通に案内人故のとしての注意だろう。そう考えることにしよう。
砂漠に魔物はいない。少なくとも大多数の魔物はこんな場所に生息圏を広げない。
「……」
が、どんな物にも例外はあるわけだ。その例外が、只今……包囲中。
褐色の肌に、口元を覆う布、甲殻を模したような取り外し可能な胸当て、スレンダーな体付きの人間の上半身とは対称に、尻から下は無骨な甲殻の六本脚、そしてそこから天の方向に反り返る毒針付き尻尾。隙あらば刺すぞ、と言わんばかりの姿勢で俺達を見つめる……ギルタブリルの群れ。
古来集団で徒党を組むのは旅では必然のことだ。だが……相手にやられたときの危険さは言うまでもない。ましてや……攪乱するタイプはなぁ……。
師匠も嘆いていた記憶がある。『換えの木材を運んでいた商人集団が、ワーウルフを筆頭にした盗賊に襲われ、商談がおじゃんに』と。カホンが作れないとも嘆いていたしな……。
「……」
例え歴戦の勇者でも、数の暴力には敵わない。どこかの著名なトレジャーハンターも言っていたしな。相手は七人……無理だ。ましてや俺達は戦闘能力殆ど無いぜ?出来るとしたら歌を歌って誤魔化せるか否かだ。
ラーヴェルも戦闘とは無縁だし……案内人さん如何次第か。
「……命を奪う気はない。お……食料を戴こうか。それも一つや二つではない……この三人が向こうの街に着くまでに必要な最低量以外……全部だ」
明らかに毒々しい色合いのナイフを構えてちらつかせつつ、俺達を取り囲み威嚇するギルタブリル達。襲撃慣れしているせいか、隙が全く見えない。そもそも隙を見るほどのスキルが俺にはない。かといって隙を作る真似も出来ない。……つまり何も出来ない。
それはラーヴェルも一緒のようだ。首輪を外すことも難しい現状、呪歌も使えないという散々な状況だ。逆に無抵抗を貫けるかもしれないが、これ幸いと奪いそうだしな……。
案内人さんは、リーダーらしきギルタブリルと何やら交渉しているようだ。言語が違うせいで何を言っているかは分からないが……何やら声を荒げているのは分かる。何と話してるのやら……。
じりじりと天から降り注ぐサンライトに、俺もラーヴェルも焦げてしまいそうだ。暑さよりも痛みが走りそうな強烈な光。よくもまぁギルタブリル達はこの光の中肌を晒して動けるもんだなどと妙な感心をしてしまう。
やがて、案内人がギルタブリルから離れると、俺達が用意した食糧の三分の一ほどをギルタブリルに渡した。それで済んだらしく、ギルタブリル達は……そのまま砂の中に消えていった。一瞬の早業だった。
「……」
ま、大して被害はなくて良かったとは思う。が、妙に冷や汗をかく案内人が気になった。
「……何を話してたんだ?交渉してたのは分かるが」
「……未だ妻子持ちでないお前を、そのまま浚うつもりでいたからね……この面々。駄目だと言ったらせめて残り香だけでもとお前の楽器を奪うつもりでもいたらしい。それを抑えるのに苦労している……とリーダー格のギルタブリルがぼやいてきたのさ」
……これは酷い。食糧を奪われるだけマシってもんだ。……もしやそれが戦略なんだろうか。同情を買うことで食糧を渡さなかったことへの罪悪感を……?
