3.5日目:凍った湖・夜





人生を常識と言う枠の中に並べて揃えて晒されてきた俺にとって、目の前の光景は、到底信じられるものではなかった。
常識外の発言とか、常識外れの行動とかは毎度のごとく実行してきた俺だが、目の前の光景は、そんな今までの行動が些事に見えてしまうほど、常識と言うものが欠落―――いや、常識と言う概念すら、この空間には存在しなかった。



白い服――着物か?――を纏い、赤いハイヒールを履いた色白の女性が、一面に氷が張った湖の真ん中で、ヴァイオリンを弾いていた。艶やかな黒髪は弓のように滑らかに弾み、瞑想しているかのように瞳を閉じ――口許には心なしか笑みを浮かべ――ゆったりと、寒々しく、厳しく、だがそれでも力強い、弾くものの意思が伝わって来るような演奏を一人、いや独り行っていた。空にはオーロラが、神々しく輝いている。
聞くものは誰一人いない、ただ俺を除いて…………ん?
少し待てよ、このメロディはどこかで聞いたことが………、しかもあのヴァイオリンはつい今しがた見た気が………、というかにあの女性はどこかで…………。
――――――――――ああっ!
俺が飛行機で書いていた曲!しかも弾いてるのが、あの凄腕ヴォイオリニスト!ヤヨイ・クリシュバール!確かにあの時演奏したっけな………。ギターパートだけだが。
しかし、楽譜見せたわけでもないのにどうしてあの楽譜通りに弾けて――――ってそれよりも別の問題があるか。
どうしてそのヴァイオリニストが雪の幽かに舞う極寒の湖のど真ん中で着物を着て演奏しているんだ?
心の中では色々思いながらも、俺は彼女の演奏する姿に釘付けになっていた。そして、

――――。

目が合った。
彼女がこちらを向いた瞬間に。
あまりに透き通っていて全て見透かされてしまいそうな水色の瞳で見つめられた瞬間、俺は―――。
まるで何かに魅入られたように、体が動かなくなってしまった。



ヤヨイ氏は徐々に俺のもとに近付いてくる。余りに整いすぎて、恐怖さえ覚えてしまう美貌。だがそこに浮かぶ表情は、哀しみ以外の何物でもなかった。
俺は逃げ出そうという気も起きなかった。第一、何から逃げ出すのだろう。不思議とこの状況下でも、生命の危機とやらは感じることがなかった。………ひょっとしたら鈍感なだけかもしれないが。それと同様に、彼女が何をしようとしているのか、そのことに対しても疑問が全く湧かなかった。
異変が起きたのが、彼女と俺の距離がが1mくらいになったときだ。
突然、俺の胸元が暖かく………………いや熱い!焼けそうなくらい熱い!何だこの熱は!
俺は胸元の熱元の正体を探るため…………ああじれったい!厚着と手袋の所為でなかなか胸元に手がいかん!だが脱いだら天国へのご招待を喜んで受けとることになる!それにこの熱だ!手袋してなきゃ火傷しちまう!
何とか胸の辺りを探り………胸の辺りが火傷しちゃいないだろうかは後で調べるとして………手にとったものは…………。



「ペンダント…………」



そう。ペンダント。
十年前に死んだ母親が俺に預けたもの。アクアマリンとラピスラズリがふんだんに使われたそれが、どうしてこんなに明るく光ってんだ?
俺は彼女を見た。今先程まで哀一色だった表情が、今は驚きにとって変わられている。
気付いたら体の自由がきくようになっていた。………いや、ペンダントを取り出した時点できいていたか。だが俺が何か言うよりも早く、彼女は口を開いた。
「そのペンダントは………?」
日本語だった。しかもかなり流暢である。生粋の日系カナダ人じゃなかったのかよ、と関係のない悪態を心の中でつきながら、俺は彼女の疑問に答えた。
「………俺の母親の形見だ。十年前亡くなった、な」
それを言い終えた瞬間、彼女は一気に駆け寄ってきた。そして必死の形相で、こう詰め寄った。
「そい………っ、その方の名前は何て!?」
雰囲気が突然変わったことで気押されながらも、俺は何とか言った。
「名前か?…………確か」

