とある街の外れ、街道が整備されていない、人が訪れなくなったこの場所に、教会が一つ、ぽつりと建っていた。外観は兎も角として、廃棄されたものにしてはその造りは頑丈で、修理せずともあと一世紀は持つのではないかと思われるほどであった。また、封印と破魔の魔方陣は、例え薄汚れた壁に描かれたものであったとしても、はっきりと機能していた。中には誰も居ない筈であるのに……。

その教会は、放置されたのではなかった。嘗て強靭な魔物とやりあった教会の聖女が、自らの体と引き換えに、魔物を封じた教会であるのだ。
封じる直前、その聖女は口にしたと言う。

「命に代えても、この人に仇なす魔を封印いたします。ですから……私、'オーリー='セイクリッド'=ディバン'は、職に殉じたと、皆に伝えて下さい。

そして……誰も、この教会には近付かせないで下さい。
――絶対に」

街に帰った教会関係者は、オーリーの最後の願いを聞き届け、直ぐ様御触れを出した。そして、こうも付け加えた。
『聖女の加護が、この地に有らんことを!』
以来、この街と、そこを中心にした地方に於いて、教会は絶対の権力と持ち、人々に加護を与える存在として君臨している。
――大陸西部に位置する、俗称'中央教会のお膝元'、セイクリッド地方の伝説――

――――――――――――――

子供の行動範囲は、案外広い。そして、子猫の木登りのように、後先を考える事は少ない。
「……っはぁっ……っはぁっ……」
だが、危ないと感じたら逃げる、その程度の判断は出来る。
「待てぇこのガキ!」
男達が通り過ぎるのを、樽の裏側で息を殺して待つ、九歳くらいの少年――アキト・ダクス。彼は年に似合う冒険心と好奇心で'町外れの教会'へと向かっていた。だがその途中、町の外に程近い場所で、偶然キルルカ草(麻薬の原料となるので、セイグリッド地方では販売、栽培、持ち込み全てが禁止されている)の取引現場を耳にしてしまう。
こっそりと抜け出そうとしたアキトだが、たまたま踏んだ小枝の音で気付かれてしまい――今に至る。
流石にこの状態で家に戻ることなんて出来る筈もない。どこか隠れる場所を探さなければ――。
「……」
騒動のせいでどの家もドアを固く閉じている、周辺に避難できそうな店はないという状況。心臓は徐々に落ち着きを取り戻してはいるが、例え取り戻したとしても現状が変わるわけでもない。
早く逃げないと――!
「……ッ!」
街道の遥か向こう、取引していた大人のツレの人物が、アキト少年と目が合った。
「――いたぞぉぉぉぉぉっ!」
男が叫びながらアキトの方に急速に迫る!
「!!!!」
声が届く前、目があったと確信した瞬間に、少年は駆け出した!ただ前に、街の外の方へと……。

――――――――――――――

「……どこ行きやがった!?あのガキ……」
チンピラ然とした男が、舐め回すように辺りを眺める。石畳から外れた草を、しゃくしゃくと音を立てて踏みながら。
本来は気になる筈のないその音すら、今のアキトには恐怖を増長させるスパイスの一つでしかない。徐々に自分に近付かれている感覚、それが慣れない全力疾走で高鳴る心臓をさらに活動的にしていく。流れる汗は冷や汗か、それとも。
街の外れ、たまたま見えた建物の影。廃材や黴の生えた酒樽の影に身を隠すアキト。こうなったら、最早見つからないよう祈ることしか出来ない。
「(あぁ!聖女オーリー様!僕に神の御加護を!)」
祈りながら、さらに見付かりにくくするために建物の壁に身を寄せた――まさにその瞬間。

ガタン

「――え?わ――」
壁が綺麗に長方形に切り取られ、建物の内側へと倒れ込んだ。壁にほぼ全体重を掛けていた彼は、前に起き上がり踏み留まることも出来ずに、壁の奧へと転がり込んでいった。
彼の声を塞いで閉じ込めてしまうかのように、館の壁はすぐに閉じ、やがて元あった壁と見分けが付かなくなった……。

――――――――――――――

建物の中に後転を三回、そのまま固いものに頭を強かぶつけたアキトは、そのまま俯せになり痛みに頭を抱えた。
地面には埃が立ち込め、呼吸をする度に、糸屑状や砂状のそれが舞い上がり、吸い込まれ、吐き出されていく。木製の床は、しかし案外傷みは少なく、陥没している箇所も見当たらなかった。
「……あれ?」
少なくとも外観はどこか寂れていたから、内面はもっと酷いのではないか?そんな疑問が頭の中に浮かんだアキト。ぱんぱん、と体に付いた埃を落としつつ、ゆっくりと辺りを見回す。
見たところ、貴族の屋敷のような華やかなものはなく、衣装タンスに化粧台、勉強机に椅子に本棚といった、どちらかと言えば質素な物品の他は、特に何も見当たらなかった。精々洗濯板と洗剤くらいか。その何れにも埃がかぶっている辺り、この部屋は使われなくなって久しいことが少年にもありありと分かる。
「……」
耳を澄ますと、外からは暴漢の怒鳴り声が聞こえてくる。どうやら彼らは、完全にアキトを見失ったらしい。このまま通りすぎてくれることを国の象徴たる聖女に祈りながら、先程頭をぶつけたドアのノブを握る。
錆び付いているかと思われたそれは、意外なことにあっさりと、鈍い音一つさせず内側に開いた。その先に体を進めると――?

――――――――――――――

「――」
思わず後ろを振り向く。傷んではいないがろくに掃除もされていない部屋が見える。その上でアキトは再び前を向いた。

立派な教会が、目の前に広がっていた。

檜の壁に、丈夫な樫の柱。清掃の行き届いた床も木製。柔らかいクッションが付けられている礼拝者用の長椅子が六本。その先には本尊らしき物が置かれていた。ただしそれは、普段彼が見馴れた'女神に信託を受ける聖女像'ではなく、'予言者像'であったが。
そして、本尊の前で膝をつき、祈りを捧げている、セイグリッド地方では見馴れた修道服の女性が一人。
「……主よ。今日この日もこの地に安息が訪れんことを……イオ・エルエスターニュ・フォリス(神の御加護がありますように)」
この国では日常的に耳にする、祈りの言葉。具体的には朝と夜、それと時折行われる教会でのミサの際に、結びとして唱えられる言葉だ。
「(……まさか、ここが'町外れの教会'?)」
噂には耳にしていた。場所も大体は聞いていた。だが、中に入ったという情報は友人の誰からも聞いたことはない。つまり、入ったのは自分が一番最初……?
「(あ、あれ?でも……)」
噂では、町外れの教会には誰も居ない筈。訪れる人もいなければ、その場所で勤行に励むシスターもいない……少なくとも大人も含めてそう言っている。
「……」
では、目の前にいるシスターは誰なのか。その疑問にどう対応して良いのか答えが直ぐ様出るほど、アキトは人生経験を経てはいない。そのため……。
「……ふぅ。あら?」
盛大に固まっていたアキトは、祈りを終えて顔を上げたシスターと目が合ってしまった。
「……え、あ……」
何も言えず完全に硬直するアキト。まるで女性の裸か何かをうっかり覗いてしまった男性か何かのように、顔をひきつらせたまま動くことが出来ない。
何せ……綺麗なのだ。少年は女性を大して知っているわけではないが、それでも彼女の存在が別格で在ることを理解できた。
程好く色素の抜けた瑕疵一つ無い肌に、柔らかな曲線を描く眉、聖女と同じ深紅の瞳、調和のとれた唇。
禁欲的な修道服からでも分かる、母性溢れる胸元、袖から見える細い、しかし適度に肉の付いた腕。足はスカートに隠れて見えないが、その分想像の余地が入り、神秘的な雰囲気を演出するのに一役買っている。
「どうしたのですか?」
特に驚いた様子も見せず、アキトに微笑みかけるシスター。そのままするり、するりと近付いてくる。
「……あ……」
どうしようちかづいてくるよどうしよう。心の中で正常な思考すら儘ならないままに、アキトは全身が固まってしまう。不思議なことに、逃げるという選択肢はアキトの中には現れなかった。通常なら錯乱して外に飛び出そうとする筈ではある。
元より、外に出ればチンピラが己を待ち構えているのは目に見えている。だからこそ危険を察知して、脳内でその選択肢を封じたのだろう。あるいは――。
「怖がらなくても良いですよ。私は貴方に害意は抱きませんから」
するり、するり、するり。木の床にスカートが擦れる音がする。胸元でも、教会から配られるロザリオがゆらゆらと揺れ、胸によって押し広げられた布生地と肌を寄せ合う。そのロザリオも、今の簡略化されたそれとは違い、高位司祭が身に付けているような、下手をしたらそれよりも豪華な作りをしていた。
「……」
――少年は見とれていた。彼女の持つ、どこか素朴な美しさに……。
やがて、シスターはアキトの目の前に到着すると彼の目線に合わせるように膝屈みになった。綺麗な顔が真正面に来たことで、少年の心臓は拍数を上げていく。
どこか惚けたような顔を見せるアキトに、シスターは可愛い子供を相手するような軽い口調で誘い掛けた。
「少し、紅茶でも飲んでいきますか?」
どぎまぎしたまま、アキトはこくん、と頷くのだった。

