『negum-Good-bye for my Dearest world-』

――きっと、誰も得をしない。でも、これをやらなければ、誰もが不幸になる。

――神を語るのならば、それに相応しい振る舞いと心を自らに課さなければなりません。

――っこの程度で、“アイツ”の意志が止められると思うのかぁぁっ!

――モウ、何モ奪ワセナイ……逃サナイ……。

――辛かったら、いつでも戻ってきていいからね、ニカ。

――ニカ、貴女がこの手紙を読んでいるということは、私は……

――世ノ理ヲ……歪メシ者ヨ……

――ふぃー、人間の欲ってのは、歪みねぇくらいに際限ねぇな。

――どう転んでも、結末そのものは……。

――ありがとう、お母さん。

――そして、だからこそ。

――――――

――予兆なんて、あっただろうか。
いつだって出来事は唐突だ。
日常が非日常になって、それすらまた日常の中に溶けていく。
無事に過ぎて、いつも通りが過ぎて、また過ぎて……。

ずっと続くって、誰もが思っていた。
終わらせようなんて、思う人が居るはずもなかった。

私が気付かないだけで、予兆はあったのかもしれないけれど。

あの頃、あの日、あの時。
私はまだ子供だったから。

何も知らなかった。喜びも悲しみも、温もりも優しさも、辛い思いも冷たさも、当たり前のようにあって、それがいとも容易く消えてしまうなんて思いはしなかった。

空を見ていた。
いつも通りのすっきりした青空。
空には全てが詰まっている。
喜びも悲しみも、楽しみも憎しみも、そして憂いも。
空と言う漢字は、雲や大地を覆うものの様に描かれている。雲の下や大地の上、あるいは下にいる存在にも、全て平等に空はある。

存在が全て感情を持つものならば、空はその全ての感情を受け入れ、映し出す。

何故だろう、この日の空は――何処か寂しそうな表情をしていた。

――――――

『【――生物は生まれてから死ぬのが定め。生まれたことを恨むのなら、ちゃんと生きやがれぇっ!】えー、R.N.《ドラマー志望ゴースト》ちゃんから頂きましたー!えらくバンプな発言だねぇWonderful!死んでなおyouthful days真っ盛りだそうでっす!
Living Dying Peopleの皆さん!彼女の発言を耳垢出してlisten!倒錯シチュはアルプ君と狐憑きチャンにおまかせして、それ以外はDon't let it Go!
All Right! でも励ますばかりが能じゃない!そんな風潮にはNo!と言うわけで本日のpick up!遙々霧の国から来た謎の二胡中心器楽集団【娘々師夫】大陸初上陸ダブルA面シングル『非永久』『加油!灰色熊』――keep silence……』

「――DJさん相変わらずだなぁ……」
耳にしているラジオ視聴機を片耳に、私は街の中心部からちょっと外れた場所で今後の行動指針を確認していた。
かの地に終焉を与えるために行動を始めて数年。何も敵ばかり作っていたわけじゃない。魔王の軍勢にも、教会の勢力にも、どちらにも地道に縁を構築していたのだ。
前者には'宿'の皆さんの手を借りたことも……何回かある。大陸の中でも個性派で通るあの宿だけど、いや、だからかもしれないけど、利用するお客様がやたら個性的だったりもする。
ただ個性的だったら問題ないんだけど……それが魔界で権力を持っていたりして……その関係で口利きしていただいたのだ。

二代目オーナー兼番台の、'お母さん'――ラン=ラディウスに。

「……待たせたかしら?」
「いいえ。こんなに早くにお呼びして済みません」
人目に付きにくい裏通りを選んだ理由は二つ。一つはネグームの話題を口に出す事から、私の体が狙われている可能性を考え、周囲の被害を少なくするため。もう一つは……コンタクトをとった'人物'の特性を考えての事だ。何故なら'彼女'は、さながらスーパースターのように、その場にいるだけで様々な存在を引きつけ、魅了するからだ。
「いいのよ。ランちゃんやハンスさんとの縁だし、ね」
女性ですらうっとりするような声で気さくに話しかけてくる、片手にこの町の隠れた名物であるソーダを手にする彼女は――私の命の恩人であるハンス=エイシアンの友人にして、魔王の娘の一人である、リリムのナーラ=シュティム(仮)さんである。真名を教えたくはない方針らしいので、私もその仮称を受け入れている。
嘗て起こった、デルフィニウムにアルプのチェラールさんが勤める切っ掛けになったある'事件'をハンスさんに知らせた……'宿'に懇意にしてくれる大切な友人だ、そうハンスさんは言っていた。私と顔を合わせたことは……大きくなってから、何回か。
「私の『魅了』(チャーム)が、魔力を準最大級まで上げないと効かないのよねぇ……」
むにむにと頬を指で突いたり撫でてきたりするナーラさん。ただそれだけの仕草なのにそれなりに気持ち良く感じるのは流石リリム……。普通ならこの時点で大半の人がめろりんきゅーらしい。……ナーラさんが悔しそうな顔をしているのも理解できる気がする。
「……お母さんのお陰ですけどね」
恐るべきは義母ラン=ラディウスの魔封じの札の威力、及び魔力抵抗付けのための育成計画。私に魔法使いの素質がないのが逆に方向を定めるのには良かったらしく、肉体の『気』を操ったり肉体を鍛えたり……乙女にあるまじき訓練をしたっけ……。まぁ一部は乙女……と言うより女としての訓練だけど。
お陰で旅の途中に襲ってきたサキュバス九人組(痴女時代、とか名乗っていたかしら)を全員(性的な意味で)返り討ちにする程度の実力になりました。正直あまり自慢に出来ませんし自慢したくありません。
「……それよりも、ナーラさん」
頬をぷにぷにするのを止めないナーラさんの手を外しつつ、私は真っ直ぐナーラさんの目を見つめる。流石にぷにぷにさせるために呼んだわけではない。あくまでも、'本題'があるからだ。
じっと瞳を見つめる私に、ナーラさんは瞳の中に星を飛ばしつつ……それでも揺るがない私に根負けして瞳を逸らした。そのまま時空間を開いて、その中から何かを探している。
やがて何かを掴んだらしく……そのまま腕を引き抜く。彼女の手に握られていた物は――署名。それも、親魔物領の物だ。
「はい。言われていたものよ。貴女の本の書評も付けて署名してくれた領主も何人もいるわ。有名所で言えば北の猛将『極白』イマ=バークに、『幻燈卿』ルーテ、南の名物領主『道化公』ジョイレインに……何でか分からないけど『竜殺し』サウザンドブラッドまで……」
サウザンドブラッド家は……反魔物領だけど、教会とも形式上の協力関係しか結んでいない異端の領地だ。噂ではジョイレイン公とは友好とも犬猿とも言えない微妙な仲を築いているとか……なら納得できる。『道化』がけしかけるのは理解の範囲内だ。
「有り難う御座います。ではこちらも……反魔物領の署名の一覧をお持ちいたしましたので、参考までにご覧下さい」
私も鞄から同様の紙を取り出した。これから私がやろうとしていることに、同意を頂けた領主の名前のリストだ。
「ふむふむ……北西の天敵『絡繰王』ヴィッテン公に、南西部の『魔術の都の二柱』アーカムコッド・サーカムキョム……って、中央部の'神の庭'にも足を踏み入れてたの!?姉さんも後回しにしたわよ!?」
リストに目を白黒させるナーラさん。まぁ当たり前だろう。'神の庭'自治都市ノーディスなんて、魔物が入れる場所ではないのだから。
リリムですら攻略を避ける地、それがノーディスなのだ。当然、私だってそう入れる場所ではない。
「……文字の、言葉の力って、凄いですよね」
何のことはない。ナドキエ出版で出した本が論争を巻き起こし、それで興味を持った読者が手に取り、目を通し、論争を起こし――以下エンドレスと言ったことが発生したのだ。その中にノーディスの住人がいて、私にコンタクトをとり、講演会を依頼してきたのだ。
つくづく、よく禁書扱いにならなかったなぁ、と思ってしまう。魔物賛美こそしてはいないが、教会勢の攻撃も有りの儘に綴ったのよ?'どちらの立場にも立たない'以上、'どちらの敵でもある'から、偉い人が禁書にしてもおかしくないんだけど……。
「私が書いてもそれは起こらないと思うけどねー」
まず起こらないだろう。少なくとも私は'魔物化しない人間'として知られているからこそ、講演に持ち込みやすい部分もあっただろうから。
「……魔力検査は厳重に受けさせられましたけどね……」
危うく国家科学班に血液・皮膚サンプルを採らされる手前まで行ったところに、住民からの苦情及び衝突があり、ようやく解放された。正直、またあの場所に行ったら洗脳されそうで嫌だ……。
ともあれ、私の思いが正確に理解されるかは兎も角、講演会は成功のうちに終わり。アンディスは私の計画に協力していただける事になった。……彼らの『正義』を利用した、とも言える。
大変な悪女だなぁ、と私自身のことだけど自嘲してしまう。全部自分の目的のために動かしているから……。いつかお母さんに聞いた『霧の大陸の妖狐』の話を笑えないわ……。
――でも、私は謗られても構わない。『終わりなく続き繰り返す悪夢(レプリカーレ)』を終わらすことが出来るなら……。

話を戻す。
「……あと、知り合いの魔王軍観測部隊に聞いたバッドニュースが有るんだけど……良いかしら?」
ナーラさんの言葉に、私は頷く。吉報だけ届くような世界ではないのだ。私の頷きを確認し、ナーラさんは私の目を見据え……事態の猶予が短くなったことを告げた。

「……ネグームの神木が、消失したわ。同時に湖も涸れた。原因は判明こそしてないけれど……多分、'悪霊'の仕業でしょう」

「――!?」

ネグームの悪霊の力を弱めていた神木が、消えた……!?
大変な事態になった。私の背中を汗が伝うのが分かる。少なくとも私がネグームのゴーストを説得できたのは、あの神木が多少なりとも力を持ち、悪霊の影響を抑えていたからだ。つまり『たが』の役割である。それが取れてしまったと言うことは……次第にゴーストが悪霊化していくと言うこと……。
かの地の恨みは根深い。逃れられた人を再び引きずり込むほどに深い。だからこそ引きずり込まれる前に、少しでも助けられたら……そう思って行動してきた……けど。
「……もう少し、手助けできるって、思っていたけどね……」
私は自らの見通しの甘さを恥じた。神木に対する何処か甘えに近い感情があったのかもしれない。もう少し何か出来たかもしれない……無力さと自らの甘さに私は頭を抱えた。
そんな私の頭に、ナーラさんはぽん、と手を置くと、そのまますりすりと撫で始めた。手を置かれるだけで伝わる、芽吹く春の季節を思わせるような温もりが、私の心を解きほぐしていく……。
「そう背負い込むものじゃないわよ。これは本来、現在は決して交わることのない双方の代表者達が歩み寄って解決しなきゃならなかった問題だもの。人と魔をどちらも知る貴女が、緩衝材と責任者のどちらもやってくれているから、まだ『今』よ?
もし貴女が居なかったら、『アバロンの蟻』と同じ過ちを繰り返しているかもしれなかったわ」
勿論、歴史にイフは禁物だけどね、とナーラさんは時空間を繋いで取り出したグラスワインを一口。飲む?と薦めてくるのを私はやんわりと断りつつ、私は『アバロンの蟻』という異世界の話を思い出す。

その世界では一つの王国が百年も千年も続くことが平然と有り得る世界で、アバロンというのは特に長く続いた帝国の首都名。
その世界では人間が主な種族として支配しており、帝国の支配者である皇帝も人間だった。

こちらの世界で人が魔物に反するように、人に害を及ぼすと思われている対象に行われるのが、定期的な討伐である。あるいは一斉駆逐か。
その世界に於いて人の驚異になる物の一つに、蟻がある。蟻とは言っても、人間代の大きさを誇る蟻であり、大挙して押し掛け人を喰らう凶暴なものだ。
何よりその蟻が恐ろしいのは、巨大化する前の蟻は人体に寄生し、寄生した人間に徐々に成り代わりながら成長し、やがてその体を食い破る習性があることだ。
皇帝は討伐命令を度々出したけど、自身から討伐に赴くことは無かった。何故なら当時皇帝にとっての最大の関心は、如何に近隣諸国を抑え込み、吸収するかであった。或いは相互不可侵を結ぶように持って行くか……そうして外敵を減らすことを中心に戦略を練っていた。
そのために、蟻の存在を無意識下で当てにしていた節はある。人類共通の驚異である蟻の討伐のために、兵を派遣する。それによって帝国の力を合義的に誇示する事が出来るからだ。
実際の所、他国も同様の行為はしているが、その中でも最大規模の勢力を誇る帝国の行う『浄化』は強烈に、周辺諸国の兵達に畏怖と、それ以上の敬念を抱かせる。
やがてそれは帝国最大の相手である、王国を呑み込む流れとなる。それを狙い、皇帝は着々と周辺諸国を手中に収めていったのだ。
一方の王国も、帝国と同様に周辺国を自らの配下としていった。彼らが力を蓄え終える時、それは彼らの世界を巻き込む大戦争が起こることを意味している……そうまことしやかに語られるほどに。

だが、この二国の思惑は、大きく修正を迫られる羽目になる。他ならぬ討伐対象である"蟻"によって。

蟻達を統率する女王は襲撃を試みる際、周辺諸国に偵察蟻を数匹、ゆっくりと潜り込ませていたのだ。
潜り込んだ偵察蟻は、まずその共同体に縁が薄く、目立たない人物を選んで寄生。そのまま操り人形へと変化させる。
その人物と成り代わる過程で、彼らは縁を辛うじて持つ人物を女王に捧げ、女王はそれを元に卵を生み、孵化した蟻がまた国々で寄生し……それを繰り返していたのだ。
そしてある程度の集落が蟻の王国と化した辺りで――女王は宣言したのだ。

――人の皮を捨て、蟻として生きよ。全てを蹂躙し、女王を戴く千年王国を作るのだ、と。

地を埋め尽くすかのような蟻の大群、いや、大軍。その征伐に両国は多大な犠牲を支払う羽目になる。何せ、吸収した領内で犠牲を広げていたのだ。しかも、寄生された人とそうでない人は、パッと見たところで区別は付かない。最大の討伐策は、女王自身を討つことである。

結果として、皇帝と国王、二人の命と引き替えに女王は討伐され、蟻は消滅した。結果、二国の版図は大きく削られることになった……と言うお話。

倒すべき敵を間違えてはいけないのは確かだ。けれど……除外した敵も、軽視してはいけない。いずれ、手に負えない悪となるのだから。

――――――

「……絶対、論外な奴等もいるとは思ったが……」
想定はしていたことではあるけど、教会兵士のエリザさんの言葉を耳にして、私は溜め息しか出なかった。あの外道魔導師、魔術師、呪術師一派……悪霊に取り込まれて尖兵と化しているとか……。
正直、憎む気にも哀れむ気にも馬鹿にする気にもざまぁなどと喝采する気にもなれない。ただ、事態を厳しくした事への苛立ちしか、ない。何処までも立ちはだかるのか、欲の権化である外法共が……。
「その討伐は、私達教会騎士団にお任せ下さい。尖兵には尖兵を。邪悪には屈しません」
「有り難うございます、エリザ=クリッシュ様」
私は彼女に素直に礼を言う。今回の討伐で一騎士として討伐に参加するエリザさんは、そんな私の態度に、微かな笑顔を見せる。
「礼には及びません。主神が築く泰平の世をこの世界に顕現するに辺り、必然の討伐です。悪霊や外法魔術師のような逸脱者が相手ならば、あらゆる手段を用いて道を糺し輪廻の輪に乗せる事、それが教会騎士として為すべき義です」
……言葉の端々で、神への憧憬というか、洗脳レベルの思い込みって凄いな、と思わされる人だけど。実際この人は教会内では聖女として扱われて、信者もかなり多いみたい。
本来ならば上級騎士として名を上げるくらいの実力と実績はあるのに、『民草を護り正道へと導く事が私の使命ですから』と一般騎士のままでいる変わり者の面もあるらしい……。
ともあれ、戦線に参加していただけるのは、本当に有り難い……そう心から思っている。彼女達の助けがなければ、私は攻め入ることすら難しいのだから。
……この時点で、もう私は色々な人を巻き込んでいる。引き返せない、引き返すことはない道をひた進むことに躊躇いはない。けれど、自らの我が侭にも近い「けじめ」に他の様々な人を巻き込むことには、後ろめたい気持ちはある。
その思いを振り払うように、私は自らに言い聞かせた。

――人が10動くならば、私はその倍以上は動く。
人が苦しみや悲しみを得るのならば、私はそれを全て受け入れ、背負う。
まずはその覚悟を、常に抱くことだ――

――――――

嫌な風が、ネグームの方から吹く。心も、体も、魂すらも凍らせ、焦燥感を掻き立て、不穏を増加させ、そして全て喰らい尽くすような、黒い風。
陰の気の強い人間や魔物は、恐らくこの風にずっと当たっているだけでも只では済まなくなるだろう。同士討ちや、過度の憎悪から来る暴走。それらがさらに新たな呪われた魂を作り、侵蝕を深め……。
「――こいつぁ予想以上だな……いや、予想以下、ってのが正しいか」
隣にいる剣士にもそれは感じられたらしい。普段は武者震いの一つでも起こるらしいが、今回はそれもないらしい。
「ただ、酷いだけだな」
「あぁ、違いねぇ」
私の声に、彼は身の丈以上もある剣を持ち上げ、正眼に構える。そのまま前を見据えると……それを降ろした。
「この剣は悪意も善意も一切を'呑み込む'が……こいつぁ胃凭れ起こしかねんぜ」
敵に臆した様子はない。少なくとも彼にとって、'悪霊'に操られた外道共は臆病心を煽るような相手ではないらしい。
「……」
私は靴紐をしっかりと縛り、呼吸によって気を整える。体を巡る気が、ここに集う味方の気と、敵の気の存在を私に伝えてくる。
しばしの沈黙。口を開いたのは、やけに褪めた表情をした剣士からだった。
「……この戦い、嬢ちゃんも含め誰も得はしない。だが、この戦いがなけりゃ誰もが損をする……それは分かってんだな?」
「……咎めの刃を受ける覚悟は、ある」
剣士の発言は本当だ。この戦い、得する者は誰も居ない。名誉も、報奨もない。ただこの戦がなければ、災禍はやがて国々を巻き込むだろう。それは破壊と滅亡しか生み出さない。魔王や教会の支配とは訳が違うのだ。虚無と絶望のレプリカーレ。不毛だ。
私はその限りなく不毛な連鎖から、生まれ故郷を解放したい。それが自己満足のエゴイズムを含むのも重々意識している。意識し、省みて、けれど私は止めない。人々の意志、不満、恨み、熱意、それらを受け入れて、ただ生きる。
それが'母の意志'であり、ランお母さんの思いでもあるから。
「――俺は嬢ちゃんを咎めねぇよ」
壮年の剣士は、私の横で、迎え撃つ先を見据え剣を持つ。そろそろ……襲撃の時間だ。

「――つーか咎める?馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。嬢ちゃんは被害者だぜ?もし咎める奴が要るなら、そいつの考えが足りねぇのさ。
背負いすぎる事ぁねぇよ。本来これは――生きとし生ける者達が考えなきゃなんねぇ問題だからよ」

理解できぬ二律背反の末のカタストロフ。将来的に如何様に描かれるのだろうか。願うならこの深淵に堕ちた地をケーススタディの場として欲しい。
私はただ、そう願って、動く。

――そして、

「俺の名は、ユネス=ノロードッ!死にたがりから掛かって来やがれェッ!」

'自由人'ユネスの叫びと共に、『ネグーム怨霊戦争』の火蓋が切って落とされた――

戦争。それは相当の兵力差がない限り一方的な蹂躙とはなりようがない。例え精鋭を千人集めようとも、百万人の一般兵士の前では勝利すら難しいだろう。
他にも軍師の戦略などもあるだろうが、それもある一定の兵力差の範囲が保たれているからこその代物である。戦争は基本、数だ。
それは私も理解している。だからこそ思うんだ。この戦いは――果たして戦争と呼べるものなのかを。
……結論は、否。

「――清めの炎よ!魔に穢れし魂を清め主神の御元へと送れ!第二魔導部隊、発射!」
「「応っ!」」
「『第十二天馬騎士団』及び『第七朱雀騎士団』は魔導士の護衛に全力で当たれ!」
「「応ォォォォッ!」」

教会兵士達は悪霊を取り囲む護衛を蹴散らす為に大規模な術式を展開している。数を減らすという目的を考えるに、大規模な殲滅魔法は効果を発する。大規模と言うからには……詠唱者の数も馬鹿にはならない。人間側も、魔物側も。

