目を開けば、そこはいつも肌色。顔を押し付けると、ぽよんぽよんと明確な弾力が返ってくる。
左を見ても、右を見ても、肌色。
しかも、ミルクにありったけの媚薬を混ぜて気化させたものを、さらに濃縮させたような香りが、晒された肌に過剰に纏わりつくように流れ、私の中に急速に染み渡っていく……。
「………」
私の意識はまた眠りの森に向かおうとしていたらしい。殆どまともな空気を吸えていない事から、酸素が脳に行き渡っていなくてくらくらしているのかもしれない。
「……ふぁ……」
自然と、数えるのも億劫になるほどした欠伸が再び口から漏れ始める。このまま瞼を降ろしてしまえば、また夢の住人に戻ってしまうだろう。本当なら、抵抗すべき事なのかもしれない。起きたばかりでまた、しかも訳の分からない状況で寝てしまう。あまりにも不自然な眠気にただ翻弄されてしまう。
――それでも私は、抵抗することが出来ないままに、夢へと誘う衝動に身を委ねていく。
まるで、それが初めから約束されていたかのように。

「うふふ……」
微睡む私の耳に、優しそうで――少し悪戯そうな微笑みが聞こえる。微風にも似た優しい感触に、くすぐったさを感じながら、やがてその思いすら、意識の中で遠ざからせていった……。

「起きて……」
むにゅむにゅと、何かに体が圧迫されながら揺られている。沈んでしまいそうな程に柔らかい肌色が、私の口と鼻を塞ぐように押し付けられた。
「――!!!!!!」
ぼんやりとしていたのも束の間、すぐに酸素が足りなくなって私は悶え始めた。ぶんぶんと顔を左右に振っても、肌色が吸い付いてきて抜け出せない。一か八かと、私は前に腕を突き出して、後ろに逃れようとした。
「――っはぁっ!……はぁっ……はぁっ……」
ぶるんっ、と大きく震えて、肌色が私を解放する。直ぐ様流れ込む、新鮮な――甘味に澱んだ空気。まるでバターかマーガリンのように、私の体に塗り込められ、染み渡っていく。それに気付くことなく、私は直ぐ様見上げた。
「ふふ……おはよう」
柔らかな笑顔で私を見つめていたのは、目の下にホクロ、薄茶色の髪の毛は長くウェーブがかかっている……整った顔立ちをしている女性だった。酸欠でくらくらして顔を赤くした私に、ニコニコと微笑んでいる。
「お……おはよう……ひゃっ///」
私は咄嗟に返事をしたが、次の瞬間見えたものに思わずさらに赤面してしまう。私の顔ほどもあるおっぱいが、二つ目の前に突き出ていたからだ。
つまり、この女性……上半身まっ裸というわけで……。で、自分を見直してみたら、裸だったりしたわけで……。
胸を咄嗟に隠そうとした私は、思わずバランスを崩して仰向けに倒れそうになったけど、この女の人が手で支えてくれた。肌触りの良い手があまり触られたことの無い私の体に触れるのが、何となく擽ったかった。
「あらあら……気にしなくて良いのよ。ここには私たちだけしかいないんだから」
私に笑顔を見せる女性。なんでだろう。私にはその笑顔が、とても嬉しいものに感じられた。心の底から、安心していられるような……恐怖が薄らいでいくような……。
「こらこら、起きたばかりなのに眠るのはどうかと思うわよ」
「……はっ!」
また、いつの間にか意識が遠退いていたらしい。私は何とか気を強く持って、夢の世界へのチケットを差し出す寸前に留まった。視界はまだ涙でぼやけているけど……それでも、女性の姿ははっきりと映っていた。
まだ……頭はくらくらする。体は裸でいる筈なのに寧ろ暖かく、体には上手く力が入らない。腕や足といった部分じゃなくて、全体が痺れている感じだ。
「ご……ごめんなさい……あっ///」
くー
安心していたからかもしれない。私のお腹が、非常に可愛らしくて貪欲な音を立てた。
「あらあら……お腹が空いたのね……?」
ぼんやりと赤面しながら女性を見つめる私の目の前に突き出されたのは、巨大な二房の肌色の果実。女性がそれを軽く揉むと、桃色の先端から滲み出すように白い液体がぽつり、ぽつりと現れ、玉のように膨らんでいった。
私はゆらりと乳房に近付いて、その液の香りを確かめる。まるでミルクのように深みのある、甘美な香りが鼻孔を擽る。
「ほら……飲んでいいのよ」
瑞々しくぷるぷると震える両の乳房。その一つに私は引き付けられ――気付けば口に含んでいた。
「んっ……あんっ……そう……そうよ……いい子ね……」
貪欲な赤ん坊になってしまった私は、ゆっくりと溢れ出る母乳を口に、喉に流し込んでいた。美味しかった。それ以上に――優しい味がした。まるで、心を照らすキャンドルに、一本一本ゆっくりと灯りをつけていくような……。
「……ん……んく……んくぅ……くあぁ……んふん……」
女性の声に合わせて、足元がふるふると震えていく。もう片方の乳も同じように震えながら、ぴゅぴゅっと、白く甘い母乳を私に噴射していった。
「んむ……んちゅ……んむん……」
体が白く染まっていくのを気にせず、私は母乳を体に取り込んでいった。お腹の中で、たぷん、たぷんと音がするのも、多分気のせいではないだろう。
貪欲に、貪欲に――私は乳房に吸い付き、乳首に刺激を与えていく。その行為は、目の前の女性に性的な刺激を与えるものだったらしい。
「んは……んはぁっ……んはぁぁぁぁぁぁんっ!」
ついに女性は風船を突き破るような解き放たれた声をあげた。その途端、私の髪の毛と顔、そして背中に、ぷしゃっと音を立て、何かの液体が掛かった。
「……?」
疑問に思った私は、一時的に口を乳から離して、後ろを振り返ってみる。すると……?
疣のように盛り上がった何かが、私の方に標準を向けてもぞもぞと蠢きながら、白い液体を吹き出していた。疣の下側は甲羅のような場所と柔らかい場所に分かれていて……私はその柔らかい場所の上に乗っている……。
右を見ると巨大な、甲羅のように鈍く光る脚が四本、左にも四本、まるで私を捕らえる鳥籠のように女性の体ごと抱き抱えている。
まるで蜘蛛――いや、多分この女性は――。
考えはそこまでだった。