「「……無いな(わね)……ハッ!」」
どうやらラーヴェルと思考がシンクロしていたようだ。同じタイミングで告げた一言に、お互い思わず驚いて顔を見合わせていた。
その様子を、さも可笑しそうに眺める案内人。顔が笑っているのを隠す気配もない。いわゆるにやにや笑いだ。
――案内人が世話焼き女房タイプでなくて良かったと思う。間違いなく、次には二人を結ばせようとしてくるだろうからな。……俺達は、少なくともまだその気はないし、囃すことで冷めてしまうことすらある。
火が灯るには、まだ時間が足りない。……まぁ気恥ずかしさから、お互いかなり赤面してはいたが。
――――――
『Furlong』
目的地までどれだけか
風は教えてくれない
シルフは熱気に中てられて
人事不省の真っ最中
目的地までどれだけか
太陽は笑って嘘を教える
雨雲の欠片もない世界で
その嘘は誰が見破れるか
誇りを胸に彼女は往く
見据えるは遙か先
陽炎と砂塵に惑わずに
見据えるは遙か先
砂の地より離れた
遠くの街
命に満ちた世界を往き
声に満ちた世界へ往く
何処まで彼女は行けるだろう
風に鬣たなびかせて
何処まで命は見えるだろう
蹄を高らかに鳴らしながら
命の音を鳴らしながら
―――――――
出発してから八回目の日の出を拝んだ俺達が街に着いたのは、丁度太陽が天頂にて輝いている時間だった。俺達と案内人との契約も、丁度ここで終わることになる。
「では、これからの良い旅を。またこの砂漠で縁があれば、その時はまた案内役を務めよう」
名無しの案内人は、そう手を振ると、また砂漠の入り口周辺にその身を踊らせていく。砂漠では名前は意味を為さない。だから役割が名前の代わりになるのだろう。そしてそれ故に、彼女は砂漠で生き続ける。
乱す人がいれば変わるのかもしれない。だが……砂漠で乱す奴はいない。故に『意味を持つ名前』を忘れることもない……か。
「……ふぅ。で、これからどうするよ」
閑話休題。一応入国申請は済ませた後だとはいえ、何処を巡るかまでは定めていなかったりする。一応手元にパンフレットはあるが……。
「当面はホテルの予約ね。それと国の役所に行くこと。路上ライブの許可が必要だし」
「ま、それが妥当な線か」
腰を落ち着けないと行動もままならん。砂漠を超えたばかりの俺らに、この日活発に動けるだけの体力はねぇ。そしてそれ故に当然……下手な宿は選べない。選べないが……。
「……下手な宿、多いな」
「……領主が魔物じゃ、ね……」
同伴OKじみた宿が多すぎだろ……魔王、公序良俗に宜しくないからな……。仕方ない。それなりにセキュリティがしっかりしているところにしよう。出来れば……防音がしっかりしている所に。
……何かラーヴェルが宿に関して満更でもなさそうな顔をしているしな。
―――――――
「……了解した。現状の空きは19:30〜21:00の中央広場だ。開始一時間前には会場周辺には居てくれ。延長は10分まで。それ以外の時間と場では邪魔になるから控えて欲しい。いくら魔力抑制の道具を使っているとはいえ、相手は魔物だ。確実に……犯す理由にするからな。」
随分制限が加わる路上ライブだこと、とは思うが、相手が法の番人の象徴であるアヌビスだからな……無理だ。論で相手にならない。
「でも良かったじゃない。街の中央広場だからお客が集うわよ。その上に、わりとお洒落なレストランがいっぱい集まっているじゃない。ちょっとしたビア=ガーデンよ」
それなりの立地が嬉しいのか、ラーヴェルは高めのテンションで俺に近付いて話しかけてきた。瞳が妙に爛々と輝いている気がしたが……敢えて俺は気にしないことにした。
「あのアヌビスがビアを許すかは知らないけどな」
あまり許さなそうな気もするが。目を瞑ることを知らないからな……アヌビスは。
以前別の場所でアヌビスに会ったときは大変だった……。その時はカホンの素材候補の木を探すために森の中を歩いていたんだが、それが偶然マハラジャの所有の森だったらしく、哨戒中のアヌビスに見つかって……逃げなかったから大事には至らなかったが、それでも理由説明に中々取り合わずにいたからな……。何とか分かって貰うまで、どれほど時間が掛かったことか……。
自分にも厳しい分、それを他人に要求してくるからな、あの種族は基本的に。それが悪いとは言わんが、少しは融通を利くようにして欲しいぜ、全く……。
「その辺りの心配は杞憂なんじゃないかしら?」
何故か妙に楽天的な返事をするラーヴェル。こんなに楽天的だったろうか。アレか?周りに魔物が多いからそうなってんのか?
