わたしと わたし





―――――

ノイズの響く浜辺に二人座ると、『私』は話し始めた。
'心って、何処から産まれてくると思う?心………っていうより、精神、って言った方がいいかも。
知らない?'
'私'は首を縦に振る。それを受けて彼女は続ける。
'まぁ当たり前だよね。人間産まれた時から持って然るべきもの、そんな風に考えるからね。普通は'
普通は?これが当然、必然ではないのか。
'でもね。感情も、自我も、契機があって産まれてくるものなんだ。そしてその土壌となるのが、この場所'
そうして彼女は両腕を広げた。この場所………つまり………。


潮騒。
ノイズ。
そこに混じって響く、声にならない幾つもの声。


!!!!!!!!!
'ふふ。分かった?'
'私'は呆然として反応出来なかった。その態度を肯定と受け取り、『私』は、下手したら自己陶酔と思われるほどに大振りに答えた。


'そう。
ありとあらゆる人の自我、性格、感情、アイデンティティの類は、この『空言の海』から産まれ、そして還っていくのよ'


あまりのスケールの大きさに、
'信じられない?'
俄かに信じられる筈もなかった。
'だよね。私もここに来るまではそうだった'
だった、と言うことはここに受け入れる何かがあったのだろう。そんな'私'の思いを裏切ることなく、『私』はその説明を――
'でもね、この『虚食の砂』だっけ?これが『空言の海』と混ざって、こね合わさって、寄り合わさって、そうして人の形が出来て―――'
――ちょっと待って。『虚食の砂』で出来ているのは、偽物でしかないんじゃないの?虚無でしょ?――
'私'のその質問に、『私』は困ったような表情を浮かべた。
'う〜ん。どう説明したらいいやら。
………あ!'
ぽん、と手を叩く『私』。
'ねぇ。虚数は当然知ってるよね………って当たり前か。貴女は私なんだし。
で、貴女は虚数は、存在する数だと思う?しない数だと思う?'
――しないと思う――
'どうして?目に見えないから?'
'私'は首を縦に振った。
'じゃあ………実数は目に見える?'
見える、という'私'の答えに、『私』は、違うよ、と言いたげに首を横に振った。
'貴女が言ってるのは、[実数個の物質が見える]であって[実数そのものが見える]じゃないの'
あぁ、成程、と'私'は口を半開きにしたまま、感心したように相槌を打った。確かに数そのものは目に見えない。'私'達の世界には、数は実体として存在していない。
'じゃあ、目に見えないものだから実数は存在しないと思う?'
'私'は首を横に振った。
'思わないよね。現に使っているんだし'
砂粒の一つを摘みあげ、そこに映る映像を確認しながら『私』は言う。
映るのは、移り変わるアラビア数字の数々。
'視覚で判断できないのなら、虚数を否定する根拠にはならない、というわけね。少なくとも、虚数を否定したら、実数を否定しなきゃならなくなっちゃうのよ'
そこで『私』は言葉を切り、'私'の方を見た。
'でも実数を否定出来ない以上、虚数も否定できないじゃない?虚数の否定は、虚数の存在の否定という意味である以上は、それを否定する事を否定するのは、つまり虚数の存在を認めなければならないこと。
なくない=ある、って事ね'
ド・モルガンの法則が、今回は当てはまる、'私'はそう感じた。〈有る〉と〈無い〉の中間、つまり〈分からない〉という選択は、実数の存在で消されてしまっているから。
『私』は、一息置いて、続けた。
'で、その虚数は何を形成するか。一部の科学者――誰かは全く知らないけど――は、それは『精神』を作ると言う考えを発表したらしいわ。
確かにそうよね。
心は体を創り、体は心に影響を与える、だけど別のものとしてしか扱えない。まるで実数と虚数の関係じゃない'
――虚数は二乗したら負になり、四乗したら正になる。でも、虚数自体は実数じゃないから実数と足し引き出来ず、乗除計算でのみ関わってくる、と言うわけね――
'そゆこと。で、ここからあの文の解説に入るわけだけど………。
かりそめって言う言葉の意味を説明するのに、まず精神がどこから来るのか、という説明してから話す方がいいと思って、ね'
空言の海は、相変わらず一定の周期で満ち引きし、ざざざぁ、ざざざぁと、波音に擬したノイズを奏で、辺りに響かせている。
精神が、この海から産まれてくる。
まとまりの無い情報の集合体が、虚砂を纏い、虚砂を芯にして型どられていくのか。
『私』は、ふっ、と息を吐いて、当然だよね?と言わんばかりの口調で、こう'私'に聞いた。


'私達の肉体が『虚食の砂』――長いからもう虚砂でいいや――で出来ているのはもう分かってるよね?


