くるくる かんじょう





―――――

『怒りの火山帯』から出た後、'私'は様々な感情を、ペースを早めて巡った。
急がなければ、という感情が'私'の脚を速めていた。

ここから先は、'私'の感情を、'私'と区別するために彼女と呼ぶ事にする。



コンクリートは冷徹だった。色の無い影だらけの、大都会のような世界の中、唯一実体を保っている、影に半分同化している彼女を追い掛けた。
キスされた時、少し張り詰めていたような感覚がした。



泥沼は渇望だった。光の少ない洞窟のような世界、泥沼の中の手は畦道に向けて伸ばされては引かれ、また新たな手が伸ばされる中、彼女の手を探し、引き抜いた。
引き抜いたと同時に押し倒され、むさぼるように唇を求められた。悲痛さが伝わるキスだった。



闇は自嘲だった。前後左右上下、自分が立っていることすらおぼつかないような闇の中を、ぶつかりながらも手探りで歩いた。
彼女の姿や表情はよく確認できなかったけど、互いに感触を確かめキスした後に光り出して見えた表情は、自嘲の笑みではない笑みを浮かべていたと思う。



海は寛容だった。四方に砂浜が見えない場所で、'私'は息の続く限り潜り続けた。
息の限界が来て、気絶する直前に'私'は、彼女に優しく抱き締められ、暖かいキスをされた。
それだけで十分だった。



森は静寂だった。海と状況が似ている。だが、こちらは全く風がなく、文字通り、音は、'私'が葉を踏む音以外何もしなかった。
まるでドライアドのように木と同化している彼女に向けて、'私'は何かを言おうと口を開いたけど、その口は唇で塞がれた。
言葉なんて、彼女には必要なかったのだ。



硝子は虚勢だった。一歩進む毎に硝子の床が割れ、'私'の足を、腕を傷付けていった。
包帯を巻いた彼女は、内側が傷付いた強化硝子のコップを目の前で落としてみせた。
一瞬で砕け散った。
『例え無事なように見えても、それは表だけ。内側はこうも傷付いている』
唇を合わせた後、彼女はこの他にもう二言付け加えて、消えた。
『大事なことは、私をあまり当てにしないこと。もう一つ。相手のそれを見抜いて、それでも受け入れること』



氷河は拒絶だった。進めば進むほどに吹雪が強くなっていくけど、虚勢が教えてくれた通り、ただ壊れそうな心を保とうと大袈裟に見せているだけで、'私'を凍てつかせる程寒くはなかった。
今にも壊れてしまいそうな彼女に対して、'私'は唇を強引に奪った。虚勢が砕け泣きじゃくりながら光る彼女を、姿が消えるまで抱きとめた。



岩場は信念だった。巨大な岩があちらこちらを塞いでいる世界。'私'は迂回して迂回して迂回して彼女を探した。
ふと、岩の向こうから音が聞こえてきた。何かを、削るような、掘るような音。'私'がその方を見ると、唐突に鐫が突き出て、

―――壁など、砕いてしまった。

砕いた岩から出てきた、工事服の彼女は、'私'を見付けると軽く手を挙げた。どうやら挨拶らしい。呆気にとられながらも会釈する'私'。
彼女の手に引かれて通った岩場は、やや狭く、それでもただ真っ直ぐに掘られていた。彼女の話では、思い半で折れてしまう人、初めから掘る気が無い人も、中にはいるらしい。そして、光の少ない穴場で、何か柔かい物が頬に当たった後、彼女は'私'に告げた。
『どんな無理そうな願いでも、続けていけば、心を保って続けていけば、それなりの成果は出るものだ。私を忘れないでくれよ』



トタンは一助だった。昔懐かしい、脆いトタンの屋根上を慎重に歩きながら、'私'は辺りを見回して'本物'の姿を探していた。
途中屋根を踏み抜いてしまい、落ちそうになったところを、オーバーオールの彼女が手を引いてくれて、助けてくれた。軽く頬にキスをすると、元気良く彼女は消えていった。



鉄板は自惚れだった。古代ローマ風のコロシアムの中、鉄のプロテクターをつけた彼女と決闘を行うことになった。
勝負はあっさりついた。ただ鉄をつけているだけで、肝心の彼女が弱すぎたのだ。
絶望した彼女を'私'は抱き留め、頬にキスをした。'私'も強くならなければ、という思いを込めて。



―――偽物、なのにね―――



陶器は繊細だった。博物館のように、色々な人物がショーケースに入れられて飾られている世界。
全身が水晶のように透き通った彼女は、触れられたいけど、傷付きたくないという相反する感情を持て余していた。'私'はそんな彼女と、ショーケースを開けて唇を交した。優しく、溶けそうな程に脆い唇を。
そして彼女は笑顔のまま姿を消した。



砂漠は孤独だった。真昼の、空言の海の砂浜のような砂漠を歩き続けた。オアシスの気配が全くしない空間を、ただ、ひたすら歩き続けた。
砂漠の真ん中で一人泣いていた彼女は、'私'の姿を見付けると即座に駆け出し、'私'に跳びかかってキスをすると、すぐに輝いて消えてしまった。涙の痕を点々と砂漠に残して。
彼女の着ていた服は、彼女が消えると同時に砂となり、地に落ちて他の砂と混ざり合った。



煉瓦は包容だった。煉瓦の一軒家の内側に、'私'は行きなり放り出されて、そこにはもう彼女がいた。
おかえりのキスの後、彼女とお茶を交して話した。初対面なのに、何故だか懐かしい感じがした。
この人みたいになれたらな――誰もいなくなった部屋の、ドアノブを握る手に入れる力を、心なし弱めてみた。



様々な感情世界、様々な出会い方、様々な意思、そして――様々なキス。



感情と出会う毎に、どこか満たされていく'私'。
感情と出会う毎に、どこか崩されていく'私'。



'本物'の行き先は、全ての感情が告げたけど、
'本物'の居場所は、姿は、見付からなかった。



もう一つ、感情世界を通ううちに、気付いたことがある。
空の色が、様々な色がひしめき合った空の色が、徐々にその色を無くしっていったのだ。そう、闇ではなく、無色に。


そして、地面が全て黒に染まり、空が色を無くした時――――。



'私'は、ただ無の中にいた。


上もない。


下もない。


前もない。


後ろもない。


当然横もない。


全てが隔絶されて。


'私'だけ取り残されて。


落ちていくような。


昇っていくような。


頭から。


足から。


腕から。


そもそも。


'私'がなにで。


なにが'私'なのか。


音もなく。


風もなく。


一体―――



――――――――



―――光。


呼び声。


―――'私'の声。


'私'のような声。


それは光の中から。



'私'の指先が。


輪郭を。


取り戻して――――



――――――





―――そして'私'は砂浜にいた。



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