いせきの なか





雨は相変わらずの小降りで、その雫は次々と砂に染み込んで消えていく。'私'の腕や体を透り抜ける事はないことから、この雨も狭間の存在なのだろう。
砂の墓標に染み込む雨。
一体この雨は何を表すのだろう?

と、

突然'私'の心臓が跳ね上がった。命の危険を表すような、まるで不整脈の人物が感じるような、あの独特の感覚が、今'私'の中で巻き起こっている。原因はやはり雨だろう。そして、本能が指し示す'何か'。
兎も角、この量の雨で危険を感じると言うことは、土砂降りの雨ではどうなるかは想像に易い。
'私'は焦ったように走りだした。いや、事実焦っていた。得体の知れない焦りが心を支配して動かしているようだった。
'私'はまるで人形のように、
ワタシハマルデニンギョウノヨウニ、
その声に従う事しか出来なかった。

息を切らすことなく走って暫くすると、

海の中に遺跡が建っていた。
石の柱には、海から伸びてきた海草が絡み付き、まるで脈が通っているようにも見える。
重奏構造になっているので、どうやら簡単に雨宿り出来そうだ。
'私'は喜びの感情を感じながら、遺跡目がけて足を速めた。

遺跡の中はじめじめしているかと思ったが、わりとそうでもなかったようだ。
ただ、薄明かりすら入らない、全て吸い込み取り込んでしまいそうな闇が、辺りを支配している。
明かり。
明かりが必要だ。
どのような存在にも。
存在証明を。
'私'が'私'であるという証明のために。
'私'が此処に在る事の証明のために。

'私'は服を探ってみた。
此処までご都合主義が続いていたら、ライターくらいご都合で出てくるのではないか、そう考えて。
果たして'私'の胸ポケットに、チャッカマンが存在した。拳銃型の。
微妙だし、妙に不自然だな、と思いつつも'私'はトリガーを引く。
仄かな明かりが辺りを照らす。周囲はあまり見渡せないが、少なくとも自分が居ることは、此処に自分が在ることは―――。

指の先が幽かに欠けていた。

左手の小指、その関節が何故か一つしか見えない。甲の方から見ると、小指には爪がなかった。しかもその指先から、さらり、さらりと落ちていくもの、それは

『虚食の砂』

'私'は声にならない叫びをあげ、チャッカマンの火を崩れていく小指の先端に当てた。腐食の防止のために傷口を火で焙る、そのような聞きかじりの応急処置をここで実践した。
もう少し火は熱いものかと内心恐恐ではあったが、意外なことに――感覚が消えているのかもしれないが――炎による痛みはなかった。これはあるいは、この場所が『空言の海』の一部たる所以なのかもしれない。
炎を当てて暫くの後、ようやく砂の落下が止まった。
足元を見ると、丁度小指の体積と同じくらいの量の砂が、石床の上に盛られていた。
…………つまり、'私'の体は虚食の砂で出来ているのか、あるいは………先程の雨が'私'を砂に変えているのか。
いずれにせよ、またこのことが起こらないように、雨に当たるのは極論避けよう。
そう自分に言い聞かせて、再び辺りを照らす。
壁を見ると、何やら模様のようなものが見えた。炎を近付けて照らすと、どうやら文字のようだ。と言うより文字だ。
アルファベット小文字の羅列――プログラム言語か?'私'には理解も解読も出来ない言葉が続いて、続いて、続いて。
その一端に、アルファベットに混じって、ミミズののたうったような妙な文字が―――。

平仮名だった。

その周囲の文字を眺める。
漢字混じりの平仮名文。間違い無い。多少癖字ではあるが日本語だ。
文の始まりを探す。どうやらこの文の作者は妙な癖があるようだ。筆跡といい、形態といい。
改行の度に英字が山のように押し寄せるため、次の文がどこにあるのか、狭い視界もあって中々見付けられないのだ。
…………。

………。

やっと見付けた。此処から読んでみる事にしよう。


―――――

偽りの姿で欺いたのは
周りと
何より自分自身
見失った自分が
一人向かう
『空言の海』

自ら埋もれ逝くうち
人は安らぎの笑みを浮かべる

………いずれ露になる
その時まで

―――――


…………?
何かがおかしい。
'私'は手元を見た。
いつの間にかチャッカマンの火が消えていた。しかし、目の前の文字ははっきりと見えて――――。

文字が、光っていた。
日本語の部分がはっきりと。

目の前の文字だけではない。
入り口近くにもあったらしく、その文字も光り輝いていた。
'私'は、石床で少し滑りそうになりながらも入り口近くへ走り、その文字を読んだ。


―――――

虚無よ!

かりそめの姿を
与えられし虚無よ!

汝に分け与えられし
姿の持ち主を

この『空言の海』から
捜しだして救え!

時は限られている!

もし救えぬのなら
汝らは
永遠の安寧を得るだろう

―――この
『虚無の砂』の中で

―――――


!!!!!!!!!!!!!!!!
'私'は、自分の足元が、改めて崩れていくような感覚に陥った。

'私'が………虚無?