「安心して。私は蜘蛛だけど――誰も食べることはないわ。だから怖がらないで……」

ぽふん、とまた胸に抱きすくめられた。やわやわと優しく圧迫してくる胸の感触、そこから伝わる体温が、私の恐ろしい考えを和らげていく。谷間から漏れ入ってくる空気は、女性が発する甘い香りと混じって、私をとろめかせてくれる。
女性の――蜘蛛の優しい声が、私の中にゆっくりと染み渡っていく。知らず微かに震えていた体も、徐々に収まっていった……。
「………」
胸から再び解放された時、私はまたぼぉっと、彼女の顔を見つめていた。彼女は寂しげな笑顔を浮かべながら、指先から糸を出して、次々に織り重ねていく。あっという間に出来たのが、私くらいの体に丁度いい大きさのサマードレス。ただし、蜘蛛糸だから真っ白だ。
「……怖がらせてごめんね。仕方ないわよね。こんな大きな蜘蛛、しかも半分人間の蜘蛛、怖いわよね……」
出来たばかりのサマードレスを綺麗に折り畳み、私の目の前に置く。そのまままた糸を出し、次の服を織り始める。段々顔が陰りを帯びていく……。
「怖がらせないように、完全に人の姿になれたら良かったけど、それは無理なのよ……ごめんね……怖くてごめんね……」
今度はワンピース。やはり全部白のそれを、綺麗に折り畳んでサマードレスの横に置く。どんどん声がトーンダウンしていく。自分で自分の言葉に傷ついてるのかもしれない。それが自分の『どうしようもない事実』であるからこそ、口に出す度に突き刺さっていくんだろう……。
「それで、怖がられないようにって裁縫とかやってみたんだけど、皆怖がるのを止めないのよ……でも、どうしたら怖がらないのか、どうしても分からなくて……ぐすっ……」
その間も手は糸を紡いで服を織り続けていく。Tシャツ、ダッフルコート、ゴシックロリータ、ショートパンツ、フリル付きスカート……。
「……安心して生まれ変わって欲しいのに……これじゃ『安らぎの導き手』失格だよ……」
フリル付きパンツ、ショーツ、網タイツ、タキシード、セーラー服、etcetc……。
「………」
……確かに彼女の外見は怖い……それは認めざるを得ない人間の心の動きだ。でもそれは、自らと異質なものを回避するための本能的なものだから――。

「……あの……」

このまま服が女性の蜘蛛腹から溢れてしまいそうになるところで、私は相変わらず服を織り続ける彼女に声をかけた。
はた、と手を止めて、私を見つめる彼女。その顔はどこか、少し泣き出しそうだった。
「……あの、大丈夫ですよ?私はもう、貴女を怖いなんて思えませんから……」
このとき私は、彼女が蜘蛛であることを――異質なものであることをすんなり受け入れられていた。受け入れ、その上で彼女は彼女として見ることが出来ていた。優しく与えられた乳、抱き締めたときに伝わった温もり、そして――軽く逝ってしまった衝撃や感覚。それらは、もし彼女が私を食べたり危害を加えたりする目的をもって行ったにしては、余りにも彼女自身の無防備な時間が多すぎた。それに彼女は――変わらない。私達と同じように心を持ち、同じように悩み、寂しがっている。自らの外見にコンプレックスを持っている――寂しがりや。多分母性的な言葉や抱き締める癖は、離したくない心の顕れか、あるいは……。
「……素敵な服ですね」
目の前の服の中から、一着を選び出す。私が選んだのは、白のサマードレスに、白のフリル付きパンツ。パンツは自分で穿くとして……。
「……着せて、貰えますか?」
彼女の前に、私はサマードレスを差し出した。既に背中は乾いてるから、自分で着ても問題はないけど……。