――――――――――――――

「貴方のお名前は?」
為すがままに隣の部屋(とは言っても、先程まで居た埃の部屋の方ではなく、きちんと掃除洗濯整理整頓が為されている部屋であった)までついてきてしまい、どうしたものか分からないアキトは、彼女に聞かれるままに「……アキト=ダクスです」と素直に答えるのだった。
「アキトくん、ですか……良い名前ですね。両親の『健やかに育って欲しい』という願いが沢山、沢山籠められていますから」
ふふふ、とまるで自らの幸せのように笑うシスター。その姿にようやく硬直が解けてきたのか、アキトは自らの意思で、恐る恐る口を開く。
「あ……あの……」
「何ですか?アキトくん」
『アキトくん』と呼ばれ、一瞬ドキッとしたが、そこはなんとか意識の中に押し留めた。初めて出会った人と話すのだから仕方ない、と。
「お、お姉さんのお名前は……」
「私ですか?」
目の前のシスターが、突然の質問に瞳を丸くする。そして暫く顔を伏せて、「ん〜」とか「えっと〜」とか唸りながら、額に手を当てて考えている。どう言うべきか迷っているのか、はたまた忘れているのか……。
「(ただ名前を言うだけなのに……)」
若干の不審をアキトが覚えつつあった頃、「ぁ、よし」と一人頷いた彼女がようやく答えた。
「――リオ=セリィ。リオって呼んでもらえたら、私は嬉しいです」
「……リオ……さん」
よし、という声が気になったとはいえ、アキトは名乗られた名前をこのうら若きシスターの名前として認識した。ひょっとしたら別に本当の名前があるかもしれないけれど、それが聞いてもいい話題ではないことは、容易に予想がついていた。流石にこの世界に、聞いて良いことと悪いことの分別はある事を理解する年齢ではある。
アキトが名前を呼んだことが嬉しかったのか、リオはさらに微笑みを深くする。少なくとも、裏がある笑みには思えない。
「はい、何でしょう」
例えそう彼女が返事したのが、自ら考えた名前を自分に浸透させるかのようであったとしても。
アキトはややどぎまぎしながら、リオに対して話を続けた。
「……リオさんは、いつからここに住んでいらっしゃるんですか?」
「ん……そうですね……。十を過ぎた辺りから数えるのを止めましたから、正確には分かりませんが……アキト君が神の加護の元、この世に産まれ落ちる前から、この教会――'聖トストン教会'でずっと暮らしています」
「……あれ?」
アキトの知る'聖トストン教会'は、'町外れの教会'とは違う。アキトの住む町の中心部にある、住民の集合、談笑の場として使われる中規模の教会だ。
其なりに歴史がある筈だし、教会側からしたら同じ名前の教会を建てる意味が分からない。普通に考えれば、リオが嘘を吐いているように疑うのが筋だ。
「ん?アキト君、どうしたの?」
だが、アキトにはリオが嘘をついているようには見えなかった。教会の名前を態々嘘を吐くメリットも、嘘を吐かなければ起こるデメリットもあるわけがない。だとすれば何故そのような事を……?
疑問に思いながらも、アキトはそれに対する答えを浮かべるにまだ幼く、知識も足りていなかった。考えて答えが出るはずもなかったアキトは、そのままリオに尋ねてみる事にした。
「……あの……」
「はい、何でしょうか?アキト君」
彼の顔色が何処か訝しげに……と言うよりも不思議そうに変化したことに気付いていたリオは、アキトに……それでも笑顔で返す。
「……ここ、'トストン教会'という名前なんですよね……?」
「ええ、そうですよ。'聖トストン教会'。その生い立ちは古く、中央教会の拡大時の黎明にはその名前があったとか。そもそも聖トストン教会という名前は、教義と信念を護る事を貫き、異教徒の手によって殉職する事になった聖トストン司祭の名にあやかって、付けられたものでして……」
全く、同じだった。普段神父達がこの教会について説明する文句と、言葉遣いこそ違えど、全く同じことを話していた。
――ただ一つ、殉職した原因を除いて。
「……聖トストン司祭は、'魔物によって殺された'と……」
「あら?おかしいですね。私は少なくとも、異教徒によって天に名を還されたとお聞きしましたし……」
そのままリオは考え込んでしまった。嘘を考えるため……では、どうやら無さそうだ。寧ろ、何かを思い出そうとしているように、その様子を眺めていたアキトには感じられた。
「……ん〜……と……。……。……あ」
暫く考え続けていたリオは、ようやく思い出したらしく、掌をぽん、と打った。響くものが何もない教会に、手拍子の音が多重に反響する。
「恐らく伝聞のミスでしょう。手書きで写本がなされている以上、時にこの様なことが発生したりします。
でも問題はありません。'聖トストン神父が英雄であった'という本質さえ変わっていなければ、大切なことは伝わりますから」
そう笑顔で、どこまでも笑顔で話すリオ。だが何故だろうか。アキトにはその笑顔が、何処か哀しげなものに見えたのだった。
「……」
沈黙するアキト。彼女の笑顔について気になる点があったとはいえ、それは迂闊に聞いてはいけないことのように思えた。そう考えてしまうと、次々に浮かぶ疑問浮かぶ疑問全てが、聞いてはいけないような事のように思えて、つい口をつぐんでしまう。そうして気まずい沈黙は発生してしまう。
言い出そうにも、上手く舌が動かない。頭で言いたい事がまとまらない。そうして何も言えず沈黙してしまう……そんなもどかしい時間が数分続いた後、ようやく言えた一言は……。
「……不思議ですね。同じ由来を持つ教会が二つあるなんて……」
「え?」
目をぱちくりとさせたリオに、アキトはさらに話を続ける。
「僕の街の中心にも、'聖トストン教会'がありまして、そこの石碑に同じ事が刻まれているのですよ」
あぁそれで、とリオは納得したかのように首を縦に振る。同時に何か思い出したらしい。
「そう言えば、魔をここに封印した後、教会を移転する、と大司教様は仰ってましたね。恐らくその時に、石碑の伝説が書き変わったのでしょうね。
そして、あちらに名前が移った以上、こちらでは'聖トストン教会'の名前は使えなくなるわけで……皆さんはここを何と呼んでいらっしゃるんでしたっけ?」
「あ……えと……'町外れの教会'としか聞いていなかったり……でも、ほとんどの人が、ここの事自体知らなかったり……」
「そうですか……ほとんどの人が知らないのですか……」
そう呟く彼女の顔は、何処か安堵したような、それでいてどこか寂しそうな、そんな複雑な表情を見せていた。
まるで忘れられていくことに、プラスとマイナスの相反する要素を感じているかのように。
「……それで、アキト君は、ここの事をどうして知ったんですか?」
「えぇと……友達の噂で……魔物が封印された、『オーリー='セイグリッド'=ディバンの教会』が町外れにあるって……」
それは、アキトの地方に伝わる、中央教会によって広く伝えられた伝説だ。
有るところに、一人の信心深い少女がいた。名前はオーリー。ディバン家の末っ子として生まれた彼女は、教本を胸に抱いて眠るほどに信仰心が高かったという。
同時に剣の腕も相当のものがあり、膂力を技術でカバーしつつ華麗に剣を振るうその姿は、『戦乙女の再来』とも呼ばれていたほどだ。
その一方で、生来の優しく慈愛に満ちた性格から、別の称号もつけられていた。
『守護者オーリー』。
攻めるのではなく、守るための力として、彼女は振る舞ってきたのだ。
ある時は迫り来る魔物から民衆を、ある時は異教徒達から教会を、またある時は密猟者から動物を……と、その活躍は多岐に渡っていた。
いつしか人は教会と共に、彼女の事を称えるようになっていた。

