いかりの かざん





―――――

'私'が正気を取り戻した時、そこにもう、草原の姿、形、痕跡は無かった。
空には、様々な色がマーブリング用の液のようにうねり合い、海中のヒカリゴケのような光沢で明滅している。
地面も、溶岩が一瞬で凍りつき、かと思うと氷が砕け砂になり、その砂も平かになり鉄板へと変化したり………と、次々に入れ替わり立ち代わり変化している。
元の空間に戻ったのだ、と'私'は思い、改めて周りを見直してみた。
『草原』に行く前と、何ら変わりが無かった―――かのように見えた。


'私'の足元の一地帯、立方体の展開図状に広がった黒色の地帯を見るまでは。


黒。
全てを飲み込み。
何も映しはしない。
黒。
黒というより、寧ろ。
闇。
闇色の地面。

形と'私'の立ち位置から、それが今まで通った'私'の通り道であったものである事は簡単に推測できた。
そして、その周りの刻一刻と変わっていく升目をよく見てみると、そこに緑色が全く見られない事にも気付いた。

今見たこと、経験したこと、草原世界で『優しさ』が話した言葉から、この世界を支配する法則と言うものを考えてみた。
1.サイコロ状に同じ地面で繋ぐように移動すると、その地面が象徴する感情世界へと移動させられる。
2.そこでは、'私'の事を待つ'私'の感情がいる。
3.彼女は'私'に会い、話をすることが目的であり、それが果たされると、空間ごと消滅する。
4.移動に使った地面はその後黒色と化し、変化しなくなる。
5.一度行った場所の地面には、変化することはない。
6.'私'の本物は、この感情空間のどこかにいるらしい。
………これくらいか。現段階で推測できるものは。

さて。
まずは感情世界に行かなければ本物を見付けることも出来ない。
しかし、秒毎に変化していく地面、どれに足をつけるべきか考えると、どうしても脚がすくんでしまう。人間の感覚における視覚の役割が大きい以上、本能もそれに依存してしまうのは必然。明らかに危険だと思う場所に近付かないように働き掛けるのは、種の生存本能が存在する以上当然の本能であるが、今はその本能が邪魔に思えてしまう。
――偽物にも、偽物なりの本能はあるのか――
自嘲する前に本物を見付けなければ、そう思い直し、目を瞑って、足を一歩、踏み出した。

『溶岩』
幸いなことに、少し熱く感じること以外は大した事がなかった。溶岩と言うくらいだから、本来なら足に大火傷どころでは済まないだけに、最後まで残して、それでも躊躇するかもしれないな、と世界の幸運に感謝しながら、'私'は少しずつ、一マス一マス埋めていき、最後の一マスに踏み込んだ瞬間、


'私'の周りは、熱い空気で満たされ、そして光が差して溢れた。




―――――


空には、暗雲が立ち込める。
辺りに常に響く轟音。
地を流れる溶岩は止まらず、進まず、まるで瓶から垂らす蜂蜜の様にゆっくりと進んでいく。
片方は命を育み、
片方は命を奪う。
'私'が異常なのか、火山が異常なのか、あるいは空間そのものが異常なのかは知らないが、熱気はそれほど感じない。おおよそ夏場くらいの感覚だ。
地面は既に固まった溶岩。熱くもなく冷たくもないので、'私'が素足で立っていても平気だった。もっとも、そうでなければ移動前の空間で溶岩に乗れはしないだろうが。
'私'は目を閉じて、耳を済まし、'私'の感情がどこにいるのかを感じることにした。先程の草原で、本能によって居場所を突き止めた'私'。'私'には感情の有りかを見付ける力がある、と考えるのはある意味早計かもしれないが、闇雲に歩き回るよりは、その力を当てにした方が見付けやすいだろう、と考えたのだ。

――後ろの方にある、妙に噴火が少ない小火山――

'私'の本能はそれを指し示した。

歩く時に周囲を眺めると、山によって噴火の頻度が違うのがよく分かる。
常に溶岩を垂れ流し続ける山。
突然大噴火を起こし、その度に崩れていく山。
死んだ様に、全く動かない山。
定期的に噴火しては止まる山。
それらの山が巻き上げる火山灰は空に立ち込める黒雲と混ざり合い、溶け合って天を更に闇色に染め上げる。今にも雨が降って来そうな空色だ。だがここは感情世界。恐らく降る事はない。そう'私'の直感が告げている。

――そろそろ近くなってきた――

'私'は、改めて辺りを見回してみた。
山はおおよそ噴火している―――ただ一つを除いて。
黒ずんだ岩肌には熱などなく、寧ろ冷たいという感覚を'私'に伝えてくる。何と言うか、生命の脈動と言うものが感じられないのだ。
その岩肌に触れながら、'私'は山の外側を巡ってみた。半周ほど回って、上の方へと視点を移した。本来ならばその存在が堂々と見える筈――山とはそういうものだと'私'は認識している――なのだが、どうにも、雄雄しさと言うか、大胆さと言うか、そういったエネルギーの片鱗が見当たらないのだ。まるで大事なものが全て抜け落ちてしまったような―――。

'その『怒りの火山』は死んでるわよ'