涙を流す、蜘蛛の女性。

「……本当に……いいのね?」
彼女の問いに、私ははい、と答えた。だって……。
「貴女を信頼しているから、私は貴女に背中を向けられるんですよ」
「!……ありがとう……!」
幽かに泣き声が聞こえるのは、多分気のせいではない。
彼女に着せてもらった服は、とても肌触りが良くて気持ち良くて、しかも私にビッタリの大きさで……背中の部分が濡れていた。

彼女が泣き止んだところで、私は自己紹介をすることにした。名前が大江御笠(おおえみかさ)。生まれた場所は分からず、親の温もりは記憶の奥底。生きるために狗盗を繰り返し、10歳に満たないとき既に盗賊団の一員として働いていた。この場所に来る前も、そうした屋敷を狙った強盗を行っていた。その後……業績を意気揚々と数える頭目を尻目に一人眠りについたら――目を覚ますとここにいた。しかも、抱き抱えられた状態で。
「……嘘か本当か、人の心を知ることが私達の世界では重要だった。同時に、いつも冷静沈着さを保つことも。それが……親に捨てられた私が、罪を重ねて生きるために必要だったことだから」
実際、これ程までに安らぎを感じ続けることなんて、ここに来るまでに無かった。あったとしたら――それは記憶の底に埋まった幻想か。
本当だったら、裸すら恥ずかしがることは無かっただろう。傷だらけの自分の姿なんて、特に相手に見せてどうというものでもない。でも、ぼんやりした意識が、私自身が忘れかけていた'女の子'としての自分を呼び起こしたのかもしれない。
「仕留めて、奪って、脅して、剥いで……全部、自分が生きるためにやって来たこと」
でも、私が今までやった事は――。

「………」
彼女は黙って話を聞いていた。時おり私の髪を手櫛で鋤いたり頭を撫でたりしていたけど、それが非常に気持ち良かったので、私はそのまま気にせず話していた。今までだったら、きっと警戒して何も話さなかっただろう。
彼女の肌から、甘い香りがする。その臭いの中にいるだけで、何だか安心できるような気がしてくる。
彼女にだったら、委ねてもいいかもしれない……なんて、心のどこかで思えてくる……。
「……そうなの……」
蜘蛛さんはどこか残念そうな――そう私には聞こえた――声で相槌を打った。幽かに涙の痕跡が残る顔は、長い髪が影になって表情がよく分からなかったけど、きっと私を軽蔑しているんだろう……。
……何だろう。幽かに心が痛んだ気がした。そんな筈はない。だって……それが『当然』だって自分で受け入れていた筈――。
だからこのじくじくする痛みは気のせいだ。初対面の存在である彼女に軽蔑されたかもしれないのが怖いなんて、ただ自分の事を話しただけなのに……いや、その行為自体がまずあり得ないから?そもそも自分の事を話すなんて今までの自分だったら行わないことだし……私は今何を考えている?
心の奥に感じた、ほんの僅かな痛み――それを何とかして無視したり理論的に無かったものにしようとしたりしている私は、やっぱり気づかなかった。
「……みかさちゃん」
私の名前が綺麗な声に乗せて耳に届いた時――。

ばふっ

「――っ!?」
また胸元に抱き締められた。ただその力は今までよりも優しく、胸に埋め込む、と言うより当てる、と言った表現の方が適当のように思えた。
私は咄嗟に離れようと彼女の体を押そうとした。けど、体が言うことを聞かない。彼女との距離を引き離す筈の腕は、逆に近付けるように彼女に抱きついていた。
「みかさちゃん……泣いてるよ……心が……やりたくなかったんだよね……辛かったんだよね……生きるために罪を犯して……本当は普通に生きたかったんだよね……」
ぽたり、ぽたりと肩に何かが落ちる感触がした。仄かな温もりを持ったそれは、降り始めた雨のように少しずつ、少しずつ私の肩に透明な斑を作っていく……。
「……え……あれ……」
泣いてるの?彼女が、私に。どうして貴女が……私の事で泣いているの?
誰かのためにという以前に、自分のためにすら泣くことが無かった自分にとって、彼女の涙は心を動かすのに十分な力があった。
彼女の言葉は、嘘偽りの欠片もない、純粋に私を思ってくれているものだった。軽蔑の感情は涙を流さない。自分が軽蔑されていないんだ……と悟った私の心は、安堵の感情を伝えてくる。
「……え……あ……」
戸惑いながら何故かむずむずする右頬を拭うと――。