オーリー='セイグリッド'=ディバン、と。

しかし、彼女の人生は唐突に終わりを迎える事になる。原因は魔物。それも相当強大な力を持つ魔物が聖都に近付いてきていたのだ。
この魔物を描写するに辺り、恐怖を煽るような謳い文句が数多く並び、挿絵付きの本でもその描写に準じたものが描かれている。
彼女――オーリーは、騎士団の援護を受けながら教会内にその魔物を追い詰めると、自らの命を代償として魔物を教会内に封印したのだった。以来――この地方は彼女の称号を取ってセイグリッド地方と呼び、強大な信仰心を持つ人々が暮らす『中央教会のお膝元』となったのだった……。
その、魔物を封印した教会が、町外れにあるらしい……。その友人は何処で聞いてきたのかは知らないが、そう元気良くアキト達に話していたのだ。すぐに母親が飛んできて拳骨を食らわし、神父の元に連れていかれて説法されていたけれど。
その話を聞いたアキトは、母親が仕事で出掛けている隙を見計らって家を出、件の教会に行くことをその日に決意し、自分の予定と親の予定を調べ上げ……今日この日、家を出たのであった。
そしたら……。
「……?どうしたんですか?アキト君」
リオはそう彼に問いかけたが、アキトはその問いに答えられなかった。リオの存在に忘れていたが、自分は今、追われていることを思い出したのだ。
キルルカ草の販売を偶然目にし、それがバレ、死に物狂いで走って走って……この教会に転げ込んでしまった。
耳を澄ませば……聞こえてくる。男の罵声と、壁を叩く音。それが空耳でないことは直後にリオが壁の方に視線を向けた事からも分かった。

「――あぁ、悪漢ですか……それも複数……」

「おらぁガキ!とっとと出てこいやぁっ!」
……繰り返す。男のかなりガナった声に、揺れる壁。どうやら相当強い力で壁を殴り付けているらしい。
「……、……、……ッ!」
体の震えが、アキトの体の震えが止まらない。このままじゃ殺される……殺されてしまう……。恐怖は秒刻みで倍加し、彼の心をそれのみに染め上げる。
「……」
流石にただならぬ様子を察したのだろう。先程の悪漢の言葉から、アキトが狙われていることは明白。なら……とリオは考える。神の僕として自らとれる最善の方法とは、一体なんであろうか、と。
だがそれを為す前に、リオは優しく彼に胸を貸すと、優しく、だが何処か厳しい凛とした口調で言った。
「アキト君……懺悔したいことはあるのでしょう?ならば……私に言ってください」
それは有無を言わさぬものだった。証拠に、それを彼に告げたときの彼女の表情は、温厚柔和なそれから、まるで母親が息子を叱りつけるような、愛情と厳格さが入り交じったそれへと既に変わっていたのだ。
彼の口が、わなわなと震え始める。恐怖に震えきって、唇が上手く動かないらしい。そんな彼の背中に、リオはすっ、と手を伸ばす。そして、柔らかく暖かいその手で、ゆっくりと背筋を摩った。
「大丈夫……この場所には彼らは来ませんから……さぁ……落ち着いて……すぅ……はぁ……」
深呼吸を促すリオ。どこか母性的なものが感じられるその行為に、彼の震えが収まっていく。同時に、恐怖によって塞き止められていた声が、秒を追う毎に溢れ出していった。
「……っ、か……っ、神様ぁ……っ……懺悔……します……っ。教会の教えを……守らず……っ、一人……町の外に……っ、出歩いて……済みませんでしたぁ……っ!」
涙と共に辿々しく流れ出る言葉が、リオの中に染み渡ってくる。心の底から出た言葉だと、はっきりと理解できたのだ。
教会の子供向けの教えに、町の外に一人で出てはいけない、というものがある。彼は己の興味からそれを破ろうとし――逃げる途中で破らされた。
原因は彼自身でもあり、彼らでもある。そして彼は、神に向けて真剣に懺悔を行った。
教会に住むものとして、神に仕えるものとして為すべき事は――。

「二つ、約束をしてもらえますか?」

彼女は、ようやく落ち着いたらしいアキトに向けて、真っ直ぐに瞳を見据えて尋ねた。アキトは、鈴が響くような彼女の言葉に、表情を引き締める。
「一つは、この日に起こったことを、他の誰にも口にしないこと」
アキトは頷いた。頷かない筈はなかった。他人に知らせて良いような話題でもなかったし、どのような発言をしたところで、彼が町の外に一人で出たという事実は変わらない。
彼が提示した条件を受け入れる事に安堵した彼女は、安心した表情で――もう一つの条件を述べた。

「もう一つは、この'忘れられた教会'に二度と足を踏み入れないこと。それを守っていただけるならば……私は、アキト君を外にいる悪漢達から逃がします」

「――え?」
アキトは思わず耳を疑った。二番目の条件……それは都合があるのかもしれない。だからアキトは我慢できる……そう自分に言い聞かせていた。
だが、その後に彼女が述べた主張……それは明らかに、自殺行為以外の何物でも無かった。
「そんな……リオさん、無茶です!相手の数が多すぎます!」
見知った相手に、態々死地に赴かせるような歪んだ趣味を持ってはいないし、その様なことを喜ぶ趣味もない。それは例え見知らぬ相手でも同然だった。
何故自分などのために彼女は動くのか。アキトは自らの行いを心の底から恥じていた。自分が軽率な行動をしたばかりに、リオは危機の渦中に飛び込むことになってしまうのだ。
僕の事はどうだっていいから――このように叫びそうになった口を、彼女は優しく塞ぐ。そしてそのまま、笑顔で耳元に囁いた。
「――駄目ですよ。自らの命を蔑ろにしては、神様に怒られます」
それでも、と何か言い募ろうとする彼だったが、彼女の視線に射抜かれ、笑顔に解され、何も言うことが出来なかった。
彼女はそんな彼をあやすかのように、髪の毛を鋤いて、優しく首元を撫でた。そのまま彼の額に口付けを交わし――。背中を見せながら立ち上がり、微笑んだ。

「大丈夫です。私も、むざむざと死ぬことはありません。ですからアキト君……私を信じてください」

「――」
心臓が、高鳴る……。
彼女の一挙手一投足がその瞬間、アキトにとって何処までもかけがえの無い物として認識された。
崇拝……とは違う。
尊敬……とも違う。その要素はあるとはいえ。
違うと告げたのは、そのどちらの感情にしても、抱く者の頬がさして興奮するでもなく紅くなるものだろうか。それに類する感情をアキトは当然知らない。だが、他人はそんなアキトを見てこう告げるだろう。

――お前、恋したな、と。

「……」
だが、すぐに別れることが分かっている相手に抱く恋が、どうして成立するだろうか?そもそも、恋も知らぬ少年が、恋という感情を理解するのは、相当後の事だと言うのに。
「……はい……。リオさんの事……僕は、信じます……」
得体の知れないもやもやを心理的に抱えながら、アキトはリオに、そう告げる事しか出来なかったのだった……。

