「ねぇねぇ知ってる!?最近この近辺に美味しいケーキショップが出来たんだよっ!」
どうしていつもこんなハイテンションが維持できるのか、心理学者にでも尋ねたくなる私の友人の話を、私は右から左へ流しながら聞いていた。
「特にチョコガナッシュなんか最高でさぁ、私なんか食べた瞬間感激のあまり蕩けちゃったんだから!」
「ていうか、アンタその店でそれしか食ってないでしょ?」
私のため息と共に発した突っ込みに、彼女はにひひと笑顔で返した。つまり正解、と。
「ねぇもりりんも行こうよぉ〜」
「佐久間、誰がもりりんよ。アンタと違って私は忙しいんだから」
忙しい、と言うより単純にこれ以上気疲れしたくないだけだけどそれは黙っておく。
「え〜?あるかちゃんも言ってたよ〜、普段書店で雑誌片手に溜め息ついてるって」
「それは学術誌……じゃなくて……」
……こうなる展開は既に予測はしていた。このテの人間は、言い出したら聞かないで押し切るだろう事は。
「……分かったわ。一緒に行きましょう」
諦め半分に、私は溜め息と一緒に呟いた。
――――――――――――――
結論から言えば、行って正解と思えるような味をしていた。佐久間のようにチョコガナッシュを店の中で何個も注文して食べるなんて暴挙はしないにしても、不二家のショートくらいのサイズのものを四個くらい平然と平らげてしまいそうな、いくら食べても飽きない味をしていた。私が頼んだ、この店で一番安いバームクーヘンでさえ、私が思わず二個目を頼んでしまうほどに。
平均的に価格はそこそこ安いので、学生さんの懐もさして痛まない。あまり宣伝していないらしく、店内での人影はまばらだが、人が集まるのも時間の問題だろう。そう感じられた。
近いうちにまた行こうかな……その時は一人で。
絶対に一人で。
――――――――――――――
佐久間と別れ、本屋でニュートンを立ち読みした帰り道。
「………」
何となく、夕日が気持ち良かった。このままずっと浴びているだけで……何となく幸せになれそうな気がした……ん?
どうしてだろう……どうして気持ち良いなんて……?夕日なんて普通、憂鬱になるものでしかないのに……。
けれど私はこれ以上の疑問を特に抱かずに、そのまま伸びた影を追いかけて帰路についた……。
――――――――――――――
晩御飯は、コンソメスープに味噌汁、それにジャスミンティー……カオス以前に、何故に汁物ばかり……。
気楽な一人暮らしとはいえ、料理は自分で考えなければならないわけで。しかも自分で作らなければいけないわけで……でも何でよりによってこんな組み合わせなんだろう……。肉も魚も使わず、野菜と水だけの料理……。
不思議だったけど、考えていても解決できそうもないので、シャワーを浴びてとっとと寝ることにした。
特にこの後やる事も……無いしね。
――――――――――――――
'来て……'
……ん?
'来て……'
誰だろう……こんな時間に……。
私は布団からむくり、と起き上がると、まずは辺りを見回した。少なくとも……部屋には誰もいない。それはそうだろう。居たら居たで大問題だ。一人暮らしに来客、しかもこんな真夜中にこの家を訪れるとしたら、さして貯まってもいない通帳を狙いに来た泥棒くらいのものだろう。
「……?」
何か釈然としないながらも気のせいだと思う事にして、私は再び布団の中に潜り込もうと――ドアノブに手を掛けていた。
「……え!?」
わ……私の体が勝手に……!?明らかに自分の思考とは真逆の行為に驚いている間にも、私の手はドアノブのチェーンを外し、鍵を開けようとしていた。
かちゃり、と音をたてて開かれるドア。ふらりふらりと動き出す足。
'来て……'
相変わらず頭の中では声が響く。
「(ちょ……ちょっと……え!?)」
いつの間にか、声すら出せなくなっていた。自分が声を出そうとしていても、それが神経に伝わっていないかのように……。
「(え!ちょっと!何で!?何がどうなってるのぉっ!)」
自分の体から、心が剥ぎ取られてしまったかのようだった。五体は全て私の支配を離れて、ただ一点を目指して足を進めている。この先にあるのは――。
「(……森?それも確か……)」
最近、一番古くて大きな木が落雷によって倒れた……。でもどうしてそんな場所に……。
'来て……'
いくら考えたところで、私の体が止まるわけでも、頭の声が収まるわけでも、疑問が解決するわけでもなく、私の体は依然として歩きを続けて――。
「(――わぁ……)」
足を止めたのは、落雷によって中心から大きく裂けた木の、その目の前に立ったときだった。
'来た……'
'来てくれた……'
頭の中の声は、この場所に私が来たことを喜んでいるみたいだった。辺りを見回そうにも、この場から立ち去ろうにも、小指一つ動かすことの出来ない私はそのまま
そのまま私の体は、膝から屈んで、やや焼け焦げた木の内部に、まるで騎士が忠誠を誓うかのようにキスをした。木が発する独特の、湿った土の臭いを、確かにこの体で感じたとき――?