暖かい、透明な液体が、手の甲に付いていた。

「……」
舌に当てると、しょっぱい。拭って舐める。しょっぱい。そのしょっぱい液体は、どうやら自分の瞳から溢れているようだった。
――涙。
「――」
そう認識してしまえば、後は早かった。止める間も無く、次から次へと溢れ出してくる涙。次第にしゃくり上げてくるこえ。
どうしようもなく寂しかった。怖かった。辛かった。そんな負の感情が、少しずつ溶かされて涙と一緒に流れ落ちていく。
忘れてしまった涙が、忘れてしまっていた――ううん、塞き止められていた感情を引きずり出して体にばら蒔いていく……。
「――うくっ!いくっ!うわぁあぁぁあん………」
溜め込まれていた涙を全て外に出すように、私は大声で泣いていた。その鳴き声が少しずつ小さくなっていって……気付いたら、意識の座標は夢へとシフトしていた……。

「――私ね……昔、悪い人に助けられたの」
泣き疲れて眠っていた私達は、二人揃って目覚めた後、先程までの話を続けた。今度は彼女の番だ。彼女の名前は……無いらしい。便宜的に無名(ムナ)さんと呼ばせてもらうことにした。
ムナさんは彼女自身が言っていた通り蜘蛛で、しかも神様なんだとか。その経緯を聞いたところ、一番最初に言われた言葉がこれだった。やや驚く私を眺めながら、彼女は話を続けた。
「名前はカンダタ。御釈迦様は彼を浄土に相応しいか試すために、私の糸に呪いを掛けて彼の前に垂らしたの。彼は意気揚々と上っていった。ところが……他の地獄落ちの人々を払い除けてしまった。自らのために、他者を犠牲にする……それは浄土に居る資格がないという証明……。結果として、彼は地獄に落ちた」
蜘蛛の糸、という題で有名な話だ。私の記憶にも、誰かと読んだ記憶がある……でも、それが誰か解らない……。分からなくてもいいのかもしれない。
「その後、私は御釈迦様のお導きにより神様になったわ。慈愛の心を、自ら学んでいった。だって、蜘蛛は生きながらにして大罪の一つを犯しているんですもの。
――大食の罪。私達は、多くを食べなければ生きていけなかったの」
悲しげに、お腹を撫でているムナさん。その目からは、何粒もの涙がぽたりぽたりと蜘蛛の体に、人間の手の甲に落ちていく。
「生きて罪を重ねる日々を救ってくれたのがカンダタ。同じ――いや、私より罪を重ねた人間だったわ。そんな存在でさえ、誰かを救うことは出来た。なら私は……私だって、誰かを救うことが出来るかもしれない」
涙を振り払いながら、彼女は熱を込めて語る。その瞳は、私よりも生き生きしたものだった。
「だから私は、魂の救済をしているのよ。――逆縁という罪を負った子供達の」
そこでムナさんは、は、小声で何かを唱えた。どうやら初等魔法の『光』らしい。光源となる珠を掌に浮かべると、珠はそのまま上昇して、辺りを照らしていく……!?
「――わ……」

それは幻想的な光景だった。見る人によっては悪夢とも見えるかもしれないけど、私にとって、目の前の風景はとても魅力的なものに見えた。
緑が生き生きとしている木々の隙間を彩るように、白く透き通った糸が縦横に張り巡らされている。『光』が投げ掛ける優しい輝きに、朝露にも似た光を放つ糸達。それらは心地よい風に優しく揺られている。思わずそのまま寝転がってみたくなるその糸には、幾つもの靄のようなものが引っ掛かっていた。
それが、巣の上でどんどん実体化していく。輪郭が定まり、形を持って――次の瞬間には、紛うこと無き人間の……少年の姿をしていた。泣き腫らした目の周りは赤く、その手足には酷使され擦りきれた痕、腕や脚には何重にも傷が付いていた。下手をしたら、私よりも酷い傷――。
「あれが『逆縁』の罪を負った子供。親よりも先に死んでしまった子供は『賽の河原』に送られて、終わることの無き石積みを行うことになるの。そして積み終えた子供が送られるのが、この森――」
言うが早いか、ムナは私を巣の糸が丈夫な場所に下ろして、自身は糸の上を自在に歩いて彼の元へ近付いていった。
「……うぅ……ぁぁ……」
夢の中で鬼の姿に怯えているのだろうか。脂汗をかきながらふるふると力無く体を震わせ、服を握り締めながらただ呻き声をあげている少年。彼の目の前に、ムナはゆっくりと降り立った。そして――。
「――可愛そうに……辛かったでしょう……怖かったでしょう……でももう安心して……ここには貴方を傷つける人はいないわ……」
呻き声を漏らす口に、彼女の乳首を差し入れ、同時に優しく抱き締めた。
「……んぁ……」
少年は少し驚いたみたいだったけど、次の瞬間には表情を緩め、口をこくこくと動かしていた。ムナの胸から、暖かくて甘い母乳が次々と溢れ出していく。赤ん坊のように飲む少年を、彼女は慈愛に満ち溢れた瞳で暖かい眼差しを送り続けていた。
彼女の蜘蛛の下半身は、少年の足元近くで巣を突き破って、先端の標準を彼の背中に合わせていた。
「……んぁ……ああ……」
今や完全に心を蕩けさせた事を確認すると、ムナはゆっくりと蜘蛛の腹部を震わせた。そして……びゅっ。
「んはぁ……っ♪」
私にさっき浴びせかけた液体を、同じように少年の背中に浴びせる。そのまま胸を外すと、四本の脚でその液体を塗り広げていく――。
「さぁ……力を抜いて……優しく委ねて……思うままに甘えて……」
風が、液体の軌跡を糸に変えていく。軟らかくてふわふわした蜘蛛糸は、毛布をかけるように優しく少年の全身を覆っていく。四本の脚が交差しては開かれる度に、少年の安らかな寝顔が白く薄らいでいく……。
「……次なる生が、貴方にとって幸せなものでありますように。その時まで……おやすみなさい」
ムナがそう呟くとき、そこにあるのは一個の、形の整った繭だった。光が映した影は、いつのまにか膝を抱えて蹲っていた先程の少年の姿が見てとれた。
繭が出来ると、次の靄に向かい、また母乳を与え、安らぎを与え、繭にする。次も、その次も、そのまた次も……全ての子供に、等しく愛情を注ぎ、温もりを与え、未来を祈る――その姿はまさに『母』と呼ぶに相応しい存在であった。