「――よし、皆の者!『+SISEMEN』発動じゃ!」
「「ラジャー!」」
「第十三部隊!サバトの軍勢を護るぞ!」
「「合点承知よ!」」

彼女達は彼女達で、教会と衝突しない範囲の悪霊や兵士達を鎮圧させていく。魔物達の持つ強大な魔力を集結させた儀式呪文は、防衛都市の錬金術に勝るとも劣らない。負担はその分掛かるが……効果は絶大だ。
これは戦争じゃない。征伐であり、討滅だ。それは仕方ない。何故騎士が防衛に回るのか、それは自軍の混乱を避けるためである。
悪霊は人の心を食らう。ゴーストが男性の精神に直に影響を与えるように、悪霊はそのまま心を取り込み、手先にする。

――そうして出来た空間を、'役割'があてがわれた私達は、敵を払いのけながら駆け抜けていく。

「――テメェはそう言う奴だよな、エリザ」
私の横で、亡霊が肉体を持った存在を叩き切りつつ、壮年の剣士――ユネスさんが感情の読めない声で呟く。相手は、聖力を持ち自身のそれを伝導しやすい杖で悪霊を浄化していく教会戦士――エリザさん。
「?民草のために身を砕くことは神に仕えるものとして当然の行為では?」
彼女自体はこの戦いに疑問はないらしい。迷いのない信仰心。それはそのまま、彼女の強固な精神を支えているらしい。
にしても、曲がりなりにも教会剣士で信仰対象でもある彼女に、敬意一切ゼロで話しかけるユネスさんは何なんだろう。狂信者に狙われはしないんだろうか。
「……一体どういう事だ?」
外法魔導士を踵落としで昏倒させながらの私の呟きを、ユネスさんは聞き漏らさなかったらしい。再び切り捨てつつ叫ぶように吐き捨てた。
「エリザとの関係か?そりゃここ十か二十年の腐れ縁って奴……よっ!」
その言葉に応えるように、エリザさんは感情を交えずに続ける。
「教皇様から勇者候補として彼を勧誘せよ、との命を受けまして、各地の説法・救護・討伐の折りに彼に幾度も誘いかけていたのですよ。三年前まで」
「誘いかけ方がどう考えても力押しだろーが。教会と神と自分の技量のよ」
二人の言葉の応酬に、嫌悪感は見られない……と言うよりも、二人とも本当にぶれない。多分本当に、二人の関係は昔から変わっていないのだろう。エリザさんが誘いかけ、ユネスさんがそれを断る、といった具合のやりとりが、ずっと行われてきたに違いない。
「……三年前?」
でも何故三年前なのだろう。その答えは、感情一つ籠もらないエリザさんの声が明らかにしてくれた。
「"黒羽同盟"と名乗る集団が、教団内における奴隷売買を暴露しました。その中心人物の一人が私に彼のスカウトを命じた教皇だったのです」
……あぁ、成る程。そう言えば新聞やラジオか何かで見たり聞いたりした気がする。確か当時、『敵に回すべきではないのはデュラハンやバフォメットなどではない。"黒羽同盟"だ』とランお母さんも言ってたっけ……。
「通りであん時教会領が基本慌ただしかったわけか。警備もおざなりで何やってるかと思えば、"黒羽同盟"の洗い出しと鎮圧、及び住民に対する説得たぁな……」
やれやれと首を振るユネスさんにも、感情を荒立てることなくエリザさんは返す。それはまるで、教皇のしてきた事なんて眼中にないかのように。
「民の治安を守り、混乱を鎮めることを優先させるのは当然では?混乱は傷を生み、争いを生じさせ、要らぬ憎しみまで産み出しますから」
「その原因に付き従っていた奴が何を言うか」
「……故に私は、教皇に真実を問いました。そして、数日間投獄されそうになりました」
やや憮然と告げるエリザさんに対し、ユネスさんは驚いていました。私も驚きましたが、その比ではない驚きようです。
「お、お前、教会に逆らったのか……?」
彼の声に、特に同様も見せずに言い放ったその姿は……伝説に見られる戦乙女の再来か、とも感じられるほど凛々しい物でした。

「神の名を戴き、それを用いるならば、神の意に従うべし。もし神の意に背くならば、神の名を戴く資格なし……。
我が主神に魔を滅ぼせとの教えはあれど、か弱き者を奴隷にせよ、などという教えはありません。そして『我欲を持ちて事に当たるべからず』とも教えにある以上、我欲を以て奴隷を売買していたのならば、神の意に反するのですから神の名を語るに値しない……私はそのように考えました。
無論、邪に魅入られている可能性がある以上、民や使徒達に信を問い、大教皇に密書を届けもしましたが……」

「……やりおるぜ。寧ろお前なら'教皇がそんな事をする筈がない'と擁護に回ると思ったがな……」
私としてもびっくりとしか。この人、ただ無闇に信仰しているだけじゃない。自ら、信仰を護るために律している。
何人目かの外法魔術師をアッパーで殴り、そのまま蹴り上げて吹き飛ばしつつ、私はこの年齢不詳の聖女に畏敬の念を抱き始めていた。ユネスさんはというと、それでも解せないところがあるのか、悪霊を三体横薙ぎにしつつ訊ねる。
「けどよ、そんだけ神を信仰しているなら、魔と協力している現状は色々と不味いんじゃねぇのかい?神様は反魔を謳ってんだろ?」
確かにそうだ。魔を滅ぼすことを謳っているのならば、魔と協力している今の状況は神の意に反することになる。けれどエリザさんは、それに対しても、明確な意義を以て答えた。
「魔を滅ぼすことの根底にあるのは、市井の人々を、人間を、人の種を護ることでしょう。
確かに全て魔に任せてしまえば教会にとって千載一遇の好機とはなるでしょう。しかし、屍肉を漁る獣のごとき浅ましき行為に、どの民が付いていくと思われますか?相手の虚を突き殲滅する必要のある、知のある魔との戦争とは違うのです。
それに、魔にも聖にも与せぬ悪が、市井の者に危害を加えんと増長するとき、果たして討伐せず魔共との戦争を続ける事が、神の意に適う正義でしょうか。私はそうは思いませんし、私に付いてきてくれた敬虔なる使徒達も、思いは一緒です。

人の世を乱す者がいるならば、それを討つのが教会騎士としての定めです。宿敵と定めし魔物との戦争で弱体化し、互いに悪霊に呑まれてしまう事態となってしまったら、市井を護るどころか不幸に陥れることになります。その結末は、剰りにも愚かしいとは思いませんか?」


「……違えねぇな。優先すべき敵を間違えんな、戦じゃ当たり前の事だ。何でぇ、神様ってのも頭でっかちじゃねぇのな」
ユネスさんは肯きつつ、'悪霊'への道を、文字通り斬り開いていく。エリザさんも、自らの信念を杖に込めて、襲いかかる霊達を清めていく。
私は……。

「……有り難う御座います」

気を込めた拳の一撃で霊を浄化しつつ、改めてエリザさんと、その仲間の方々に、命を落とすかもしれない戦いに、こうして参加してくれたことを、深く感謝した。
そして同時に、自分にも言い聞かせた。何度も、何度も繰り返してきたことだけど、それでも言い聞かせなければならない。

――自分の都合で巻き込んだ彼女達を犠牲にせず、この悪夢を終わらせる。それが今、自分が為すべき事だ、と――

……しかしながら……全くもって尽きないな……。

「……欲に駆られた愚か者共が……!」
「全くだぜ。道を外し、外れた先で喰われちゃあ間抜け以外の何者でもねぇ!」
「同感です。現世では、主の意の実現には遠い……!」

三者三様の不満を漏らしながら、私達は目の前に立つ、黒のローブを着たならず者達と相対した。彼ら彼女らの身に着けるローブは、悪霊らの手が入ることにより完全に身体と一体化しているらしい。足すら闇に包まれて見えない辺り、浸食度は相当の物のようだ。
目の前には三体。その後ろにも数多くいる。近衛兵という訳なのかは分からないが、多分さっきまで殴り捨てた相手よりも強い。
編成は遠距離兵と近距離兵、そして魔導兵。誰が誰の相手をするか、私達は一瞬で目配せをして、跳んだ。
私が狙うのは……当然、魔導兵。二人は残りの二人を魔導兵から引き離してくれた。
枯れ木にも似た手がローブから浮かび上がり、節榑立った枯れ枝の杖を振るって、私に向けて闇の玉を放つ。私はそれを回避しつつ殴り消して、魔導兵の首を狙ってソバットを放つ。感触は……ゼロ。
空間跳躍か。咄嗟に気配を探り、同時に守りを固める。気配は……真上!
私に向けて大量の、魔力によって精製された槍が上空から放たれる。風を切りながら私を貫くように迫るそれを紙一重で避けつつ、私は改めて気配を探る。ジャンプはしない。したら回避できなくなるから。
恐らく当分は地上には降りてこないだろう。気配は上空を巡るままだ。再び槍は来る。その時に反撃は出来る。
「――」
人の口では発音すら難しいであろう、錬成の呪文を事も無げに呟く敵に、私は予兆を悟らせないように袖に隠したナイフを投げる。転移先を気配で予測しつつ、気を込めた槍を虚空に向かって投げる……が、外した。転移タイミングをずらされたか……っ!
私の全方位を囲むように、ずらりと用意された刃物の山。その一つ一つに悪霊の魔力が詰まっており、当たればその場で汚染されるだろう……常人なら。私でも長時間食らいっぱなしなら危ない。かといって、これは避けられるのかな……?
大きく振りかぶる敵。あらゆる兵器に魔力を集中させている――この瞬間。私は地面を蹴り、空へと跳びつつ、私を狙う槍の一つを……勢い良く足蹴にした。その勢いでサマーソルトを放ち、逃げの空間を作ると同時に刃物の足場を作り出す。そのまま――宙を蹴り移動するように、既に宙に固定されていた刃物を蹴り――!

「――『烏』!」


――さながら鈎爪を持つ鳥が獲物を襲うように、空気の刃を纏った足が、敵の体に触れる。箇所は……脇腹。首を狙いたかったが、外したか。
体勢を崩した敵を蹴り落としつつ、私は体勢を整える。魔力の集中が途切れた事によって、支えがぐらついた刃が地面に落下していく。復活したら浮かび上がる凶器になるから、避けなければいけないのだ。
手甲の調子を確かめつつ、私は再び周りの気配を確認する。今ので鎮圧するような敵ではない。必ず……必ず復活する。復活して私を引きずり込もうと狙うのだ。
「――!」
果たして、奴は復活した。場所は――私の背後。
ノーモーションでの裏拳、は外す。即座に転移したらしい。すぐさま気配を探りつつ、私は周りを見回す。私を狙う、無数の刃物が再び起き上がり、浮かび上がりつつあった。
外道の気配は、分からない。けど近くには居る。油断するな。無闇に気を散らすな。近くに来たら――しとめる。
「――たぁっ!」
私に向けて飛びかかりそうな槍を手甲で弾き、気を込めて邪気を吹き飛ばすと同時に固定化する。これで私にも武器は出来た。そこまで丈夫ではないにしろ、長柄の物があるだけでかなり変化するのだ――この後の状況が。
「――仄風」
私はバトンや棒術の要領で槍を回しつつ、周りの武器を吹き飛ばす。あまり風を起こさず払いのけいなしていくことから『仄風』と名付けられた技によって、私は安置を増やしていく。折れるまでに、なるべく除けないと……私の体が危なくなる。
背から回し一閃、そのまま上に二閃。体を捻り刃を除けつつ三閃。ルミルさんの鎌の動きを自分なりにアレンジした動きで、この武器の包囲網を潜り抜けていく。防戦一方だけど、今は仕方ない。隙を見つけ……反撃に移る。
武器の落下による土埃を歪ませる、敵の姿――は、フェイク。けれど私はあえて槍を投げ、そのまま地面に手を付き、体を跳ね上げ、天に浮く槍を蹴り上げる。力の加減を正確に行い、そことは別の、風の吹き込む場所へ。
「――逝っ!」
宙より降る、手刀。ジパングの赤鬼の武人が扱う必殺技だというそれを、私はケイさんから習った。速度の付いた一撃は、丁度空間転移したばかりの敵の、首へ。
苦痛の呻きをあげる黒マントに、私は次々と追撃を加えていく。エルボ、肩、背、手刀、掌底……一撃を重んじる流派は、体内の気を錬り衝撃を与えると言うものでもあるため、肉体・精神の境なくダメージを与えていく。
声にならない苦痛の呻き、徐々に敵の体から煙が立ち始める。構うものか。煙が出たからどうした。やるべき事は――!

「――崩掌っ!」

――鳩尾に勢いよく当てた掌、そこから私は大量の氣を、一気に流し込む。心臓マッサージの要領で勢い良く放たれる氣は、もはや人間ではなくなった外道の体を構成する核を砕き、体を一気に瓦解させる。
かきり、と関節が外れるような音と共に……私と相対していた敵は、呆気なく崩れ去った。生成が中途半端な武器と共に。
「……ふぅぅ……」
呼吸を整え、氣の巡りを正常に戻す。そのまま次の敵に相対する……けど、その間にユネスさんとエリザさんが怒濤の勢いで敵を浄化しているのが……。実力不足が憎い。足手纏いにならないよう自分に誓ってたのにっ!
「……おし」
悔しがる前に、私は私に出来ることを。そう自分に再三言い聞かせ、私は次の敵に向かっていく事にした。
土煙を上げ、駆ける――!

――――――

「――チェストォォォォォォォッ!」
私の横でユネスさんが、愛剣『ヨルムンガルド』を振り下ろし、襲いかかる戦士の残骸を蹴散らしていく。
「――はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
その反対側ではエリザさんが手にした杖で、悪霊達を次々に祓っていく。光り輝く防壁は、まだ誰にも貫かれていない。そして。
「――せぇぇぇぇぇぇぇぇぇいっ!」
私もまた、氣を用いて外道を塵に返していく。魔の中心である核を狙い、一撃を与えていくのだ。必要最低限で、効率の良い攻撃を加えていく。そうしなくては……恐らく、呑まれるだろう。
核に対して蹴りを加え消滅させた後、私は目の前に聳える、闇の塊を見上げる。
言うならば『影で出来たのっぺらぼうのだいだらぼっち』とでも言うべきか。輪郭は人だ。それは間違いないが、その大きさが問題である。でかい。中央教会の本堂くらいでかい。まず人間は踏みつぶされるか取り込まれるかするだろう。
顔がある部分には、微かに光る物体がある。光の量こそ微々たる物だが、そこに含まれる輝きは何処までも暗く、吐きそうになるほど重い。負の感情を煮詰めて殺意に昇華した蒸気を希釈せず再濃縮したらこんな光になるのかもしれない。
恐らく私以外の人で、なおかつ気が弱い人だったら……きっと双眸の輝きに引きずられてしまうだろう。そしてまた新たな悲劇が起こりうるのだ。
私はならない。何故なら、その悲しみも、怒りも、底知れぬ怨みも、私は理解できるから。本来なら、私も感じていたかもしれない代物だから……。
体の表面に、人の顔が浮かぶ。まるでビニールに顔を押し付けて叫んでいるようなその顔は、次の瞬間にはずるりと押し出される。黒のマントを伴って。こうして私達が相対する悪霊は生まれていく。尽きぬ恨みと魔力から……。
「……ハッ!」
近くに来た敵の核を一撃で砕きつつ、私はさらに『悪霊』へと歩みを進めていく。終わらせなければならないから。悲しみが生む永劫の連鎖を。悲しみと憎しみと殺意の渦巻く、深淵の中心にて……。

―――ユネス―――


――甘ぇ、甘ぇよ。甘ぇんだよ。
んなチャチな妨害でこの決意を阻めるとでも思ってんのか。
んなチャチな力でこの巌のような体を穿てると思ってんのか。
何より……んな螺子くれ曲がった心でアイツを絡めとれると――!

「……思ってんのかボケがぁ――っ!」

あぁ腹立たしい!御近所さんからそうでねぇのまでアイツを引きずり込もうとしてんのが異様に気にくわねぇ!強制的な同情+泣き落としを狙ってんのか!?
アイツがどんだけの涙を流し、アイツがどんだけ歯を食いしばり地を叩き、アイツがどんだけ慈愛を以て事に当たってると……!
「――思ってんダアホがぁぁぁぁぁっ!!」
俺は他の奴に説教するようなガラじゃねぇけどよぉ……!コイツ等は見ていてムカつくんだよ!イライラすんだよ!テメェの頭は腐れてんのか!?心まで腐れてんのかッッ!?!?
元々は村人か、はたまた冒険者か、それとも討伐に向かった奴かは知らねェがよ……どいつもこいつも心を無くしやがって……!
悲しいか?悔しいか?口惜しいか?憎いか?怨んでんのか?そりゃ憎み合いの末の内乱で死にゃあ悲しく悔しく口惜しく憎んで恨んでのたうち回んだろうよ。それは俺だって理解できらぁ。……だがよ?

テメェら、それ、本当にお前の感情か?
テメェら、それ、ただ流されてるだけじゃねぇのか?
テメェら、流されて自分を無くしてんじゃねぇのか?
テメェら、今何して、今何したいか分かってんのか?

分かってねぇ。
分かってる筈がねぇ。
分かってたらこんな、無秩序で、脆く、単調で、だが終わりの見えねぇ、ある意味タフな攻撃なんざ仕掛けてこねぇよなぁ。

「――ハッ!」

反吐が出るぜ!ったく!
涙も出てくるぜ!こんな奴等を救いたい一心で生きてきた嬢ちゃんにな!!
嬢ちゃん。アンタは俺らよりか弱ぇとか思ってるみてぇだが、十分強ぇよ。俺だけだったら、早々に怒りに任せていただろうさ。怒りを堪え、目的を見失ってねぇ嬢ちゃんの方が、十分俺らより強ぇよ。
強さってなぁ、腕っ節だけじゃねぇし、数だけでもねぇ。心だ。折れねぇ心がある限り、負ける事ぁねぇし、出来ねぇ事も少ねぇんだよ。
だからよ……!