――――――――――――――

『振り返らずに、真っ直ぐ進んでください。……では……走って!』
彼女の声を破裂音にして、弾丸のごとく走っていくアキト。走る道は真っ直ぐだったが、走る彼の心は真っ直ぐとはいかなかった。
どうしても、彼女――リオの存在が気になっていた。五人以上の相手に向かって、見ず知らずの相手だったアキトを守るために、凛々しく立ち向かっていった彼女。
だが、自分は彼女と約束したのだ。振り返らず、真っ直ぐに自分の住む町まで向かうと。
眼尻から流れる液体の正体を、その原点を理解できるほど、アキトは大人ではなかった。解らないまま、垂れ流したまま走り逃げて逃げて逃げる。
息切れは激しく、心臓の脈拍数も高い。脚は何度も縺れそうになる。その上にじんじんと痛む。視界は歪んで見えなくなる。それでもアキトは走って……ようやく町に着いた時、件の教会は影も形も見えなくなっていた。
男達は追ってこない。リオが全て引き付けたようだ。もしかしたらなぶり物にされているかもしれなかったが……自分ではどうしようも出来なかった。
自分に力があれば……もっと賢ければ……アキトは自らの未熟さを齢九にして痛感することになった。自らを省みない行動が、無関係な他人を巻き込んでしまったことを、心の底から悔やんでいた。
既に、涙は止んでいる。このまま家に帰ったところで、咎められることはないだろう。だが……アキトはこのまま素直に帰る気にはなれなかった。それが卑怯な行為のように、彼には感じられたのだ。
逃がしてくれた彼女に対して、自分が出来ることは何だろうか。
数十分の思考の末、彼はその結論を出すと、ある決意を胸に、彼自身の家へと戻っていった……。

――その日以降、アキト=ダクスは人が変わったように勉学に励み、身体を鍛えていったという。彼の親はその理由を彼に尋ねたが、彼は頑として口を開かなかった。
親にしてみれば、彼の夢は応援するに値するものである以上、別段理由を強制的に聞くような必要はなかったのだが、一体何が彼をそこまで駆り立てるのか、それはそれで気になるのだった。だが彼が話さない以上、親が無理に触れることでもないだろうと、アキトを優しく見守ることにした。

そして、あの'町外れの教会'での出来事から十年弱、アキト=ダクスは試験に合格し、中央教会の神父として登用されることになるのだった。

――――――――――――――

「――アキト、これを十三番書庫に、これは二十二番に、これを六番と七番に、そしてこれを『禁書庫』に持っていって戴けますか?私はそろそろ上がらなければいけないので」
了解、と一声告げると、アキトは写本の手を一旦止め、墨が乾くのを待つ間に、各書庫に頼まれた本を持ち上げた。頼んだ同僚はもう姿は見えない。彼は今日は夕方の説法が西区の方であったな、と思い直して、自分の仕事に集中する事にした。
教会に属する一員となったところで、直ぐ様説法なり式典出席なりが出来るわけではない。当然、教会内部の雑用が新入りには回される。新入りとは言っても、かれこれ十五年はそれを専門でやっている神父もいるのだが。
兎も角、中央教会に勤める事になったアキトもそれは例外ではなく、雑務に――それも肉体的にわりとキツい蔵書整理の仕事に就くことになったのだ。
蔵書整理が辛い理由、それは書庫の数に比例する蔵書されている本の多さだ。只でさえ各書庫への道は行くのが面倒だったりする。エレベーターなどある筈もない書庫を、ただひたすら下って下って下っていく退屈さ。しかも両手には重たい大量の本。有史以来のあらゆる本が集められているとすら噂されている大図書館だ。教会にて返却の際の人件費を省くために、一度に大量の本を確実に持たされるため、一往復するだけでも大変な労働になるのだ。
尤も、禁書を除いては作業時間中に借りて読むことも可能ではあるので、長年の習慣で読書癖のついたアキトにとっては望ましい環境でもあったのだが。
そんなわけで、いつもよりも人の少ない書庫を、アキトは本を持って行き来していた。蔵書の位置は番号で分かる。そこに本を入れ、維持の神聖呪文を掛ける。これは掛けられた物の寿命を延ばす呪文だ。資料の維持と管理は、そのまま情報の維持と管理に繋がる。教会は、この都市の情報までもを統括している。全ては中央教会の発展と、市街地の維持、そして民の生活の維持のためだ。

「……あとは、これだけだな」
手に一冊残った禁書の本を眺めながら、アキトは禁書を保存――隔離する部屋へと移動した。来た道を戻り、管理人室のの鍵を持つと、それを鍵穴ではなく教会のシンボルマークの中心に突き刺す。
壁を貫くかと思われたその鍵は、しかしある一点で自然とその動きを止める。アキトが手を離すと、その鍵は独りでに回転し始めた。
きぃ……と音がして、戸が開く。普段ならば、どこか陰気な管理人が妙に気さくな声で話し掛けてくる管理人室へと繋がるが、どんな魔術的な――いや、どんな神聖な処置がされているのか、戸の先に見えるのは、必要最低限度の明かりだけが灯された、今にも朽ち果てそうな本棚が立ち並ぶ空間であった。
視界が及ぼす効果というのは馬鹿にならない。現に彼も、はじめてこの部屋を訪れた際は、あまりの陰気さと腐敗的な外見に二度と立ち入りたくないとすら考えてしまった事があった。流石に何度も行けば慣れたとはいえ。
「……と」
にしても……と彼は思う。最近、妙に禁書庫の扉を開くようになったと思う。禁書適用対象が増えたのか、それとも禁書自体を書く相手が増えたのか……。
まぁ考えても仕方のない話題ではあるので、アキトは早々に本を指定位置に仕舞い、このどこまでも陰気な部屋から出ようと脚を進ませようとした……そんな折だった。

「……ん?」

地面に、本が落ちている。他の本が抜き取られた形跡はないのにも関わらず、一冊のB6版サイズほどの書物が、開かれたまま無造作に地面に倒れていた。
「……」
どこから落ちたのだろう、と彼はその本を拾おうとして――書かれた中身が目に入ってしまった。
恐らくは普段、本棚から落ちている本の仕舞う場所を探す際に、本文の字体や内容から大体の目星をつける癖から来た行動だが……。
「……」
知らず、冷や汗が浮かんでいる。違反行為であることは間違いのない禁書の閲覧だが、下手をしたらそれなど問題にならないくらいに強烈な内容――少なくとも彼にとってはそうだろう――が、その本には描かれていた。

それは日記であった。紙の腐食具合は何故か進んではいなかったが、書物にはある筈の題名がその本には存在しない。それに、日記形式の読み物にしては、字体にムラがあったのだ。酷いものは、解読することが困難なほどの癖字で書き記されている。
それに、文章に脈絡が全く見られない。思い付いたものを脈絡なく書く日記式の読み物など従来はありえない。見せるための読み物として、これはおかしいのだ。
そんな筈はない、これはフィクションだ、そう言い切ることが出来れば、彼はそのまま本を下ろすことが出来ただろう。だが彼はそれでも本を下ろせずに、そのまま持ち続けていた。理由は――次の文にある。

『(前略)……オーリー='セイグリッド'=ディパンが'殉教'したという。魔物を封じるために、あのトストン教会に魔を追い込み、自らの命を睹して封じたと。
喜ばしいことだ。
これで聖女派の面々も教会の傘下につくであろう。なに、魔物による被害報告はある。噂とは面白いものだ。疑念と恐怖を抱かせれば、あとはただ広まるのみ。
いっそオーリーもそうして潰してしまえば楽だったか……?いや、それはマズイ。潰すには、あまりに奴は理想的すぎた。民草の信仰を得るのに十分なほどにな。
だが……彼女は神の名の元にその生を終えた。民草を最後まで守るためにな。誰もが彼女の死を悼み、嘆くだろう。そして、彼女を殺した魔を憎み、彼女への信仰を我が教会への信仰へと重ね合わせることになるだろう。
……(中略)……。
今回の一件で、教皇の側近が私に教会を一つ、新たに建てて下さることになった。名前はもう決まっている。'聖トストン教会'だ。
聖女が魔を封じた教会。そこに遥か昔に生のうちに信念を貫いた聖者の名を冠しておくのは忍びない、という御配慮があったという。
喜ばしいことだ。これで聖トストン神父の名も永遠となるだろう。市街地の計画も含め、豊穣の時が来るに違いない。きっと魔を封じた教会など、場所すらも誰もが忘れ、我がトストン教会と共に暮らしを送るだろう。
そして懸念となっている聖女信仰も、恵みを与えるのが教会ならば、時を経て廃れていくだろう。
その時に、真に我が教会はこの地に於いて磐石なものとなる。不確定要素など何一つ無くなる以上、な。
そして私の立場も……×××××(以下、興奮したのか、それとも知らない言語なのか、文字の解読が全く出来なかった)
……(後略)』