――そういえば、と私は神話の一説を思い出していた。
曰く、蜘蛛は母性の象徴で、子と繋がりが強いものである、と――。

緑を彩る、白銀の糸の束。そこに飾り付けられた、膨大な数の白い繭。耳を済ますと、静かな寝息が聞こえてきそうだ。
――と。

とくん……とくん……
繭の中から、鼓動が響く。それに共鳴するように、辺りの繭も一緒にとくん、とくんと音を立て始める。
いつしか、森の中にある全ての繭が、静かな鼓動を響かせあっていた。沢山の、子供達の命の証が、森の時を刻んでいる。さながら盛大なオーケストラを耳にしているようで、とても心地いい。
「この子達は、生まれ変わりの時を迎えるまで、この繭の中でゆっくりと魂を変えていくの。賽の河原を出て、私の糸に引っ掛かる魂は、獄卒が罪を許した証拠。でも――それまでに魂は傷ついてしまうわ。このままだと、転生後の生にも影響がでてしまうの。傷ついた魂を持つ生き物が罪を犯し、再び地獄に送られてしまう。それじゃ……あまりにも可哀想でしょ?原因はこの子達じゃどうにもならない罪だったのに……。
だから私はせめて、愛情や温もりをうんと与えて、幸せな気持ちのまま生まれ変わらせてあげたいの。そしてそれだけの力を、私は手に入れたのよ。お釈迦様の元で修行して、ね」
昔を幽かに懐かしむように、遠くを見つめるムナ。その手はいつの間にか私を背中から抱き寄せ、大きなマシュマロを二つほど私の頭に乗せている。ふよふよと押し付けられる柔らかい弾力性のある物体の感触に、私は何とも言えない心地よさを感じていた。
暖かい肌……。ゆっくりと、一定のリズムで歌う森の命……。いつしかムナも歌っていた。まるで子供を寝かしつける母親のように優しく……。その歌が、本当に優しすぎて、私は気付いたらまた――涙を流していた。
心地よさと嬉しさが何重にも入り交じった気持ちで、私はまた目を閉じた……。

――――――――――――――

この時、私は疑問に抱かなかった事がある。
何故私はここにいるのかと。
何故私は糸にかかることなく、ムナの上で目覚めていたのか。
その答えは――

――――――――――――――

目を覚ましては彼女に甘え、ねっとりとした母乳を飲み、森の鼓動を聞きながら優しい夢に心をとかす……そんな生活を送っていた。いや、送らざるをえなかった。
ムナに抱かれながら見た蜘蛛の巣の下は、どこまでも深い闇で、地面が私の目では見えなかった。ムナは「みかさちゃんはヒトだからね」と、あっさり納得していたけど、逆に言えば彼女はこの闇を見透せるということ。
「……ねぇ」
私は彼女に思いきって尋ねてみた。
「何?みかさちゃん」
蜘蛛脚と胸と腕で私を抱え込みつつ移動していたムナが、優しく返事をした。
「……この場所って、地上何メートルくらい?」
少し考え込むムナ。頭の中で指折りしてるんだろうか。
「ん〜……何て言うか、そもそも地面があるか分からないのよね……」
――理解できたことが一つ。生身で落ちたら絶対、あらゆる意味でここには戻れない。つまり、下手に動けないということ。
この世界で一番安全な場所は……ムナの側。そして側にいる以上、彼女は私にありったけの愛情を注いでくれている。
側から離れる理由もない以上、彼女の愛情に委ねるのは当然の流れだった。

母乳を飲んで、胸の中に抱き込まれて、甘い香りの中で眠る。それが当たり前のように感じられるようになったとき……私はどこか、自分の体が自分のもので無くなっていくような……そんな不思議な感じがした。
試しに手を握り返してみたり、皮膚に爪を立ててみたりして、この体は自分が動かしてるんだって自分に言い聞かせてみても、どうしても違和感は拭いされなかった。
「……」
どうしてなんだろう。疑問が一つ浮かべば、次々に違う疑問も出てくる。その中でも特に私が気になっていたことは、今までに出てきてもおかしくない疑問だった。

――ドウシテ、ワタシハココニイルノ?