「――負けんじゃねぇぞゴラァァァァァァァッ!」

魂の哮りと共に、俺はヨルムンガルドを振り抜き、悪霊共の胴を纏めて薙ぎ払った。

―――エリザ―――

……私が彼……じゃありませんね。彼女と出会ったのは、あのアンディスでの講演会でした。
当時、"黒羽同盟"事件の後始末に私を関わらせたくないという上層部の意向からアンディスの警備を任されていた私は、住民の方々の間で話題になっていた一冊の本を部下の一人が休憩時間中に読んでいたからでした。
何の本かと訊ねてみれば、最近アンディスに於いても賛否両論という話題の書『廃墟ネグームの真実』でした。内容は目にしてはいないのですが、神聖なるアンディスで意見が二分、それも聞く話では上層下層隔たりなく賛成派と反対派で喧々囂々の議論が交わされていると聞きます。きっと神をも恐れぬ事が記されているか、はたまた神の名を語る者への糾弾が込められているか……。感情のままに議論する人々がいるのはやや物悲しくはありますが、同時に理知的に突き詰めようと、和を求めようとする者もちらりほらりと居ることを知って、ほんの少し安心しました。あぁ、まだ神の与え賜う理想郷の道は閉ざされていない、と。
部下がどのような考えでこの本を手にしているのかは分かりませんが……反応から察するに、少なくとも著者に対して良い印象は持っていたようです。教会に対する文句の部分は受け付けなかったとは漏らしていましたが。
『エリザ様はご存じですか?"ネグームの生き残り"という彼が、一ヶ月後にアンディスにて講演会を行うらしいのですよ!』
これを笑顔で私に言ってくるぐらいですから、相当好意的に見ていたのでしょう。実体はどうか、対象は教会とはいえ、間接的に神に刃を当てている事になることを考えると、私は彼……彼女を『更正』する必要がある、彼女の講演を耳にするまでは、私はそう考えておりました。
そう、彼女の講演は、私のその心配が杞憂であったことを証明するのに十分でした。


『……私は神を否定するつもりはありませんし、その使徒たる皆様方の思いを糾弾するつもりは毛頭御座いません。
ただ、使徒として"聖戦"を起こし、その争いによって悲劇が生まれ、悲劇の落とし子がさらなる悲劇を生んでいく、それは悲しくないですか、と皆さんにお伝えしたいだけなのです……』


ネグームの惨状は、私も耳にしてはおります。神の使徒と反逆者に別れた人々が共倒れとなり、そのまま人の立ち入れぬ霊と魔が跋扈する地と化したと。我らはその浄化のために兵を出すのだと。
当事者からすれば、そうでしょう。何も変わらない。ただ刃を振り下ろす者と振り下ろされる者がいるだけ。敵と味方を決めた私達と、あぶれた彼女。神の使徒として至らない考えではありますが、復讐に身を焦がす魔の使徒としての道も彼女にはあったはず。
けれど彼女はそれを選ばなかった。選ばず……恐らく選ぶ道の中では最も酷な道を、今はひた進んでいる。
彼女にとってこの活動は、終着点なのでしょうか、それとも……。

ええ、そうです。私――エリザ=クリッシュは、彼女の人そのものに興味を抱いたのです。

部下達の提案で私は彼女と会談を開き、ネグームに起こった事件と、その顛末、そして現状を耳にしたのでした。まさかネグームの内乱に対してもみ消しが行われており、それに中央教会の高官が数名関わっていたとは考えもしませんでしたし、まさかそれが彼――ユネス=ノロードを勧誘せよとの命を下してきた高官と密に接触していたとは思いもしませんでした。偶然とは恐ろしいものです。
そうした教会の不正は見逃せないにしろ……私はそれよりも彼女の語る『悪霊』(ガイスト)の存在に、危機感を覚えていました。
悪霊……旧魔王時代に存在したといわれる、浄化されない負の情念の結晶体です。かつては教会の封魔部隊が多方面から結界を張ることで何とか封じていたそれが、今あの都市に発生しています。主神様と魔王の描いている理から外れた存在は、己の憎悪のまま人を取り込んで喰らい、そして己が一部として手先にしていく……。
悪霊の最大の問題点は、それを根底から退治できる対象が限られていることです。それも個体によってその対象がまちまちなので、酷い物になれば世界にたった一人だけいる、悪霊を倒す『勇者』を探さなければいけなくなるものも、それより酷ければ対象が既に死去しており、魔術部隊による多重封印の末に砂漠の民と協定を結び、砂の渦の中に投げ込んだものもあったと聞きます。

『ネグームには霊木、霊樹が湖の隣に存在し、それが悪霊の行動圏をネグームに抑えています』
『けれど、悪霊を封じられる、あるいは弱体化されるのが困る人達がいます。そいつらは浄化にあたる教会兵や魔物達を殺め、悪霊に捧げています』
『ネグームの領にある山々、そこにある鉱産資源を独占しようとしているのはどの勢力も変わりないです。けれど、教会にも魔王にも組みしない存在でそれを願う輩は、多分……悪霊と何らかの契約すら結んでいる可能性があります。その中に、私の殺害も、恐らくは……』

……恐らくですが、彼女の予測は当たっています。亡霊に知性の有無があるのかは分かりませんが、人と協定なり契約を結べる程の知性があるならば、自らの弱点となる存在を消す事を思い付くのは自明。ましてや旧魔王時代の魔物ならば、抗う者の血肉を啜り絶望を与える行為に対する躊躇など、微塵も存在しないでしょう。
ネグームの状況と、彼女の思い。その二つを受け入れた私は、もう一つの疑問――彼女の体質について、質問することにしました。
「ところで、ニカ。貴女は何故、魔力が効かない体質なのですか?」
私の質問に、彼女は私を真っ直ぐ見据え、口を開きました。

『……「人として、この悲劇を語る」、そう決意した私に、母が施してくれた訓練の賜物です』

そう語る彼女の目は、どこまでも真っ直ぐで、神の道に進まずにいるのが惜しいとすら思えてしまいました。
ですが、例えどれだけ高名な神官が彼女に主神様について語ったとして……恐らく彼女の心は曲がることはないでしょうし、彼女が曲げることもないでしょう。それどころか、彼女の言葉を道理として受け止めることすらありえます。
……そう、今の私のように。

不思議です。神の意の実現に動いてきた私が、"私"として彼女を応援したくなる。彼女のためになら、神に殉じたこの体を投げ出すことも厭うことなど、出来もしません。

それに……放置しておけば明確に災禍をもたらす存在を見過ごすことなど、神に仕える騎士として、出来ましょうか。
いや、してはならないのです。

「――民草に仇なす者共よ!神罰を受けよ!」

私の持つ『蒼空の杖』と『十字の盾』は、邪なる者の攻撃を無為にし、存在を天に返す。神の名に於いて用いるものですが……一部上層部からしてみれば私の今の行為は褒められたものとは言えないのは確かですね。
しかし、永劫に繋ぎ遺すべきは神を信じる人の意であり営み。ならば私はそれを護るために腕を振るうのは当然。
それでなくて何が騎士でしょう。
それでなくて何が使徒でしょう。

「――あるべき地平に帰りなさい!」

塵と消える悪霊を見送りながら、私は再び杖と盾を構えました。私が見据える先……そこに佇んでいるのは、神敵であり我等の敵であり、ニカの目指す終着点――"ネグームの悪夢"(ナイトメアオブネグーム)とも呼ぶべき巨大な……そして虚ろな敵でした。さながら風船の如く、裂いたらそのまま中にある物が外に溢れてしまうような気さえする……闇の巨人。
眼窩があるのかも分かりません。ただ人を思わせる形をとっているだけで、実体は魔に落ちた霊の集合体に過ぎないのですから……。
「こいつが……嬢ちゃんの"目的"か……」
隣に、加護を授けられていないにも拘わらず、幾多もの霊の名を天に返してきた、身の丈以上の無骨な大剣を持つ兵士――ユネスが、彼らしくもないやや苦しげな息を吐きました。剣を持たない手の感覚を確かめるように握り、広げる辺り、彼も理解しているのでしょう。
これは、私達には倒せない、と。いや、伝説の勇者がもし存在するとすれば、もしかすると、といった具合でしょうか。或いは、地深くに未だ怨念が蟠るとも囁かれる数十代前の魔王――神話の御代の魔王クラスの力を持つ魔物ならば……。その何れも、爆破の罠が入った宝箱を爆発ごと消滅させる類の物であり、正当な解除法ではないのは確かですし、そもそもこれは仮定の類。神の作り賜う因果律をねじ曲げるレベルの力を持つ存在など……まだ居りませんし、魔物側にしても精々魔王くらいでしょう。
「!来ます!」
私達の力を感じたのでしょうか。悪霊の体が渦巻き、一つ……いや、二つの巨大な黒の塊を作り出します。今までのまがりなりにも人型や魔物型を保っていた分体とは違い、様々な生物の体が奇怪に融合したような奇妙な輪郭をしていました。今の魔王の趣味では恐らく無いであろうその輪郭は、もしも黒塗りでなければ嫌悪感からえづいたり正気を失いかねない兵士も居たかもしれません。
「……人の魂ってよぉ、ここまで醜く出来んだな」
ユネスの声はに、普段の彼以上の哀しみと怒り、そして決意が見て取れました。
奇怪な怪物を産み出した悪霊は、体の空洞をそのままにうずくまりました。これが事実上の門番のようです。
「……」
私達に追い付いた彼女の表情は、決意に満ちていました。私はそんな彼女に微笑みかけ――武器を構え直します。ユネスも同じように、力の入った笑顔を向け――大剣を悪霊に向けました。
彼女がその後どんな表情を浮かべたのかは……分かりません。ですが、褐色の風が置き去りにした痕跡が、如実に"彼女"を伝えていました。

「――皆さん、有り難う御座います。必ず、終わらせます。そして皆さんと共に、始まりを迎えます――」

目の前を駆ける彼女に向けて、影達は刃を爪を向けますが、それらは私達の武器によって防がれました。
「気張れよ嬢ちゃん!こいつは俺らが引き受ける!」
「貴女は貴女の為すべき事を為しなさい!ニカ=イジュネスカ=ラディウス!」
ユネスと同時に振り抜いた武器は、門番の体を少しながら弾き、明確な隙を作り出しました。その隙を逃さず、彼女は門番の間を駆け抜け、悪霊の空洞に身を潜らせました。
それを見届けつつ、私達は眼前の門番に再び向き直ります。目的の一つであり、彼女に頼まれたことの一つは達成したわけですから、これからやるべき事は……もう決まっています。
「……エリザ」
「……ええ」
ユネスは私に目配せし、私は応えます。彼は誇りと意志、私は神意と意志、その二つの精神を以て――!

「――ぶっ倒すぞ!」
「――在るべき世界に帰します!」

――門番を倒します!

――――――

……嫌悪と安寧、憎悪と狂喜、まるで自分の体が回転する磁石になってしまったかのように、惹かれて拒絶することを繰り返している。目の前の闇、奥の闇、後ろの闇、左右も闇、闇、闇、闇。まるで霧の大陸から伝わったという歴史があるらしいジパング文字の『闇』のように、暗黒色で不定形の門の中で自分が音だけの存在になってしまったかのよう。
その音すら侵そうと、悪霊を構成する亡霊達は私に内に抱く憎悪を、痛みを、嘆きを伝えてくる。分かち合いたいのか、負担を減らしたいのか、それともそんな意志すらなく、ただ生者を取り込みたいのか、私には分からない。けど……その気配の中に、明らかに私が居た都市の、町の人達のそれが混ざっているのが、何処までも悲しかった。
悪霊が作る闇の中に、次第に領旗の外枠の模様を思わせるように彩られた朧気な道と、その道同士を繋ぐ、領旗の中央部にある円の中に点対称で二頭の獅子が描かれたそれに似……嫌悪と安寧、憎悪と狂喜、まるで自分の体が回転する磁石になってしまったかのように、惹かれて拒絶することを繰り返している。目の前の闇、奥の闇、後ろの闇、左右も闇、闇、闇、闇。まるで霧の大陸から伝わったという歴史があるらしいジパング文字の『闇』のように、暗黒色で不定形の門の中で自分が音だけの存在になってしまったかのよう。
その音すら侵そうと、悪霊を構成する亡霊達は私に内に抱く憎悪を、痛みを、嘆きを伝えてくる。分かち合いたいのか、負担を減らしたいのか、それともそんな意志すらなく、ただ生者を取り込みたいのか、私には分からない。けど……その気配の中に、明らかに私が居た都市の、町の人達のそれが混ざっているのが、何処までも悲しかった。
悪霊が作る闇の中に、次第に領旗の外枠の模様を思わせるように彩られた朧気な道と、その道同士を繋ぐ、領旗の中央部にある円の中に点対称で二頭の獅子が描かれたそれに似せている模様の光陣が見られるようになった。似せている、というのは私が知るそれよりも獅子の表情が邪悪であり、明らかに何らかの介入を受けているようだったからだ。
他者に影響を与えない人間なんて存在しないように、霊だって互いに影響を与えている。むしろ実体を持たない霊だからこそ、その影響力が段違いに強い。それこそ、干渉によって思考が、存在が混ざり合ってしまうくらいに。
多分この変化は、外法魔術師や野盗の類が関わっている。私はそう確信している。欲のあまりに悪霊と契約し、存在ごと取り込まれた悪党……私を殺しさえすれば、もう消滅させられることはないと、そう考えていたのだろう。そして……私を殺せば、と同じ考えを抱く者は、何も悪党だけじゃない。時に、正義を標榜する者すら、同じ考えを抱いてしまうことがある。
段になった地面を上がった先に、"それ"は居た。

「……デアト司教……」

生気を失った顔、光のない瞳、猫背。神の威光など逃げ失せてしまったような様子で私を待ちかまえていたのは、エリザさんの言っていた、私を狙っていたという司教の一人だった。けれど、先程述べた印象及び清廉潔白という言葉からは懸け離れた継ぎ接ぎだらけの闇色のローブ――恐らくは体の一部だ――からは、最早既に司教の威厳など存在しない。それどころか、人間の気配すら、ない。
教会の動きを見ていたときの、酒場での兵士の言葉を思い出す。
『――失脚後の司教の行方は誰も知らんそうだぜ。いつの間に懲罰房から抜け出したんだか、誰も知らんそうだ』
「……まさかここにいるとは誰も思わないわよね」
何故ここにいるのかは、私には全く分からない。ただ一つ、確実に分かることとしては、この司教を倒さない限り、私は核にはたどり着けないということ。理由は簡単。彼は既に人間ではなくなっているのだ。肉体も精神も既に、悪霊の一部と化してしまっている。そしてこれは私の推測だけど……私に対する殺意は増幅されているはず。

『――!!!!!!!!!!!』

私の存在を、『デアト』は認識したらしい。光の宿らない瞳を限界まで開き、ぎりぎりとはをならしながら呻り始める。徐々に前傾を強める体には、ローブ、いや、霊達が集って人間とはとても表現し得ない物体へと変化させていく。獣、それも人を一呑み出来そうなほど巨大な獅子のような体を形成していく……。
私達の領旗に描かれる獅子を影で塗りつぶした体に、どこか神聖さを感じられる、タトゥーを思わせる光の筋が様々な部位に向けて走っていく。派手さと神々しさと恐ろしさを綯い交ぜにした威圧感、この場合は畏怖とでも言うのかもしれないけれど、それが『デアト』が『デアト』である証なのかもしれない。教会司教という獅子を身に纏い、光の筋で豪勢に色づけされたその姿……でもその中身は影、というよりも虚ろ。自力で手にした権力であることは間違いないみたいだけれど、あまりにも肥大しているとしか思えない。
……変化を終えた『デアト』はその瞳を開く。闇の抱く"怒り"を濃縮したようなその瞳は、渇いた血よりも黒い赤色に満ちていた。見据える先は私。気の弱い、力を持たない人なら射竦められている所だろう。私に力があるとは言えないが、一般人よりはまだある方だ……そう自負している。
「……」
私は氣を調え、『デアト』を睨みつける。抗うのだ。嘗て、そして今もまた私を死に至らしめようとするこの司教に。"在ってはならぬ者"と私を認識し、私の認識する"在ってはならぬ者"へと変化した、人"だったもの"に。

「……退く気がないんだろ?なら……倒す!」

光り輝く紋様を蹴り、私は絢美なる闇の獣に向かっていった。

―――ユネス―――

「――ぐぅぅ……」
まさか俺が力で押し負けるたぁな……。霊から形成された『叩き潰す』ための剣もどきを振るう門番。生きてねぇから力も無尽蔵ってとこかい。
「……」
尤もそれだけじゃねぇか。俺の身の丈の数倍もある体には、多分取り込まれてやがる輩の元の体の一部を模したような部位が形成されてやがる。それこそ人の手、狼の顎、鰐の尻尾、鯱の背鰭……陸地の筈なのに何で海の生物が入ってんのかは知らねぇが……。中には魔物の体も混ざってやがる。統一性の欠片もねぇ。
仄かに青みがかった闇色のシルエットに過ぎねぇが、時折奴から出てくる分体も似たようなもんだ。合理性の欠片もへったくれもねぇ、幼児の粘土遊びの方がまだマシな造形をしているとすら思える――複数の生物特徴をごちゃ混ぜにしたような魔物。シルエットだからマシかもしれねぇが、万が一これが色付きで襲って来ようもんなら、新兵なら生理的嫌悪から怖じ気付いて真っ先に餌になりかねねぇな……。
正気の沙汰……じゃねぇ。んなもんであってたまるか。どう考えても悪意の産物だろうが。
「――くっ!」
それが二匹もいるってんだからどう足掻いても悪意しか感じられねぇ。あのエリザが苦戦してんだからそりゃ明確だ。あいつの杖による一撃や杖から放たれる魔法が、軒並み触手によって弾かれてやがる。代わりに奴の触手から放たれている雷は、エリザの守護結界によって完全に防がれちゃいるが……魔力体力差は歴然だ。
「っづ、ナメんなっ!」
姿勢を調え、両脚に力を入れて踏ん張りつつ、俺はヨルムンガルドを上に振り上げて剣を弾き、隙を見せる前に一気に振り下ろす!ガードが間に合わない奴の体をヨルムンガルドは裂くと、こびり付いた闇色の肉片を喰らっていく。
『全てを喰らう大蛇』の名が付いたこの剣は、刃こぼれした部分を切り裂いた相手の魂で購うっつーとんでもねぇ能力が付与されてんだが、滅多に刃こぼれしねぇこいつを一戦で傷つけるたぁ……何つー化けモンだよ。一戦の昂揚が沸々と沸き上がってくるが、いつもはそれ以上の勢いで巻き起こる喜びの感情は欠片もありゃしねぇ。
刃こぼれの修復が終わったらしい、ずしりと重さを手に伝えてくるヨルムンガルドを握り直しつつ前を見た俺は――信じられねぇ光景を見た。

「――超回復持ちかよ……ッ!?」

俺の目の前で、引き裂いた傷が一気に塞がっていく。十秒も経たないウチに奴は元通りの姿となりやがって……ガチでこのままじゃヤベェぞ……!
「……その様ですね……」
俺と背中合わせに、杖と盾を構えるエリザもまた、俺と同じように息を乱していた。体力も聖力も結構消耗してやがるらしい。つかその様ってのは……。
「そっちもか……」
只でさえ喰らいにくく、喰らわせてもすぐ治る、それが二匹……いや、二頭か。厄介極まりねぇな。まずいぜ……。正直、解決法が現状は全く判らん。どうにかしなきゃなんねぇが、焦ったところで急激に状況が変わるわけじゃねぇ……ッ!
「――来るぞっ!」
身構えろなんて言わずとも、エリザはそのくらいの心得は出来ている。俺は剣を構え――"俺に向かって"振り下ろされる剣を受け止めた。
「ぐ……ぅぅっ」
剣筋の方向からして、どうやら俺もろともエリザを斬り貫き尽くすつもりは毛頭ねぇらしい。流石に一撃はデカく、俺の腕がおもいっきし痺れるくらい強烈だがな……。
「……っぁっ……はぁっ……」
エリザも"アイツに向けられた"魔法を受け止め、息を荒くしている。こいつもまたエリザを各個撃破しようとしているらしい。各個撃破……それほどの力があんのか……?
何かが引っかかりやがる……。そもそも、こいつらどちらも標的を定めての攻撃しかしやがらねぇ。しかも物理には物理を、魔法には魔法を、だ。一対一に持ち込む程度の知能があんなら、不意打ちで俺に魔法をぶつけ消し炭にするくらいのことはしても良さそうだ。だが、奴らはそれをしない、寧ろ"俺達二人を遠ざけようと"している……?
戦闘の最中、俺とエリザは一瞬視線を交錯させた。どうやらアイツも、同じ事を考えたらしいな。
この考えがあっているかは分からんが……一か八かだ。掛けてみるしかない!
「――オラァッ!」
俺は位置を測りながら剣を横に上にぶん回す!オラオラ来いよ敵さんよ!俺がぶった斬ってやんよ!

――――――

『――!!!!!!!!!』
得体の知れない雄叫びをあげながら、デアトは私に前足を振るう。明滅する地の紋章とデアトの体以外に明かりが存在しないこの空間で、私は氣を探り、音を注意深く聞き、一旦背後に下がった。段になった地面の縁から、妙な圧力が発せられる。どうやらデアトか"悪霊"そのものがこの空間に閉鎖結界を張ったらしい。出られるのは一人か一匹。打ち倒した私か……私を喰った化け物か。いや、化け物は此処から出ることはないから実質出られるか出られないかの問題になってくるだろう。
二撃。死角となる位置からの爪の一撃を私は跳ねてかわすと、そのまま踵落としを喰らわす。鈍い感触。まるで硬度高めなゼラチンを蹴り潰しているようだ。脚が埋まりかねないと判断した私は、体内の氣を足から放ってさらに宙へと躍り出た。寸刻、自身の腕を食いちぎらんとするかのような勢いで、奴の顔が迫っていた。爛々と濁って光る双眸は何処までも憎悪に満ち満ちている。
「――くっ!」
敵の死角にいても油断ならない。寧ろこの敵に死角など無い。宙に浮かぶ私を狙って、闇の塊とも言うべき尻尾がさながら槍の石突きの如く刺突を狙ってきた。回避を狙った氣を込めた回し蹴りは、しかし同時に私の体勢を大きく崩すことにもなってしまった。
「っ『蓬翼』っ!」
咄嗟に手に氣を集め空気を掴む私――けど、それは僅かばかりに遅かった。蹴り飛ばした尻尾が私の胴を狙い、貫くように突き飛ばす!
「ぐっ!……うぅ……」
臓腑を抉られるような衝撃に、私は顔をしかめた。さらに崩れた体勢を立て直しつつ、何とかさらなる追撃を行う尻尾を避けた。
デアトは臥せたまま、爛々と濁る深紅の瞳で私を睨みつけ続ける。漏れる吐息の中に混ざるうなり声は、私という存在そのものを呪っているかのような響きを持っている。デアトが人間であった頃、同じように他者を呪っていたのだろうか。それともあくまで利害のみで判断しているような男だったのだろうか。今となっては誰も知る由はないし……恐らく知っている存在は――。
「!」
第六感的な判断から、私は空を蹴り斜め下後ろに下がる。その数刻後、いや、刻む音すら響かないほどの時間差で、デアトの右爪が私の居た位置で空を切った。はらり、と髪の先端が切れ飛んだ事態に幽かな身震いが抑えられない私が、下がりながら目にしたデアトの腹部――その中央部に瞳を凝縮したような酷く濁った赤色の塊が見られた。それはさながら根を張るようにデアトの腹部のあちこちに赤い筋を張り巡らせ、心臓を思わせるように脈打っている。
奴が視線を外した……狙うのは今しかない!
「『烏』ッ!」
空を蹴り、私は貫くような蹴りを塊にお見舞いした。

『――!!!!!!!!!』

苦しみ悶えるような叫びをあげながら、デアトは大きく仰け反り――そのまま持ち直した。弱点はどうやらあの赤い核らしい。また跳び上がって、隙を晒すのを待つしかないのだろうか……?
「……?」
何だろう。デアトの喉の辺りに、何かが詰まっているのだろうか。何処か猫が毛玉を吐き出そうとしているかのような仕草で、喉の辺りに出来た膨らみの元を上へ上へと押し上げているようだ。
塊が口の中に入ってきたのか、デアトの口が、モゴモゴと蠢き始める。私は射線上から身を外しつつ、何かが吐き出されるのかもしれないと身構えた。炎が出るか、毒が出るか――!