「……!?」
一体、何を書いてあるんだ、この本……いや、日記は。聖女派?聖女信仰?喜ばしいこと?我がトストン教会?市街地計画?
理性は、この日記を読み続けることに警鐘を鳴らした。このまま読み続けては、異端認定され、家族共々追放者とされるぞ……と。
彼はそう言い聞かせながらも、自らの中に人知れず沸き起こるとある感情の存在を否定することはできなかった。それは――知識欲だけでは説明できなかった。
何故気になるのか、それが知りたくて、彼はページを捲る。何のために捲るのか、その理由がこの先にあると、彼の本能が訴えかけているかのよう。
「……」
はた、と手を止めたページ、そこに走り書きされていたメモ、それが彼の疑問に全て回答を捧げていた。

『ローパーの卵
純潔を奪う
神の加護の消滅
魔物化
魔物退治任務
魔封じの陣を壁に描く

――'オーリー=ディバン'の名誉ある'戦死'』


「……」
件の本を書庫の空白に仕舞うアキト。その顔は幽鬼の如く蒼白。精気を淫魔に吸われた男のような色艶もなく、ただひたすらにサラマンダーの炎に炙られたかのような乾燥した様相さえ見せている。彼の心は、崩壊にも似た感覚を覚えるのみだった。
改めて、これが小説であることを祈りもした。だが前も述べたように、タイトルも人名も書いていない小説など何処にあろうか。また、わざわざタイトルのみ破る存在が何処にいるのだろう。そもそも破られた形跡もない。
最悪の仮定通り、これが日記だとするならばまだ説明はつく。日記にタイトルをつけるような酔狂な輩は中々存在しない。精々名前を自ら書くだけだろう。
名前は探す気にはなれなかった。探してはいけない、と心の隅で防衛本能が働いたのだ。探したらまず――殺されるだろうと。
そして――妄想日記の作家でない限り……書かれたことは真実だとすると……?
「……」
再び禁書関連の仕事が来た際に、怪しまれないように探ろう。彼は心の底で、そう考えたのだった。

その日から、彼の認識の中で教会に対する何かが変化したことは言うまでもない。
信仰対象は変化しない。だが、盲目的とは言わずとも敬虔な信徒ではあった彼は、伝説の崩壊と共に'信仰'と言う行為と向き合うことになる。
そして、こうも予感していた。

――リオと会う必要も出てくるだろう、と。

――――――――――――――

これ程までに出てくる物なのか。休日に図書館に入り、別件の休日労働(教本の写本)をこなしながら、この辺りの魔物発生件数を確認していたアキトは、内心頭が痛かった。かなり痛かった。
「初版と第九版でこんなにも違うとは……」
初版に於いて魔物が発生していない筈の地域が、第九版に於いては――同じ時期が記されているにも関わらず――魔物が沢山出没したことになっている。年を経るごとに魔が出現するならば分かるが……。
昔の記録者が為政者や教皇の側近に何やら圧力をかけられたのかもしれないが……それにしてもこの改竄はいただけなかった。
教会の非がないという、あの日記がフィクションであって欲しいという彼の希望は、それを証明する筈の資料の集まりによって悉く否定されているのだ。神を信仰する身として、頭が痛くならない筈がなかった。
「……で……」
こちらは教会に配布される魔物図鑑。無論最新版である。旧版は魔物の狂暴性とその対策を取り上げられていたが、魔王が代替わりして以降は……その性質が大きく変わるため役に立たないのだ。そして、禁欲も是とする教義に則るように、なるべく性的描写を避けて描かれ、特徴、生息地、対策部分に大量のページを割いている。一応体裁を保つため、らしい。
「……と、ローパー……」
見つけた。同時にアキトは栞をすっ、と挟み、写本を続ける。教会内部の人物は兎も角、教本の内容は道徳的側面から良い逸話も数多く、読んで聞かせるに値する、そう彼は考えている。……後半に集中する教会至上化の文脈を除けば。
試験の時は疑問に思わなかったその文章が、今は酷く違和感を覚える。ケチャップを作るトマトの種類を変えたような……いや、パンを作るときの塩加減を変えたような、本の少しの違いでこそあったが、それがアキトにはどうしようもなくもどかしかった。
「……」
文字を乱さないように心を落ち着け、アキトは今日の分を書き終えた。幸い、周りに知り合いや上司は居ない。魔物図鑑を見て咎める対象は居ないのだ。
「……さて」
アキトはローパーの頁を開き、文章を確認した。

『(前略)……女性×××に植え付けられた卵は、暫くすると女体と融合する。このような状態でも『浄化(ピュリファイ)』や『神的加護(エルズスマイル)』によって卵を安全に殺し、取り出すことは可能である。迅速に行動すること。やがて孵化してしまうと、植え付けられた女性はローパーへと変化してしまう。こうなるともう手遅れである。天に名を還して差し上げることが、彼女に対する唯一の救いである……(中略)……ローパーとなった女性は、凄まじいまでの生命力と寿命を誇り、全身を燃やし尽くし核を傷つけない限りいくらでも肉体は再生し、寄生した女性の外見のまま何世紀も生きるとされている……(後略)……』

「……」
普通であれば眉唾だろう事象。だが、それが全て真実であれば――明らかに符合する。

彼女が――リオが、どうしてあの'忘れられた教会'――聖トストン教会に居るのか。
――リオが、名前をすぐ名乗らなかった理由。
――読み進めた日記に描かれていた、その後の出来事。
――そして――。

――――――――――――――

「ただ今、母さん」
「お帰り、アキト。珍しいねぇ、中央に行ってからたんと時が過ぎたから、もう暫く戻って来ないと考えてたからねぇ」
久しぶりの休暇。アキトはお上の許しをもらい、自らの故郷の地に久しぶりに足を踏み入れた。
中央教会に勤めてから数年。そろそろ一人立ちなり教会上で上の立場を目指すなり考えなければならない時期が近づいていた。当然上を目指すには、それ相応の試験勉強を、それこそ死に物狂いで行うのが常だ。外部布教も似たようなものだが、こちらは勉強の代わりに退魔、破魔の試験があるので肉体的に辛くなる。
彼――アキトの体格は、どちらかと言えば肉体派だ。偶然見つけたあの日記以来、体を少しずつ鍛え上げていたのだ。目的は無論、外部布教枠に入るため。
そして試験が、まだ期間的に余裕とはいえ近付いていくこの時期に、彼は母親に手紙を出し、再び実家に戻ってきたのだ。
「中央はどうだい?どんな人がいるの?あたしには縁遠い場所だからねぇ、その辺りを教えてもらえる?」
「基本的には手紙に書いた通りだけど……そうだね。わりとここにいる人と変わらないかな」
民は共に食らい笑う。勤労に励み神に感謝の祈りを捧げる。狂信者染みた人も中には居るが、そうした人は特例で、殆んどが一般民衆と何ら変わりはしない。
「あ、でも名所と言われるところは綺麗だったよ。ほら。この風景なんて、まさに見たままを切り取ったようで綺麗なんだ」
そうアキトが取り出したのは、教会や町の美しい風景を切り取ったような写真(この世界では、写真もスクロールの一種である事を述べておく)。中央教会で売られているお土産品だ。
「へぇ……、これがアキトの住んでいる町なのねぇ……」
アキトの母は、貰った写真を眺めつつ、物思いに耽る。きっと、アキトの暮らした町の風景を思い描いているのだろう……。
そのまま、写真と実物の違いなどをちょっとした話として織り混ぜつつ、思い出話を進めていくアキト。数年間とはいえ、それなりの話題が出てくる辺り、人の記憶力と言うものは馬鹿には出来ないな、と考えてしまう。
無論細かい情景ともなると別とはいえ、その時に受けた印象と言うものは中々に消え去ることはない。感情と一体化しているからこそ、記憶に残るのだろう。
「……」
リオさん……いや、オーリーさん……。彼女の記憶には、一体何が残っているのだろう……。
「……母さん」
「何だい?前に手紙で言っていた事かい?」
アキトはすぐに頷く。少し訝しげな表情を浮かべながら彼の母が取り出したものは……旧版の教本だった。
「アキトが生まれる前だから、保存状況が悪いのは諦めておくれ。今の今まで何度も新版が刷られているから、間違っても教会でそれを使わないでおくれ」
「大丈夫。使うことはないよ。そんな事をしたら上の人に怒られるしね」
母親から受け取った教本は、今から二桁は版が違うものだった。版が多くなるごとに厚くなるのが本の定説だが、ここから殆ど、教書は厚くなることを止めている。恐らくは、内容に見直しが行われた結果だろう。
アキトは教本を開いて、一連の流れを目で追った。
見出しから、教則、教条、説話。流し読みでも十分に分かった。明らかに、最新版より信仰を強制するような説話が少ない。教則や教条は殆ど変わりがない。ならば何が減らされているのか。
説話が神を神聖化し、魔を悪と断ずるのは当然だ。中央教会がそう定める以上。無論、アキトもそう考えてはいる。
だが問題は――その神聖さが教会関係者にまで過剰に及んでいる点だ。まるで己らが神であるかのように……。
「……有り難う、母さん」
教本を返したアキトに、母親は心配そうな目線を投げ掛けた。
「……アキト、あんたは何をしようとしてるんだい?」
それは母親なりの息子に対する心配だったのかもしれない。それを理解できるからこそ、アキトの心は痛む。これから自分が行うことは、もしかしたら母親を嘆きの海に突き落とす行為なのかもしれないからだ。
「……」
だが、アキトはそれでも自らの信念の元に動くことを決意していた。