俺の訝しげな目線に、彼女は笑顔のまま無言で、アヌビスの方を指さす。そこには、中央広場の店のパンフレットを眺めながら、羽ペンで何やら書き込んでいる担当者の姿があった。つか、あのもふもふした犬の手でよくペンを持てるのな。
「あの、とは心外だな。度を超す羽目の外し方でなければ、私かて禁じたりするものか。例えば先輩とのお別れ会の場で度を超した酒を飲んで吐いたりとか、そうしたことを避ける程度にはな」
しっかり聞こえてたか。流石犬耳。集音性高すぎだ。
―――――――
こうして俺達は夜のライブの予約を終え、宿の中で簡単な音合わせを行う……つもりだった。少なくとも、俺は。
だが、思いの外ラーヴェルが疲れていたらしい。先程までのテンションが嘘のように、部屋に入りベッドに倒れた瞬間に、彼女は一気に動かなくなった。
当然、俺は驚くわけだが……寝息がすぐさま響いたことで一気に安堵したことは言うまでもない。新手の毒かと思ったぜ……ったく。
さて、指定時間までまだ四時間はある。俺も……この部屋で迂闊に練習できない以上は、軽く仮眠でもとるかね……。
何だかんだ言って、俺の体も疲れをため込んでいたらしい。ベッドの上に寝ころんですぐに、俺の意識は夢の縁へと落ちていった……。
―――――――
『Don't Disturb Me!』
伸ばす手が掴んだ千の泡
伸ばしてももう届かない距離
待っているのに
お招きしているのに
また遠くに行く
また遠くに行ってしまう
ドリアードさんに
また怒られちゃうかな
サイクロプスさんに
嫌な顔されちゃうかな
百のご免なさいに
千の仕方ないからを呟く
みんなあの子が悪いから
私の王子をさらわないでよ!
八本足の魔女子さん!
貴女のために招いてないの!
貴女のせいで心も渦よ!
来ないで!
お願いだから来ないで!
私の居場所を乱さないで!
Don't Disturb Me Please!
――――――
……目が覚めたとき、俺はベッドの上に仰向けで寝転がっていた。一応、俺が最初寝ていたベッドの上だ。だが、何か妙に左腕の辺りが重いんだが……おやおや。
「……う〜……う〜……」
何つー声を出して寝てるんだ……ラーヴェル。まるで子供のようだぞ?あるいはカリスマ崩壊吸血鬼とでも言うべきなのか。しかも見事に俺に押さえ込み一本……じゃない。何で微妙に和んでいるんだ俺は。
「……ラーヴェル〜……」
現在時刻は17時。そろそろ準備する時間だ。今夜のライブに向けての軽い準備をしなければ、流石にやばい。無様な演奏は俺の最も嫌うところだ。せめて数回合わせないと……?
「……すゅ〜……」
……本当にどうしたんだラーヴェル。まるで子供に退行しているかのような寝息なんか立てちまって……とそこまで疑問に思ったところで、ようやく俺は、部屋に立ちこめる妙に甘い香りの存在に気付いた。明らかに先ほどまでの部屋の香りとは違いがある。雄としての本能を刺激するような、獣臭さと果実の香りが入り交じったようなこれは……。
「……体は正直かよ」
そり立つマイソンにため息を漏らしつつ、俺はラーヴェルに顔を寄せる。ふわり、と香りが強くなる。恐らく長時間嗅いでいたら理性が飛ぶだろう。
間違いなく発情期。随分と最悪なタイミングで発現しやがったもんだ。しかも相手は無意識。抑制しようもねぇ。
「……う〜……あねすぅ……」
ぼんやりと俺の名前を呼ぶが、その瞳は完全に頭回ってない寝起きのそれ。まともな会話が期待できそうにもねぇ。
「……ラーヴェル?」
いつの間にか俺の二の腕にまで顔を近付けているラーヴェル。両腕を含め背中にまで腕を回されて……逃げられそうもない。
「……あねすぅ……」
ぽふん、と音を立てて、俺の胸板に頭を寄せるラーヴェル。その目は、開いているのか閉じているのか分からないくらいに細められている。睦み言の一つでも告げそうな、或いは甘える声でも出しそうな、リラックスした表情を浮かべながら、甘い香りを放ち、俺の胸板の香りをすんすんと嗅いでいる。