『――!!!!!!!!!!』

表現しえない音とともに吐き出されたものは……ぬっとりとした質感が触れずとも伝わってくる、私の体が包み込めそうなほど大きい闇の塊だった。それは私の前で二つ、いや四つに分裂し、そのまま何かの形をとりながら隆起していく……。
「……」
私にはそれが何かは分からない。デアトの形を模したものではない、かといって人型でもない、門番が似ている形をしていたことしか分からない。けれども、私はそれらの元が何だったのかは理解できた。
デアトの側近、或いは直属の部下で、デアトの悪事に荷担し、職を辞した者達。それがこうして"悪霊"に取り込まれた後で、デアトの口から生み出された。
つくづく、報われない……。魔物排斥を訴えていたその体が心ごと魔物と化すなんて、報われないにも程があるだろう。
けど、私は同情もしないし、心を通わせることもない。ただ道を塞ぐなら押し退けるだけ。体に氣を巡らせて――伐つ。
側近だった者の首もとや肘辺り、触手の根元や尾羽の根元に浮かび上がる、赤黒い塊。それが暗い輝きを放ちながら脈打つと――弾かれたように側近達と、デアト本体が動き出した。私もそれに合わせて空へと跳ぶ。
側近二人が触手を伸ばして私の足を縛ろうとするのを空を蹴って回避しつつ、私は呼吸を整え、気配を探る。探知できない気配は此処にはない。後は体が動くか――!
「――そこっ!」
体を捻り、さらに空を蹴りつつ、私に向けて爪を振り下ろそうとするデアトの赫赫しい核を貫くように、『狩矢』を放つ。協力無比な跳び蹴りは、先程一度貫いた赫黒い塊の生々しい感触をもう一度味わう筈だった。だが、その刹那核を覆うように闇が溢れ、赫の光を覆い隠してしまう。
「くっ!」
氣を足から放ち、何とか闇の泥沼から離脱する私を追撃するように、十本以上ある槍のような鋭い触手が私を貫こうと迫る。
「『風刃』ッ!ハッ!」
連続で振るう脚が生み出す風の刃によって、触手は断絶し闇となり消えた。けれど、触手に一瞬意識を向けてしまったことにより、私に出来た隙――それを見逃すデアトではなかった。
気配を探り――避けられないことがわかる、デアトの強靱な前足の一撃。私はそれを、デアトに近付くように移動し、食らった。
「――ぐぁ、ぁっっ!!」
肺を圧迫する、強烈な一撃。攻撃を体に受けて一つ、地に叩きつけられて一つ。だが体が切り裂かれないだけマシだと言えよう。
せき込みそうになるのを堪えつつ、次第に大きくなる影を見やる。赤く爛々と濁って光る物体が、幾つも私を睨みつけている。嗜虐的な輝きが私を貫こうとしている……このまま沈めてしまう気だろうか。

「――させるかぁっ!」


私は氣を地面に叩きつけ、天より迫り来るデアトの巨体に再び『狩矢』を放った。閉じゆく光。けど遅い!
私の靴底に先程も感じた生々しい感触と冷たい熱が伝わってくる。深く沈み込みながら、私の脚を取り込もうと触手を伸ばす闇ごと、私は氣で弾き飛ばした!
『――!!!!!!!!!!!!!!!』
再び雄叫びをあげるデアトを後目に、弾き飛ばした勢いで再び地面に叩きつけられ……る寸前に受け身をとった私は、そのまま触手を地に刺し地中から私を貫こうとする手下の、触手の根元へと駆け、氣を纏った膝で貫いた。
バクダン焼サイズの腐ったイクラが潰れたような音を立てて、赤黒い核はその内容液をまき散らしながらシュウシュウと音を立てて消えた。
同時に、筆記しようがない、母音と子音の組み合わせすら見つからないような断末魔をあげながら、手下の一人は霧散し、闇へと還っていった。残る手下は……三人。そしてその一人は、既に射程圏内にいた。

「――『風刃』ッ!」

私の足から放たれる、氣の篭もった鎌鼬が、尾羽の根元を核もろとも切り裂いた。核を潰された手下は、先程の手下同様、身の毛のよだつ雄叫びをあげながら雲散霧消した。残る二人は……っ!?
『――!!!!!!!!!!!!』
……正直、気持ち悪さに折れてしまいそうだ。視覚が、聴覚が不快感に侵されつつあるといっても過言ではない。誇張表現でも何でもないのだ。ただただ、気持ち悪いのだ。
その巨大な顎で、味方だった手下を食いちぎり、咀嚼し、自らの糧にしていくのは見ていて気持ちのいいものである筈がない。寧ろ最悪だ。これが権力を得た者の末路なんだろうか。誰か、誰か違うと言って。嚥下した者を吐き出してまた食らう……?牛の反芻なんだろうか。得た者を手放したくない欲の深さがこの仕草なのだろうか……。
吐きそうになるほど強烈に不快な咀嚼音が収まると、辺りを照らしていた背がぼこり、もごりと蠢き始める。背中だけではない。背中を基点に、体のあちら此方にまでもごもごと、まるで触手が皮膚の真下を這うように何かが蠢いている。
めこり、めきり。体がぎしぎし軋む音と共に、デアトの体のあちらこちらが肥大化していく。急激な強化に体が悲鳴をあげているのか、呻きが苦しみに満ちている様に感じられた。その苦しみはデアトの物なのか、はたまたデアトに生み出され、再び喰われた二人の断末魔か……。

『――!!!!!!!!!!!!!!!!』


……変化を終えたデアトは、その無駄に肥大化させた筋肉を見せつけるように、後ろ足だけで立ち上がってみせた。一回り大きくなった体は、一撃でも攻撃をもらってしまえば私の体など容易に吹き飛んで切り刻まれてしまうことだろう。何せ、爪の長さが私の身長ほどあり、自らの体を脚で支えられる程の筋力を持っているのだから。
……押しつぶされそうなほどの威圧感が、私の体を震わせる。自分の体が、目の前で相対している者の体に比べていかに小さいか、視覚的情報で嫌と言うほど思い知らされる……けど、けど!

「――アンタの敗因は、一つだ」

私はデアトに向けて駆けだした。地を蹴り、ただ地を蹴りデアトの足下まで迫る。無論デアトはそんな私に向けて腕を振り下ろし、地面に爪痕を付ける。抉られた地面は光を奪われ闇と化すが――今更そんな物は必要ない。
何故なら、私の斜め上前方に――!

「――私に向けていらない見栄張ったことだよぉっ!
食らえ!『狩矢』ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

――赤黒く濁って光る核、そこに私は、渾身の蹴りを叩き込んだ。二度の蹴りで損傷を受けていた核は、打ち上げ花火の如く天に放たれる私の脚によって貫かれ、弾けるように散っていく。
……先程まで四足歩行だった生き物が急に二足歩行になったところで、体がそれに急速に適応できるわけではない。当然、足元の蟻を踏みつぶすなどといったことも出来ず、手を使うのに必要な屈むという行動も出来はしない。地面に攻撃するには、倒れ込みながら爪を振るうしかなく、それも地面に届くまでの時間のロスが生まれる。
少なくとも私が、デアトの射程範囲の死角に潜り込めるだけのロスは、ある。
私を威圧するつもりだったのか、それとも自らの体の強靱さを見せつけたかったのか……。いずれにせよ、思うことは一つだ。

「……獣の装飾の如く、派手を好むのが祟ったな、司祭」

チリチリ……パリパリ……。
デアトの巨体が、まるで無数の瘡蓋が剥がれる様にペリペリと散っていく。瘡蓋は次第に嵩を増し、逆に本体はその体積を減らしていく。
私は警戒を解くことなくその様を眺めていた。もし背を向けて道連れにされたりしたら元も子もない。この手合いは、相手の消滅まで見届けなければいけないのだ。
……チリ……。
めくれ、剥がれ、散り……やがて残ったのは、地面に倒れ伏し、助けを求めるのか、或いは獣が必死に起きあがろうと力を込めているのか、腕を、指を動かしている司祭だった。いや、"司祭だった者"だ。
もう、動くことはないだろう。死を待つ体でしかないことが、ありありと分かる。少なくとも騙し討ちできるような力ももう持たないだろう事は明らかであった。確認した私は、何も言わず去ろうとすると……。
「……ニカ……ニカ、イジュネ……スカ……」
私の耳に届いたのは、憎悪か恨みか、そうした負の感情に満ち充ちた声で今際の言葉を呟くデアトであった。背を向けたままの私に、デアトはまるで呪いを掛けるかのように、抱いていた感情をぶつけるように呟いたのだった。

「ヨ……世ノ理ヲ……歪メシ者ヨ……汝ニ……滅ビノ……天罰……在ラン……事……ヲ……」
その言葉と共に、デアトの肉体の動きは止まり……消えた。……今際の時にすら、自らを省みることはないのか……。どこまで愚かになれるのよ、人は……。

「……そっくり返すよ、天命を取り違えいかれた御同輩様」
もう聞こえていない、いや、既に存在すら消えた『デアト』に私は吐き捨てると……そのまま地に輝くネグームの正しい領の模様の上に足を進めた。
模様の周りを光の円が取り囲み、そのまま私を別の空間へと飛ばしていく。別とはいっても、まずそれは悪霊の中の別の空間に過ぎない。
「……?」
……この気配、というより、空気……どこか、懐かしい……?
いつか知る、いつか感じたことのある空気に戸惑いを覚えつつ、身構えていた私の視界が、再び開けていく。

――あぁ、成る程――

「……」
そこは、私の記憶と寸分互いのない、あの日が来る前の――モノクロの故郷だった。
空は黒一色の筈なのに、灰色の町並みはこれ以上なくはっきりしていて。町の中心にある闘技場と診療所、獅子の鬣を模した屋根が特徴的な土着宗教の聖堂に、商店集合地帯へと続く整然とした道、そして住宅集積地帯……。
そのどれもが、記憶のレンズを通して色づけられていく。ありのままを残した、喪う前の故郷、それが今、私の目の前にあるのだ。
「……」
ノスタルジーに浸りそうになる私を押し留めたのは、他ならぬ私自身だ。忘れてはいけない。あくまで此処は"悪霊"の中なのだから。
気をしっかり持ちつつ、私は喪われた町の中を歩いていく。攻撃は……来ない。そもそも尖兵の姿すら見えない。警戒しつつも、探索自体は楽に進みそうだ。記憶にある通りなら、もう通れない抜け道も含めて私の頭の中にある。
大陸語ではない、独自の言語で描かれた町の標語は、あの日のまま、変わっていない。周りの人達が言っていた音で、私は覚えている。大陸共通語で言うならば……こんな感じか。
『変わらぬ物などない。大切なことは変化を知り、自らが為すべき事を為すことだ』
そう、変化しない物なんて無いんだ。デルフィニウムのオーナーも変わり、ネグームに対する評価も変化した。魔界が増え、中立派が少なくなって……。
「……」
私は腕に巻いたネックレスを見る。あの日、逃げまどう私が身に着けていたそれは、流石にそこまで良いものではなかったからか、手入れで誤魔化せない錆が浮かんでいる。昔は繋がりが薄れ、風化していくようで泣きながら手入れしたりしたっけ……。それがこうして、繋がりを消すために動くようになるとはそのときの私は思いもしなかったわけで……。
……。

「もし、もしも別の道があるなら……いや、あったなら……」


仮定なんてしても、歴史は事実の羅列をナンセンスに脚色した物語だ。ねじ曲げるなら時を遡り、その時点での自分の行動を、自らの存在と引き替えに変えさせるしかない。
例えば私なら……燃え盛る町を、逃げなさいと叫ぶお母さんの声を背にして泣きながら逃げることをせず、ただ駄々をこねて一緒にこの町で死ぬことを選ぶ、か。
ちゃり、と腕に付けたネックレスが軽い金属が擦れ合う音を立てる。私があの町で、お父さんにもお母さんにもお願いして買ってもらったものだ。太い縁どりされた円の中に十字がはまっている飾りだったから、本当にこれで良いのかってちょっと心配されたっけな……。
「……」
懐かしい、どこか雑然と建つ住居も、掲示板に貼られた紙に記された、昔は分からなかった文字も、町外れのコロッセオの、客用入り口周辺の壁が、塗装が半分剥げかかっていたり凹みが色々見られたりしたところも、何もかもが色以外は全て私の記憶のままだった。
『魔物は排斥すべき』と記された教会からの通報の上から、ナイフで『教会の横暴を許すな』と記されたレジスタンスの知らせが重ねられ、その横にはレジスタンスの首領に掛けられた懸賞金が顔写真と共に掲げられて……。
コロッセオの壁にもあちらこちらに刻まれている落書きも、昔はただ怖いと思うだけだったけれど……今こうしてみてみれば、その感情は間違いがなかった。ただ単純に殺伐としている。
そんな中でもお父さんもお母さんも、何を望んでいただろう……。少なくとも、争いなんて望んではいなかったし、かといって楽観視もしていなかったと思う。たまに夜中に起きていたのはきっと……。
「……」
過去の自分が見ていた風景を、今の自分が眺めるとこんなにも違って見えるものか。町が変わったのか、自分が変わったのか……間違いなく変わったのは私自身だ。この町に変化はないのだから。

「……?」


変化、とは違う。何だろうか。コロッセオの背後に広がる森、その一番手前に立つ木の影に、何か見慣れない物が建っている。祠のような、いつかジパングの絵本で見た道祖神のような……あれ、見えなくなった。
気のせい、だったんだろうか。それにしてはやけにはっきりと目に付いたんだけど……。訳が分からない。罠か?この場所にいる時点で罠もへったくれも無いわけだけど……。
「……」
灰色の町並み。鳥の声すら響かない、死んだ町。募るのは、もう一緒の時を歩む事なんて望めないという、寂しさ。
――本当に、そうなのかしら――
心の片隅に錐で穴を開けるように、くりくりと冷気を含んだ声が私の心の耳に皮肉げに語りかけてくる。耳を塞いだとして、この声はずっと私の中で響き続けるだろう。
――この町と共に過ごす、それが貴女の望みなら、出来ることはあるじゃない――
反論せず、私はただその声に耳を傾け、好きなように喋らせておいた。声はそんな私の態度を同意と受け取ったのか、私の声で饒舌に話を続けていく。
適当にその音の群れを聞き流しながら、私は灰色の町の中を一人歩いていく。調った、きれいな道。私の日常の道。そう、私はいつもこの道を通っていた。
見覚えのある、通りの隙間から見えるちょっと奥まった場所にある広めの家。私が通っていたそこは、お父さんが選んだ学校だった。主だった学校は教会の旗かレジスタンスの旗が立っていたから、それを避けた結果がこの学校だった。
そこから少し歩くと、中央通りで人気だったパン屋があった。学校の帰り道に、夕食のために買ってくるようにお金を渡されていたりもしたっけ。
その先には雑貨屋、八百屋、花屋って並んでいる。月初めの朝は、この大通りにシートを敷いて朝市を開いていたっけ……。
そう、この町があった頃、私はこの道をいつものように通っていた。瞳を超えて映し出されるこの町は、どこまでも色鮮やかだった。もしかしたら仄かに色づいていたのかもしれない。
――ほら、御覧。あの家、見覚えがあるでしょう?懐かしいでしょう?――
声が嬉しそうに指し示す通り、その先にある建物も私は知っている。いや、覚えている。周りの住宅と同じような外観をした、私にとって特別な家、そこに私の足は向かっている。
『イジュネスカ』
そうネグームの言葉で記された表札が、私を出迎えるかの如く輝くその家は、周りの家々よりも何処か色鮮やかに見えた。
――ほらほら、みんな、貴女のことを待っているわ――
声が微笑みを浮かべて私をせき立てる。私はその声が期待するとおりドアの前に立つと、軽くノックを二つ。手に伝わる感触は木製のそれだった。冷たくない、室内の熱を含んだそれは、重さと軽さの両方を含んだ音を辺りに響かせていく。
暫くしてドアの向こうに、足音がとたとたと鳴り響いた。まず一つ、暫くして二つ、三つ……沢山。
私はゆっくりと下がり、ドアが開く空間を確保すると、それを見届けたかのようにドアノブが回転し――!