「……僕は神に仕える、民の緩やかな相談相手としての責務を果たすだけだよ」

僕は神を裏切らない。
その強い瞳に感ずるものでもあったのだろう。母親は詮索を止めることにしたのだった。
「……分かったわ。でも、あまり無茶しないのよ」
母の言葉を、彼はすんなりと聞き入れた。

――――――――――――――

流石に、教会での服装を着てあの場所へと行くわけにはいかなかった。噂になると、流石にお咎めだけでは済まされない。
四六時中神に仕える身としては異端かもしれないが、これ以上の異端をこれから行うというのだ。――いや、本来は異端ではないが、今は異端にされるであろう行為。
「……着いた、か」
天に居られます神よ、これから我が行わんとすることを、どうか許したもう……。
身勝手ながら、アキトは神に祈ることにした。異端ではない。神を裏切るわけではない。だが教会関係者にあるまじき行為であることは確かだ。
それに――'約束'を破ることにもなる。それを謝罪、いや、懺悔しなければ、この先に居るであろう、神にその身を捧げた彼女に申し訳ない。
「……」
アキトは深呼吸を一回、それもかなり深く行うと――裏の隠し扉から入った。

「……約束、破ってしまい、申し訳ございません」

少年時代、一度だけ入った穴……教会の隠し扉。大人の体では少々辛いものがあったとはいえ、何とか入ることが出来た。そのまま、埃がたまった――元修道長室を潜り抜け、あの日彼女と出会ったメインホールへ。

果たしてそこに彼女はいた。
――あの日と変わらない姿で。
それでいて――あの日とは全く別の姿で。

彼女の人間部分は、間違いなくあの日の彼女と寸分違わなかった。時間という概念から置き去りにされたかのように。ただし……彼女の足は修道服のスカートと一体化し、地面に粘液を滴らせていた。その上、彼女の服を突き破るように、何本かの触手が生え、うねうねとうねりながらメインホールを……掃除していた。
そのある意味シュールな光景に、心の片隅で彼は唖然としていたが、すぐに本来の心調を取り戻した。教会の立場ではない、彼らしい心理で、眼前の'魔物'に向き合う。

「……貴方は……アキト君?」
「はい……覚えていて下さったのですね……リオさん」
彼女が彼の名前を覚えていたことにちょっとした嬉しさを覚えながらも、アキトはやや悲しそうな顔をしているリオに、優しく問いかけた。
「……ええ……」
彼を見返すリオの瞳。それはどこまでも底知れぬ悲しさを宿していた。声にならぬ声が聞こえてくる。何故戻ってきた、と。
――同時にこうも聞こえた。知ってしまったのね、と。
無言の質問に、彼は肯定の返答をした。
「リオさん……いや、オーリー='セイグリッド'=ディバンさん」
「……」
彼女はそう呼ばれる彼女自身を否定しなかった。どこか観念したような気配を漂わせて、首を縦に振る。
沈黙。先に口を開いたのは彼女からだった。
「……はい。何でしょう……とは言っても、きっとアキト君は知ってしまったのでしょうね……あの伝説の正体を……」
触手が彼女の気持ちを反映したように、力なく垂れ下がる。恐らく、アキトがもう戻れないことを知っての事だろう。確かにアキトは、もう普通の神父として居ることは出来なかった。
「ええ。偶然見かけた、古き司祭の日記……あれがほぼ全てを語っていました。そしてあれを空想事だと信じたくて調べた中央図書館の資料が、その信仰をも裏切っていました。古き資料は信用がならない、もしそう仰るのでしたら、今の資料も引き続き信用が出来ないのも同じです。全て……中央教会が内容を認定しているのですから。
この数百年の中で教会改革、一度もされておりませんよ?」
アキトは全てを話していた。中央教会にて調べたことと、そこから導き出される事件の仮定と結論。非現実的なものから、現実的なもの。それの全てを並べて晒しつつ、彼女に――オーリーに自分の持つ情報全てを伝えた。
彼の話した言葉、それは宛ら推理小説の如く羅列され流れていく。
「……恐らく本当は、魔物なんて初めから発生して居なかった。いや、発生していたとしても、あそこまで露骨に恐怖を示した外見などしていなかった筈です。きっと教会に討伐されている筈でしょう。
ですがあの頃、実際に魔物が居たかのような風説があったのは事実。それは何故か?僕は教会の当時の役割を考え、教本を第一版から漁り、一つ仮定を立てました。