'……ありがとう'
'……ありがとう'
「……え?」
頭の中の声が、ありがとうと何度も繰り返している。その声は段々と大きくなっていって――声?
「あ……」
いつの間にか、私は再び声を出せるようになっていた。と言うことは――体が動かせる!?
首を動かす。左右、上下、前後に自由自在に動かせた。顔の表情も自由!つまりこれは――帰れる!体を動かして帰れる!
不思議な体験を、妙な思い出として処理したいと願っていた私は、しかし腕を見た瞬間、表情をひきつらせる事になった。
「――ひっ!」
本来それなりに滑らかだったはずの肌色の表面は、血管が複雑に隆起したようにごつごつとして、茶色く硬化していた。さらに私の指どんどん伸びて枝分かれしていった。所々玉のようなものが見える……もしかしてあれは――!?
「あぁっ!」
そこで私は、両足が既に動かなくなっていることに気付いた。視線を向けると、膝小僧辺りから既に両脚が一体化していて、地面では既に木の根っこのように、伸びた指が地面を深く掘り進んでいた。その何れも――まるで木の表面のようにごつごつと変化してしまっていた。
「あ……そ……そんな……」
根っこや腕が変化している時点で、もう手遅れなのかもしれない。それでも――私は叫んでいた。足掻こうとしていた。脚に、腕に力を込めて動こうと……けれど、そんな努力すら無意味だと感じられるほどに、肌の――体の変化は進んでいった。既に脚は太股まで硬化は進んでおり、腕は肘を越えた辺りまでまるで木のようになっていた……。
'……ありがとう'
'……ありがとう'
声は相変わらずぐわんぐわんと頭に響いている――まるで私の頭に嬉しさを染み込ませるように、何度も、何度も――!
「……やだ……やだ……やだぁっ!木になんかなりたくないよぉっ!誰かぁっ!誰かぁぁっ!」
錯乱したように泣き叫んだところで、聞く対象も居る筈もなく、既に胴体まで木は体を侵食していた。すっかり枝の一つになった腕が天を目指すように自然と持ち上がり、万歳の格好になったところで肩の木化が始まった。
「誰かぁっ!誰かぁぁっ!誰――!」
両肩まで侵されれば後は速かった。胸が木に変わった次の瞬間、私の首から上も、一気に変化したのだ。髪の一本一本は変化に至らなかったのか、はらり、はらりとまるで枯れ葉のように私の頭から落ちていく……。
「(……うっ……うぅっ……)」
完全に自分の体が一本の木になってしまった事に、私は泣いていた。どうして……どうしてこんな事になったのか、全く理解できなかった。
'……ありがとう'
'……ありがとう'
頭の中に響く声が、非常に憎らしかった。
この声さえなければ、ここに来ることはなかったのに……こんな事になる筈もなかったのに……考えれば考えるほどだんだん悲しさと怒りが募っていって、私はもう涙を流せない体の中で、ずっと泣いていた……。
やがて……泣き疲れと、深夜に目を醒ましたせいでさほど取れていなかった疲れの相乗効果で、私の意識は急速に遠ざかっていって――。
――――――――――――――
――夢を見ていた。
宇宙の中で、私が星々と一緒に太陽の回りを巡っている夢を。
夢の中で私は、目の前に来た何もない星に、何か光の粉を蒔いていた。キラキラと太陽の光を反射して輝くそれは、星の中に入るとその表面を緑で満たしていった。
光の一部は水になって、草と草の間を川になって流れていく。
耳を澄ますと、虫達が自由に羽根を鳴らす音が聞こえる。その音達が、私の心を落ち着かせてくれる。
「(これは……)」
ちょっとファンタジックだけど……私が夢見ていること。
他の星に、緑を増やすこと。あるいはその研究の一端を担うこと。そのためには何をしたらいいか、何が出来るか、それが知りたくてニュートンを見ていたし、親の反対を押し切って農学部にも行ったっけ……。
でも、私の体は木になってしまって……夢を叶えることなんて、もう出来ない。そう思うと、どこか悲しくなって――。
'――大丈夫だよ'
「……え?」
突然響いた声にややびっくりしながら振り向くと、そこには私そっくりな顔と体型をした――木の根っこのようになった脚と、どこか枝が絡まって出来たような腕と、緑色の葉っぱが幾つも折り重なった髪を持つ、存在だった。
「貴女は……?」
思わず敬語になった私に、彼女は微笑むと、そのまま腕を伸ばして抱き締めてきた!