「――あ……に……ニカ……!」

――お母さん。
私の、お母さん。
"あの日"から、変わらない姿の、お母さんが、瞳を潤ませながら、私に向かってややよろめきつつ近付いてきた。既に手は私の方へと伸ばされている。
「……お母さん」
私もまた、お母さんへとゆっくり近付くと……そのまま受け止めて、優しく二人抱き合った。服越しに伝わる脈は何処かいつもより早く、伝わる温もりも、暑いと感じる少し手前程にまで引き上げられている気がした。
お母さんの肩越し、まだ開いたままのドアの向こう、玄関の手前ほどに叔父さんやイグルーお兄さんがいる。私の姿に喜びの笑みを浮かべて、『再会を祝してパーティだ!騎士も聖職者もみんな挙って途中参加も大歓迎だぜ!』と他の人達に呼び掛けている。
「お帰りなさい!ニカ!」
「……ただいま、お母さん」
玄関口での挨拶もそこそこに、私はお母さんに連れられて、「ニカが戻ってきたぞ!」「こんなに大きくなって……」等々、心の底からの喜びの声をあげるみんなでぎゅうぎゅうに詰まった廊下を何とかかんとか押し退けながら、私とお母さんは居間へと進んでいった。
途中「いつまで居るつもりなんだい?」「この町でずっと暮らさないか?」という声が、歓声に混じって私の耳に届いてきた。誰が言ったのかは分からない。けど、それを「おいおい、早すぎだろ」と咎める声も、「ニカちゃんの好きにさせるべきじゃないか?」と私の意志を問う声も、ついぞ聞こえることはなかった。

イグルー兄さんの指揮でパーティの準備が進められていく中、私とお母さんは居間で、これまでのこととこれからのことを話していた。
私はネグームを出てから此処に着くまでのことを、名前とその職業を織り交ぜて話すと、お母さんは、「いい人達に出逢えたのね……」と、感慨深げに思いを馳せていた。そこからはお母さんの思い出語りだ……。
「……」
……私が両派の戦いの中で逃がされた後、この町は両指導者の死によって戦いは止まったらしい。
荒れ果てた町を、みんなは少しずつ、少しずつ愛を以て建て直していって……元の姿を取り戻した。
町外れの、闘技場の祠はその時の犠牲者のためのモノらしい。見えなくなったのは光の加減と木の位置の都合だったとか。
そして取り戻して数ヶ月後……私が戻ってきた……と。
「……」
その数ヶ月の期間は、ネグームの神木が消えてからの期間と一致していた。偶然、なんだろうか……。
「ねぇ、ニカ……、今日一日だけじゃなくて、ずっと此処に居ようとか……考えてみないかしら?」
お母さんの言葉に、私は返答を濁しつつ、久し振りに家の中を回ってみたいけどいい?と訊ねた。
お母さんは構わないわよ、と笑顔で返してくれた。迎え出たときと、変わらない笑顔だ。私はその声を受けて、イグルー兄さん達の邪魔にならないように廊下に出た。
パーティまでには帰ってくるように、とも付け加えられて。

知らぬ間に集まってきた町の人達が、知る人も知らない人も私が戻ってきたことを喜んで、私の家の中で私に声をかけてきてくれた。よく戻ってきてくれたね、外の世界は大変だっただろう、と。いつの間に我が家に、しかも勝手知ったる家ではないだろう我が家に来たのだろう、と思わずには居られないけれど、それ以上にどうしても意識してしまう点がある。
みんな争いを知らず。
争いは知っていても帰結を知らず。
そして私に此処に留まることを望む。
その申し出が魅力的に思える私も、私の中にいることは確かだ。このままずっとこの場所にいられたらいい、きっと悩みも苦しみもなく暮らせるだろう、そんな夢物語を胸に抱く私は、確かに私の中に存在はしている。
声は、聞こえない。どこから響いているかは分からないにしろ、もしかしたら私の心の一部なのかもしれない、とは思う。この場所に留まり、愛に満ちた母と、親切なみんなの元で暮らすこと、それが私が望んでいる可能性は否定できない。少なくとも、完全には。
年をとり、見慣れた景色は見慣れてしまった景色へと姿を変え、やがて過去へと変遷していく。時として、過去に留まれたらどれだけ幸せだったろうか、過去のまま未来へと進めたら、私はどうなっていたんだろうか……そうした思いがあることは拭えない。
……階段を上る。私の部屋がある二階へと。一段、一段、木の段を踏みしめる度に、戻ってきた、という思いが心の片隅で鎌首をもたげる。それを受け入れつつ、私は一段一段昇っていく。懐かしさが心の中で花を咲かせていくのが分かる。今は好き放題にさせつつ、階段を登り終えた私は記憶にある私の部屋である左に曲がろうとして……心理的な抵抗感に襲われる。まるで、ここには入ってはいけないような、そんな感情が、私の中に突然湧いたのだ。
それに逆らうことも、当然出来た。けれど私は、その悪い予感は"声"の仕業ではないと心の中で理解し、純粋にそのまま従っていた。足は自然に、右の部屋に向き、手はドアを開いていた。
そこはお母さんの部屋だった。部屋の左奥にはミシンが、右奥にはベッドが、右手前には当時としては最先端だったファスナー付きのクローゼットがあった、昔散々お母さんに甘えていた時の記憶が蘇る、懐かしい部屋。
そう、昔はクローゼットの中の服を無理矢理着たり、ベッドに備え付けのカンテラの下に置いてあった本を字も読めないのに読もうとしたり、お母さんやお父さんがどこぞの大会で獲得したトロフィーに目を輝かせたりしたっけ……?
「……あれ?」
ミシン台の横、糸入れとなっているその引き出しの一つが、何故か光を帯びている。いや、中に何か光るモノが存在している……?
恐る、恐る。私はその光へと近付き、引き出しを開けようと手を伸ばす。不用意に触れることは隙を与えることだけれども、私はそれに触れざるを得なかった。
引き出しの取っ手を引くと、幽かにパキン、と音がすると共に、引き出しが独りでに手前に動いた。中にあった物は、手紙。宛名はなく、只獅子の模様が付いた蝋によって封がされた代物だ。
私は、私の心臓が高鳴るのが自分自身でもよく分かった。今私は、母親との再会よりも、この封筒を開き、中身を読むことを楽しみにしている、と……。興奮する気持ちを抑えつつ、私はその封筒に手を伸ばそうとし――。

「――ニカ〜っ!パーティの準備ができたわよ!下に降りていらっしゃ〜い!」

……思いの外、パーティの準備が早く終わったらしい。これだけの人数がいて、食べきれないほどの食料があるはずなのに、どうしてこんなに早いのだろう……。ちょっとした不満を抱きつつも、私は一度下に戻ることにした。お母さんや兄ちゃんを待たせるといけないから……。

「……」
急拵え、の筈だ。少なくともいつ帰るか分からない私を迎えてのパーティ、そんな名目の筈である。けれど、私の目の前に広げられている料理の数々は、そんな前提すら覆してしまいそうなほど多く、そして魅力的な香りを放っている。
膨れては気を放つ焦げチーズが印象的なグラタンに、反り立つ茹でソーセージの山、ケチャップが絡まったパスタにはハムとピーマンと狐色オニオンがこんもりとあり、その横には何年産か分からないワインが瓶で並び、形が均等なポテトフライがバスケット二つに山盛りで並んでいる。
色鮮やかな野菜達はクルトンがパルメザンチーズと共に散りばめられて、その上で酸味の利いたドレッシングが天の川を作っていく。
他にも、子供心に時めく食材が沢山……そう、重力を無視したように沢山並んでいるのだ。心の底から、私を喜ばそう、もてなそうとしているかのように。
「さぁ、今日は騎士も町も関係ねぇ!ニカが戻ってきてくれたんだ!明日の朝まで、思いっきり騒ぐぜ!」
イグルーお兄さんが、周りの人達にそう呼び掛けて、周りの町の人達が、既に麦酒が注がれていたジョッキを盛大に打ち合わせる。迫力のあるおばさんがそこに混ざってグラスを打ち合わせたりもしているけれど……。
そんな景色を、どこか良いな、と眺めているように見えたのだろう。イグルー兄さんが私の元に近付いてきて、こう耳打ちするのだ。昔と……逃げる前と寸分違わない声で。
「なぁ、ニカ……?此処は差別も離別哀苦も無いんだぜ?お前を歓迎し、お前の知る騎士も聖職者も歓迎し、毎日お祭り騒ぎ出来る。無論お前がそれを望まないならそれで良い。兎に角、お前が此処に居る限り、安寧した暮らしは出来るんだ。な?お前にとっても悪くないはずだぜ?」
お兄さんの耳打ちにあわせるように、周りの人達も私に此処に居るよう誘いかけていく。料理はナーラさんが憧れるほどに上等な香りを広げながら、しかし冷める気配一つ見せることはない。
「ふふ、さぁ、ニカ……一緒に、みんなと暮らしましょう?ずっと、この場所で……」
両腕を広げ、抱擁を求めるお母さん。それを微笑ましげな様子で周りを取り囲むみんな。
「……お母さん……」
――さぁ、手を取るのよニカ。そうすれば、貴女はこの平穏を手に入れられるのだから。だって、ずっと、望んでいたでしょう……♪――
声に背を押される。それらに応えるように、私は、お母さん、を――。

――エリザ――

ユネスに背を向けながら、私は待っていました。千載一遇の機会を、と表現しても差し支えない程の好機を。
防御に張る聖力を杖に集積させながら、私は何とか歯を食いしばり、敵の魔法を弾き、霧散させています。もう、敵に余計な攻撃を行う余裕はありません。少なくとも、私を集中して狙う、目の前の敵に対して、放つべき攻撃は、私はもう持っておりません。だから……耐えるのです。
彼の背中が、もう一度私に触れるまで――!

重厚な、筋力を度外視したと言っても過言ではない作りの鎧が持つ冷たさが、拒絶しているような堅さと共に私の背中に伝わります。同時に、私の目の前の門番が、力を蓄え始めました。私もそれに倣い、防御の分の物も含めて聖力を集積させます。一撃の下に、葬るために。
蒼空の杖の先端に填められた青の聖石が、より鮮やかに輝き、徐々に目映さに色すら見えなくしていきます。門番の溜める闇色の魔力とは対照的に輝くそれが、神の身に抱かれん人類を救う希望の光となるよう……!
「――ウラァァッ!」
剣戟、それも地面を割るような強烈な一撃を、ユネスはもう一人の門番に向けて放ったようでした。同時に、私も魔力の集積を終えました。門番は……まだ溜めております。
「……あぁ、力比べじゃ俺の負けだよ……」
何を悠長に話しかけているのか……ではないです。これはタイミングを計るための言葉。私はそれに合わせて呟きます。
「……ええ、貴方の方が魔力が多いのは確かなようで……」
ぎり、と彼の近くの地面が鳴ります。同時に、私の前の敵の魔力の充填も終わったようです。
私とユネスの呼吸のタイミングは、今完全に一致していました。それを証明するかのように……全く同じタイミングで私たちは呟き、そして――!

「……だが、勝負は俺らの勝ちだ!」
「……ですが、勝利は私達の物です!」

その声と共に、ユネスは相手の剣に弾かれるように空を舞いました。同時に私は振り向き、上向きに弾いた余韻で大上段に構える門番に向け、有りっ丈の聖力を込めた一撃を、前に突き出した杖から放ちました。
「――『極白浄化』(ピュリファイ)!」
目を灼くほどに白に染まった杖から放たれる光は、両腕を振り上げ、触手まで広げ始めた門番の全身を貫き、そのまま縛り上げていきます。同時に、動けなくなった敵の地面に、教会が掲げる聖紋の形を模した陣が描かれます。
「――全てを喰らえ!ヨルムンガルドォォォォォォォッ!」
私の体を飛び越えた彼の叫び声と共に、敵が闇の雷を私に向けて放ったようです。視界の端に一瞬闇色のフラッシュが走ったようですが……私に痛みはありません。振り返りませんが、恐らくユネスの剣が全て食らったのでしょう。魔法の対象が、傷を癒すために強制的に剣にさせられたようです。
敵を全て取り囲むように陣が円を描いたところで、私は光を放ってなお強く輝く杖を――彼の影が通り過ぎた空へと向けます!

「――存在に徒なす悪しき者よ!片も残さず白に染まるべし!これは神の意なり!はぁぁぁぁぁぁっ!」
「――テメェは此処にいるべきじゃねぇ!一片も残さず消え失せろやぁっ!おああらあああああぁっ!」

ユネスが大上段からの重力加速度を生かした斬り下ろし――彼はドラゴンクラッシュだと技の名前を言っていました――が敵を杖ごと両断するのと同時に、私もまた、陣から溢れた光が、存在全てを浄化し尽くすが如く敵を貫きました。

『『――!!!!!!!!!!!!』』

言語化すると正気を失いかねないような断末魔と共に、敵の体は――二体とも消滅しました。文字通り、跡形もなく、気配すら一切が無と化して。
しばしの静寂の間に、私とユネスは、ただ呼吸だけを無意識に漏らしながら、対照的なポーズのまましばらく静止していました。静寂に体が奪われたように、音を立てることすら出来なかったのです。
そのまましばし時間が経って……私とユネスは、互いに硬直を解きながら、"ネグームの悪霊"を睨みつけました。

「「……ふうぅ……」」

体に残る疲労を吐き出すように息を吐くと、私は再び聖力を錬り、ユネスは巨大な剣を手に、体をゆっくりと起こしていきました。お互いに、目に映る互いの戦意。
そう、まだ戦いは終わっていないのです。ニカが悪霊を倒すまで、この戦いでの私達の役割は終わりません。門番を倒して終了ではないのです。
私達がこれから為すべき事は……!

「……エリザ、犠牲者を減らすとしようぜ!」
「……言われずとも!」

彼女が守りたかった"存在"を、彼女に代わって守ることです!

――――――

――突き飛ばした。
「え……?」
"お母さん"は信じられない、といった表情で私を見た。それは先程まで愛しい娘に向ける慈母的なそれであったのとは対照的に、私と"お母さん"達の間に明確な線が引かれているような、冷たい視線であった。
動揺しない。もう動揺できない。ただただ、悲しいだけ。突き飛ばした"お母さん"の体の感覚も、この場を支配する空気も、ただ、ただ……悲しいだけだ。
「……違う」
私の呟きは、彼女達に届いたろうか。
「……違う、違う」
私の呟きが何を意味するか、彼女達は理解できるんだろうか。
「……違うのよ」
答えは、既に決まっているようなものだ。
「な、何が……」
動揺したように私に話しかけ、また抱きつこうと試みようとしている"お母さん"を、私は再び突き飛ばす。"生みの親"に暴力を振るうその行為に、心がズキズキと痛んで涙を流してしまいそうになるのを何とか堪えながら、私は"お母さん"達をキッ、と睨みつけた。
「……さっき、言ったよね?『いい人たちに出逢えたのね、お母さんは嬉しいわ』って。おかしいよね?親魔物寄りのいつ宗旨替えしたのかな?」
それに、と私は続ける。視線の先には、パーティ好きのイグルーお兄さんの姿がある。既に私に対して警戒心を隠そうともしていない。
「『再会を祝してパーティだ!騎士も聖職者もみんな挙って途中参加も大歓迎だぜ!』ってさ、そもそもこの領に騎士はいないのよ?聖職者に至っては不和の象徴だってぼやいていたじゃない。そんな人達をおめでたい席に呼ぼうなんて考えるかしら?」
私の言葉一つ一つに、みんな悲しみ、傷ついていく。私もそれは分かっている。分かってはいるけれど……止めるつもりなんて私は毛頭無い。
「……どうして、みんな私に『ここでずっと暮らそう』なんて言うの?お母さんやお父さん、おじさんが言うのは分かるわよ。けどここにいる人みんなが同じ事を私に言うのって、まるで私をここに閉じ込めようと躍起になっているようにしか聞こえないんだけど」
「そんな事はない!俺達はニカの為を思って――」
「私のため?もう成人に近い私が親元でずっと暮らすのが私のため?私に何も聞かずそう考えるのはどうしてなの?」
「それは――」
「いいかしら。貴方達は何もかもが継ぎ接ぎなのよ。私を失いたくない、私を手放したくない、私を収めておきたい、私を捕らえておきたい。この甘く美しい記憶のジオラマの中で、永遠に幸せを享受させてあげたい……」
口にしていて、舌先が乾きそうなほど言い古された陳腐な言葉達だな、などと私の体の外で私を眺めているかのような感想が浮かんでしまう。だけど事実なのだ。この世界は、変わっていない、何も"変わって"いないのだ。そして中に入った人、なのだろうか、は変化しようとすらせず、受け入れることを拒む。それをジオラマと言わないでなんと表現できる?
「そんな事ばかりが頭にあって、そのためにああでもないこうでもないって手を変え人を変え言葉を変え理由を変え、私を此処に居させようとしている。今もそうよ」
私の言葉を否定するように、みんなは口々に優しさを織り交ぜた糾弾を私に投げ掛けるけれども、木の断片が刺さったかのようなちくりと痛む胸の感覚以外に、私に与えた印象はない。
……。
もしも、戻れたのなら、みんなと共に歩む時の中で進めたなら、私は此処に留まるのもいいと思えたかもしれない……。
「私だって、戻れるなら戻りたいよ。賑やかな我が家に、滅びる前のネグームに、戻りたかったよ……」
でも、それは叶わぬ夢であることは私は知っている。地にこぼした水を、壊れた皿を、散乱した硝子を、倒壊した建物を、滅亡した町を、死して途絶えた絆を――元に戻すことなど叶わず、戻せたとして、それが"不変"の"永遠"を語った時点で!

「"永遠"なんて、まやかしよ。変わらない物なんて無いし、滅びない物なんてないの」

大人になる、悲しさと人は言うかもしれない。けれど私は違う。たとえ子供だったとしても、私は同じ事を思うだろう。丸め込まれる前まで、違うって……違うって!
「な、何を、言っ、て――!」

なおも言い募ろうとするおじさんの言葉は――!

――!!!!!!!!!

「「――ギャアアアアアアアアアアアッ!」」
私の『家』の屋根を不自然な形状に貫き、二筋の稲光が地面に向けて降り立つ。焼け焦げた痕すら見当たらない。作り物と評して過言ではない作りの『我が家』。光に照らされた私の色は、どこか当初よりくすんで見えたけれど、その色は徐々に元の艶を取り戻していく――家の色を吸い取って、いや、『家』に吸い取られた色を取り戻して、だ。
「……」
私は、目の前で何故か悶え苦しむみんなから目が離せなかった。私から色を奪ったのは『家』だけじゃなかったらしい……!
「あ、ああ……お、おの……オの……をノレぇぇ……っ!』
叔父さんのまともだった筈の声が、歪んでいく。水底から叫ぶような何処かくぐもった声に、変化していく。テーブルの上の料理も、急激な速度で腐り堕ちていく。ワインも、グラスの中に入ったそれも、グラスごと腐り落とすかの勢いで、歪んでいく。
歪んだ物は、其れだけじゃない。
『ア、が、グ、擬、ゴポ、パァ……』
色が失せ尽くすのと同時に、彼らの皮膚が、肉厚の花弁が花開くかの如くぐじゅりとめくれ、腐った肉と排泄物を混ぜ合わせたような物体が膨張して其れを押し広げていく。
眼球だった物がイクラの如くぶぢゅりと潰れ、得体の知れない汚液をまき散らしながらひっついていた神経を腐らせていく。
ぶぐぶぐと唐突に膨れ上がった背が花開き、溢れ出した半液体状の物体がその全身を覆い尽くしていく。
恨みがましい目を私に向けながら叫ぼうとした口から皮膚が裂け、頭蓋を模した謎の物体からびちゃらびちゃらと汚液をまき散らしながら体をその中に沈めていく。
苦しげに首を押さえつつ天に伸ばした手が破裂し、ずるりと滑り落ちるかの如く皮が地に呑み込まれる。
お母さん、だった者は――!
「ニカ、にカ、ニか、にかァァァァァァァァァ』
――伸ばした腕が、汚水を涙の如く潰れた目から流しながら叫ぶ首が、根元から腐り落ち汚水と物体の中に骸骨状の物体へと落下していった。
汚液と謎の物体達は、元居た体の教会など分け隔て無く絡み合い貪り合いながら、絶妙に面影を残した奇怪にして醜悪な、一つの『物体』へと、変形を完了した。

「……あ……あぁ……うぷ……ん……!」

私は知らず、呻いていた。呻かずにいられなかった。偽物だとは分かっていたし、例え本物だとしても私の知る彼ら彼女らではないことは理解していた、いや、つもりだった。
けれど……目の前で繰り広げられる悪夢の光景は……何なんだ。色を無くしたら、私もこうなっていたのか……?いや、これが、本当に『みんな』の成れの果て、なの……!?
胃の中身を戻してしまいそうなのを、私はフィラメント一本で堪えていた。じりじりと、警戒しながら出口の方へ下がる私の目の前で、異形の集合体となった『みんな』は、表面に『口』を浮かび上がらせながら、思い思いにくぐもった言葉で語り始める。

『――オォォォノォォォレェォォアァノォケンシィィィィ……!』
『――セイキシキサマァァァァァァァァ!』

今先程あれだけ共に歓迎しようと言っていた対象に向けて、今度は同じ天を戴く事すら許せないかのような呪詛を液体と固体の中間点となった体と共に吐き散らしている。蠢き混ざり合い嵩を増しながら思いのままに告げる姿に、私は震えながら首を横に振った。
私はここには居られない。居ちゃいけないんだ。今すぐにこの場所から……逃げ出さなきゃ!
「――ッッ!!」
振り返らず、一瞥すらせず、私はドアを蹴破りながら廊下へと躍り出た。その背後から数秒遅れで、怒濤の如く雪崩れ出る名状しがたき物体群が私を捕らえようと触手を伸ばしていくのが横目で見えた!間違いなく私は出口まで――家の入り口まで間に合わない!
「くっ!!」
咄嗟に地を、空を蹴り、私は階段を、階段の上を天井ぎりぎりで昇っていく。時折天井を蹴って追撃を防ぎつつ、私はそのままさっきの手紙があった部屋へと滑り込もうと空を蹴り――!

「――!?ぐぁあああっ!」

――突然来た、真横からの衝撃に、私は手紙の部屋に転げ込み、そのまま壁に頭を強かぶつけてしまった。でもその痛みよりも、私の鳩尾に加えられた一撃の方が遙かに痛い。まるで、鉄かそれくらい重い物体で殴られたように……。
顔をしかめつつ、私が何が起こったのかを確認するために周りを見渡すと……声が響いた。
「……何でよ……」
違う、声が聞こえた。
「……何でなのよ……」
確かな音として、それは私の耳に届いた。聞き慣れた、けれど外から響くと違和感がある声。
「……何デ……』
その持ち主は……私に直接語りかけていた声の持ち主は……!