いくら何でも普段の様子と違いすぎて何も反応できないが、一体俺はどうするべきか。甲斐性だからと抱く気にはなれん。例え俺の息子が天を指していたとしても、半分寝ぼけているような相手を犯す気はない。しかも演奏前だ。このままヤったら時間に間に合わんだろう。
かといって、拘束をふりほどけるかと問われれば、無理だとしか言えねぇ。何でしっかりと腰回りホールドしてるんだこのセイレーンは。あれか、奪われたくないとでも思っているのか。一緒に旅をしているとはいえ、俺がラーヴェルに恋愛的に好かれる要素は欠片も微塵も存在しないんだが。俺の勝手な妄想か、思春期特有の妄想か。とうに過ぎた思春期のぶり返しはあまり身のためにならねぇんだが……。
などと勝手に頭を空回りさせていると、俺の目の前でシャツの香りを嗅いでいたラーヴェルが、首だけを巡らして俺の方を眺める。ほんのり顔を主に染めつつ、無邪気に口にする言葉は。
「……あねすぅ……しよ……♪」
「……」
発情期……って、ここまで人格変えるものなのか?や、普段から他のセイレーンの数倍は大人びているだけにギャップが激しすぎるぞ?俺の目の前にいる、この外見よりも幼い雰囲気を纏ったセイレーンは何だ?6/17か?ラーヴェルが頭打った覚えも俺が心的外傷与えた覚えもないんだが。
ラーヴェルは、そのまま俺の顔に彼女自身の顔を近付けていく。首輪がはまったままなのに気付かないかのように、ゆったりとしたバラードを口ずさみつつ、その歌を俺の口から体に流し込もうとしているかのように唇を合わせてくる。
「……んっ……んん……」
合同祭で口にしたマシュマロのような、柔らかな唇の感触を味わう間もなく、そのまま突き入れられる温かな舌。甘えとは無縁のリリックを紡ぎ出すそれが、今は甘えるように俺の舌へと絡み付いてくる。
俺も、舌でワルツを踊るという彼女の申し出に応えることにした。絡み、撫で、離れ、また絡み……腕の自由な部分で彼女の腰を抱えつつ、顔を近付け、やや離れ、また近付きつつ俺の舌も彼女の中に差し入れ……。
壮大なデュエットが、この二人の寝室で奏でられている。様々な歌詞を呟く絶妙な舌が、独特なリズムを紡ぐ俺の舌に絡み、俺達以外誰も聞くことのないセッションを演じていく。リャナンシーに見初められたらこんな感じになるのだろうか。相手がどうしたら喜び、気持ち良くなるのか、体から、本能から次々と沸き上がっていく。人よりもやや鋭い犬歯や、歯並びの良い門歯、臼歯、瑞々しい歯茎まで、お互いにお互いの色に染めようと蠢き、奥へと求めさまよう度に、互いの唇が形を変えつつ弾力を伝え合う。
自然と俺達は抱きつきつつ背中に愛撫を加え、お互いの体を楽器のように奏でていた。それはまるで、主旋律が始まる前の前奏曲のようで――。
「……ぷはぅ♪」
別れを惜しむように、口の間に唾液の紐が掛けられる。それらは重力に逆らえず、俺の方へと落ちていく。
既に俺の両腕は自由になってはいた。だが……マイサンの固さは完全に臨界を超えている。発情期って、こんな凄いのか……幽かに部屋の空気も桃色だしな……。
ラーヴェルは、普段では考えられないほど目を輝かせつつ、子供が遊びをせがむような声で交わりを乞うている。時間は……後一時間……どころじゃない。四十五分だ。どれだけ熱心に口付けしてたんだ俺らは。しかも念入りに抱き合って……しょうがない。
「そろそろ一旦正気に戻れ」(ビッ)
「はぎゃんっ♪」
自由になった腕で、俺はラーヴェルにデコピンを一回食らわせた。良い具合にツボに入ったらしく、再び俺を見る彼女の瞳は、どこか大人びたものへと戻っていた。
「……え……あ……」
自分が何をしたのか、今何が起こったのか、咄嗟に状況が掴めないのか、瞳を白黒させているラーヴェルをよそに、俺は換気扇を入れ、空気を一旦入れ換えた。そして少し悪戯めいた笑顔で、ラーヴェルにこう言ってやることにした。
「子供っぽいところも、可愛かったぜ。だが、本番は大人同士で初めようや――あと一時間もない。ステージに行こうぜ」
ボンッ!
