さばくの うえ





潮騒。
に似たノイズ。

寄せては返す。

月より跳ね返る電波は、あらゆる形を持たぬものを掻き乱す。

地上の電波も。

地上に響く音も。

そして、




人の心も。



――――――――――



'私'は気付くと、砂漠の上に一人立っていた。
砂漠、と言っても昼間の灼熱なそれではない。夜の、凍てつきそうな、冷たい月光が支配している空間。
物事の一面しか知らぬ、知ろうとせぬ愚か者に、等しく死が訪れる場所。
とはいえ、本来ならば砂漠と言うだけで喉の乾きを訴えても良いものなのだろうが、そのような兆候が全く見られない事から考えるに、どうやらここはただの砂漠ではないらしい。
頬を捻る。
痛いと意識しない限りさして痛みを感じない。と言うことは、此処はいわゆる、夢の世界だと言うことになる。
砂漠の夢。
フロイト辺りに尋ねたいものだ。一体この夢に'私'のどのような心理が秘められているのだろうか、とでも。


風が、髪を揺らす。

その風の中に、幽かに混じる潮の薫り。
どうやらこの先……どれだけ先かは知らないが海が存在するようだ。
夢なのに潮の薫り。
何かおかしな感じがする。

いくら夢とはいっても五感+痛覚全てが麻痺をするなんて話は残念ながら聞いたことはないのて、薫りがする事に抱く違和感も、ある意味では未知に対する恐怖のようなものであろうか、そのような事を考えつつ、'私'はその薫りの方へ歩みを進めていった。

潮の薫りが強くなり、潮騒が聞こえてくるにつれ、砂漠の様子がどこか変わっていった。
やけに辺りの砂の盛り上がりが激しいのだ。そう。人一人が中に入れるくらいの大きさの山が、'私'の周りにいくつもある。
その山の一つに触れようとすると、頭の中に声が響いた。
'触れるな!'
それは通常ならば耐えきれないほどの痛みを私の中に、強い意思の篭った言葉と共に叩き付けてきた。
夢から覚めてしまうのではないのかと思えるほどの痛みではあったが、瞳を開くと、そこには相変わらずの砂漠が目の前に広がっていた。
不気味だ。
砂の山はまるで砂漠に建つ墓標。此処にどれだけの人が眠っているのだろうかと疑いたくなるほど。
………痛みがようやく引いてきた。
'私'は、砂の山に触れないように、風の向きに逆らって歩き出した。

歩き始めて、どれ程経った頃だろう。相変わらず喉が渇く事はなかったが、変わらない風景というものはそれだけで人の気力というものを減退させる。
人生は平穏が一番、生活もそれに然り、と言う人がいるが、'私'は前者には賛成だが、後者には同意できそうにない。やはり人にはハレがどこかで必要である。安穏としたケの世界だけではただの退屈しか感じられず、とてもずっと暮らす気にはなれない。安穏としたハレと言うものがあれば、それはそれで見てみたい好奇心は存在するが、果たして存在するのやら。

二十回目くらいの考察を終えた頃だった。

海。

月の光を受けて鈍く光る海。
寄せては還す波によって砂浜は濡れ、やや闇色に染まる。
蟹の一つでも歩いていれば良いのだが、残念ながら'私'を除いて、生物の気配はない。
'私'は駆け出した。
自分の足をよく見ると、'私'は靴を履いていなかった。その足で、二十回の考察分をよく歩けたものだ、と自分のことながら感心するも、夢の世界はある程度何でもありだと思い出し、そのある程度の範疇にこれがあるのかと改めて感心してしまう。
どうせ夢が覚めたら忘れるのだけれど。

違和感。
何だろう、この感触。
どうも違和感の原因は足の下にあるようだ。
足を退けてみる。
普通の砂があるだけだ。砂が足の裏にこびりつく事のない黄色の。
となると、自分の感覚の問題だろうか。そう思い始めたとき、