『何デ受ケ入レナカッタノヨォォォォォォォォォォ!!!』


……目を閉じて、耳を塞げたらどれだけ楽か。そのまま否定できればどれだけ楽だろうか。楽にはなれるだろう。楽になって、あの濁流の一員となるだけなのだから。そんな未来御免だ。だから私は声の持ち主の体を真っ直ぐ見据え、認識した。
"私"。親の仇を眼前にした復讐者の如き血走った瞳で私を射貫きつつ、荒々しく息を吐く、私そっくりの……ううん、私そっくり"だっただろう"存在が、目の前にいた。旧時代のドッペルゲンガーはもう少し会う時点では私に似せる筈だけれども、今私の眼前でゆっくり近付いていく"私"は、似せるどころか段々と遠ざかっているようにすら思える。いや、間違いなく遠ざかっている。
想像して欲しい。目の前で、私そっくりだっただろう外見が、次第に皮膚が爛れ、火傷で膨れ上がったかの如く異様な形状に、骨が組み変わるような音と共に変形していく様をまざまざと見せつけられている今の状況を。しかも裂けた皮膚からぼだりぼだりと臓腑のなり損ないが地面に落ち、その中に恨みが明らかに篭もっているかのような充血した目が半溶けで落下して、歩く音が次第にうじゅるうじゅるとさながら蛆が湧いているかのような音色を響かせはじめて……。心の弱い人は泣き叫んでもおかしくない。
当初と比べて濁りきった声で、"私"は私に向けて叫ぶ。それは、逆恨みに等しい恨み辛みと……同時に、ある種の憤りが篭もった叫びだった。

『ア゛ンダガ受ゲイレデイダラ、ア゛ダジワ゛ヒドヅニナレダッ!ア゛ダジガア゛ンダニナレダァッ!ア゛ンダモ゛ッ!ア゛ダジモ゛ッ!ジア゛ワ゛ゼニ゛ィィィィィィッ!!』

「……ああ……そうかい……!」
語るに、落ちた。
もしもあのパーティ会場で、あの言葉を受け入れていたら、私は目の前の"私"と一つになって、いや……私が目の前の"私"になって、晴れて亡霊の仲間入りをしていた。
彼女はずっと、私の部屋にいた。置き去りにされた私の部屋の中に、今の今まで居たのだ。多分"お母さん"達も知っていただろう。知って……知った上で私を招いた。
要はあの"お母さん"の中にいたのは、私じゃなかった、それを思い知らされた……。
『ジア゛ワ゛ゼ゛ニ゛ィィィィィィィィィィッ!』
目の前の、正気を失いそうな光景に、私は逆に冷静になっていた。正直……もう――もう!

「――仮初めの幸せなんて、真っ平御免だっ!」

――私は生きる!私として生きるんだっ!"私"なんかになってたまるかっ!
私は真横で輝く封筒を手にすると、異形と化して私を取り込もうとする奴"ら"の触手を跳び避け――窓を蹴破って外に出た!
『ニ゛ィガズガァァァァァァッ!』
汚濁液をまき散らしながら放たれる触手を空を蹴りつつ避け、私は振り返らず、さよなら一つ告げず、家"だったもの"を背に、大通りへと躍り出た。


変わらない筈の町は、すっかりその様子を変えていた。彼方此方に瓦礫が散乱して、石で舗装されていたはずの地面も壊れめくり上げられ、血がこびり付いたかの如く黒く染まっているものすら幾つか見られた。
町の建物はどれ一つとして原形を留めていない。壁に開いた孔、折れた柱、崩れた煉瓦。初めに見た情景の面影は、それらが建っていた位置だけ、という有様である。
そして、先程まで誰も居なかった筈の通りには……まるで"あの日"を再現するかのように、傷つき倒れていたり、壁に潰されたり、泣き叫んでいたりする人達……。
救ってあげることなど、出来やしない。そもそも既にその時は過ぎているのだ。ここは過去の町。過去に捕らわれ、囚われ、過去に捕らえる町なのだ。
私は彼らを警戒しつつ、大通りを駆け抜けていく。彼らは私の姿を見るに――その姿を変え、手擬きの触手を私に向けて伸ばしていく!
『ニ゛ィガァザァイ゛イ゛イ゛イイイイイ……』
『イガナイデェェェ……イガナイデヨォォォォポポポポポポ……』
目盲滅法に撒き散らされる音を認識するのを止めるよう努めながら、私は腐れた手だった何かから逃れるように、"あの日"の町を必死で走っていく。
私の目の前で、町の住人だった人が苦痛の叫びを響かせながら皮膚を裂き、溶かし、原形を留めない醜悪な化け物へと変化していく。あの日と同じ、助けを求め、争いを厭い、憎む断末魔をあげながら、見知った顔も、見知らぬ顔も、人も動物も、一切関係なく、羽化を待つ蛹を途中で裂いたかのような出で立ちで化け物へと変容を遂げていく。
この空間では、自分が異物なのだ。だからこそ異物は適応させるよう、私を捕らえにくる。かつて心地良かったはずの住処は、今や私の敵に回ったようなものだ。
……いや、拒絶したのは私だから、私が彼らの敵なのだ。変化を否定するために、私という変化を変化させようとする。……そうして悪霊は広がり拡がり続けるのか。
捕らえられるわけになんて、いかない。私は、私なんだ!

変化しない町の、唯一変化した場所……恐らく其処が、私の行くべき場所だ。そのために、……駆ける!
闘技場の窓を割って放たれる触手達を避け、様変わりした草に絡み付かれないように地を蹴り更地を跳ねるように飛び――私は闘技場の祠を発見した。犠牲者の為の祠と言うには、あまりにもお粗末な出来だ。悼む気すらない。それはそうだろう。本来悼むべき相手は、この町では『生きて』いた。
なら、本来あるべきこの場所の姿は……!

不格好な十字が刻まれた祠が闇を纏い、私を巻き込むかのようにそれを辺りに放った。突風ににた波動に、私は封筒をしっかりと握り締めながら砂埃から目を守る格好をする。薄目を開いたとき――既に辺りの風景は様変わりしていた。

「……ここは……」

先程とは違う、紫色の空、枯れた木々にうねる土……そして、辺り一面に広がる、墓標。見渡す限りの石、石、石。到底数え切れない程のそれらの幾つかに目をやると……。

『kayso Ijneska』
『Iglu Ijneska』
『Dnd Ijneska』

……お母さん、お兄さん、お父さんの名前が刻まれていた。っいうことは、間違いなくこの場所は……。
「……"現実"の、祠。正しく言うならば墓場……か」
これだけの人数がネグームにいたことは、私が研究したから確かだ。つまり、これだけの人数が、今は……!

『(ニカ=イジュネスカ……何ということをしてくれたのだ)』

「……」
突如響く嗄れた声の方に目を向けると……確か、当時レジスタンスを指揮していたらしい男と思われる何かが、その手に真ん中辺りで折れた剣を持ち、墓石の上に立ち私を睨みつけていた。
気付けば、同じような様子で墓石の上に乗って私を睨む人の形をした何かが増えている。土から出てきたのか……服のあちこちに土が付着している。
『(この愚か者が)』
『(お前は俺達を殺した)』
『(生きたいという願いを踏みにじった)』
『(奪われたくないという気持ちを蔑ろにした)』
『(裏切り者め)』
『(永遠の生だぞ、何故欲しがらない)』
『(私達はそれを求めていた)』
『("無限"を求めていた)』
『(共にあれる平穏を求めていた)』
『(それをお前は全て壊したのだ)』
『(そう、ニカ。お前は我らを殺したのだ)』
『(裏切り者め!裏切り者め!裏切り者め!)』
次々と、墓の中から溢れ出ては私に対して罵声を浴びせつつ武器を持つネグームの人達。武器とは言っても兵士が持つようなそれではない。包丁や棍棒といった一般家庭にある扱いを意図的に間違えている類のものだ。
恨みに満ちた目は赫を通り越して深紅、剥き出しの歯に前傾と、到底理性的とは思えない出で立ちだ。一人一人が別の口を持っているのに、一人一人同じ意志を持っているかのように、口を変え言葉を変え私に語りかけてくる。
『(だが我らは有情だ)』
『(今なら同胞としてまだ戻ることが出来よう)』
『(さ、我らを受け入れよ)』
『(我らはニカを受け入れよう)』
『(我らの有情の鉄槌を以て――)』
『『(我らとの何者にも奪われぬ時を歩もうぞ!ニカ=イジュネスカよ!)』』


『Nika Ijneska』
私の名前を刻まれた墓へと追い込むように、じり、じりと生気を失った集団が取り囲んでいく。一人一人の姿は違うのに、どうしてこうまでも没個性的なのだろうか。
これが、死して悪霊に取り込まれる、ということか……。もう、私がここの住民であったっていう"情報"しかないんだろう。単純に、仲間が欲しいだけ……。
手にした封筒に、ぽうと熱が灯った。けれど私はその時、その熱に気付かず、封に使われた蝋の接着が緩んできているのにも気付かなかった。
私の中にあるのは、ただ――悲しみだけだ。変わったのは自分か、この町か、或いはどちらもか。答えは分かっている。
「……殺した?違うね。私は貴方達を殺していない……。
……それにそんな有情なら、いらない……」
返答を聞くつもりも暇一つも与えず、私は彼らに備え、気を体に回して迎撃の姿勢をとった。足を掴もうとする手をだん、と踏みつけつつ――叫ぶ!

「アンタらが殺したのはアンタら自身だッッ!そんなアンタらが身勝手に私の生を勝手に語るなッッ!
――この、亡者共がぁぁぁッ!!」

滑稽だ。あまりにも滑稽だ。奪われることを何よりも畏れる癖して、私からは何もかもを奪おうとしている。その矛盾に気付かず、ただ私を捕らえようとしている。この様を滑稽といわずして何というのか!
もう自分が何を言っているかすら分かっていないんだろう……'自分'がもう存在しないんだろう!それはもう存在が死んだも同然だ!
「――ッ!?」
私の叫びに呼応するように、手にしていた封筒がその口を大きく開いた!同時に堰を切ったように、光の奔流が辺りに溢れ始める!その光が、私を取り囲み今まさに武器を振り上げようとした死者に触れた瞬間……死者の体が一瞬で漂白され、消し飛んだ!
『(な!?あ、あの封筒はァァァっ!?)』
『(どこに隠れていたというのだ!我らが探しても一度として目にすることはなかったというのにィィィっ!!)』
次々と、狼狽の表情を浮かべた死者達が霧散していく。霧散するのは死者達だけじゃなく、墓場の風景が、土の形から何から変化していく。
『(オノレェェェッ!カイソ=イジュネスカ!裏切ッタカ貴様ァァァァァァッ!)』
『(モウ、何モ奪ワセナイ!逃ガサナイィィィィィィィッ!)』
苦し紛れに私に手を伸ばした死者達も、遠くから射立てかけようとした亡者も、次々に断末魔をあげながら、浄化されていく。その姿すら見えなくなりそうな程に目映い光は、いつしか私を包み込み、空をも光の色に染め――!

「――ん……ん……と」
私が再び目を開くと、其処は先程まで居た墓場ではなくて、その前に闇が集った祠の前だった。祠に取り込まれかかる前と違っている様子は……と、何の気なしに後ろを向くと……。

「――ひっ!」

……思わず引いたような声を上げてしまったけれど仕方ない。何せ……私の僅か数m後ろに、一部が欠けている骸骨の群が山を作っていたのだから……。血の気が若干引いたけれど……その正体は何かと考えてみれば……。

「……みんな……」

先程私が逃げた、私を捕らえようとする名状しがたいおぞましい集合体。恐らくその中に会った骨達だ。……予感が正しければ、多分、悪霊に取り込まれたみんなの骨。それがこうして私に向けて手を伸ばした状態で折り重なって、胸が締め付けられるオブジェを形成しているのだろう。
私は、この場で死者となることを否定した。みんなとの袂を分かち、自分の生を生きることを願った。
みんなの生と、私の生。もう違ってしまっているのは分かる。自分がしでかした結果がこの白骨であることは、理解しなきゃいけない。
けど……。

「……あ」

そう言えば、まだ封筒を、手紙を見ていなかった。何処にある……と思ったけれど、何のことはない。手に握られている。
蝋による封は、跡形もなく消えてしまっている。光はすでに消えた。中にある手紙は、今なら取り出せるだろう。
「……お母さん……」
あの時、放たれた光に浄化されつつあった死者達のうち、お母さんに対する怒りを露わにしたのが……多分教会側の誰かだったと思うけど……何人か居た。ということは、お母さんがこの手紙を書いたことは、霊の誰もが知っていて、それでいてあの場所にあることは誰にも気付かなかった。どうしてか、その原理は分からないけれど……。
……。

「読もう……」

周りに敵の、悪霊の気配……いや、存在の断片すら見当たらないこの場所で、私はゆっくりと封筒から手紙を取り出し……見覚えのあるお母さんの文字を、ゆっくりとなぞるように読んでいった……。

――――

――ニカ、私の可愛い娘。
――貴方がこの手紙を読むとき、多分、私はもう、闇へと意識が呑まれていることでしょう。
――あの戦いで命を失った後、争いの中心にあったレイビッツ・クローラ両名の怨念に、多くの亡くなったネグームの人々や兵士達の魂は引きずり込まれました。
――当然私も、その一人です。愛しい夫デンド、息子イグルーもまた、そこから逃れることは出来ませんでした。
――悪霊に取り込まれた私の心は、日に日に悪霊によって蚕食されていきました。ネグームという場所を奪う者に対する底のない憎悪、そこに死者が生者に抱く、命を奪い同類を増やす欲求が混ざり、肥大しながら私の自我を削り取っていきます。
――世の理から切り離され、町の人々も、息子も、夫すらも我を無くしていきました。そして私も……。
――意識を無くすまいと、私達は抗ってきました。神木の力、土地神の力を借り、悪霊の力を懸命に抑え込もうとしていました。
――けれど……それも限界です。

――ニカ。
――貴女がさまよえるネグームの魂を成仏させていった事は、私の耳にも入っております。
――ただし、悪評として。
――魂の解放を厭う霊、この場所はそうした悪霊の集まりになっていました。故に邪な願いを抱いた者共を取り込み、貴女を狙うよう仕向けていました。命を奪えば、後はこの住民となるだけで、とるに足らない、と。
――私の心を蚕食するそれも、貴女に対する憎悪を植え付けようと日々触手を伸ばしていました。神木を、私達の心を取り込もうとする、余りに強大なそれに、私は近く、限界が来ることを悟りました。
――そして、貴女の行動から、貴女がいつか此処に来ることも、来てしまうことも悟りました。

――あの日、貴女を逃がしたのは、生きて欲しかったから。この場所の悲劇から逃れ、幸せになって欲しかったから。
――出来ることなら、悪霊となってしまった私達のために、私達と戦うなんてことは、そんな危険な目に遭うようなことを、して欲しくなかった。

――けれど、それが貴女の選んだ道なのでしょう。素晴らしい方々に出会い、人魔問わず学び、立派に成長した貴女が選んだ、茨の道。
――ならば、もう貴女に触れることも出来ない私が、意識があるうちに出来ることは、決まっています。

――この封筒を核へと至る扉にして、命の輝きを持つ者のみが見えるようにします。そして私の魂に残る命の輝きを、手紙の記憶を、封筒の中に詰め込みます。
――貴女が、この手紙を見つけた時、命を守る盾となれるように。貴女の目的を手助けする、一筋の光となれるように。

――ニカ。
――私は貴女を母親として誇り高く思う。自らの危険を厭わず、他者のために優しさを以て尽力する貴女を、私は親として誇りに思うわ。

――そして、ご免なさい。
――母親として、貴女を育ててあげられなくて、ご免なさい。
――もう、貴女の成長を喜んであげられることも出来なくて、ご免なさい。
――こうして戻ってきた貴女と、心からの抱擁を交わすことも、おかえり、と言ってあげることも出来なくて……ご免なさい。

――ニカ。
――もしも貴女が、こんな私でも母親として思ってくれるならば――

――貴女が立派に生き抜いて、天寿を全うした後、彼岸と此岸の淵で、また――

――また、会いましょう。
――その日まで私は、貴女のことを、天から見守っています――

――カイソ=イジュネスカ

――――

「……お母さん……!」
瞳に映る文字は全て音へと変化していく。ジオラマで聞いた空々しい声ではなく、魂の篭もった、暖かな熱を含んだ声。
記憶の淵底から呼び戻される、懐かしい響きは、自ずと私の視界を滲ませていく。はらり伝う涙を、自然と私は拭っていた。何度も、何度も。溢れ出す物を堪えきれずに何度も。
耳に届く声に、次第に私の声が混ざり始める。意志を持つ、意味を持つ声じゃない。けれどその声には、私の感情がありったけ篭もっていた。
「……ぐっ……ぃぐっ……ぇぐっ……」
お母さんは、戦っていた。自分が自分じゃなくなる恐怖と、己を蝕む悪意と、必死に、必死に戦っていたんだ。
侵蝕されきる前に、私がここに来るだろう事を予期して、この手紙を記していた。誰にもばれることがないように心の内に秘め、最後の時まで、私のことを思って――!!

「うぐっ!ひぐっ!ぁあ、あぁ、ぁああああああああああっ!!!!」

耐える事なんて、出来なかった。出来るはずもなかった。
封筒を抱き抱えるように、私は地面に崩れ落ち、溢れだした感情そのままに、泣いた。泣いた。ただ泣いた。
お母さんの私への思いは、全てこの封筒の中にあった。抜け殻のお母さんがもう一人の私を思っていたように、お母さんは私を思っていた。思って、こうして手助けしてくれていた……!「ああああああっ!うあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
声が嗄れそうな程、目を泣き腫らしてしまいそうな程、私は誰も居ないこの世界の中で、泣いていた。ずっと、ずっと……お母さんは私を助けてくれていた!気にかけてくれていた!護ってくれていたんだ!
そんなお母さんに……私は……何も出来なかった……!
ありがとうの一言すら……!

「あぁっ……ぐすっ……ぃぐっ……」

感情は次第に収まっていく。泣いてばかりもいられない、という冷静な心が、次第に私の中から顔を出していく。
そうだ……泣いていられない。何のためにお母さんに助けられたんだ。何のために私はこの場所にいるんだ。言い聞かせながら、泣き腫らした目で手紙の先を読む。
……続きがあった。手紙の裏側、最初に読むときは折り込まれて見えなかった側に、ほんの少しだけ、記されていた。

―――――

――追伸。
悪霊の核への道は、部屋に囚われし写し身の抱く飾りと共に。
写し身は虚ろな私の願いが生み出した虚像。虚像故に実を求める。

―――――

写し身、虚像。手紙の裏に記されたその言葉を目にして、私は来た道を戻っていく。そして、既に廃墟同然となった私の家に、ドアを蹴破って入った。ノブを回したけれど鍵がしてあったからだ。
折り重なる骨を除けつつ、私は階段を登っていく。そのまま右の部屋を見て、風化しつつある骨の姿を確認すると……私は首を横に振り、蹴破られたドアの横から、私の部屋へと入っていった。
……予想通り、白骨と化した、"私"が、うつ伏せに倒れていた。
『(お前が俺達を殺した)』
霊の言葉が私の頭に過ぎる。彼らは兎も角、少なくとも彼女に関しては、私が殺したも同然だ。そうしなければ私が殺されているという事情があるにしろ、命を、未来を奪った事には変わりない。私の未来を奪いでもしなければ彼女は生きられなかったのだ。
けれど……そんな彼女のために、私は命をくれてやりたいとは思わない。彼女の望みは、生きるという言葉は、私のそれとは相容れないからだ。
「……貴女は、ただ命が欲しかっただけ……生きようとはしていなかった……」
手に持った、母さんが私にプレゼントしたネックレスの白黒版を手にしながら、私は"私"に向けて呟いた。虚ろな眼窩は、ただそんな私を恨めしげに眺めているだけだ。
そんな彼女の部屋を、私の過去の残滓が詰まった部屋を出るときに、私はただ、自分に言い聞かせるように、呟いた。

「――死んでいないから、私は、生き続ける。生き続けたいから、生きるんだ
命があることが生きる事じゃないんだ。自らの意志で選択し、自らの意志でその責を負う、それが生きるって事なんだ……」

今はもう何もなくなってしまった、ネグームと呼ばれた場所を、私はただ歩いていく。
跡形もなく破壊された"ジオラマ"。辺りには滅び風化した建物の周りに、誰の物か分からない骨達が瓦礫と共に横たわっているだけ。この町は、もう完全に命を失った。
静寂の町、かつて蜻蛉が棲んでいたらしい、今は骨と祠があるばかりの森を背に、私はこの世界の中央で、手紙を入れた封筒の中に、さっき彼女から奪ったばかりのネックレスを手紙と共に入れ、閉じる。
蝋が、封筒の内側から溢れ出し、この領の印である獅子の形を作り出す。と、そこからさらに蝋が染み出し、封筒全体を覆っていく。
「!?」
封筒は自然と宙に浮かび、蝋を横へ下へと広げていく。それはどこか、ホワイトの板チョコのようにも見えたけど……その感想はすぐに別の物に変わる。
ドアだ。ドアが形成されている。私の前で、何かのドアが作り出されている。
核へと至る扉なのだろう。既に扉の中から、隠しきれないほどの憎悪と憤怒が伝わってくる。
縁取られ、開く部分が作られて……形成された白樺風のドアの、ちょうど私の目線くらいの位置で、何かの文字が浮かび出てくる。それは私に問いかける言葉であり、核の意志でもあり……お母さんの心でもあるのだろう。