――教会自体がその噂を広げていた……と」

「……」
オーリーは何も言わず静かに俯くだけだった。反論もない。恐らく彼女も知っていたか、或いは勘づいていたか。
アキト自身はその沈黙を肯定と受け取り、さらに続ける。
「旅先の安全を祈りに来る場所。当然旅先の情報も信憑性の上下問わず入ってきます。そして信憑性の有無を織り混ぜつつ、危険性が及ぶという情報は優先して流す。当然、その話は民間レベルで広がるわけです。少なくとも――この街の大元になった村、或いは小さな町に広がれば問題ないわけでして。
これが、伝説の前提条件です。そして――貴女がこの教会に'封印'される前提条件も整いました」
そのままアキトは羊皮紙を取り出すと、それをゆっくりと開く。オーリーはそこに何が書かれているか眺め……一瞬びくん!と体を震わしたが、その後は不思議そうにその羊皮紙を眺めるだけだった。
彼女が反応した理由。その羊皮紙には魔封じの魔方陣が描かれていたのだ。ただし……血を込めていないので魔封の効果は全くない。
「どうしてわざわざ僕が私服を来てここに来たか。貴女を封じるつもりも事を構えるつもりも毛頭ないからです。ですからこの陣にも、聖力を注ぎ込んではいません。……驚かせて済みません」
改めて謝った後で、アキトは外の壁の方に視線を向ける。
「これが教会の壁に描かれていました。それも、四方全てに。伝説ならば、貴女が指示して描かせたとも考えられますが、だとしたらおかしい点があるのですよ。
少し、こちらの魔方陣を見てください」
そう示された魔方陣をオーリーは恐る恐る眺める。一つ一つ、確認するように。
「……、成る程。確かにおかしいですね」
彼に見せられた魔方陣。そこに魔封じの魔方陣はあったが、しかし、魔封じに大切な呪紋が刻まれていなかったのだ。代わって、人払いの呪紋が刻まれている。
「本来、完全封印を行うならばここに'束縛'あるいは'衰弱'の呪紋を刻む筈です。その代わりに人払いの呪紋を刻むのは、まず他の目的があると考えて差し支えないでしょう。
さて他の目的とは何か?そう考えると、まずオーリー=ディバンという聖女の人となりが問題となります。伝記には愛に生き、守るために剣を振るう慈愛の戦士だと描かれておりますし、件の日記にも……多少歪んだ認識でしたが同様の事が書かれておりました。
そんな彼女が、もしそのような呪紋を刻むとしたら……'魔'を守るためという、聖女という立場からは程遠い結論が出てしまうのですよ。仮にも【周辺地域に多大なる被害を及ぼしていた魔物】ですよ?野放しにしていたら自らを信奉する人々が大変になるわけですよね?それに……彼女は中央教会に属しているわけですよ。当然上には多数の上級職に着く存在がいるわけで。
――そもそも中央教会は魔物を敵視し、あわよくば殲滅ないし放逐してしまおうという考えが中心にあります。そんな彼らが、ただ人払いをさせただけで魔物を放逐したと見なしますかね?私が上の立場なら、多重封印に'衰弱'と'弱体化'と'魔力吸収'ないし'聖魔転換'を重ねるくらいの行為を平然と行うかと思われますが」
故に、とアキトはオーリーを見据えて告げる。
――あの呪紋は、オーリー='セイグリッド'=ディバンが刻んだものではない、と。
「……」
彼の目の前にいる彼女――オーリーは、観念したように頭を下げた。無数の触手が全て、力なく地面にへにょりと伏せる。
「……続きを語りましょうか?」
アキトの言葉は、疲れきった様相のオーリーを気遣うように奏でられたが、オーリーはそれに首を横に振って応えた。私は全てを聞く義務がある、と。
「……」
アキトは、俯いたままのオーリーを眺めると、やがてこちらも観念したように口を再び開いた。
「……では誰が刻んだのか。それはまず当時の教会関係者でしょう。そしてなぜあのような呪紋を刻んだのか……答えは簡単でしょう。
単純に、この教会に人を近寄らせたくなかったからです。伝説で教会の場所をぼかすのも、その一貫でしょう。
もしもこの場所に誰か来てしまえば、教会が長く積み上げてきた伝説に違和を覚えてしまう。最悪、僕のように余計な詮索を加えてしまう人間が現れるかもしれない……。
そしたら、教会の言う魔物の正体が、貴女――オーリーさんになってしまう。聖女派の皆さんによって貴女の外見は書物に丁寧に描かれてましたから、多少勘の鈍い人でも気付かれるかと思いますよ。
何より――この教会に貴女を幽閉することで、懸念となる聖女派の動きを思うように動かせるようになる点、それが当時は大きかったかと」
当時、オーリーを教会の中心として据えようという聖女派の動向は、教会上部の司祭にとって悩みの種であった。下手をすれば自分達の地位が失墜しかねない、かと言って、手をかけると厄介なことになる。下手な任務を出せば彼らが疑念を抱くことは間違いない。
そこで前述した噂を流し、それにオーリーを派遣するという手段をとった。そして交戦の結果の痛み分けの殉教――彼女の性格と、事前情報から相手が相当強力な魔物であることは知れ渡っていたので、聖女派は教会を責める事なく彼女の死を悼む。そこで教会の仕組みの中に聖女を取り入れ、聖女派の支持を取り付け、彼らも教会内部に取り込んだ。
もしも彼女が――件の教会から姿を表したら……その時には教会の裏切りが露呈し、彼らの地位は追われていたことだろう。
だが……それも初期の、彼女が歴史上の死を迎えた頃の聖女派のみ。もはや伝説の中で生きる存在として認知されている彼女が今更出たところで、彼女がオーリーだなどと思う人間はいないだろう。ましてや彼女は――ローパーと化しているのだから。
「閉じ込めるまでの手段としては、恐らく寝込みを襲う、或いは催眠香を嗅がせて意識を朦朧とさせたまま、秘所にローパーの卵を入れる。そのまま『昏睡(レム)』を使って気絶に等しい状況の中で、外の壁に魔方陣を刻んだ聖トストン教会の中へと放り込む。同時に罪人数名を、『聖女を汚したら罪から解放する』と誘いかけ、教会に上がり込ませ、滅法に犯す。その後罪人を苦しみもなく一瞬で'処罰'。
――これが、僕の予測しうる'聖女伝説の真実'ですが……如何でしょう?」

「……消されますよ?不敬罪で……いえ、不敬罪ではありませんね。秘密漏洩罪ですか。証拠はない……証拠になるか解らないものを根拠に、どうしてどうして……」

心の底から悲しそうな声で、しかしどこかスッキリしたような表情を浮かべながら、彼女――オーリー='セイグリッド'=ディバンはアキトに語りかける。
「仮定だらけですけどね。推理と言わず、勝手な自分の妄想あるいは――」
「謙遜は必要ありませんよ、アキト君……いえ、アキトさん、と呼んだ方がよろしいですか?」
彼の声を遮り、彼女は鈴の音のように話す。その声にアキトはただお好きなようにお願いします、と答えるだけだった。
彼女が出した答えは、肯定。彼の推測的な事象を、彼女は全て認めたのだ。
何処から当たっているか、その問いに彼女は、出来事は全て当たっているとの返答を出した。そしてその日の事は……今でも覚えているとも。
「……あの日……、気付いたときには私はこの教会に、両腕と口を塞がれたまま捨てられていました。なぜ足を縛らないのだろう、そう下半身を見ると――触手が、服を突き破って生えてきたんです。
私は混乱しました。記憶を探っても睡眠前後の記憶がなく、その時に誰に襲われたのかも全く分からなかったからです。ローパーという魔物の存在は知っていました。ですが自分がローパーに襲われた覚えなど全くありませんでしたから。
混乱の最中、教会の戸を乱雑に開いて男が何名か入って来ました。私は彼らの顔に見覚えがありました。――都で捕縛した、或いはされていた犯罪者の男達」
オーリーはそこまで告げると、一旦顔を伏せた。思い出した言葉の内容は……年を経た今でも、嫌悪感を催してしまう。
『へっへっへっ……聖女を犯れる機会なんざねぇからな』
『オイオイ違ェだろ?'元'聖女だぜ?』
『そうだそうだ……今のこいつは卑しい魔物だぜ?』
『げひっげひっ……そうだよなァ……』
『しっかしストゥール司祭も「こいつを犯ったら解放してやる」なんて、キメェぐらいに最高な条件つけてくれちゃって』
『ぼくちんうれPー、ってか?ギゃっハっハっ……』
「男達は口々に私に対して欲望を剥き出しにした言葉を吐きながら……その獣的衝動を満たさんがために私に襲いかかってきました。剥き出しにされた……その……あぁっ!」
恐怖の感情をそのまま表したかのように、彼女の触手は彼女の姿を、まるで雛鳥を匿う親鳥の翼のごとく隠す。その様子だけでも、アキトは何が発生したか容易に想像がついた。恐らく……傷ついてもすぐ体が回復する身体的特徴を利用して、有らん限りの凌辱をはたらいたのだろう。
今まで清くあった聖女にとって、剥き出しにされた男の象徴は、明らかに恐怖の象徴だろう。未知の行為に恐怖するのは人の性であり、誇りを汚されることに過剰な恐怖を覚えるのもまた人であるのだから。
「……オーリーさん!大丈夫です!ここに襲いかかる男達はいません!」
アキトの叫びに触手は一瞬びくっ!と震えると、ずるずると、まるでビーナスの誕生の如くゆっくりと彼女を彼の眼前に示していた。
彼女、オーリーは……まるで力無い少女のように泣いていた。時おり首を嫌々と横に振って、耳を押さえて踞っていた。
彼はそんな彼女の前で、ただ何もせず立ち尽くしていると……彼女の触手が、彼の前に二本、突き出されていた。まるで握って欲しい、と言わんばかりに。
彼が両手を差し出すと、触手は彼の手に優しく巻き付いてきた。引き寄せるでもなく、また突き放すでもなく、まるで彼の手の温もりを確かめるように、きゅっと巻き付く触手。
次第に、彼女の動きが落ち着いていく。その度に触手は巻き付く力をさらに弱めていき……。