「教えろっ!早くっ!」

俺の肩を掴むが早いか物凄い勢いで揺らす彼女。もはや人格が豹変したとしか言いようがない行動だった。
「わ、わか、分かったから、揺らすのを、やめ、てくれ!思い、出せる、もんも、思い、出せな、くなるっ!」
最後の「っ」で危うく舌を噛みそうになりながらも、何とか揺らされるのを止めることが出来た………危うく気を失うところだったぞ、俺。
咳払いをして、

「………確か、《霜月》だったかな………」

そう言い終えたときだった。



彼女は、


倒れこむように、


気を、



失った。



「………ってオイ!」
このままじゃ死ぬぞ!ってかよく着物一つで無事だよ!?一先ず宿屋に――――、そう彼女を持ち上げたとき、

「………え?」
人間では有り得ないくらいの重さだった。下手したら十キロもないんじゃないのか……………と思いながら見た手は、透き通り地面を写し出していた。そして、

「………どうして冷てぇんだ?」
体温が人間のそれに比べて、明らかに低かった。さっきまで動いていたとは思えない程に。
「まさか………」
結論は出ていた。ただ感情と理性が追い付かないだけであった。



彼女、『氷点下の旋律(コキュトスブレイズ)』の二つ名を持つヴァイオリニスト、ヤヨイ・クリシュバールは、実は雪女だったと言う結論に。



(いやなでもよ雪女なんて本当に存在してんのかじゃあ目の前にいる女はどう説明する幻影じゃないことは確かだがだろだからあるんじゃねえかだけど常識的にお前この期に及んで常識を信じるのかよ今日この日に幽霊の存在を確認したばかりじゃねえかよしかもさっきも見たろこの女が湖の上でヴァイオリン弾いてんのそりゃ確かにそうだけどよ他の現象で説明出来たりするかも何て頭が堅ぇんだてめぇはまるで完全犯罪が破れたときのショボい犯人じゃねぇかショボい言うないいや言うねとにかく在るもんは在るんじゃねぇかとっとと認めやがれ)
俺の頭の中では早急な結論派と常識的結論派が恐ろしい速度で議論――というか口喧嘩か?――を行っている。形勢は前者の圧倒的有利だが、後者は最終手段である脳内議会強制終了のスイッチを握っている。もしそれを押されようもんなら、翌日辺り俺は凍死体で発見されるハメになるだろう。常識派の皆さんを心の中で必死でジェノサイドしつつ、俺はどうすれば彼女が目覚めるかを考えることにして、…………一つ思い付いた。
「………二つの意味で悪いかもしれねぇな………」
一つは、その行為に必然性がない事である。方法論として前後成り立つものではない。何故そんな考えに至るのか他人に問われようもんなら、「いや………物語にあったから……」としか答えようのない方法である。
そして結果オーライに出来ないもう一つの理由が、
「…………背に腹は代えられねぇ!」



俺は心の中で彼女に何度も謝りながら、

顔を近付け、

眠り続ける、

彼女の、

その、

唇を、





奪った。





女性にとって、ファーストキスを奪われることは恥辱に等しい行為になると言う。しかし、おとぎ話の中でしかお目にかかれないはずの存在を目覚めさす方法は、やっぱりおとぎ話の中にしかないと俺は考えてしまった。
眠れる森の美女は、王子のキスで目を醒まし、カエルになった王子は、王女のキスで呪いが解ける。古来より接吻ほど解呪方法として用いられたものはない。これが呪いなのかは兎も角として、目覚める契機にはなるかもしれない。そう思い付いてしまった。
そしてそれは、思ってもいなかった形で成功することになる。

「……な、なんだ?」
急に体がだるくなってきた。腕が動かしづらくなる。意識も、少しづつ朦朧と………ヤバイ、このままだと寝ちまう。そうすると互いに助からん!彼女を助けて、なおかつ俺が生きなければ!と足に力を入れようとするも、足に力が入らなかった。
………やば、俺ここで死ぬかも。


――意識を失う直前、幽かに彼女のまぶたが動いた………ような気がした。


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