――――――――――――――

「ねぇ……ムナ……」
いつものように優しく起こされて、乳首を口に含ませようとするムナ。その前に私は何とか声を出して、彼女に問いかけることにした。
「何かしら?」
不思議そうな――それでいて私の事は全てお見通しとも言える顔で私を見つめ返すムナ。その顔に甘えたいという感情を何とか抑えつつ、訊く。
「ねぇ、ムナ……。

私は、どうして此所にいるの?」

「………」
ムナは黙ったまま答えない――いや、どう言えばいいのか迷ってる?あるいは、言うべきかどうか迷ってるの?
「――この場所が賽の河原の出口で、見かけた人間は全て霊魂だった。賽の河原は冥界にあるもので、生身で霊界に入ることは出来ない。
――でも私はここにいる。ここでムナの糸にも掛からず、繭にもされず、普通に暮らしている。
ねぇムナ……教えて。私は……死んでいるの?それとも生きているの?」
それにね、と私はさらに続ける。ムナはただ、真剣に私の話を聞いてくれていた。
「……近頃、私の体が変なのよ。自分の体で、自分の思うように動かせている筈なのに、自分のものじゃない……そんな感じがするの。
おかしいよね?錯覚だと思いたいよね?私だって思いたかったよ。でもいくら体を動かしても、私の頭が違うって叫ぶの。これは自分の体じゃない、って……」
現に今話している間でさえ、私の体はうずうずと私に伝えてくる。これは私の体ではない、と。その皮膚が波立つような感触が、堪らなく嫌だった。止められない以上、耐える以外にどうしようもなかった。
「……」
ムナは黙ったまま一度目を閉じて……そして開いた。

「……みかさちゃん、もしその答えを聞いたとき、たとえどんな答えであったとしても、受け入れる覚悟はあるかしら?」
ぴん……と、弓の弦のように張り詰めた空気。ムナの一言一言は、私が都合のいい答えを求めてはいないかを問い質すものだった。そして、大体そのような質問をする時は、待つ運命が比較的よろしくない時である場合が多い。
「……」
それでも……このまま何も知らないで苦しくなるくらいなら――。

「……はい」

一声。諾。それを聞いたムナの表情は、心なしか安心して見えた……。
そしてムナは語り始める。この死者と蜘蛛の世界に、私がいる理由を………。

「まず、この場所はみかさちゃんが言った通り、冥界の一部よ。まぁ冥界とはいっても、現世との境目に近い場所ではあるのだけど。
で、この場所で実体……とは言っても仮初めの体なんだけど……それを持つには、生身の存在と触れ合う必要があるの。ここでは私と……私の巣くらいね。周りの木は駄目よ。触れても実体化出来ないわ。
本来だったら私はすぐに繭にしてあげちゃうから、違和感を感じる前に変わってきちゃうんだけど、みかさちゃんはその仮初めの体でずっといたわけだから……ごめんね。感じてしまうことを忘れていたわ」
つまりムナは、巣を張ることで魂に仮初めの体を与え、愛情を注いでいく。そうして夢心地の繭の中で魂の姿を変えていく……。私は起きたままだから、仮初めの体と魂が食い違ってきてしまうのだ。そして、今確実にムナは私の体も『仮初め』と言った。つまり――私は死んでいた、ということだ。
「……驚かないのね」
「……何となく、そんな気はしてたから」
自分が魂だけの存在で、今は仮初めの体が与えられているだけ。受け入れる下地は、今までの暮らしの中で十分形成されていた。この世界にいる以上、死んでしまったんだって事は。
「……」
ただ、何となく寂しくなって、ムナの体を抱き締める。そうすると自然と、体のざわめきが収まるから不思議だ。抱きついてきた私を包み込むように、彼女は強く抱き締めてくる。
「無理しなくていいのよ……魂だったときのように、苦しかったり、悲しかったときには、私の中に飛び込んできて……」
無理はしていない。ただ、こうしていたいだけ……。ただムナを抱き締めていた私の頭を優しく撫でてくれながら、ムナは子守唄を歌うように、もう一つの疑問にも答えてくれていた。
魂だった私が、自分からムナのところに飛び込んで、彼女の体で仮初めの体を得た、それが私だった。何故飛び込んだのか。それは――私の心が私に伝えてくれた。
「魂が……いっしょ……」
呟いた私に向けて、彼女は微笑んだ。
「幾兆幾京の存在の中には、魂の形質がそっくりな存在が誕生する事があるの。みかさちゃんの場合、それがたまたま私だった……。だから魂は、私に惹かれて蜘蛛の巣を避けて、私のところに飛んできたのよね……」
甘い香りが彼女の中から発される。魂に安らぎと幸せを与えるムナのフェロモンが、私の体を彼女色に染めていく……。
「ここに来る魂は、みんな私の娘や息子だと思っているけど、貴女の事は……まるで自分のお腹を痛めて産んだ子供のように思えてしまったの……」
フェロモンはさらに強くなっていって、私は香りにのぼせかけていた。
気付けば、私を抱く力が微かに弱くなっている。その代わり、抜け出したらいけない何か強制力が働いているみたい……ううん、自分が抜け出したくないだけ。理論じゃない。これは本能にも近い感覚。
ただ側にいるだけで、安心できる存在――。