「……ご迷惑をお掛け致しました……」

ようやく回復したとき、しゅるん、と触手はアキトの腕から滑り降りていった。粘液の跡が、彼女の温もりの残滓を彼へと伝えていく……。
正気を取り戻した彼女の顔は、まだ若干の興奮の跡が見られたとはいえ、涙は見えなかった。彼女の中で、何度も乗り越えようとしたのだろう。……まだ完璧に乗り越えられては居なかったが。
「……男達に好きなようになぶり物にされた後、私は力無く項垂れていました。もう、真に魔物になってしまったことが、触手が持つ感覚からよく理解できました。先端まで、新たに手が出来たような……それでいて手とは勝手の違う感覚……。
男達が外に出て、私がようやく体を動かせるようになって――教会の壁に触れた時、激しい衝撃が私の体へと放たれ、私は教会の中心部に吹き飛ばされてしまいました。先程見せていただいた魔方陣の効果通りに……。
それから……何年経ったのか分かりません。私はずっと、この教会の中に居ました。本来ならば、ローパーという種族は寄生した相手の感情を奪って本能のみの魔物へと変じさせるのですが……不思議なことに、私は私のままでずっと居ました。――空腹感すらなく、'食事'もほぼ全くとらずに、今日この日まで生きていたのです」
最後の方は、言った当人も信じられないような表情を浮かべている。それはそうだろう。伝説で描かれるのは、先代の魔王の時代だ。その時代は魔物はより性質は凶暴で、それは寄生型の魔物すら例外ではなかった。
昔のローパーの食物は蛋白質。それは人間の肉であり――精もその一つだ。成長の栄養素に精を用いる。当時本来ならば、相手の精を搾り取った後にローパーと化した女性(だったもの)は、相手を逃さないように触手で拘束するか――そのまま貪り食うか。
だが彼女は精神を完全に残しており、故に男達は外に出られた。本来ならば、出られず殺められることになる彼らに手を下した司祭の心境は如何様であっただろう。日記には微塵も書かれてはいなかったが、酷く心を憤怒で乱したに違いない。
「……成る程。そして……魔方陣の効果が切れて、あなたは外に出られたが……」

ドアの向こうの世界は、その姿を大きく変えていた……。

「……恐らく、膨大な魔力を、長年の時を経て風化しつつあった呪文にぶつけられ、効果が消えたのでしょう」
恐らくそれが、魔王の代替わりだ、と彼は考えていた。そしてその考えは的中していた。実際、彼女の中に流れ込んできた魔力の欠片が、彼女に魔王の代替わりを知らせたのだという。
「ええ。実際、私にも魔王の魔力は流れ込んできましたから。その瞬間に、教会を覆う呪紋の気配――聖力が一気に掻き消えました事も、また感じられました」
本来であればここで、ローパーは人間だった頃の感情を取り戻すのだろう。殺されたり死んだりしていなければ。彼女の場合、感情もそのままに魔物化してしまったため、魔力流入による変化は大して無かったようだ。
「……その、魔力が流れ込む感覚って、どんな感じなのですか?」
そうアキトが何の気なしに聞くと、オーリーの顔は、まるで顔の中で爆弾でも爆発したかのようにぼんっ、と一気に赤く染まった。どうやら相当恥ずかしいことのようだ……神に仕える身として。
まぁ、全ての魔物をエロエロにするくらいであるから、卑猥なことには違いないのだろう。触手もあわあわとあわてふためいている。
「……あ、今の質問は忘れてください」
そんな彼女の様子に「しまった……」と自省するアキトの、どこか申し訳なさそうな声に、オーリーはか細く「……はい……」と頷いたのだった。

――――――――――――――

「それで……アキト君はこれからどうするつもりですか?」
オーリーにとって目下にして最大の心配事は、この'真実'を知ってしまったアキトの将来についてであった。
中央教会は異端を許さない。ある程度の寛容部分もあるが、魔物は言語道断で論外事項なのである。故に、魔物と関わりながら逃がしたアキトの処遇は推して知るべしという状況なのだ。
さらに、教会が秘匿するタブーの一つに、堂々と侵入してそれを全て暴いてしまった。この事実を教会は放置しておくわけが無いだろう。最悪、命を狙われることになるかもしれない。彼女のせいで……。
オーリーは自己犠牲の念が聖女時代から強かった。だからこそ彼女は、自らの身を捧げてでも彼を助けたいと、そう考えていた。しかし、彼女が手を出すことで彼が殺められるのではないか?という対極的な危惧も、そこには存在していた。
どうすれば彼は無事に――その心配は、結論から言えば杞憂であった。
「1.今回の事は他言無用。
2.近いうちに対外布教資格を取得しますので、その際に生死情報はどうとでもなりますよ」
対外布教資格とは、名の通り大陸の別国家に布教を行う際に必要な資格である。取得は頭脳的なものもそうだが、体力的なものも必要である。実入りはそれなりにしろ魔と出会す危険性があること、冒険者染みているという嫌悪感から、デスクワークの多くなる教会ではわりと成り手が少ない分野である。故に……資格を取るのが案外容易かったりするのだ。
全てはあの日記を目にしたときから、彼が考えてきたことだった。禁書を目にした以上、厳罰は免れない。ならばそれがバレても問題がない方向に進むのが正当である。
対外布教はまさにその絶好の立場。危険性の高さから、無装備で草原を歩かせれば盗賊に身ぐるみ剥がされて野垂れ死ぬ事になる。異端に染まればわざわざ教会が手を下さずとも民衆が手を下す。何れにせよ、教会が手を汚す可能性自体がかなり減少するのだ。
何より、革命派と接するなら、その組織を根刮ぎ潰す大義名分にも成りうる。一般大衆は突拍子もない異端の発言など信じないだろうから……という甘い思い込みも彼らにはある。そう彼は踏んだのだ。
それに……と彼は、彼女に付け加えた。

「僕らは教会を、ましてや司祭を信仰しているわけじゃない。天に居る神様を信仰しているんです。
僕は大丈夫。何故なら、神に愛されている貴女が心配して下さっていますからね」

――――――――――――――

アキトがこの'忘れられた教会'を去ったあと、オーリーは久しぶりに、神聖魔法を使ってみようと神に祈り……そして唱えた。
ぽう……と神聖な気配を放つ白い光が、彼女の手や触手から放たれていく。その光は、やがて彼女の体の周りを巡り、彼女自身を包み――そのまま染み渡っていく。
全身に満ちる活力。もしかしたら聖女であった時代よりも効果は大きいかもしれない。魔王の魔力と混ざりあったからか……?
「……いえ、違いますね……」
魔力とは関係ない。魔王の魔力と神の聖力とでは、属性があまりにも違いすぎる。間違っても……神聖魔法などには使えないのだ。だとしたら……。

「……神様……」

自らの身が魔であっても見守っている神に、彼女は今一度の信仰を重ねるのであった……。

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あの日記……ストゥール司祭の日記は、彼女を陥れた翌日からの彼の転落劇が見事に描かれていた。奇跡という名の神聖魔法が徐々に側近も含めて使えなくなり、司祭としての立場を疑問視され、さらに裏組織との繋がりまでもを暴露される羽目となり、処刑される前に自ら逃亡、そのまま野に果ててしまわれたようだ。
これはアキトも知らないことだが。幾度もこの日記は焼かれたらしい。だが、不思議なことに焼かれても焼かれても人の目につく場所に出回ったらしい。それも、教会関係者の。困り果てた彼らは禁書庫へと厳封したらしいが……たまたまアキトが出向いたところで倒れていたようだった。
その事実をアキトが知ったら、きっとこう言っただろう。

「神様は、いつでも見守っているんだな」

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その後、無事に資格試験に合格したアキトは、リオ=セリィと名乗る女性を連れて各所を行脚し、教えを伝え歩いたという。
彼らの教えは、教会の教えを基調としながらも、教会中心性と排斥性が薄く、故に周辺部では少しずつ受け入れられたという。
一説には、あの『足の無い聖女ルルララ』もこの教えを耳にしていたという伝説もある。その他、魔物が司祭になったのは、この教えがあったから等と。

――全ての真相は歴史の渦の中である。だが、一つ言えることがある。


――'セイグリッド'の名は今もなお、この大陸の何処かで聞かれるであろう。


fin.



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