それならば先程の推測は、どうやら前者だったらしい。
'私'の体は、この『虚無の砂』で構成されている。そこに何らかの意思を込めて創られた、それが'私'。
つまり、'私'は、偽物。
'私'が'私'で在るという認識は、その認識自体が誰かのものである偽り。
'私'は、'私'ではなく、ただ'私'という人格を与えられただけの存在。

そして偽物が命ぜられたこと。
存在することの意義。
それは、

『この世界にいる本物の私を救うこと』

そして、それをしなければ、'私'も私も、永遠にこの『空言の海』をさ迷う事になると言うこと。

選択肢など、初めから無い。
'私'は、何者かによって定められたようにしか動けない偽物でしかないのだ。
誰かによって創られた意思を持ち、誰かによって創られた体で動く、決してどれも自分のものではない、偽物。
自らを持たぬニンギョウ。

そう自嘲気味に呟きながら、'私'は耳を澄ました。雨音は聞こえない。一応上がったようだ。
精神的要因から重たい体を、何とか動かしながら、'私'は外に出ることにした。

この時、'私'は気付かなかった。
自分の中に在る、いや在った、絶望以外の、安堵と、喜びに似た感情に…………。

――――!

遺跡の外に出た'私'を待ち構えていたのは、今までとは違う、視覚を通じて脳に吐気をもよおさせるよう強制的に要請するものであった。
風景が、全くまとまりがないのだ。
一平方メートル辺りの面積で区切られた地面には、砂漠、草原、海、溶岩、木、氷河、岩場、コンクリート、煉瓦、セメント、トタン、陶器、ガラス、闇、泥沼、鉄板…………etc.といった物質、地形が互いに溶け合うように接している。
空の色も妙だ。先ほどまで紺あるいは黒一色だった筈だが、赤橙黄緑青藍紫茶白etc.が互いに混ざり合うわけでもなく、水の張った絵の具バケツに垂らした混ざり合う前の絵の具の状態のようにぐちゃぐちゃになっている。
さらに、その地面も空も所々何も無いところがあり、その切れ目からにはアルファベットがポロポロと空白地帯に落ちていっている。
バグによって壊されたパソコンの画面に映る、あの変な、壊れたような文字の羅列の世界が、今'私'の目の前に在る。
思わず吐気をもよおしそうになった。気が狂いそうになった。とてつもなく歪な空間、空気、雰囲気に取り巻かれている、その事が何より'私'の正気を揺さぶった。このまま壊れてしまえば、楽なのかもしれない、そんな気さえ起こさせた。
だが、それでも'私'の――かりそめの――精神は、まるで岩にこびりついた砂粒のように、狂乱の波に押し流される寸前のところで止まっていた。混乱してはいけない。押し流されてはいけない。――創られた――本能が'私'に囁いて、何とか正気を保たせている、そんな感覚さえした。

………一瞬、これは本当に創られた感情なのだろうか、と言う感情が生じた。だが、あのような表記がされていた以上、自分が偽物であることは疑いようがないと思い、その感情を何とか打ち消した。
そして、この歪んだ空間に向けて、恐る恐る、歩みを進め始めた。

…………一体、本当に、突然、どうなってしまったんだろう。
仕切られた直方体の空間毎に全く環境が違ってしまっている。
境界線上に立つと分かる。片方で吹く風が、境界線上を境に全く通らない。現実世界ではないので灼ける程ではないが、それでも
その上、空間そのものも変化し続けている。氷河が溶岩と化したり、砂漠が木へと化したり、コンクリートが泥沼へと化したり、'私'が立っている場所以外の空間は、万華鏡と比較するのが失礼なくらいの速度で、歪み、捻れ、こね回されて変化していっている。
………'私'は、今立つ地面と同じものに変化した瞬間を狙って、隣の地面に移動した。今立つ地面は、『草原』。
更にもう一マス、草原を選んで進んだ、その時だった。

突風。

横から突然吹いたそれは、吹き飛ぶほどの強さはないものの、'私'のバランスを崩すのには十分であった。
隣のマスに転倒する'私'。痛覚は無いが、'私'は今自分がいるマスの地面を確認した。
『草原』
これが溶岩とかだったら、どれだけ熱い思いをするのだろうか、と溜め息をついて、'私'は元いたマスに戻ろうとした。
そしたら。

草がいきなり'私'の足に絡み付いた。
勢い余って'私'は反対側の一マスの地面――丁度『草原』に変化していた――に口付けを交すことになった。
痛みはないとはいえ、溶岩や泥沼でなくて良かったとはいえ、落下直前に目を閉じ口を閉じたとはいえ、顔を地面にぶつけ口の中に土が入る感覚は、草の先端が瞼を舐めるように擽る感覚は、嫌悪との感情しか脳に伝えない。土の香りは全くしない。やはり現実ではないからなのだろう。
起き上がり軽く顔を払い、口の中の土を吐き出し、服を払い、'私'は元のマスに戻り、改めて辺りを見回した。
風景は相変わらず混沌である。あらゆる地面が歪みうねり、あらゆる空が歪んだ色を映し出す。――ただ、'私'が動いた場所を除いては。
'私'が踏んだ地面――『草原』は、時が経っても変わる気配がなかった。そのまま『草原』である。どこから吹いているか分からない風に草が棚引く。

混沌の空間に浮かぶ緑のT字。それを見て、今まで進んできた方向を改めて確認した'私'は、小文字のtを、あるいは十字架を作るように、『草原』へと一歩前に踏み出した。

その刹那、
片足を置いていた地面が突然急に盛り上がり、'私'は前に倒れ込――


ごすっ


――何も無い空間に、本日二回目の顔面激突をする填めになった。
脳を揺さぶられる感覚に意識が朦朧とした'私'が、虚ろながらに見たものは、今まで進んできた道が盛り上がり、'私'のいるマスを囲むように――あるいは'私'を包むように――急速に動いている様であった。

一辺の大きさが一定の正方形を六つ、十字を作るように設置する。それを正方形の辺を境として折り曲げ、立体を作ると………?

'私'は、『草原』のサイコロによって、視界を闇に閉ざされ――



――そして、光が差して溢れた。



【BACK】【目次】【NEXT】【TOP】