……あれ?この感じ、どこかで……?

「ねぇ……みかさちゃん……貴女のお母さんになっていいかしら……?」

……え……?
「おか……あ……さん?」

――あぁ、そうだ。
記憶の底、存在するか解らない程薄れたそれが、拾い起こされて放つ一瞬の輝き……。

母親の温もり、愛情。どうしようもなくくすぐったくて――そして暖かい。

「……お願い」
フェロモンでぼやけた思考でも、この感情だけは、この決意だけは本物だった。体の中から、心の底から、私はただ一つの事を望んでいた。

「――お願い。私を貴女の……娘にして……して下さい……」

「いいのよ、そんなに畏まらなくて……」
呟きながらムナは、私の額に軽く口付けした。甘酸っぱくて、どこかくすぐったい感覚が、私の体を巡る。
「んっ……あぅっ……」
キスされた場所から、体がポカポカと暖かくなっていく気がした。その感覚が堪らなく気持ち良くて……私は泣いていた。
おかしいな。
嬉しいのに、どうしてこんなに泣いているんだろう……ううん。きっと嬉しいから泣いているんだ。
お母さん……。

――――――――――――――

「んっ……」
息むような声をあげると、ムナの蜘蛛腹の先端、出糸突起がぬちゃ……と卑猥な音を立てて広がっていく。中では糸の原液とも言うべき代物で溢れ、彼女の脈に合わせてどぷん、どぷんと揺れている。ふわぁ……と、目覚める前に嗅いだあの香りを、さらに濃縮させた芳香が漏れ出し、私は思わずくらくらとしてしまった。
膨張と収縮を繰り返す入り口に、やわやわと蠢く肉壁が、まるで私に対して手招きしているよう……。
「……」
この中に入れば、私はムナの娘になれる……。でも、体のどこかで恐怖を覚えている。今の自分が消えちゃう事の、恐怖。
私は一度、ムナの顔を見上げた。ムナは嬉しそうに笑顔を向けていたけど、どこか苦しそうでもあった。多分、体の中に招くために穴を大きく広げるのは、凄く力のいる行為なんだろう。
「……」
私はムナの笑顔に、ゆっくりと頷いた。恐怖をねじ伏せて、出糸突起の前に立って――。
「……優しく、産んでね」
――そのまま中に、頭から飛び込んだ。

彼女の中は真っ白な糸の原液で満たされていた。うまく動くことは出来ないけど、毛布にくるまったように暖かい。
「(……ん……ふぁ……)」
液体の中で窒息するかと思った私だったけど、不思議なことに苦しさは全く感じなかった。
口の中に流れ込んでいく、甘い糸の原液が、私の中に酸素を供給しているみたい……。
いつの間にか、糸で作られた服は溶けてしまい、露になった肌を原液が覆っていく……幽かに粘っこい感触を持ちながら、私の全身に塗りつけられていく……。
蜘蛛腹自体もゆっくりと伸縮を繰り返して、原液に動きを与えている……。手の届かないところまで全て、体全体を撫で回されているような感触に、私は擽ったさともどかしさを覚え、小さく体を震わせた。
「(……ん……んふ……ふぁぅ……)」
原液とは違う、もっと優しい感触を背中に感じた。心の底から暖かくなるようなそれは……。多分、ムナがお腹を撫でているんだろう。その振動が、私に伝わっているのだ。
「(……ぁは……きもち……い……あった……か……)」
自然に口許が綻んでいく。綻んだ場所からさらに原液が流れ込んでいく。暖かくて甘い、まるで母乳のようなそれは、やがて私のお尻からも少しずつ溢れ始めていた。体に吸収されなくなったものが、体の外に出されているのだ。
まるで自分が、糸を出している蜘蛛になったような気分だった。
「(……あ……あはぁ……)」
少しずつ、体が曖昧になっていく。原液が体と一体化しているような、寧ろ体が原液のような、境界が消えていく感覚。内側から外側に広がって……あるいは外側から内側に入り込んできて……。
「(……あぁ……あ……)」
まるで私という存ざいを溶かすように、あまい味がからだに広がっていく……あったかいお腹のなかで、とろとろになって……からだが……。
「(……あはぁ……)」
あ……まだなでてくれてる……うれしい……♪えーと……ん〜と……ん〜……あれ……?……だれだったっけ……。
「(……ぁ……)」
……だれだっていいよね……きもちいいし……それに……。