潮騒。

波は'私'の足首を侵し引いていく。

その瞬間、'私'は違和感の正体に気付いた。

先程踏んでいた砂は、波が通った後で湿っている筈であった。しかし、踏んだ後の砂にその様子はみじんもない。
だが、それだけではない。

'私'の足は、波が当たったのにも関わらず、全く濡れた気配がないのだ。

どうしてだろう。
これも夢の世界の為せる業か。
それともこの海は本当は水で出来ているのではないのではないか。
'私'は少し混乱しだした。
そもそもこんなにも意識がはっきりとしている夢などあるのか。いやそもそもこの世界は自分が夢と思い込んだ現実か。しかし海とは水を主成分として様々な元素・物質・栄養素の類が溶け込んでいるいわゆる『生命のスープ』であると'私'は知っている。実際の海にも一度は触れた筈だ。だとしたら、



この世界は、いったいどこなのだろう。



自分の足場が崩れていくのを感じた'私'は、無性に誰か他の人間を探したくなった。
辺りを見回す。
誰もいないかと思ったが………。

いた。
少し遠くの海沿いに、一人。砂を必死で掻き集めている。


'私'はまた走り出した。
裸足は、砂の感触を伝えず、ただそこに地面がある、それだけの事しか伝えてこなかった。



走っている筈なのに、息が辛くない。やはり夢なのだろうか。夢でも苦しくなると'私'の友人はかつて言っていたが、畢竟それは寝ている間に鼻が詰まっての息苦しさだったらしい。
現実と夢は繋がっている。そう言われて久しいが、果たしてどうなのだろうか。



ようやく影が大きくなってきた。もうすぐ話せる、そう思うと、心なしか嬉しさが込み上げてきた。

'私'は大声で叫んだ。
しかし相手は反応しない。ただ黙って砂をいじり続けるのみだ。
声が届かなかったのだろうか。
'私'はもう一度叫んだ。
やはり相手はこちらを向きすらしない。
無視された。
そう怒りを感じた'私'は足を急がして、その人物に近づいた。
'私'と同じくらいの年の少女であった。瞳の焦点は定まっていない。その少女は、ただ一心不乱に目の前の砂を掻き集めていた。

'私'は彼女の耳元で叫ぶ。しかし、

その少女は全く反応せず、ただ黙々と砂を掻き集めて、盛り上げていくのみだ。

おかしい。
いくら何でもおかしすぎる。
'私'は彼女の耳元で鼓膜を破らんとするばかりの大声で叫んだ。通常ならば、肉体的反応で耳を押さえるなりするだろう。しかし、それすら目の前の少女は行わなかった。
怖い。
こわい。
コワイ。
得体の知れない恐怖に襲われた'私'は、その少女の砂いじりを止めさせようと彼女の腕を掴もうとした。だが、


'私'の腕は、彼女の体をすり抜けた。



―――人は未知の事態に対して恐怖を覚えるが、それは自らを型どる地盤が崩壊するからである
(M.Nagot 1756〜1802)



'私'は発狂しそうだった。
なぜこの手は彼女を掴めない?
'私'の目の前にいる少女は虚像か?
そもそも'私'とは何だ?
'私'の存在はこの場所では何なんだ?

'私'はその場をさ迷いたくなる気持で一杯だった。しかし、さ迷ったところでどうにかなるものでもあるまい。

ふと、彼女が盛り上げた砂を壊してみたい衝動に駆られた。もし砂が崩れれば、彼女はきっと'私'の存在に気付くだろう。'私'は彼女と同じ存在であると確認できるだろう。
そう思った。
そう考えた。
藁をも掴みたい心で、'私'は腕を振り上げ、砂に向かって振り下ろし―――