――………え?――
完全に理解の外だった。習っていない科目の答えを、いきなり言われてしまったような、それで「分かったよね?」と言われたような、情報を脳が受け付ける前に霧散してしまう独特の感覚が、'私'の頭を駆け巡る。
'…………何意外そうな顔してるの?さっき言ったばかりじゃない。精神は全部ここから産まれてくるって'
確かにそう言われた。でも、今の発言が'私'にとって遥かに想定外の事を表している以上、驚きの顔以外に何も出来そうになかった。
『私』は特別。オリジナル。本物。だから'私'と違う、そう考えていた'私'にとっては。
――え、でも、貴女は………――
たどたどしくしか問えない'私'。でも『私』は、その驚きの意味を察したようだ。
'私?
私が虚砂で出来てるとは思えない?'
'私'が首を縦に振ると、『私』は、自身の腕に爪を立て、
'まぁ見ててよ…………ほら'
思いっきり引っ掻いた。

サァァァァァァァ…………。


『私』の傷口から流れ出したのは、血ではなくて―――虚食の砂。


'この通り、私も体は虚砂で出来ている。私だけじゃない。この空間にいる人は全員、体を虚砂で創られているのよ'
『私』は何とは無しにそう言った………が、それが'私'に新たな疑問を投げ掛けた。
――え?それならどうして、他の人に触れられなかったの?――
今でもはっきり覚えている。自ら砂の中に蹲る少女の体に、'私'は指一本として触れることが出来なかった。触れようとして――通り抜けてしまった。
もし虚砂ならば、触れられた砂の殼のように、手に触れることが出来る筈、なのだけれど………。
『私』はその質問に対しても、答えを持っていた。
'完全に砂になりきる前の場合は、人毎に自分の空間に属していて、他の人からはまるでホログラムのように、実体は見えるが触れない存在として在るのよ。でも、虚砂になってしまうと、全ての感情空間に存在するようになるから、触れられるようになるの'
………かなり理解に苦しむ説明だったけど。
'………分かりづらい?'
首を縦。
'つまりこの空間は、みんな同じ場所にいながら、みんながそれぞれ別の場所にいる、そんな空間なのよ'
まだ頭の中で巧く情報が処理できていない'私'に対して、『私』は暫く考えて後、説明の巧くいくような例えを思い付いたらしく、人指し指を立てながら言った。
'インターネットのサイトを考えてみれば分かるわ。みんな同じ場所にいながら、チャットや掲示板がなければ、誰がいるのか分からないし、会話も出来ないでしょ?'
同じものを見ていながら、同じ場所にはいない。それが私達がPCでよく経験すること。
虚砂は情報。だから誰にでも見られる対象となりえる。
――よく、分かったわ。それで――
'あぁ、かりそめって言う言葉の説明ね'
'私'の言葉を受けて、『私』がまた説明を開始した。
'あの場所に書かれていた言葉。かりそめ。それが貴女を惑わす原因になったんでしょうけど、あれが何を意味するかは至極簡単'


'―――私達よ'


――え?――
'だから、私達のような、この世界に存在する、精神体が砂の体を纏ったものをそう言っているのよ'
それは'私'でもあり、
それは『私』でもあり、
それは砂の少女でもあり、
それはこの世界に在る全ての人物でもある。
――!!!!!!!!――
'この世界に迷い込み、あの祭壇に辿り着ける人物は、自分を見失って、尚且、自分から滅ぶことを望まないでいる人物だけ'
確かに、'私'は自分が滅ぶ、死ぬ、いなくなるなどの事を考えた事は無かった。寧ろ、雨に当たって、崩れていく自分を怖がったくらいだから。
――……自分から滅ぶのを望んだら――
そう質問しつつも、'私'にはその答えが、何と無く予想はついていた。
果たして『私』が告げる答えは予想通りだった。
'貴女も見たんだよね?人が砂でシェルターを作っていく姿を。あれは、自分の存在を消してしまおうとしている人なの'
彼女のシェルターに触れたとき、'私'に流れ込んできた感情。
自分が真実でもあることに気付かず、
自分をまやかしだと思い続け、
そして逃げついた答え――――消滅。
消えてしまえば――――何も感じてしまわずに済むから。
悲しみすら―――。
怒りすら―――。
孤独すら―――。
痛みすら―――。
そして―――。


背後に広がる、無数の砂の墓標。あれらは全て、自分で自分を殺してしまった人の心。
'砂のシェルターに篭ってしまった存在は、剥き出しの情報に晒される事になる。つまり、雨に打たれる'
雨は、精神の結合を、その膨大な情報量で溶かしてしまう。溶けてしまった精神では、虚砂の肉体は保てない。
だから―――。


'私'は一度振り返り、そしてまた『私』に視線を戻し、頷いた。


――彼女ら自身は、どうなるの?――

'現実世界での肉体のこと?'
'私'は首を縦に振り、改めて考え直した。
この空間では、精神は虚砂の肉体を纏っている不安定な生物だ。もし雨に打たれて、溶けて消えてしまえば、そのまま現実世界に影響が出るのではないか。いや、出るのは必至。ならば、一体どのような影響が出るのだろう。
『私』は、申し分けなさそうな表情をすると、首を横に振った。
'残念だけど、分からないわ'
考えてみれば当然だ。'私'も『私』も、一つの精神体に過ぎないのだから。
もしこの世界から抜け出して現実世界に戻るとき、この世界の記憶が残っているのならば、どこかで見掛けるかもしれないな、そう思った。



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