……あったかい……。

――――――――――――――

「……んんっ……ぁはっ……ぁぁん……♪」
体の中で、御笠が眠っている。幽かに膨れたお腹から感じる弾力が、今のムナにとっては大変愛しいものだった。
愛しさのあまり、ゆっくりとお腹を撫で回すと、ぴくぴくと反応が返ってくる。まるで妊婦のように――いや、彼女は妊婦そのものだった。
「……んふ……ふん……んああっ……♪」
御笠の体が糸の中に溶けていくにつれて、ムナの中に伝わってくるものがあった。御笠の心、幸せと安らぎの波動……それらは糸の原液を通じてムナの元へと送られていく……。
「あはぁ……ん……んふん……♪」
同時に、彼女の中で形成されていくものがあった。それは優しくて温もりに満ちた感情をムナに伝えながら、次第に大きくなっていく……。
ムナは指先から糸を出して、何かを織り始めた。それはどこか、産着のようにも、柔らかいタオルのようにも見えて、その実、どれとも異なっていた。大きさは――彼女の蜘蛛腹ほどもあるのだから。
織り上げたそれを、彼女は新たな巣に癒着させ、出糸突起をその中心部に、接触してしまうほどに近付けた。そして――!

「――あはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ♪」

先端が拡張され、ずず……と膜に塞き止められたものがゆっくりと押し出されていき――ぬちゅ、と音を立てて縫われたものに貼り付けられた。卵が産み付けられたのだ。
幸せそうな顔で眺めながら、ムナは糸つぼから糸を出しては何重にも、柔らかく巻き付けていく。糸を出し終えたとき、そこには彼女ほどの大きさもある繭が完成していた。そのまま彼女は、栄養ともなり得る糸の原液を繭の中にどくどくと注いでいく。
「……あはぁ……♪」
注ぎ終えた彼女は、繭から蜘蛛腹を外して、自らの巣の中で眠りについた……。

数日後、繭は寝息と脈動のみが響く静寂の世界の中で、ゆっくりと震え出した。微かな振動だったそれは、やがて繭の内側から突き上げるようなそれに変わり、そして――!

――――――――――――――

私の目の前で、繭に罅が入っていく。ぴし、ぴしと音を立てて、少しずつ……。
それに呼応するように、他の繭にもぴしりぴしりと入っていく。罅が入った場所からは、虹色の光が罅を広げるような勢いで溢れ出していた。『転生の森』の中は、七色の光で満たされる。この森が一番明るくなる時、それが今なのだ。
徐々に強くなる光。そして――!

「魂魄の蝶よ!願わくば今生、汝らの生に幸多からん事を!」

私の叫びに合わせるように、大量の繭が裂け、そこから眩く光る蝶が何匹も現れていく。それらは交わり離れながら上へ上へと飛び立っていき……やがて光が収まる頃には、その場に残されたのは私と、脱け殻になった大量の繭だけだった。

「『蝶送り』お疲れ様、ミカサ」

私の背中から、優しい声が響く。振り返ると、そこに居るのはもう一人の『導き手』であり、私の――。

「ありがとう、ムナお母さん」

私は蜘蛛足を動かしてお母さんに近付く。お母さんは人間の腕を広げて私を招く。わりとハグ魔の気があるお母さんだけど、私もハグは好きだから問題ない。
だってハグって素敵じゃない。皮膚や服以外は隔てるものがないほど、大好きな人に近付けるんだから。
力強いハグによって押し付けられた乳がぐにゃりと形を変える。同時に押し付けた私の乳も同じように歪む。乳首の先端からは白濁した乳液が垂れ落ち、互いに甘いフェロモンを無意識に放つ。
気の済むまでハグをし続けた後、私達は互いに見つめ合って、そして――笑顔。
時々叱られたりもするけど、私を思って叱ってくれるお母さん。私はそんなお母さんを持てて幸せだ。お母さんは『貴女の前世の分まで愛を注ぎたいの』って言ってるけど……私、知ってるんだ。
前世の分なんて思わなくても、お母さんは私を十分すぎるほど愛してくれてる、って。そして、その愛を子供達全てに捧げてるんだって。

だから私も……お母さんのように愛情たっぷりに愛してあげたい。
子供達が、私の中で安らいでくれるように……。


――蜘蛛は親子の情、殊に母親の子に向けての愛情を司る獣であるという。恐らくは蜘蛛の巣のように、全てを受け入れる心理がそのように思わせたのだろう。
(枷村槙名著:『妖怪達とその興り』より抜粋)

fin



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