「!!!!!!!!」
その一言に、ラーヴェルはレッドスライムのように、全身真っ赤になった。どうやら、相当恥ずかしかったらしい。まぁ……あの発情はなぁ……。
「あぁ、ぁあああああのあの、あ、あれはぁ……あ、あれはっ!」
「落ち着け、良いから落ち着け」
慌て顔で必死で弁解しようとする彼女に、俺は気にしてないよと言う風体を装って説得する。いや、説得したつもりだった。だが、感情のコントロールが上手くいかなくなってしまったらしいラーヴェルは……!
「あれ、あ、うっ、ぐ、ぐすっ、ぐすっ、ふ、ぇぇ、ふぇぇぇぇぇぇっ!」
「ちょ、お、おい!泣くなよ!どうして泣くんだよ!」
「ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……!」
「おい!ラーヴェェェェル!辛かった俺が悪かったからよ!おい!悪かったから落ち着いてくれぇぇっ!」
……その後、泣き止むまでに二十五分かかった。本番まで二十分、コンディション的には最悪だ。
あぁくそっ。起こる出来事のタイミングが色々と悪すぎる!何をどうすりゃ良かったんだ!
―――――――
「……でもリハーサルまでには持ち直すのな」
「だって私達プロだもの。羞恥の涙で舞台を台無しにはしたくないわ」
「御立派。エンターティナーの鑑だな」
正直、助かったぜ……あそこまで取り乱したラーヴェルを見たことがなかったからな。どう対応したらいいものかと分からなかったぜ。まず、ライブの中止も考えたからな……。
「……」
正直、会場に行くまでがかなり気まずかった。やや泣き腫らした目のラーヴェルを連れて、何も喋らず大通りを歩いたときは、正直生きた心地がしなかった。何もしてないわけじゃないが、何かしたわけでもない。
「……」
で、リハが終わればこの通り沈黙だ。何を話せばいいのかも分からん。下手な話題は振れないし、かと言って相手が話しかけてくるわけでも……。
「……幻滅、しちゃった、かな?」
「……?何の話だ?」
背中から話しかけられたとはいえ、いきなり聞かれても、何も反応をしようがない。そもそも何に幻滅する要素があるんだ。
ラーヴェルは、俺と目を併せづらいのか、背と背をくっつけつつ、たどたどと言葉を続けていく。
「……あんな子供っぽい姿、見せちゃって……ね。ホント、恥ずかしいし……自分で自分に幻滅だわ……」
「……さっきのか」
あの、必要以上に年齢逆行した態度、言動その他。確かに普段のラーヴェルからすれば意外にも程がある。が、正直幻滅する程ではないんだがなぁ。
そんな俺の思いを分かっているのか、ラーヴェルはやや沈んだ声で話を紡ぎ出していく。
「……私はね、'大人'でなくちゃいけないの。たとえ、どんな時でもね。たとえ発情期が来ても、そう振る舞う必要があるのよ。それが『ラーヴェル=リタッチェ』であるための必要十分条件……」
「……それは、自分を『演じている』と捉えていいんだな?」
ええ、という音が、風に溶けてしまいそうな程幽かな音となって、俺の耳に届く。ラーヴェルとしては、あまり触れたくはないらしいく、少し躊躇うようなリズムで発された声だった。
「……でも、上辺では演じきれてもね、本性は変わらないんだな、ってさっき考えちゃってね。しばらく来てなかったから大丈夫かと思ってたんだけど……やっぱり、私は子供のままだったんだ。
そしたら……努力したことはなんだったのかな……って思っちゃって……私が……わたしじゃ……なく……っくっ……うぅ……」
また肩を震わせて、泣き出すラーヴェル。背中を向けたまま、俺は黙ってハンカチを手渡そうとして……その無謀さに溜息を吐いた。現在ラーヴェルは擬態を解いている。ハーピィ族特有の羽の手で、器用にハンカチをとって拭けるような芸当は彼女には出来ない。
