やさしさの そうげん





―――――

気付けば、'私'は草原が広がる空間に一人、身を置いていた。先ほどまでいたマスの地面を、そのまま立体化して、凹凸をつけて(とは言っても草原である以上はそこまで激しい凹凸ではないが)地平線の彼方まで広げたような、開放的な空間。空も清繚として青く、一部の小学校ではレーザーディスクという旧時代の産物で子供達に授業の一貫として見せられる、サウンドオブミュージックのオープニングを想起させる。あるいは、ホーミーの音が今にも聞こえてきそうなモンゴルのそれとも。
思わず寝転がって空を眺めたい衝動にも駆られたが、所詮は紛い物だと思い直し、'私'の姿を探すことにした。
―――'私'も紛い物にすぎないのだろう。
………自嘲気味にそう呟いて。

…………。
右を見る。
風に草が棚引いている。
左を見る。
そよ風に草が舞っている。
後ろを見る。
'私'に踏まれた草がもう起き上がっている。
前を見る。
木一つ見えない草原が広がっている。
上を見る。
太陽のない、しかし明るい雲一つ無い青空が広がっている。
下を見る。
今また一つ'私'に踏まれた草が出来た。
…………。

やはり変わらない風景は、どこまで行っても人の気力を減退させるものらしい。
例えそれが通常は、閑かな風景として紹介され、もてはやされるものであっても。あまりに変化がなければ、それは殺風景と変わりがない。
目的を忘れさせてしまおうかと誰かがもくろんでこの場所を創ったのではないのだろうか?もしかしたら同じ場所を無限にループしているのかもしれない。終りのない風景。終りのない空間。
明瞭に言って無駄としか思えない時間が過ぎていく。苛立ちが募ってきた。果たしてこんな事をしていて本物の'私'が見付かるのだろうか………?

いけないいけない。
'私'は立ち止まって、改めて深呼吸をした。
モモのあの掃除のお爺さんと同じだ。焦っていたら永遠に終わらない。'私'を見付けるんだ。その前に'私'を見失ってどうするのか。
'私'は目を瞑って、耳を澄ました。
聞こえる音は、風だけ。当然だ。この場所にいる生き物は、かりそめとはいえ'私'と、あとは本物の――。

――風と共に、暖かな、『喜び』の気配が'私'を包む――

――真っ直ぐ進め!――

本能が、'私'にそう断言した。

'私'は走った。
鳥のように腕を広げて。
見渡す限りの大草原は、遮るものが存在しないことを意味する。
目を瞑っても、地面の起伏が少ないから、転ぶことはないのかもしれない。
'私'は、このまま空を飛べそうな気さえした。
この暖かな風に乗って。
空、高く。

でも'私'の探す'私'の姿は、空にはない。'私'の奥底から、紛い物の心が、'私'に対して必死にそう叫んでいた。

息を切らす事なく(そもそも切れる事が無いのだが)暫く走っていた時だった。

遠くに、人影が見えた。

砂浜の例もあるが、'私'は大きく手を振ってみた。
果たして反応は無し。
大声で叫んでみた。
やはり反応は―――


――おーい!――


あった!
初めての人だ!
そして、
多分、
彼女が本物の'私'だ!

'私'は喜びの感情のまま駆け出した。
そのときの足取りは、あまりに軽く、もしかしたら飛んでしまうのではないかと思う程だった。

しかし、喜びの中に、何か、妙な感じが入り混じった。人影は確かに'私'のシルエットにそっくりではあるのだが、何と言うのだろうか、本物とは少し違うような感じがするのだ。
'私'である、と本能は言う。
しかし同時に'私'ではない、と本能の片隅は叫ぶ。
'私'であって、'私'ではない………。どういうことなのだろう?



その意味を、私はすぐに知ることになる。



'私'と瓜二つの外見を持つ彼女の目の前まで来て、'私'はすぐに声をかけた。
喜びの感情を全開にして。
疑いを殆んど持たずに。


――あなたが、本物の'私'だよね!?――


その喜びは、
偽物であるという認識から出た、本物を見付けたものだったのか。
或いはただの思い込みだったのか。
彼女は言った。

'………違うよ'

………急速に感情が冷めていく。喜びが引いて、代わりに絶望感が'私'の心を侵食していく。
人はこうも簡単に絶望を味わえるものなのだろうか。
信じていたものが違っていた時。
信じていたのは自分の勝手であると言うのに。

足の力を無くし、へたり込む様に倒れこんだ'私'が見たものは。

彼女の足は、辺りの草と同化していた。
草原の草が、絡まり合い、もつれ合い、重なり合って、彼女の足を形成しているのだ。

'………貴女が探していると思う《本物》は、残念だけど'ここ'にはいないわ'
絶望に打ちひしがれている'私'に、彼女は続けた。
――じゃあどうして貴女は'私'の姿をしているの?――
'私'は彼女に尋ねた。絶望から浮かぶ不条理な怒りを自制しながら。
''私'が貴女の姿をしているのは――'
そんな思いを知ってか知らずか、彼女はそう言うと、目を瞑り、手を祈るように胸の前で組んだ。