『覚悟は、出来ていますか?』
「……ええ。勿論……だとも」
私はその言葉と共に戸を開き――溢れ出る闇の暴風をドアを盾に避け、収まったと同時に扉の中へと身を潜らせた。

ここに入ったときと同じような、完全な闇。ただし違う所として、まるで溶岩を思わせるような赤い色をした筋があちらこちらに走っているところだろう。
時折脈打つそれは、もしかしたら血管とかそういう類の物かもしれない。或いはこれらの光は全て魔法口で、全て私を狙っているのかもしれない。魔法に耐性がある私だけれど、これを受けたら傷の一つや二つは覚悟しなければいけない。
「……」
私を襲おうと気が立っている悪霊の手下の気配が、そこかしこに犇めいているが、私を襲う気配がないところをみるに、恐らく『襲うな』とでも命令されている可能性は高い。或いはもう私に襲うほどの力がない、とか。……後者は只の私の思い上がりだから割愛するとしよう。
奥に進むにつれ、闇の色が深くなっていく。その深さに比例するように、ドアの前で感じた憎悪や憤怒といった負の感情が、チリチリと肌を灼いていくのが分かる。湿っているような乾いているような両極端な空気、辺りに響く重苦しい音は遠雷かうなり声か。足下だけ安定しているのだけが救いだけれど、それすらいつ途切れることか……。
「……」
うなり声、獣か。それとも獣のような声を発する場所があるだけか。未知は恐怖を生み、倍加させる。私はその恐怖を受け入れ、その上で自分に言い聞かせた。
――視線の先で待つ者が、倒さなければならない元凶であり、敵であると。

「……っ」

数えるのに飽きた程歩いた先で、私は――。

『……』

……一言で形容すると、『異様』。大きさは形態変化後のデアトを一回り大きくした程であり、大凡の輪郭は人……あるいは砂漠地方の童話に出てくるジン、を思わせる。ただ、その姿は何で構成されているかは分からず、靄のような物が体の周りを取り巻き、よく見ると体の一部が靄となったり、靄が体の一部となったりと循環している。
腕を組みながら、額の瞳を含む三つの紅い視線で私を貫く奴は、内蔵を腐らせそうな程に酷く低い声で、怒りを隠そうとせずに呟く。
『……全く、我が闇霧に呑まれれば平穏を得られたというのに……』
闇霧とは、ドアを開けた瞬間に吹き付けたあの闇色の突風のことか。旧魔王時代にいたという即死の吐息を持つ黒竜の手口を警戒するのは当然だ。本拠地の、文字通り心臓部まで敵対者が足を踏み入れるのだ。普通なら全力で排斥を狙うだろう。
『しかも我がネグームの尖兵が悉く無力化されるとはな……あの反逆者め、何処まで俺を苛立たせる……』
尖兵、と奴は言った。私を出迎えたジオラマのみんなは、全て私を捕らえるための兵だったことになる。正直……やっぱりか、という印象が拭えない。反逆者、は当然お母さんだろう。
『尖兵候補、契りし兵のみならず、門番、デアト……貴様も同罪だ。俺から、俺達からどれだけ奪うつもりだ……?』
俺"達"、か。尖兵も含め、自分の同類であり、同胞になる者を含めて"達"か……。
『俺達はいつだって奪われる側だ。手に入れても手に入れても、お前のような奴が奪い返していく……返すこともなくな!』
静かなる叫びが、私の体を震わす。悪霊となった大元の立場からすれば、この言葉に間違いはない。奪った相手が、そう平和的に返すことなど期待できない。
ゆらぁ……と、奴の背後の霧が新たな形を取り始める。今度はジパングの神の一つらしい。腕が幾重にも分かれたその姿は、数多の人を救うための物だっただろう。尤も、手にあたる部分が様々な形状に変じているのはご愛敬か。
『奪われた者を取り返して何が悪い!奪った者に制裁を加えて何が悪い!自ら狗盗を働くも他者の狗盗は糾弾する!神が罰せぬのならこの俺達が代行する!ただ刃向かう者を奪い尽くすのみだ!』
これも感情としては理解できる。訴えようが解決できず泣き寝入りすれば何もしないのと一緒だ。目の前に奪った者がいて、手出しをするなというのも、ある意味酷だ。その感情は、手脚の疼きで痛いほど分かる。
世界は理不尽だ。同じ行為でも咎められるか否かは人次第だ。あってはならないと口は言うが本音は何処にあるのやら。そうした一面が、この世界に存在するのは、エリザさんすら認めている。誰も、奴が告げる言葉を否定することなど、出来ない。

……だが、それだけのことだ。いくら理解できようと、いくら否定できなかろうと、その理屈は到底容認できる物じゃない!

「……言いたいことはそれだけか。満たす意味を忘れた虚無が、何を抜かすかと思えば……!」
私の胸に、頭に過ぎる数々の記憶。それらを噛み砕きエッセンスを取り出し纏めて――これで十分だ!

「――お前が憎む存在とお前と一体何が違う!何も変わらないだろうが!悲劇の復讐者を、救いの英雄を、秩序の守護者をまだ気取るのか!
この……幼稚な殺戮者がっ!」

……もう、語る時は過ぎたも同然だ。私は気の変化を感じ、迎撃の構えをとる。
『抜かせぇっ!』
私を狙っての直線的な拳による一撃。それを若干のバックステップで回避しつつ、私はそのまま身を屈め、奴の腕の一つに乗る。バックステップした位置には既に拳が突き刺さっており、私の前方にも既に水平にされた手、いや刃が置かれ、迫ってきている。
風切り音で判断するしかない。相手も私が跳ぶ軌道を読んで攻撃を仕掛けているのだ。文字通りの手数が……尋常じゃない!
「くっ!」
近付けない。近付く暇さえ与えられない。間合いに入ったら一撃がすぐ襲ってくる様は、触手を解放した懺悔様との戦いを思い出す。ただし、太さはこちらが段違いに太い以上、叩っ斬るなんて芸当は不可能だ。それ以前に、私は何処に一撃を与えるべきか見当すらつかない。順当にいって……顔か股間か?何れにせよ勝機を掴むには近付くしかない。私は氣を纏いつつ、ただ今はひたすら回避に気を割いていた。
『何故貴様は裏切る!何故貴様ら親子は我らを裏切る!何故同胞のために動く我等を理解しない!』
懇願と言うよりは、最早憤怒と失望を思わせる声。言葉ごとに一人称と重きを置く物が変わっているのは、もしかしたら取り込まれた魂の思いが継ぎ接ぎになっているからかもしれない。
「動機も行為も独り善がりで目的すら曖昧な自己陶酔を誰が理解できる!」
放たれた矢を拳で弾きつつ、目眩ましの炎の先にある斧に似た刃を横に弾く。そのまま槍をかわし、氷の槍を蹴り壊しながら私は叫ぶ。声に応え、押しつぶすかの如く奴は雷を纏う棍と一緒に騒音を浴びせかけてきた!
『貴様が続けた唾棄すべき行為こそ独り善がりだろう!それが我等のためになると本気で思っていたのか!』
今更な質問だ!私は腕を蹴りつけて地面へと落下する。そのまま刺突を狙うレイピアを蹴り折って叫んだ!
「あぁ、独り善がりさ!私の行為も突き詰めればそうなる事はとうに理解している!」
『ならば何故――!』
叩き降ろされる沢山の腕。私はそれをかい潜るように前に進みながら左右に避け、避け、避け――!

「だけどねぇ!アンタの行為もまた独り善がりでしかないことも理解しているんだよ!」

思い返す。奴の体に入って見てきた光景を。形のない悪罵、野獣と化したデアト、死者の街、そして終わりの墓場――!
「心を奪ってジオラマの中で飯事で遊ばせる、それの何処がみんなのためになるんだ!――誰一人として喜ばないだろう!」
『知った口を抜かすかぁっ!』
足下と横からの強烈な突風に、私はバランスを崩しかける。そこを狙わない奴ではない。体が倒れ込む軌道を狙って、鋭い刃による一撃が飛んでくる!
「ぐ、ぁっ!」
辛うじて氣で防御を張ったけど、骨が砕かれそうな程の衝撃は減衰させることは出来なかった。丸太で勢いよく殴られたような衝撃で怯んだ私に、奴の手は、武器の固まりは一気に大挙して押し寄せてきた!
「あがっ!ぐぅぅ、ぐかっ!おぶぁっ!」
リング隅に追い詰められるボクサーのように丸まり、氣を防御の方に割いてただひたすら耐え続ける私に対して、奴の手は一方的な蹂躙を加え続けていた。剣、斧、槍、礫、混、槌、鎚……ありとあらゆる物理が、暴力が私に向けて振り下ろされ、体力を削り尽くしていく。
痛みと共に私の体は様々な場所に吹き飛ばされ、反射され、さながらピンボールのように衝撃に翻弄されていく。ただ痛みを耐え、衝撃を和らげることだけを考える私に、今どの位置に自分がいるかなんて、考える余裕すらない……!
「――がぁ……っ!」
地面に打ち捨てられ、ガリガリと慣性のまま地面によって身を削られる私に向けて、醜悪な感情に凝り固まったままの瞳を向けながら、奴は腕を威嚇するように広げていく。何故か、体の中でコポコポと音が発生し始めているのが、耳に届く。一体、何が……?
『もういい……貴様は既に俺達とは相容れない存在だ……!』
奴の顔が、内部から引き延ばされていくように変化していく。膨らみ、伸び、メキメキと骨格が形を変えていく……この形状は……ドラゴン!
そのまま――猛烈な勢いで顔がドラゴンと化した奴は息を吸い、体を膨らませていく!それに合わせて体も広がっていき、腕は先端を除いて触手へ、腕の一本は異様な太さを持つ尻尾へと変化し、胴や脚は頭に合わせて、さながら旧時代に生息したというドラゴンそのものの形状へと形作られていく。
体が引き込まれそうな風圧、間違いなくとてつもなく大きな攻撃が来る。おそらく避けようなどと考えたらその考えごと体が雲散霧消してしまうような何かが、まだ痛みの引かない私に向けて放たれる……!

『慈悲も知らぬ愚かな生存者よ!我らが闇に染まり従属するがいい!』

ドラゴンは私を見据え、怒声と共に闇よりも深い、骨の中身まで凍り付きそうな程に冷たい息を私に向けて吐き付けてきた!この息は――間違いなく、私がドアを使って回避したそれよりも明らかに危険な代物だ!
放出規模から言って、まず私が避けることは不可能だ。例え、全開の状態だったとしても。
――耐えるしかない!私は顔を庇うように両腕を目の前で重ね、丹田に力を入れ、氣を先程まで同様に、いや、それよりも遙かに強力に体に巡らせる!
「――っぐぅぅぅぅぅぅっ!!!」
削られていく。それが闇の吐息を受けて感じたことだ。物理的なそれだけじゃない。吐息の中に含まれる、冥界の息吹と称することが出来そうな代物が、私の精神を、意志を、矜持を凍り付かせ、シャリシャリと端から削り喰らい尽くそうとしているかのよう……!
一瞬でも気を抜けば、一瞬でも負けると思えば、負けてもいいやと思ってしまえば、その時点で外で戦っている人達もろとも私の存在が消えてしまう。唇を噛みしめ、勝機を、僅かでも存在するだろう勝機を探すんだ!そのためにも、私はここで心折れるわけにはいかない!
「う、ぁ、ぁあああああああああああああっ!」
体の外側から切り裂かれ、目も開けていられない以上体の何処がどうなっているかなんて皆目見当がつかない状態。終わる気配のない奴のブレスを、私は叫びながら耐え続けた。傷口から蚕食するように私の体にも、心にも諦めの囁きは続いている!ここで気を張らなくて、いつ張るのか!

私の心に応えるかのように、腕に付けたネックレスが熱を帯び、同時に辺りの風が少し収まったような気がした。
「……え……」
――瞳を開くと、真正面から私を呑み込まんと迫る闇の吐息が、私の目の前で二つに分かれている。分かたれたそれは私の体にかする事なく通り過ぎ、私の背後を更なる闇に染めていく……。
何が起こったのか……私が腕を見ると、腕に巻いたネックレスが光を放ち、私を闇から守っている……?この光は……封筒から出てきた、それ……?
『!?ぬぅぅっ!!!おのれぇ反逆者ぁ!喰らわれてなお俺に反逆するかぁっ!』
奴の叫びが、収まりつつある風の隙間を縫って私に届く。私はその叫びを突き破るように、拳を前に突き出した。ネックレスの光を纏った拳を避けるかのように、闇の波動は左右に避けて――!?

『――!!』

いや、違う。波動が横に避けているんじゃない!私の前で舞う光の粒子が、人型の輪郭をとって波動の勢いを割いている!しかも、この輪郭は、いや、このシルエットは――!

『――』

――光で縁取られた透明な輪郭は……私の方に一瞬振り向くと、柔らかく微笑んだ……ように見えた。
瞳が潤みそうになるのを堪えながら、私は前を向き、頷いた。それを見届けるかのように、人型になった光は、そのまま私の体を覆っていく。痛みを、恐怖を防いで、既に感じたそれを癒し、新たな力を与えてくれる光……。
いつの間にか闇の波動は、私の体に傷一つ与えることが無くなっていた。私の体から発する光が、呑み込まんとする闇を打ち消していくのだ。
「……お母さん……みんな……ありがとう」
聞こえないくらいの声で呟きつつ、私は両足に力を入れた。一歩、一歩、また一歩。奴への距離を詰める。ブレスを割って迫る私に、奴は触手を様々な形状に変え、私を貫こうとするだろう。
そうはさせない。みんなが護ってくれているこの命を、そう易々と奪わせはしない。みんなが私を護って、ここまで連れてきてくれたんだ。ならば私は、核を倒すことによって、護ってくれたみんなを護る!

「――ぉぁあああああああああああああああああああらぁっ!」

地面が爆ぜる勢いで、私は足を振り下ろし、そのまま氣を爆発させた。自分が矢になったかのように、多大な勢いを保ったまま私の体は前に進んでいく。
私の背後で、地面に触手が刺さる音がする。私を貫き損ねたらしい。想定の速度より速いのか。確かに、私の普段の駆け足よりは随分と速い。
体に纏った光が、キラキラと残光の尾を引いていく。私は時折左右に動き、触手を避けながら奴の体へと近付いていく。
奴の足は、さっき見たとお旧時代のドラゴンを模したものだ。触手に変えた翼は、まだ飛べる段階には至っていなかった。だが、すぐに変化する可能性もある……ならばっ!

「――『閃撃』ッ!」

私は勢いのままに氣を込めた拳を足に叩き込む!私が溜めた氣に、体に纏う光が集積し、ドラゴンの体に叩き込まれると――闇をかき消すように爆発した!
『――ナぁっ!?』
技を放った私も驚いているが、一番驚くのは奴の方だろう。理由は想像つく。
『核を穿たれていナい俺の体が、用意に破砕するダとっ!?』
デアトの時もそうだ。中位以上の悪霊の体には、生者が触れるとそのまま体ごと魂を呑み込もうとする。奪わせないという意志に凝り固まった者ほど、その力は大きい。
私に普通に一撃が入れられるのは、悪霊がそのための形状・形質に自らの体を変化させているからだ。抵抗不可能になるまで痛めつけて、捕らえ洗脳する。その目的の為には、吸収能力は足枷としかならないと感じたのかもしれない。逆に言えば、本来の目的であるはずのそれを足枷と見なすほどに、私を物理的に屈服させたいという感情が強かったのか……。
「――はぁっ!」
重心が崩れかかったところにさらに反対側の脚に『閃撃』を見舞う。体を支える脚が両者とも消えたことによって、奴はバランスを崩し、前のめりに崩れ落ち始めた。
『ヌぅっ!?小癪なァァぁァぁっ!』
幾束もの闇色の触手が、私を捕らえ、縛り、貫かんと迫る。私に照らされたその質感はどこまでも滑りに満ちた不快極まりないもので。
「『風刃』ッ!」
風の刃で輪切りにして落としつつ、私は空を蹴り、倒れ込む奴の腹に三度『閃撃』を叩き込む。視点を一瞬だけ下に向けると、既に霊が集まって新たな脚を形成しようとしているらしい。辺りから、霊の数が、気配が心なしか減少している気すらする。同胞を喰らい生き延びる、それでよくも我らなどとほざけるもんだ……!
「ぁあああらっ!」
『フグゥゥッ!』
殴り、殴り、殴る。今私がやらなければいけない事は、それだ。核が現れるまで、敵を叩くこと、それが今私が出来ることであり、やるべき事。
「……」
……少しずつ、爆破が弱まっている気がする。心なしか、纏う光が、加護が弱まってきている気がする。
力は、有限なのだ。奴が霊を取り込んで体を維持するように、私が体内の魔力を氣にして力にしているように、加護かてずっと続く訳じゃない。
ならば、私の加護が続くか、奴の霊が尽きるか――根比べといこうじゃないか!
「――せぇぇぇぇいっ!」
再生するそばから、私は叩き潰し、
「――あぁあああらぁっ!」
蹴り切り裂き、
「――崩掌ォッ!」
氣を破裂させる。
「ふっ!」
奴の触手を避け、
「だぁあありゃああっ!」
ブレス対策に顎を潰し、
「ぐっ――こなくそぁぁっ!」
時折触手の殴打を受けながらも、ひたすら打って、撃って、伐って――!

「……はぁ……はぁ……はぁ……」
まだ、核は出ない。今の私が使える限度の氣は、使い果たした。既に、体の光は消えている。加護のない私は、もう、触手に捕らえられれば、終わる。
……。

尤も、終わっているのは相手も一緒だけどね。

『――ヌゥゥッ!何故ダァッ!何故体ガ戻ランッ!』
ストック切れはお互い様。私が氣を使い果たしたように、奴もまた――霊を使い果たした。
『――オノレ――俺ガ負ケル――コンナ小娘ニ負ケル……ダト!?』
信じられないと言った風情で、私も見ずに錯乱した様子で喚き散らす奴を、私はただ荒い息のまま眺めていた。息を整えつつ、相手の出方を見る。
『――ソンナ――ソンナ筈ハナイッ!俺ガ、俺カラ奪ウナド、出来ル筈モナイッ!』
既に、理性など消失しきった奴は――現実を定めることない妄言を吐き散らした、この悪霊は――!

――"それ"を、口にした。

『ヨソモノガ!屈強ナル戦士ガ!人類ノ支配者タル男ガ!コノ俺カラ何モ奪エルモノカァァァァァァッ!』

――その言葉は、私が、いや、私だけじゃない、この戦いに参加した誰もが待ち望んでいた言葉だった。

悪霊は、己を倒す者を定める。聞く者を怖じ気づかせる、魂の叫びと共に。今、"それ"は……私のお母さんを、お父さんを、町の人を教会兵を魔物を外法魔術師達を取り込んだそいつは私に向けて口にしたのだ。
恐らく、私以外の誰が来ても、この核となる悪霊は倒せはしないだろう。そして私も……教会の人に育てられていたら、倒す事は出来ないだろう。
そう……これは運命だったのだ。ネグームという街が滅びを迎えた後、過去を刻む歴史としてのみ残り、その他あらゆるものは跡形もなく消え去ってしまうのは、この世界の定められた理。その道理をねじ曲げた者は、この世界に存在できない。

私だって、例外じゃないのだ。

「――私は……!」

――私は自ら何を為すべきか理解し……眼前の敵を射抜く。

――"お母さん"、ごめんなさい。

一呼吸置き、脱力。神経を研ぎ澄ます。私の中に巡る氣の流れを確認すると、指先からそれを辿っていく。

――私は……。

流れに埋め込まれた楔、それを一つ一つ抜いていく。ぴりぴりと体に電流が走り始め、痛みとも快楽とも表現しえないモノが私の全身をチリチリと焼き始める。それに構わず私は、巡る氣の中心部にある、氣の原料となる魔力の集合体。それを閉じている弁を――。

――"人間"である事を、止めます。

――開け放った。

「――私はっ!

よそものでもっ!

戦士でもっ!

男でもっ!

……人間でもないっ!

――ニカ=イジュネスカ=ラディウスだっっ!!」

――ネグームに生まれ、普通の娘として育つ所だったのをラン=ラディウスに拾われ、愛情と魔力に対抗する魔力を注がれた私は、もう既に人である領域を超えていた。
肉体は変化をしなかったのではない。変化は既に起こっていて、それが外に現れなかっただけ。
今、お母さんの記憶と会って、こうしてこの悪霊と対峙して、分かったんだ。

相対する存在が、人で止められない化け物ならば――

「――ぁああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!!!」

私は……人であることを止めるッッ!!


