Prologue



「…………ちょいと待て」
逃げ去る様に走り出そうとするスポンサーの袖をがしっと掴み、俺は尋ねた。聞き違いでなければ良いが、残念なことに聴力と言語認識能力は人一倍良好なのだ。
「は…、はい………?」
引きつった笑顔を俺に向ける財布君(仮)。これからの運命を考えると同情を禁じえない人もいるらしいが、当事者である俺にそんな感傷は湧かない。むしろ沸々と怒りのボルテージが徐々に上がっていく感覚さえある。
「俺は確かに言ったよ。ああ言ったさ。雪や氷、北国の音楽を描きたいと。そのための旅行をどこにするか考えていると」
スポンサーは今にも泣き出しそうな、脅える小さな白い犬(チワワ)のような目でこちらを見つめている。無視。
「あんたは確かに言ったよな。でしたらおすすめな場所があります、と。あんたは俺よかいろんな場所を飛び回ってるからな。その言葉を信用して任せた、だがそれは浅はかだったらしいな」
ここで俺は一息置いて、


「…………で、どうしてアラスカ行きのチケットなんか買ってきたんだ!?」


ガラスが割れる、CDケースが割れる、タンスが揺れるetc.………と言った漫画的描写こそ無いが、目の前の気の弱いスポンサーを立ったまま石化させるほどの威力はあったらしい。………怒り状態の俺はメドゥーサかい。
しかし俺にも非があるのは事実。本来であれば俺のようなコンポーザー兼ギタリストは、他のバンドの手伝いに言ったりどこかに曲提供していたりしなければならない筈なのだ。今回言い出した旅も、俺の我儘以外に他ならない。にも関わらず財布君(仮)はその我儘を引き受けてくれた様なものだ。
財布君(仮)が必死で会社を説得して引っ張り出した金で得たチケットだ。もうちょいましな場所を選べよと言う怒りはあるが、財布君(仮)を恨んだってしょうがない。恨むなら会社を恨もう。
そう思い始めたとき、財布君(仮)の口が微妙にぱくぱく動いてるのに気が付いた。近付いて、動きを確認する。
『私は提案したんですよ、日本では北海道、外国ではアイルランド、ノルウェーと言った北欧系諸国を。しかし部長が「あんな生意気な奴、アラスカにでも送っちまえ」と言って、私の言い分も聞かずに決めてしまったんですよ〜(泣)』
…………マジで会社を恨もう。と言うか部長を恨もう。
おっと、財布君(仮)に礼は言っとかなきゃな。一応。
「…………まぁいいさ。一先ずチケット予約してくれてありがとうな」
そう声にして出すと、少し照れ臭くなった。人に礼を言うのに慣れていない。悪い癖だ。
「――――」
声にならない声で、財布君(仮)が返事する。唇の動きを見るに、手持ちの袋を見ろと言っているらしい。そういえばやけに大きかったようなと思いつつ、その袋を探す。
財布君(仮)の後ろにあった。やけにデカイ。やはりデカイ。人一人は楽に入るであろう大きさだ。
「…………中に何が入ってんだ?一体」
呟きつつも袋を覗きこんでみる。

有り得ないくらい厚いコートが見えた。
引っ張り出すと外は耐水性、防寒性に優れ、中はファーでふかふか。もしかしたらこのまま家でも布団として使用できるのではないか。大きさは俺の背丈に合った物………かと思いきや若干デカイ。何人が着るんだ、この大きさ。
コートを畳んで、他に入っている物を確認する。ビザ申請用紙、非常食、代えの衣服、使い捨てカメラ、アラスかに関する資料と思われる印刷用紙数枚、英語の教科書、フランス語の………、とオイ!
「何でフランス語が必要なんだよ!?」
アラスかはアメリカの土地だ。フランス語が必要なのはカナダのケベック州だけの筈。とそこまで考えて、財布君(仮)の顔を見た。
「――会社が用意した資料が、フランス語だったんです」
………会社を恨もう。骨の髄まで。世界言語が英語になりつつある現代に、何故にわざわざフランス語圏から資料をとってくるのか。嫌がらせとしか思えない。
投げ捨てようとした仏語辞典を手元に置いて………他はなかった。
「………これは会社にしては大盤振る舞いだと認識しろ、と言うことか?」
Nasty!(いやらしい!)
財布君(仮)も、そこは同感のようだが、如何せん精神的疲労の所為でぐったりしているので、言葉にならない言葉を呟き、首を縦に振るのが精一杯のようだ。中間管理職の運命と言ってしまえばそれまでだが。
まぁいいさ。せっかくの我儘が通ったんだ。楽しませてもらうよ、クソ部長殿。
―――で、財布君(仮)の今後暫くの処遇は………。
「………行きたきゃついて来ても良いが、行きたくなきゃ休暇をとって、家族サービスなり何なりしてくれ。つーかそっちを望む」
ぁぁもう何でこんな言葉でしか言えねぇんだと内心悶えながら吐き捨てるように呟くと、財布君(仮)はようやく少しぐったりから解放されて、
「はぁ………、なら私は家でゆっくりさせてもらいます」
………どうにも腰が低すぎるんだよな財布君(仮)。長生きしたいなら少しは堂々とした方が良いと思うんだが。


こんな感じで、俺のアラスカへの旅は始まりを向かえたわけなんだが、まさかあんなことになるとはな………。俺も、いや、人類誰もが予想しえない事だったと思う。過去系にするのが惜しいくらいに今さっきあった事のように覚えている。その出来事とは―――。


【目次】【NEXT】【TOP】