「!んんむむむっ!」
突然の事に思わず驚きの叫びをあげようとする私の口を、彼女は柔らかな唇で塞いで、そのまま舌を突き入れてきた。入れられた舌は、そのまま私の舌に巻き付いて絡まって、ぐねぐねと優しく締め付けていく。キスどころかハグすらされたことのない私の体は、本能的に対処しようとしていたけれど、彼女から与えられている未知かつ大量の情報の処理が出来ていない頭は、その本能すら思い出すことが出来ず――結果、私はただ為すがままにされるだけだった。
時おり彼女の唾液が流し込まれる……どうしてか、仄かに甘い……。
何もかもが初めての刺激に、私の脳はオーバーヒート気味になって……。
「……あ……」
彼女が唇を離す時、私は体の底、心の芯まで脱力しきっていた。抱き締めている彼女に、全体重をかけているような状態で、私はだらしない顔を向けているだけだった。
そんな私の頭に、少しずつ何かが入っていく。体の動かし方、鳥や虫の受け入れ方、風の呼び方、この森の植物達の名前……。
「……え……あ……」
それと同時に、何かが私の中から抜けていく……思い出そうとしても、思い出そうとしたこと自体を忘れてしまう……。
「……あ……ああ……」
怖い……怖いよ……自分が消えていくのが……自分じゃなくなっちゃうのが……。
自然と私の瞳は、涙をぽたりと流していた。表情は変わらない。いや、変えられない。変える力が――もう無い……。
自然と私の腕は、目の前にいる誰かに伸びていた。何かにしがみついてなきゃ、じぶんがきえちゃいそうだったから……。
'――大丈夫だよ'
そんなわたしを、だれかはやさしくだいてくれた。しっかりと、あったかいんだっておもうくらいに……。
'――大丈夫だよ'
きれいなこえ……。
だんだんと……くらくなってきた……あれ……おかしいな……わたし……。
――――――――――――――
地面から、水が吸い上げられている感覚。それが体を巡るのが、堪らなく心地好い。同時に、土の中の栄養が、根っこから体全体に行き渡っていく。このまま体を外に出して身震いして喜びたいな……なんて考えたけど、目の前を眺めるとマスメディアの皆様が、『落雷現場に新たに生えた大木!深夜の神秘!』とかキャプションを付けて陣取っているから我慢我慢。
『ママーママー、カメラマンがいるよ〜!』
『あら大変!隠れなくちゃ!魂を抜かれちゃうわ!』
『ねぇおにいちゃん、たましいをぬかれるってきもちいい?』
『そんなわけ無いだろ!隠れろ!』
木のうろの中では、前のドリアードさんのお世話になっていたリス一家があたふた忙しなく慌てているようだった。まぁすぐに収まるでしょうし、私は関知しないでおこう。
耳を澄ませば、あちこちで動物達の不満げな声が聞こえる。出来れば私としても今すぐに出ていって欲しいとは思うけど……流石に手は下せないし……。
そうこう迷っているうちに、取材が終わったらしく、カメラマンやらレポーターやら世間的に『暇だな〜こいつら』とか思われそうな人達はぞろぞろとこの場所から立ち去っていって……残ったのは恒例のゴミ。
『わぁ見てお母さん!美味しそうなものだよ!』
『お止めなさい!毒かもしれませんよ!』
『ねえおにいちゃん、どくっておいしい?』
『そんなわけ無いだろ!』
リス親子が繰り広げる漫談をBGMにして、私は上半身だけを木の表面から枝のように出して、ゴミ拾いをすることにした。
……どうせ今日の夜も、淫魔サクマが「もりりんのあまぁい蜜ちょうだい♪」とか言って樹液をたかりに来るだろうし。アンタはここにいる虫か。
いつか……私がもっと成長したら、そのときは私の種が宇宙まで飛ばせるらしい。もしそれが他の星に落ちたら……その星で、私の種は育つ。環境を変えていく。
そうしたら、私の夢が叶う。
そんな日を待ち望みながら、私は今日も、この森の中でそこそこ騒がしい隣人に囲まれながらも、静かに暮らすのだった。
fin.
書庫へ戻る