暖かな風が、'私'と彼女の間に、優しく吹いた。
その風は、まるで'私'の心をなだめるかのように、体に染み渡っていった。

'私'と彼女の髪は、まるで鏡に映したかのように同じ様子で、同じ向きに揺れていたように思う。'私'と同じ、'私'と違う彼女。
彼女は'私'に、優しく微笑み、告げた。
'私は貴女の『優しさ』の象徴。だから貴女の一部ではあるけど、貴女の探す《本物》ではないの'
――優しさ?――
'私'が感じた違和感の正体が、少しずつ分かりかけて来たような感覚があった。
彼女は続ける。
'ここは『優しさの草原』。全ての人の優しさが集う場所。そして私は、今言ったばかりだけど、貴女の持つ優しさそのものなの'

今、違和感の正体がはっきりと掴めた。

彼女は'私'の優しさであるから、'私'と同じように動き、話すけれども、彼女は'私'の優しさであるから、そこにこもる感情、雰囲気などに、優しさ以外のものは見られない。
'私'の違和感は、他の感情が欠けているという違いから来たものだったのだ。

『優しさの風』で絶望から少し立ち直れた'私'は、足に力を入れて、重たい体を起こした。
'私'の表情に明かりが戻ったと思ったのか、『優しさ』は、'私'にいきなり抱きついて、胸に顔を埋めた。
突然のことで反応できなかった'私'は、あっという間に腕を彼女の腕によって絞められ、身動きが出来なくなった。
――ちょ………貴女、突然………何?――
混乱のあまり、どもってしまう'私'。これがまっとうな反応だろう。'私'の一部(であるらしい)とはいえ、会って間もない他人に抱きつかれたものの反応としては。
彼女は相変わらず'私'の、とても自慢できる代物でない胸(B)に顔を埋めて――耳をつけて、何かを聞いていた。混乱の中に若干の羞恥心が混じり、'私'の心臓が高鳴る。
'ああ…………感じるよ。貴女の鼓動が。貴女の命が、貴女の存在が………
会いたかったよ…………待ってたんだよ'
その声は少し恍惚とした響きを帯びていた。優しい恍惚。そして――喜び。
その声に若干の気持悪さと疑問を感じながらも、腕をがっしり押さえ込まれ、状況変化に混乱しきった'私'は、何も出来ずただ硬直しているだけで―――――!

気付いてしまった。
いや、気付くのは間近に居る以上は必然だろうが。
出来れば気付きたくなかった。
余計に'私'を混乱させるから。
'私'を揺り動かさないで欲しかった。

しかし、それは叶うことない幻想。


彼女の体が、徐々に透け出していた。
'私'の腕が、彼女の腕越しに徐々に見え始めていた。


――ちょっと!どうして透け始めてるの!?――
泣き出したいような気持で'私'は彼女に叫んだ。その声に、はっ、と気付いた彼女は、自分の体を見て、あっ、と声をあげた。
'いけない!貴女と会える時間が限られてることを忘れてた!'
時は限られている―――それは精神世界でも同様であり、故に文字はそう語っていたのだと、改めて痛いほどに感じた。
――そんなっ!――
意図せず、'私'は叫んでいた。多分、目はうるんでいたと思う。
なぜこんなにも悲しいのだろう。混乱の所為だろうか。人は一度心が揺れ動くと、暫くどんな事にも動じてしまうという。では、どうして――。
――いや、分かっている。原因は分かっているんだ。
何も分からないまま、置き去りにされてしまう。その考えから来る恐怖。それが心を揺らし、いきなり叫ばせ、涙を流させた。
今更何にしがみつくつもりだったのだろう。
しがみつこうとしたのは己の描く甘美で単調な理想に過ぎなかったのに。
その理想が叶わぬことを知ったと言うのに。
と、

'―――落ち着いて'

'私'を取り巻いた優しさの風と共に、'私'の『優しさ』である彼女は、

'私'に、優しくキスをした。


'消える前に、言っておきたい事があるの'
キスが終るとすぐに、彼女は優しい声で、やや呆然としている'私'に語りかけた。
'貴女の探し人は、別の感情世界に居るかもしれないわ。そしてその世界の感情は、私のように貴女を待っている。
その理由?理由は――――貴女に見て欲しいから。貴女が私達を見て、話して、聞いて、少しでも記憶に残して欲しいから………。
それが、私達の願いであり、存在する理由
だから―――'
――'私'が貴女に会って、話して、貴女正体を明かしたから、その希望、理由が叶えられ、だから――
消えるというわけか。
彼女は首を横に振る。既に下半身は消え、腰から上が宙に浮いている状態となっている。
'ううん。消えないよ。ただ、目には見えなくなるだけ'
胴体が光り出した。いよいよ消えてしまうらしい。
'最後に'
彼女は、

'でも、例え見えなくなったとしても、私のことを忘れないで。
他の感情と一緒に、私もいつも、貴女の側にいるから―――'

あまりにも眩しすぎる笑顔と、この言葉をを'私'の中に残し、消えた。
残ったのは、優しい風が吹くこの草原と、動けないままの'私'。



――そして、光が差して溢れた。



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