彼女が恐れる『名前のない状態』とは、自分が築いてきた『自分』というものを、一瞬でも失うことだった。自身が元々持っていた音楽を否定され、その相手を見返す為に必死で行った努力は、いつしか彼女自身を押し留め、その上に新たな『彼女』を作り出すことになった。
だが、それで彼女の元々持っていた性格が消えた訳じゃない。本能と理性の分離、理性が消える状況で、本能は素直に穴蔵から出てくる。
精神が安定していないのは、多分本能と理性の間に心が置き去りにされているからだろう。何が出来るか分からないが……。
「……ったく、柄じゃないんだが……」
そう呟きつつ、俺はそのまま後ろを向き、泣いているラーヴェルの羽の生えた腕ごと、その体を抱きしめた。
「――!?」
驚くラーヴェルをよそに、俺は耳元で……自分でも柄じゃないと分かりつつ囁きかけた。
「……ラーヴェル、お前の言うその恐れ、残さず全部受け止めてやるよ。子供のような本性?それくらいで幻滅する俺じゃないぜ。疑うなら、今すぐ俺自身の喉をかっ切ったっていい」
「――ぃくっ!?……ぃっ……」
微妙にしゃくりあげつつ、目を白黒させているであろうラーヴェルに、俺はさらにクサい言葉を続けていく。
「作った人格をそのままありのままのそれにするのは、まずありのままの人格が折り合わなきゃ難しいぞ。例えラーヴェルが努力に努力を重ねてきたとしても、な。
子供っぽい人格も、ラーヴェルなんだろ?だったら、俺がその対象になれるかは分からんが……一度全力で甘えてくれ。その後で、一緒に己と向き合おう。
俺達には――時間はあるんだからよ」
言いながら、実際俺の顔は赤面してるのがよく分かった。しかも結構言ってること支離滅裂だ。アレか。ライブ開始までの短時間で思い浮かぶ事なんて大した言葉はないって事か?
「……っくっ……」
だが、まだしゃっくりこそ残っているが、大分落ち着いてきてはいたらしい。俺の方に重心を掛けてきているのが分かる。
「……アネス……」
「……何だ?」
声の調子から、発情状態のあの子供っぽさは感じられない。まだ無理しているのかは分からないが……。
ラーヴェルは、首だけ俺の方に向け、そのまま……普段よりどこか柔らかい口調で話してきた。
「……大きいんだね、アネスは」
「大きくはない。ただ……俺は俺、アネス=スムルドでしかないだけだ」
そこにはいろんな人格も含む。
そこにはいろんな態度も含む。
そこにはいろんな状態も含む。
そこにはいろんな口調も含む。
その一切全てを巻き込むのが名前だ。固形化されるものじゃない。受け入れてやらなきゃ誰が受け入れられる?
唯一、俺を俺として固形化しうるものは……カホンだ。だが、もしこれが広まったとして、果たしてカホンは俺を固形化させるもので有り続けるだろうか?
「……」
まぁ、それはまた果たせたときにでも考えるとするか……。
―――――――
「――本日は、『Losird』のライブにお集まりいただいて、誠に有り難う御座います」
食事客の集う中央広場。ステージから俺達は、投げかけられる視線を眺めていた。
見回せば、先ほど受付としていたアヌビスも、彼氏或いは夫を連れて見に来ている。俺の視線に気付いたのか、男が見せつけるようにアヌビスに抱きつき……肉球パンチを食らっていた。
「――では、早速ですが、最初の曲を始めさせていただきます。タイトルは――」
俺達は視線を交わし、互いに頷き、息を合わせた。そして彼女のタイトルコールと同時に――、
「――『Nameless』」
<
――Tn!!
俺の渾身のカホンの音が、ライブの開始を告げると同時に、舞台の時を刻み始めるのだった。
fin.
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