声は後ろから聞こえた。当然の反応として'私'は振り向くと、そこにはやはり、'私'がいた。ただし、手と、脚の一部が冷え固まった溶岩で出来ているようだが。恐らく'私'の『怒り』の感情なのだ。
'正確には、今さっき死んだばっかり'
彼女は何処か苛立たしげに――とはいってもテンションは低いようだが――そう呟くと、その山をいきなり殴りつけた。
'私'が何か驚きの声をあげようとして――。

――異変は、その直後に起こった。
殴られた場所を起点にして、山に皹が入っていく。その皹は徐々に細かく、まるで植物が根を張るように広がり――


――脆い壁など、砕いてしまった――


崩落。


'…………で、アナタがアタシの《本体》、ってワケ?'
山一つ崩し終えた後でも表情一つ変えず、彼女は'私'に訊いてきた。だが、山が跡形もなく崩れ去る風景を当然見慣れていない'私'は、呆然のあまりその声を聞き流してしまった。
彼女の眉が、吊り上がる。ずかずかと'私'に近付いて、耳元で叫んだ。
'聞・い・て・ん・のっ!?'
―――幸いなことに仮想空間に近いだろうこの世界では痛覚があまり存在していないことだが、耳元でいきなり大音量で音を出されたことから、'私'の耳が耳鳴りを起こした。雷管(陸上競技用のピストル)を耳元で暴発させたある人は、一ヶ月間通院した後も、時々耳鳴りに悩まされているという。………まぁ'私'の場合、そこまで大音量ではないので、後遺症はないだろうが。
――ごめん、呆然としてて聞き逃した――
'………はぁ?'
'私'の返答に呆れたような声を出して、彼女は首を横に振りながら聞き直した。
'アンタが、アタシの、本体か、って事だよ'
――…………違うわ――
'私'は少し済まない気持になりながらも、そう'真実'を告げた。
彼女は心底ガッカリそうに肩を落とすと――この仕草は'私'が絶対しないものだ――溜め息と共にこう吐き捨てた。


'アンタも外れ?………っもう'


………アンタ、も?
――え!?今なんて言ったの!?――
思わず'私'は聞き返しながら、相手の肩を掴んでいた。下手をしたら揺さぶっていたかもしれない。
'ちょ!ちょアンタ落ち着きなさい!目がマジよ!'
あまりの様子の豹変ぶりに驚愕、寧ろ動揺した様子で彼女は、'私'と距離をとるために'私'の肩を持ち、互いに見つめ合いながら腕を伸ばした。それでも興奮のあまり近付こうとする'私'に―――。

彼女は、唐突に唇を重ねた。
荒々しく。強く。
しかしどこか脆そうなキスだった。

'………少しは落ち着いた?'
彼女の問いに、'私'が荒い息でうなずくのを確認すると、彼女はゆったりと'私'に聞いてきた。
その声は、ともすれば自分自身をも落ち着かせるようだった。
'…………その様子だと只事じゃないみたいだけど、何を聞こうとしたの?'
彼女の問いに。'私'はすぐさま答えた。自分は《偽物》で、《本物》の自分を探していること。《本物》の自分は、どうやら感情世界にいるらしいこと。そして――。
『優しさ』が告げたことなど、《私》は伝えられる限り全て伝えた。彼女はそれを、やはりどこか苛立たしげにそれを聞きながら、適度に相槌を打っていた。
'私'が話し終えた後、彼女は暫く考えるようなそぶりを示し、数秒の後、口を開いた。
'………成程ね。で、その、アタシに自分は本物ではないと言ってどっか行った、'本物'かもしれない奴の行き場所を知らないか、ってことが聞きたいわけだ'
'私'はすぐに頷いた。
'………確か〈コンクリートの所にいるのかな〜?〉とかデッカイ独り言を言いながら消えてったけど'
目的地はそこで間違いはないだろう。もしそれがかなり前であっても、感情世界には感情がいる。行き先を訪ねることが出来るかもしれない。
――ありが――

とう、と言いかけた'私'の口が止まった。
『怒り』の姿が、少しずつ光になろうとしていたのだ。そう。『優しさ』と同様に。

'私'の驚きの視線に気付いたのか、彼女も自分の姿を見つめ――見つめ、そして何を驚くわけでもなく、怒りに不釣り合いな笑みをその唇に浮かべ(どちらかと言うとニヒルな笑みに近いが)、やや呆れたような口調で言った。

'なぁんだ。そういう事か'

!!!!!!!!!!!!!!
得体の知れない衝撃を受けた。
ただの二言なのに。
その衝撃の理由を、言葉の理由、その含みの存在を問掛けようと近付く'私'に対して、彼女は人差し指を立て、自分の唇の上に置いた。
'アンタが抱いた疑問は、アタシがどうこう言うことじゃない。アンタがこれから見付けていくもんだよ。
それと――'
先ほどから光と化して行く体が、一層輝きを増す。'私'は思わず目を瞑った。
'時にはアタシを表に出して欲しいけど、完全にアタシに流されないでよ。『怒り』は劇薬。切れた後の反動も大きいから'
そう静かに告げた後、彼女は大声で叫んだ。

'早く行きな!時は限られてんだ!アンタが見付けたいものを、探して、探して、見付け出して、自分を定めんのはそっからでも遅くないぞっ!'

その声が響き終ると共に、彼女の気配は消えた。
だが、光は弱まるどころかますます強くなっていき――


――そして、'私'は――



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