「――ぁあああああああああああらあああああああっ!」
ざわざわと、私の肌の産毛が逆立つ。毛穴から肌へと、巡る氣を魔力に変化させながら、私の内に貯まっていた魔力が、今その本分を私に対して全うしようとしている。
「くぁぁ、ぁ、ぁああああああああああああああああっ!」
体が燃えてしまいそうな程の熱が、私の体の中で暴れ回っている。ずっと貯め込まれていた、ずっとこの世界の理をねじ曲げて留まり続けた魔力の塊が、今『らしさ』を取り戻して、私を形作っていた肉を骨を神経繊維を侵し犯し、巡り駆けて体を満たしていく!
私と『共存』していた力が私と『融合』していく、その、快感(カタルシス)……!魔物化を薦めるサキュバスの気持ちの一片は理解できた気がした。確かにこの解放感は、早々味わえたものではないだろう。
けど、それ以上に私は、どこかもの寂しさのような感情を覚えていた。理由は明白だ。けれど、その感傷に浸る暇はない。今はただ……終わりを。

パキン、と音を立てて、既に輝きが失われた、手に巻いていたあの日のネックレスが砕け、闇の中に輝きの軌跡を描きながら消えていった。


『ヤラレハセヌゥ!ヤラレハセヌゾォォォッ!』
最早男とも女とも、そもそも人の声であるか怪しくなったその音と共に、魔物は私に仕掛けてくる。拳、剣、槍、斧、矢、鎚、鎌、棍、その他雑多の色無き魔法、それらが私を滅ぼし、取り込み、体の一部にせんと私に向けて一気に放たれていく。
「ぉぉぉおおおああああああっ!」
私はそれを受け止め、弾き、掠りつつ前に、前へと駆けていく。既に魔法無効の力は私にはない。術を用いればその力を再現できるかもしれないけれど、今の私にはそれに割く魔力すら惜しい。
傷を疵を負い、暗い情念が私の心を侵そうと犯そうとその触手を伸ばしていく。構うものか。その程度の傷で、その程度の'悪意'で、私は止められない!
「あああああああああああああああああああああっ!」
体を変え尽くした魔力が、私の意識に従って悪霊の両手足を縛る。さながら地獄の鎖のようだ。ギリギリと両手足を縛り上げながら磔にし、体を引き裂くように引っ張り上げていく。と……胸の辺りに、何かが浮かび上がる。
それはネグームと大陸の文字がごちゃごちゃに混じり合った何らかの文章であった。それらは浮かび上がっては、粉々になって消えていく。一つ、二つ、三つ……最後の文章だけは、私にもはっきりと分かった。

『汝、人外の生き残りにして高名なる女魔術師也』

高名なる魔術師……恐らく私の中にある魔力が余りにも膨大だからかもしれない。そしてその文章が、パキン、と音を立てて割れた時……悪霊から、心臓が引きずり出されるような生々しい音と共に、赤黒い球状の、骸骨が浮かび上がる物体が、胸を左右に割り開いて現れた。苦しげな呻き声と共にすぐさま、悪霊はそれを体内に戻そうと体を延伸させ包み込もうとしてくるが、'痛み'の所為か、芳しくはないようだ。
間違いない。核だ!
「……これで――!」
私は空を駆り、悪霊の頭上遙か高くにまで跳び浮くと、そのまま空を蹴り、右足を下方へと突き出した。
その技は、お母さんに最後に学んだ技であり……私は知らない事だったけれど、ネグームの土着武術の奥義の一つでもあった……らしい。

今はもう、伝える人もなく、知る術はないから。

「――終わりだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああっ!」

『飯綱一閃』
天井を用いた、相手の脳天に高速の蹴りを打ち込む技。天井に限らず、頭上に壁がある場合には使える、隙も大きいけれど相手に与える衝撃、打撃力も遙かに大きい技だ。
「――ぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!」
私の体に収まりきらなかった魔力が、私の周りできらきらと輝く。そのキラキラとした輝きに、眦から溢れる光の粒が混ざっていく。

――さよなら、'世界'。

私の思いを、決意を、嘗ての存在の痕跡の一切を乗せ、放った全身全霊の一撃は――そのまま悪霊の核を貫き、砕き、焼き尽くし……。

――――――

そして。

――――――

「――!?見ろ!」
「――山が……ッ!」
兵士達の間から――いや、それを指揮する立場の者からも、驚愕の声が放たれた。"悪霊"がぐらりと倒れ、のし掛かった山。それが悪霊の姿と共に、大地に沈んでいく。
それは何処までも歪な沈み方だった。膨大な体積を誇る土、鉱石、硝石。それらがまるで山の下が空洞であったかのように内に内に沈んでいったのだ。地滑りや土石流も発生しない。山そのものが、大地の下に埋まっていったのだ。
悪霊の体は一部はチリチリと白く輝きながら天へと招かれ、一部はさらに黒ずみながら地に沈んでいく。一部は白く染まりつつあるそれを捕らえようと触糸を伸ばすものの、伸ばした側から本体は地に沈んでいった。
巨大な、それは山以上もある巨大な怪物が、山を取り込みつつ大地へと沈んでいく。恐らくそれを目にした国家指導者の一部は愕然としたことだろう。何しろ、沈めた山にこそ、彼らの目的はあったのだから。
様々な感情が交錯する中で、ネグームの山々は、悪霊を巻き込んでけたたましい音を立てながら地面へと沈んでいく。
痕跡を一切消し尽くすかのように、それらによって大地が均されていく。核を喪い、消えていく"悪霊"の子分らも含め、その存在を消していくかのように……。

「――すげぇ……」
「……ええ……」
幾度目かの悪霊の手下を一撃の下に沈めたユネスとエリザは、眼前に聳える巨大なネグームの悪霊が山ごと地に沈む光景に、ただ驚きの声しか出せなかった。ニカが、あの少女が倒したのだと。あの途方もない化け物を、自らの手で討ち果たしたのだと。
既に二人も満身創痍だ。だが、"願い"を叶え、思いを貫き通した少女を、迎えに行かなければならないという思いが、体力の限界を越えて二人の体を突き動かしていた。
既に勝利の雄叫びをあげ、喜びを分かち合う兵達を背に、二人は崩れゆく山へと歩いていく。ニカは生きている。そう二人は直感していたのだ。
何と言葉をかけてやろうか、何と喜びを分かち合おうか……悪霊が沈みきった、山だった平地に二人がたどり着いたとき。
「……?」
「どうしました?ユネス」
エリザの質問にユネスは答えず……そのまま平野の中を駆けだした!
「ちょっと!ユネス!待ちなさい!一体どうしたのですか!?」
後を追うように駆けだしたエリザ。その視線の先には……地面に仰向けに倒れ伏した何かが見えた。恐らくあれがニカだろう。ユネスが見たのはそれだというのはエリザも理解できた。だが……急いで駆け出す理由が分からない。
次第に明らかになる輪郭……エリザは、そこに何か違和感を覚えた。倒れ伏す人物は間違いなく彼女だ。だが、同時に彼女とは何かが違う。何かが致命的に変わってしまっている……生物的な、教会兵士としての勘が本能的にそう告げていた。
ぼやけていた像がようやく点を作り線を結び、明確にその姿を認識させていき――!

「――なっ!?」

残り数メートルの所にまで辿りついたエリザは、驚愕の表情を浮かべる事となった。何せ……。

「……嘘、ニカ……さん……?」

彼女の眼前に倒れ伏し、ユネスに抱き抱えられているニカ=イジュネスカ=ラディウス。褐色に近い肌にボーイッシュな服装、基本的な顔立ちや姿は変化していない彼女。しかし、その耳は頭から三角のそれが生え、尾てい骨からは彼女のズボンを突き破り、八本の尻尾が生えていた。
――悪霊を倒した英雄は、妖狐へと変じていたのだ。

「……エリザ、余計な気を起こすんじゃねぇ。こいつは間違いなくニカだ」
エリザに背を向けながら、ユネスは剣を持った。エリザはそのつもりはない、と杖を降ろす。
しばらく続いた沈黙の後、先に口を開いたのはエリザからだった。

「……とりあえず、医務室に運びましょう。兵の説得は私が行います」
「頼む。敵が消えた今、魔物を護る理由は教会にはねぇからな」
二人は頷き……ユネスが彼女を担ぎながら、元来た道を戻っていった。共通の敵を倒したという喜びの表情は、既になりを潜めていた……。

――――――

――私は、何をしていたんだっけ

――"悪霊"の中心で、"悪霊"の集合体と戦って……

――みんなに助けられて……

――核を壊して……

――それから……?

――えぇと……。

「……ぶか……」

――?声……。

「……れこれ3……」

――また違う声……男の人と、女の人……。

――この声、どこかで……?

「……エリザ、お前痩けてるが大丈夫か?」
「ユネスこそ……」

――!!

――――――

「――ユネスさんっ!エリザさんっ!……え?」
……気がついたら、私は見知らぬ場所にいた。天国でも魔界でもないのは分かる。天国ならば痛みはないし、地獄ならばこんな柔らかいベッドの上で寝ているはずもない。
ここは一体……瞳がゆっくりと焦点を取り戻していく中で、何となく私はこの風景に見覚えがあるような気がしてきた。確か、この場所は――!?

「――ニカっ!」
「――ニカさんっ!」

「――わわっ!?」
この場所が医務室――ネグームに程近い場所にある自治都市の診療所の一室であることに気付くのと同時に、私の体は二人によって再びベッドに向けて倒された!思わぬ出来事に驚いて目を白黒する私に、二人は今まで溜まっていたと思われる、私が受け止められるか分からないほどの思いの丈を思い切り口にした!
「ニカ!大した寝坊助だよお前は!何で三日間も寝っぱなしなんだよ!しかも呼吸も殆どねぇから俺らはいつ死んぢまうか気が気じゃなかったんだよ!しかも何だ嬢ちゃんその姿はよぉ!何で人間として送り出した嬢ちゃんが魔物になってんだよ!ここに運ぶとき俺ら冷や冷やしたぞ!」
「えぇそうですよニカさん!何故魔には染まらない貴女が魔に染まりきっているんですか!これは神への背信行為である以前に私達への背信行為ですよ!懺悔して下さい!命が助かったのですから神に感謝し懺悔して下さい!どうしてですか!貴女は人間だったはずでしょう!?」
「ちょ、ちょっと二人とも落ち、落ち着いてくだ――」
「「無茶言うな(わないで下さい)!!」」
一気に興奮した二人に言葉を浴びせられ、さっきまでより混乱が激しくなった私が冷静な感情を取り戻したのは……二人の姿を、改めて目に収めた時だった。

泣いている。
二人が、泣きながら私に抱きついている。
その顔が、その体が、記憶にある二人よりも……少し痩けているように見えて……。

「……」
二人の言葉で、理解した。ユネスさんも、エリザさんも、私のことをずっと心配していた。寝る間も惜しんで、私のために……。
きっと、この姿になった私を見て、疑念も抱いたし、何があったのか、何が起こったのかを理解したかったはずだ。下手をしたら、私は眠ったまま、エリザさんやユネスさんの手によって殺されていたかもしれない。
でも、私は生きている。二人が私を信じて、生かして、ここまで連れてきてくれた。治すように説得して、ずっと側にいてくれた……。

ならば、私も当然、二人に応える義務がある。二人が疑問に思い、疑念を抱いただろう事、叫びの中で叩きつけられた感情を、正直に、全て打ち明ける必要がある。
私は深呼吸をして、二人を見つめて……口を、開いた。

「……では、話しますね。私の来歴と、あの悪霊の中で、何があったのかを――」

――――――

「――ネグームを逃げ延びた私を助けたのは、偶々通りかかった馬車に乗っていた、二人の妖狐でした」
私が目を覚まして数日後。体力がしっかりと回復してから、私は今回協力していただけた教会の皆さんと、魔王軍の皆さんの前で、事のあらましを語ることにした。
無論、教会の人達からは呆然とした、というよりも怒りに近い感情がぶつけられたが、それはエリザさんが中心となって抑えていただけた。
二人には、私の過去を聞いてもらい、語るべき場所を幾つかアドバイスを頂いた。本当は色々語りたいことがあったとはいえ……アドバイスは護ることにした。私の理解者が全員ではないのだ。
因みにその時に吃驚したのは、懺悔さんとアリスちゃんを助けたのが、幼き日のユネスさんだったという話だけどそれはさておき。
「その一人が……私が母と呼ぶ妖狐にして、現デルフィニウムオーナー、ラン=ラディウス。が私と出会わなければ、私は教会兵士か、野盗によって命を奪われ、あの亡霊の一員となっていたことでしょう」
ざわめくけれど、事実だから仕方ない。その辺りはエリザさんも目を瞑ってくれた。
「ご察しの通り、私が育った場所はデルフィニウム。魔物のオーナーが治める、魔物の従業員が働く宿屋です。そのような環境下で育てられて、どうして魔物にならなかったのか、疑問に思ってらっしゃる方もいらっしゃるかと思われます」
ごくり、と観衆が唾を飲む音が聞こえた気がした。教会からすれば、喉から手が出るほど欲しい技術であることは百も承知だ。迂闊に話さない方がいいことは、私も理解している。けれど、これを話さないと、私の体の説明が出来なくなるのだ。
「母、ラン=ラディウスが、私を魔物にしたくないと尽力した、それが理由です。
母は、いつか私が歴史と向き合うときに、魔物になっていると困難が多いと考えたそうです。人が紡ぐ歴史は、人が語らねば耳にされない、ですから」
耳が痛い話ではある。同じ人でも耳にされないときは耳にされない。ましてや魔物は、という話だ。
「母ランとの数年に渡る訓練の中で、私は魔力を体が貯蔵し、氣と呼ばれるエネルギーにする技と体質を身に付けました。これが、私が魔物化しなかった理由であり、そして……今この姿になった理由でもあります」
当たった魔法を魔力に自動変換し、そのまま自らの力へと変える。それは海の向こう、霧の大陸に住むと言われる仙人が使う技とも言われる。実年齢の分からないハンスさんから教わったこの技……だけど、当然欠点もある。
氣に変化させているとはいえ、本質は魔力なのだ。過剰な魔力が瘴気となり体を蝕み魔へと体を変化させるように、細胞のあちこちに氣を行き渡らせるこの技は、当然……魔物へと変化させる切っ掛け一つで変化してしまうということにもなりうる。
「……悪霊の中で、核は、"悪霊の主"は、自らの弱点を次のように告げました。『余所者が、屈強なる戦士が、人類の支配者たる男が!この俺から何も奪えるものか』と。私はこの通り女で、体つきも男性に比べれば華奢で、戦士ではありません。ネグームの出身ですから、余所者でもありません。そして……核を貫くには、"人の支配者"である奴のくびきから逃げ出すには……人を止めるしかありませんでした。
私の中にある魔力の中で、特に多くあったのは、訓練中に受けた母の魔力でした。故に体に溜まった氣を魔力に変化させた時に、私は一瞬で妖狐へと変化したのです。
これが、私がこの体になった、理由です」
ある意味、これが母との繋がりなのかもしれない。ランお母さんはそんな事、多分望んでいないけども。
そして、私にとっては本題の悪霊話だ。
「……もう、何も奪わせない、もう、何も奪われたくない。"悪霊の主"はそう、私に何度も訴えかけてきました。奪わせないために、霊峰を内側から侵食していたようです」
奪われないために奪い続ける。そんな思いとは矛盾した行動で、山だけでは飽き足りず、周辺の大地は草すら奪われ、ひび割れ、渇いていく。"悪霊"の居た地点を中心に、命の欠片すらも失った大地。きっと……緑が戻るのには時間がかかるだろう。
「崩落した山の中に、何があったのか、恐らく皆さんは御存知だったと思います。ですが、それらはもう、恐らく存在しないと思われます。全て、悪霊に奪い尽くされ、消えてしまったの、でしょう」
既に何人かの兵士が、山があった場所を掘り返そうとしたら、複雑怪奇に折り畳まれた骸骨が幾つも見つかったという話が回っている。最後の最後まで、悪霊は奪って、取り込んで……何も返さなかった。歴史も、資源も……命さえも。
骸骨が全て土に還り、芽吹いて、花が咲いて……そしたらきっと、その時がきっと、悪霊の残滓が全て無くなった時になるのだろうか。それは分からない。
「意識無意識問わず、他者に大切なものを奪われた者は、相手に奪われることに恐怖してしまう。同時に、奪った者を強く憎む。その対象が集団だとしたら、また同じように大切な者を奪われる人が出て……その連鎖です。
皆さん、ネグームの悪夢は、もう終わりました。核を潰し、消え失せた今、二度と、ネグームの悪霊は、蘇ることはないです。
ですが……」
けど……、これだけは言っておきたい。私がやったことは、先に告げた連鎖を、色々な者を犠牲にして、壊しただけだ。
例えいつかは壊れるにしても……その導火線に火を付ける可能性が誰しもあることを、心して欲しい。

「……ですがネグームで起きたことを、皆さん、忘れないで下さい。形も、規模も違う、第二、第三のネグームが二度と出来ないよう、私のような存在が、一人として増えないよう……」

そう、私は願っている。

――――――

――草はまた季節を迎え生い茂り、戦禍の跡を覆い隠す。色とりどりの花は、地に満ちた穢れを吸い、色鮮やかに咲き誇っている。命は、其処にあるだけで美しいと、そう私達に伝えているようだ。
ネグーム跡、と呼ばれる其処には、今は何もない。家族の営みも、争いの痕跡も、幾つもの死体も、その地がかつて誇っていた文化も、全て跡形もなく消え去っていた。今あるのは、その地に嘗ても咲き、今も咲き続ける草花と、風に乗り巡り来る虫達のみ……。

……いや、一つだけ、例外があった。命に満ちた、しかしどこか空虚な草原の中心に、飾り気のない石が突き立てられていた。この地がネグームと呼ばれていたこと、滅びた理由が記された碑、それが風景を壊さない程度に、どこかひっそりと建てられていたのだ。

「……」

私はその碑に背を預けつつ、空を見た。あの日窓から眺めたあの空はどこか悲しい色をしていたけど、今の空は……どこか空虚だ。
空虚。まるで全ての歴史を失ったこの場所のようだ。私が生まれた家も、育った場所も、争いの中逃げた道も、全て無くなってしまった。奪われないように、触れられないように、遠くに行ってしまったのだ。
そして私も――人間ではなくなった。これで、ネグームの『人間』は全て居なくなってしまった事になる。

もう、ここは、私の戻る場所ではないのだ。

「……」

私は碑から背を離し、そのまま前に歩き始めた。どこか後ろ髪が引かれた気がして振り返ったけれど、其処にあるのは、歴史が無くなったことを証明する、身長より少し小さい程度の石碑だけ……。

もう、ここには何もない。
誰もいない世界に、さよならを。

「……さようなら、みんな」

私は"みんな"に別れを告げ、今はもう無い故郷を後にした。これで、私の命懸けの決意は無事に成就されたのだ。他ならぬ自分の執念と決意と、沢山の人の協力によって。
失ったものも多い。魔王軍にしても教会勢力にしても、無傷では済まなかったし、ユネスさんもエリザさんも満身創痍にまで追い込まれた。そして私は……故郷の存在と共に、人間としての生を失った。
これからどうしていくか、私はゆっくり考える必要があった。魔物として、生物として、ニカという存在としてこれから何をしていくのか、これから何をすることが出来るのか。私はしっかり考える必要がある。しっかり、じっくり、腰を据えて。

「……」

そんな時に浮かんだのは、そう、二人のお母さんの顔。手紙が見せた、私のお母さんと……育ててくれた、私のお母さん。手紙のお母さんは、もう会うことは出来ない。既に常闇か、天つ彼方だ。

――いつでも、戻ってきていいのよ。血は繋がってなくても、私は貴女の母親なんだから――

「……そうだよね」
私には、戻ることが出来る場所があるから。それを終の住処にするか、それともまだやれることがあるのか、それは分からない。でも……過去の証を無くした私は……繋がりが、ただ恋しいかったのだ。
だからあの戦いの後、私は決めたのだ。

戻ろう、私の育った、懐かしい"故郷"に。

そよ風に揺られ、私の尻尾がゆらゆらと揺れる。
その後ろで、蒲公英達が綿を四方に飛ばしていた。風に乗って散らばる綿は、いずれあちこちで芽吹き、花を咲かせていくのだろう。

命は始まり、続き、巡っていく。

いつか、また巡り会えますように、……、……。

fin.



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