―――そして視界が反転した。



――――――――


目に映るものはまやかし。
けれど、本物はどこ?
知らぬ間に消えていた。
本物は、
まやかしになって消えたんだ。


本物は、
まやかしが作り上げた偽物。
まやかしで嘘をついて、
偽物に逃げ込もうとしたんだ。


逃げ場なんて無いから、
逃げ道なんて無いから、
まやかしが作り上げた楽園。


ここがあるから、
私がいる。


これが、私。


何て戯言に、
ただ身を委せて。


着飾ってその末に見た、
がらんどうの自分を、
ただ納得させるためだけに。


私は思う通りに動いて、
私は望む通りに求めて、
私は願う通りに話して、
私は、


気付けば傷だらけ。
先にも行ける筈もなく、
後に戻れる筈もなく、
立ち止まってまた、
私は最後の逃げ道を探したんだ。




―――この、空言の海で―――




―――――――――


砂から伝わる彼女の意識。思わず揺さぶられ引きずり込まれそうになるのを何とか気力で踏み止まる。
手を離した時、'私'は、この場所の意味を知った事が分かった。いや、分かってしまった。

偽りの'自分'に疲れたものが集う場所。
安らかなる監獄。
己を無くし、全てをまやかしと捉えた者の終着駅。
まやかしに身を堕とした者が、最後の心の平穏を得ようと埋もれる空間。
潮騒はノイズのざわめき。
砂は己を形作ってきた嘘――まやかし。
それがこの――空言の海、なのだ。

そして、もう一つ分かったこと。

'私'は、此処にいながらいないという、半端な存在であるらしい。
こちらに完全に入り込んではいないから、入り込んでしまった人には触れられない。しかし、世界の橋渡し役である'虚食の砂'には触れられると言うわけなのだ。
つまり、この少女と'私'との間には、存在次元と言う概念の壁が横たわっている。故に'私'の声も届かないし、'私'の姿が見える筈もない。そして、
築き上げてしまった砂の壁には、築き上げた人物の虚無がつめられており、その虚無は自身の心と一体化しているため、壊そうとすると全力を持って阻止しようとするのだ。
それが、あの身を全て引き裂かれるような痛み。
人の心に土足で踏み込む行為が、どれだけ人を傷付けるのか、言わずとも分かる。その痛みを肉体に当てはめたら、あれだけのものになるのだろう。

さて、
'私'が何かは分かったとはいえ、'私'がなぜ此処にいるのかは分からない。気にしなければそれまでだが、生憎と人はそのようには出来ていない。
止まっていてもしょうがないので、'私'はこの少女に、心の中で別れを告げた。
暫くしたらこの少女も、先程見たような墓標の一つへと姿を変えるのだろう。そう思いながら………。

海沿いに、ただ歩いていく。
偽りの潮騒をバックグラウンドミュウジックに。

海をよく見ると、様々な風景が代わる代わる映り、消えて、また映り、混沌の様相を示している。
笑顔泣き顔怒り顔嫉妬情愛情欲物欲虚栄心嘲笑素直俗物神聖冷笑etcetcの様々な感情の顔。
水を掬って眺めてみると、虹色の雫の中に浮かぶ幾千の文字列。
'私'が見ても、ただの意味のない表音文字の羅列でしかないのだが、人によってはこれが信託の如く心に彫りつけられる文章に見えるのだろう。

と、
'私'の鼻先に、何かが当たるような感覚がした。

空を眺めてみる。
いつの間にか、澄んだ紺色の空は濁った灰色の雲で満たされていた。
月光が遮られているはずなのに、辺りは先程までと変わりがなく明るい。此処で本来の常識的価値観を持ち込むのが、いかに馬鹿らしいかと言うことを改めて感じた。

しかし、この雲状態ではいつ嵐が来るか分からないので、'私'は無駄だと思いながらも、辺りを見回した。何か建物があればいいのだが………。砂漠にそれを求めるのはご都合主義だろうか。

何も見付からないようなので、少し早足で歩く事にした。まだ雨は小降りだ。見付からなかった場合でも、体が濡れてしまうだけで大して実害は無いだろう………が。
何故だろう。このまま雨が降ってしまったら、取り返しのつかない事態になってしまうような、妙な焦燥感が胸の中を渦巻く。
本能の命ずるままに、'私'は歩き続けた。



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